108
杖を掲げ持つ指先から消えて行く。
爪がなくなり、消失が皮膚に食い込み、骨を削ぎ落とすのを見つめ続ける。
だがそれもオルドルが眼球を食らい、視神経を引き抜くまでだ。
青海文書の読み手に、技術や才能は必要ない。
必要なのはただ少しの決断だけ……《選択》だけなんだと、ようやく理解する。
僕がそうすると決めたなら――ただスイッチを押すように、数秒もかからずにオルドルが次を、死んだ僕を《再生》してくれる。
気がつくと凄まじい喪失感と痛みを胸いっぱいに抱え
痛みは過去の僕のもののはずだが、全身に嫌な汗を吹いている。
それでも選択し続けなければならない。
天藍は踊るように前左肢の内側から、竜の内側の健を狙おうとしていた。
《一応聞くけど、やめとく?》
「やれ! オルドル!」
叫び声を上げながら再度の死を体験する。
それと同時に魔剣が竜の左肢を裂き、その体液を噴出させ、傷口を塞ぐように白い
足という支えを失った四足の獣が左方向に傾く。
さらに巨体のその下を、天藍の一陣の剣が
また僕は死ぬ。
魔力が尽きて、魔剣が効力を失い、そのパフォーマンスを全力で発揮できないなら……そして、魔術に対して未熟な僕が取れる手段はこれしかない。
死んで、生き返り、失った魔力を補充し続けるしかない。
走りながら天藍の剣が竜の腹部を横に裂き、振り向き様に縦に斬り下ろす。
十文字の傷に《
僕は心臓を噛み砕かれる度に絶叫を上げ、再び生き返る。
また次の絶叫と《死》のために。
でも段々わからなくなってくる。
何を叫んでいるのか、どうして叫んでいるのか。
この苦痛は誰のものなのか。
「あががががっ! ぐっ……うううう!!」
天藍が尾を切り落とす。
心臓に激痛が走る。数秒立てば、僕は健康に戻る。再び生き返る。別の僕として。
一瞬だけのために生まれる《僕》が選択を続ける限り、《魔剣》は無条件に敵を切り刻み続ける。
あまりにも何度も生き死にを繰り返し過ぎてマリヤの拷問のほうがマシかもしれないとさえ思えてきた。実際、この状況が長く続けば僕は発狂するだろう。
「ああああああ! あああああああああああっ!!」
もう叫び声のバリエーションが残ってない。
天藍は後肢二本を削ぎ落とし、背中の鱗を剥ぎ、背骨を粉砕する。
どうして僕は血反吐を吐き、地面の上をのたうち回っているんだろう。
僕は、いったい誰のために……? 何のために……?
神経を焼く、燃えるような痛みの前にはすべてが遠い。
理由はあまりにも遠い。
わたくしがお前を連れてきたのは、たとえばこの世界を救うためでもない――と。
僕は世界を救えない、魔王退治だって不可能で、魔王にだって、勇者にだって、婿にだってなれない。
ただただ無限に続く死があるだけなんだ。
誰も僕を繋ぎ止めてはくれないんだ。
「自分を罰しているのね……?」
マリヤの声が聞こえる。
そうかもしれない。地面の上で、膝のあたりを再生させながら、僕はそう思った。
これは罰なのかもしれない。
何度目かの再生を繰り返し、竜が怒鳴るのが聞こえた。
《マリヤ……何をしている!? 私を助けろ!!》
マリヤは返事をしない。
それでいい。
マリヤは、もう魔法は使わない。
彼女は選択したのだ。
シリルを守るため、他者を救うための選択を。
五年前の真実を知りたいという気持ちを捨てて、誰かを救う選択をしたから……。
《何故答えない!?》
「――
彼女の答えは、端的だった。
《では――お前のカラダをわたしに
「うううッ」
彼女の顔が苦痛に歪み、竜鱗を通して、竜の魔力が流れこむ。
再び銀華竜がマリヤの肉体を乗っ取ろうとしているのだ。
マリヤが立ち上がったとき、それはマリヤでも、サマリでもなかった。
「――死ね、ニンゲンの魔術師ども!」
彼女は鉄扇を大剣へと変化させる。
「死ね、死ね、死ね! 最大級の屈辱を与え、殺してやる!!」
憤怒と、殺気が直接ぶつけられる。
銀華竜は僕めがけて大剣を振り下ろす。無造作に。何の
巨大な銀色の剣の振り下ろしが、逃げる僕の左足首を掠め、爪先を切り落とす。
「ぐあああああ!」
わざと外した。血を流させ、逃がすためだ。
獲物が逃げるのを追いかけ、そしてひと息に殺してやりたいんだろう。
僕はその残酷な思惑通り血を垂れ流しながら、よろよろと立ち上がり逃げる。
銀華竜が僕の肩を掴み、骨を粉砕する。そして、力任せに千切り取り、捨てた。
繊維がブチブチと千切れて行く音、弾けるような痛み。
痛い、痛いけれど――でも。
《死ね!》
「……死ぬのはお前だ!!」
僕はバカで哀れだが、もしも、交渉が成立したとしても、マリヤの体が再び銀華竜に乗っ取られたら……そんな事態を想定していないほど、愚かではない。
剣を振り上げたマリヤの体に銀色の巨人の拳が突き刺さり、吹き飛ばした。
銀華竜はマリヤの体に翼を生やし、飛び上ろうとする。その頭上に現れた黄金の剣が、急速落下して飛翔を防ぐ。
地面に落ちた竜人は銀の枝に捕えられ、大量の水の中に沈められた。
ここら一帯に、尽きることのない水が湧きだしているのだ。
湖は冬の朝のように
《な、なぜ……!》
僕は凍りつかせた水面から、マリヤの体の内に潜む竜の意識に語りかける。
「……叫んでるだけで、何の準備もしていなかったとでも思ったのかよ」
いったい、僕が何度死んで、何度生き返ったのだと思っているんだろう。
その間の無数の僕が、少しずつ罠を張っていたことにも気がつかないとは
「サナーリアの魔法のない、マリヤの賢さもない、ただの竜人なんて何も怖くない」
僕は紅天を見上げる。
そこに、全身を血の緋色に染め上げた竜鱗騎士が飛んでいた。
負傷だらけで、僕も、彼も、限界だ。
天藍は地上に向けて、剣を掲げた。
切っ先はちょうどマリヤの頭の上だ。
「――来い」
僕は両手を、空に向けて大きく広げる。杖の先から、オルドルの黄金の魔力が放たれる。
地上に向けてもう一撃、金色の刃を降らせる。無数の刃が氷を砕く。
細かな氷の破片が、雪のように舞う。
次に、僕自身の魔力を剣に送り込む。天藍が柄から手を離す。
魔剣はまっすぐに落ちて来る。
風の魔力をまとい、矢のように、そして加速しながら。
全てを……この戦いを、そしてこの戦いのために流された血と、彼女の怒りと絶望、その全てを終わらせるために。
来い。
呼び声に応え、魔剣はマリヤの
波が引くように水が消えていく。
巨人が消え失せ、槍も砕け散る。
後には、串刺しにされたマリヤがいるだけだ。
《な……何故……》
銀華竜はマリヤの頭部を粉砕した刃を直接掴み、引き抜いていく。
《負けるはずが……ない……竜が、人間に……》
「そうだね。でも、キミは勝てない」
銀華竜の本体はまだ生命活動を続けているらしいが、天藍の竜鱗魔術に全ての能力を封じられ、
《そんなことない……まだ……戦える、まだまだ、戦える……!》
竜の魔力によって、マリヤの負傷は回復しはじめる。
大地の魔力と、金属を吸い上げていく。
竜鱗が顔や体の大半を
でも、もう終わりだ。
次の瞬間、銀華竜は血を吐いた。
《かはっ……!?》
信じられない、という顔をしている。
自分の体……正確には、マリヤの体に起きている異常がなんなのか、見当もつかないんだろうことは想像に難く無い。
一応、説明しておく。その方が親切というものだろう。
「君の回復力がどんな性質のものなのか、銀麗竜の鱗を持つ騎士から事前に聞いておいたんだ。君たちは土中の金属物質を取り込んで外装とし、さらにその魔力で治癒の魔術を行うんだってね」
僕は銀華竜の黒ずんだ鱗をポケットから取り出す。
「君たちの鱗は、体内に一度取り込み、
オルドルが博識で助かった。銀華竜の鱗に含まれるのは鉄、銀、マグネシウム、鉛、コバルト……。とにかくありとあらゆる金属だ。
それは、銀華竜の生息地が同じ金属類で汚染されていることをも示している。
「キミの鱗を移植してるマリヤにも、ほぼ同じ能力があるんだろう。だけど……この鱗には、ある物質の含有量が極めて少ないんだ。金だよ」
金。古来より珍重されてきた希少金属にして、富の象徴。
オルドルの魔術の
「つまり。銀華竜は、金を体外に排出する能力が低いってことになる。もちろん違う可能性もあった。だから勝負は五分五分だった」
僕は選択をし続けただけに過ぎない。
それでも、生き残った。
「黄金は、人間には猛毒なんだ」
重金属と呼ばれるモノの一群……たとえば鉛や銀や銅、クロム、カドミウム、水銀、亜鉛なんかが、人体に深刻な害を及ぼすことは、僕の世界では常識だ。それらのいくつかでは汚染による重大な公害事件を起こし、被害は今も後を引いている。
そして黄金もまた重金属の一種であり、強い毒性がある。
ただ学校で教わった通り、金はその特性として非常に
けれど、ひと手間かければ、それを毒として用いることは可能だ。即ち。
「君たちが一旦僕から離れたとき、ここの地面に染みこませておいたんだ。――《金の
金の
かつて
僕がどこかの雑学本で学んだレシピを元に、オルドルが端正こめて再現した。
「銀華竜、君には耐えられるかもしれないが、マリヤの人の体は耐えられないと思うよ」
銀華竜は血を吐き、呼吸が乱れ、息が細くなっていく。
《ゆるさない……》
フラガラッハが、弱くなる
《ゆるさない……あいりーんの子らよ、のろわれろ……! 破滅しろ、魔術師どもよ……!》
そう呪いの言葉を吐き、銀華竜は動きを止めた。
大地に静かに横たわっている。
終わった。
どさり、と音がした。
マリヤじゃない。
振り返ると、天藍が苦しげに、地面に突き刺さった瓦礫に背を預けていた。
「天藍!」
「来るな」
やはり、二回目の竜騎装は無理だった。
竜人化が全然、止まっていない。
「すぐにここを離れろ……」
きっと天藍のことだ。
竜人化するまでそのまま何もしないということはない。
自分のことは自分で始末をつけるつもりだ。
でも、それは嫌だ。僕が嫌だ。
理由なんてわからない、知らない。
でもここで逃げるのは嫌だ。
「行け、銀華竜は死んだ。マリヤもいずれ息絶える」
苦しそうに顔を歪める。
「どうにかできないのか、オルドル……」
『どうって、どう? 竜の魔術なんて未知数だ』
まただ。僕の力では、また何もできない。
「ふふ……」
小さな笑い声が聞こえた。
振り返るとマリヤの手に、サナーリアの《杖》がある。
彼女の表情はうつろで、生気も無い。
銀華竜と共に死にかけているが、死んではいない。
最後の最後で、やられた。
「《昔々……ここは偉大な魔法の国……》」
ゆっくりと、血塗られた唇が呪文を紡ぐ。
ほぼ同時に、僕の心臓が銀の刃で引き裂かれていく。
マリヤがこんなことをするとは、思ってもいなかった。
僕たちは彼女の敵じゃない。なのに銀華竜を失っても……その死が確実なものになっても……最後の悪あがきのように、こんな
その事実に湧きあがる《オルドルの怒り》が、崩れそうな僕を支える。
彼の狂気に共感し、魔法を使おうとする僕がいる。
許さない……絶対に許さない、そう叫ぶ僕が。
「《目覚めよ、我は善悪の彼岸にて……
魔法陣が描かれ、魔法が発動する。
それと同時に、ふらつきながら天藍が立ち上がるのが見えた。
「ツバキ!」
彼は今までにない必死さで、僕に手を伸ばす。
白い指先が、僕の魔法に触れた。
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