95 希望、引き裂かれてなお果てる事なき

 痛みを必死にこらえて、損傷した部位を数える。

 見たくない。

 見たくない、けど。

 左手全部、持って行かれてた。


「多くない……!?」

『結構待ってあげたでショ?』


 オルドルがかわいい声を出す。

 上目遣いでこっちを見て来る姿とかを想像してしまう声だ。

 嬉しくない、全然嬉しくない。


「次からは、僕が部位を指定するからな……!」


 僕たちは路地に着地した。

 崩壊した建物の向こうから、銀華竜が顔を出す。

 マリヤはその頭部に立っていた。


「ん~~~」


 彼女は僕らを睥睨へいげいしながら、首を傾げていた。


「まあまあ……ってとこね? うん、人間なんてこんなモノよね」


 なんでだろう。銀華には全然、危機感が無い。

 こっちを敵だとも思ってないみたいな、余裕だ。


 なんなんだ?

 その余裕の根拠はどこだ?


「少し期待はずれだけど――次はまあ、やられたことはやり返す、かしらね」


 竜が前肢まえあしを浮かせて咆哮ほうこうする。


 おおおおおおおん!


 絶叫が、音波になって、僕を通り過ぎる。その波は、ただの波じゃない。オルドルの感覚が、危険を告げる。

 ものすごく濃い、血錆の臭い。魔力の臭いだ。


『ツバキ、来るよ!』


 オルドルの声が爆音と、地響きにかき消される。

 竜と地面の接地点から紅色の魔力が噴出し、地面や、コンクリートの壁に一瞬で亀裂を入れ、粉々に粉砕していった。

 地面が、瓦礫が、重力を無視して一斉に浮き上がり、瞬間で銀の鱗に変化していく。

 天藍がよく使っている技だ。

 竜鱗騎士に可能な魔術なら、本体である竜にも可能。

 単純な理屈だった。

 でも、段違いすぎる。規模も、操れる広さも。破格過ぎる。


「次は、こちらが鬼だよ」と、銀華。


 これが、《竜》。

 僕たちは、見渡す限り、逃げ場なんてどこにもない竜鱗の包囲網の中にいた。

 天藍は魔術を行使し、すぐに翼を広げて、僕の襟首を引っ掴んで飛び立った。

 僕たちの後ろを、銀華竜が作りだした大音響と、大量の死の刃が追ってくる。


「うわ、うわあああ、死ぬ! みじん切りになって死ぬ!」


 僕は訳のわからない悲鳴を上げた。

 刃の群れは集合体となり、うねりを上げて追って来る。その様子はまるで大蛇だ。

 進路上のものを全て切り裂きながら、追って来る。


「呪文を!」と天藍が吠える。


「《千変万化の力にて、敵の耳目を欺き、我らを安楽の地へと誘いたまえ》!」


 僕らの姿が単純に消えるだけだが、これで目標を見失う……はず。


 しかし全速力で曲がり角を左折した僕らの後ろを、スライサーはキッチリ、壁やら窓を粉砕し火花を上げながら追走してくる!

 銀華竜は、今度は僕たちを見失っていない。

 これじゃ、巨大なミキサーに追われてるようなものだ。

 飲み込まれたら、全身を引き裂かれてミンチになって死ぬ。

 なんとか追撃をやり過ごすが、あらぬ方向に突っ込んだ刃の大蛇は、さらに粉砕したコンクリートや鉄筋を竜鱗へと変え、その体を太らせながら追ってくる。


「捕まってろ! ――四の竜鱗!」


 天藍が敵の方向に体勢を変える。魔術を解除。

 高度を落としながらの《白鱗竜吐息ブレス》が放たれる。

 三海七天の死の吐息を浴びせかけられ、銀の竜鱗は白い結晶へと再変換されていく。蛇は白い結晶の花になって、砕け散った。


「あと少し!」


 地面も、刃の大蛇が消え去るのもだ。


『ダメだね、その前に魔力が尽きるヨ』


 天藍は僕を引きはがし、全力で地面に向かって蹴りつけた。

 当然、僕は地面に落下、激突して、ボールみたいに跳ねるハメになった。

 僕を捨てた天藍は翼を再生させ、少し浮上したところで、結晶にしきれなかった刃に追いつかれた。


「……っ!!」


 刃が爪先をかすめ、すねを貫通、頬に突き刺さり、急所をかばった腕に刺さる。

 赤い、赤い血飛沫を上げ、白い鳥は放物線を描きながら前方の資材置き場に背中から突っ込んだ。その後から、さらに、銀華竜の竜鱗が滝のように殺到する。


「…………あぁっ!」


 ……はじめ、僕は戦えると思った。敵がどれだけ強敵でも、やれるって。


 ようやく理解した。

 それは間違いだった。

 僕は、今夜、ここで、勝つことと負けることの境界に立っている。

 夜が明けるとき――、いや。一回だけのまばたきの後、生きているかどうかの保障もない境界線が、この場所だ。


「もう諦めるの……?」


 背後から、マリヤの声がした。

 恐怖に絡め取られ、僕は動けない。

 振り返ることもできず、膝立ちになったまま息を殺す。


「死ぬのが怖い?」


 怖い。

 心の底から恐ろしい。

 死の恐怖には、誰も逆らえない。


「なら、私といっしょに来る? 私はいいわよ。お前もマリヤと同じ《光輝の魔女アイリーン》の落とし子なのだもの」


 女の吐息が、声が、耳元に吐きかけられる。

 彼女の指が、僕を後ろから抱きしめる。

 鋭く尖った爪が上着の下に滑り込み、腹を刺す。

 細い指がへそに差し込まれ、強く圧迫されて、吐き気がする。

 息を飲んだ瞬間、彼女の左手が一気に喉元に走った。

 肌とシャツを裂き、ボタンが引き切れて飛ぶ、血が流れる。

 痛み。だが、叫ぶこともできない。

 彼女の手は僕の首を掴んでいた。


「――――――――――――ぁっ!!!!!」

「見て。あなたの血はおかしいわ。傷に対して流れる血の量が少なすぎる。お前の血はお前ではないものの臭いがする」


 目を閉じた瞬間、今度は左手に激痛が走る。


「ひあっ、あああああああっ!!!」


 彼女の反対の手が、手が。左手に恋人のように添い、傷口をもてあそぶ。

 そして、握り潰した。

 潰したんだ、本当に。

 紙が潰れるような音がした。

 指があり得ない角度に折れ曲がって、絶叫する。



「マリヤ! マリヤ、頼む!!! もうやめてくれ!!!!」



 裏返った声で懇願する。懇願だ。その言葉の本当の意味を、いま知った。

 彼女は最早マリヤじゃないが、すがれるのは人である彼女の心、慈悲だけだった。

 ステラ奉仕院で見捨てられた人々の治療に当たっていた、人間としてあって当然の心だ。


「あら、今が一番いい時ですのに、そんな興醒きょうざめなことを仰るの?」


 返ってきたのは竜人のそれではなく、懐かし過ぎるマリヤ本人の口調だった。

 驚いた。銀華に乗っ取られて、マリヤとは二度と会えないような気がしていたから。


「マリヤ、君なのか……?」


 血と一緒に涙があふれて、止まらない。

 こんなの、死ぬよりむごい。


「そうよ。銀華と繋がっていても、私自身は消えたわけではありませんもの」

「嘘だ。お前は銀華だ……マリヤは、こんなことしない!」


 マリヤが左手に力を込める。


「うぐううううッ!」

「男の子って、本当に馬鹿ですわね……。まだ自分に都合のいいことばかり考えているの? これは、私が望んだことですのよ。あなたを殺したのも、リブラ様を殺したのも、名前も知らない方々を殺したのも、私を助け、私の心を踏みにじった連中を殺したのも、全てが私の意志ですわ」


 痛みで、現実が近づいたり、遠ざかったりする。

 これは夢だと思いたい。


「ねえ、おっしゃって? ただ一言でいいのよ。人であることをやめる、と。竜の奴隷になると。私と一緒に来ると仰れば、あなたは私のもの。あのとき破れた一冊の本が、ひとつに戻って……私とヒナガ先生の二人で、完全になるのです」


 誘惑が耳朶じだに触れる。歌うような声が耳に心地いい。

 彼女の頬に埋め込まれた鱗が冷たく、僕の熱を溶かす。

 でも痛みは消えない。

 絶望は僕を否応なく屈服させようとしている。


「恐ろしい女だと勘違いしないでくださいましね。これでも知りたいだけですの……何故、こんなことになってしまったのかを」


 僕もきたい。

 ここからどうやったら逃げられるのか。

 肉体と魂を掴んで離さない、果てのない痛みと苦しみから解放されるのかについてを。

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