96
「《昔々》……っ!」
喘鳴のように漏れ出た呪文は、凄まじい握力で文字通り握り潰された。
体は全力で酸素を求めるが、背後から締め付けてくる握力が振りほどけない。
折られなかっただけマシ、でも一秒でもはやく解放されなければ死を迎えるより先に壊れてしまう。
「諦めの悪い方ですこと……。ウファーリさんにされたように、切り裂かれたいの?」
彼女は僕に魔法を使わせるつもりはない。
涙に滲んだ景色で、不幸中の幸いか杖だけは手放していないことを確認する。
黄金の林檎も、僕と共にある。
もどれ。
元の姿に戻り、僕に力を貸してくれ。青海文書。
鎖が弾け、切れる。
書物の姿になった文書が地面に落ち、中身が散らばる。
膨大な物語が、足下に。
「何をなさっているの……?」
問いながら、敏く危険が迫るのを察知したマリヤの表情が変わる。
素早く身を躱して首から手を離し、支える力を失った僕の体は物語の海に倒れた。
次の瞬間、視界の端が白く染まるのが見えた。
凄まじい速度で地面が結晶化していく。何もかもを飲み込んで。
大地の下から、大きく成長した溶けない氷河が僕とマリヤを突き上げた。
結晶化が止まると、そこには雪原が広がっていた。
ただし、地面に撒かれた青海文書は白鱗天竜の力を防ぎ、平然とただ散らばっていた。
僕はというと、文書でカバーできなかった隙間から突き出した純白の塊に体中を切り裂かれながら、生きていた。
マリヤも、生きていた。
下半身を背後から突き出された針山に突き刺されながらも、平然としている。
「執念深いですわね。竜鱗騎士……」
雪原の端に、血に染まった男が立っている。
何もかも切り裂かれ紅白に塗り分けられて、余裕無く肩で息をしている。
瞳だけが、それでも敵を睨みつけていた。
言葉はなくとも敵を殺すと言っている。
たとえどれだけの恐怖を与えられても、どんな苦境にあっても、たとえ内心は迷っているのだとしても、戦う意志だけは失わない……星条百合白の美しい刃が、そこにある。
「あなたにも聞きたいことがたくさんありますのよ……? どうして、竜鱗騎士として使命を負っていたというのに、私たちを助けようとしてくださらなかったの……?」
後退したマリヤは、平然とした顔で突き刺さった結晶を引き抜き、投げ捨てる。
体に空いた穴は瞬時に銀の鱗で埋められていった。
「己の不運を恨め」
天藍の答えは残酷なまでに簡潔だった。
「人として、良心の呵責は無い……と?」
「その言葉、お前にそのまま返そう。理由も過去の悲劇も罪の免罪符にはなりえない。地獄の扉の前で死した者たちに何故と問うがいい、皆、お前のせいだと述べるだろう」
マリヤの顔が怒りに染まる。
激しい怒りだ。竜の魔力で、銀髪が舞い上がる。
天藍は半身でフラガラッハを構える。
「罪を悔い改めよというのならば、そうしよう。だが、それでもなお私は人の形をした剣であり盾。今は、お前の息の根を止めるための刃だ」
「では、仕方がありません。私たちと、貴方たちとで……もう一度、同じように。仕切り直しといきましょう」
微笑むマリヤの後ろで、竜が唸る。
雪原は一瞬で銀の平野に押し返され、銀の鱗が渦を巻き始めた。
「さあ、今度は――いえ、今度も、その次も、永遠に、貴方たちが逃げる番ですわよ?」
~~~~~
時同じくして、翡翠宮。
紅天は、身分の貴賤に関係なく災厄を降らせる。
空を覆い尽くす飛竜の群れが、宮の奥にまで入り込んでいた。
「一匹たりとも逃すな!」
騎士団に命じ、ノーマン副団長は本宮の回廊を足早に渡っていく。
飛竜の群れならば、騎士団の通常戦力で片がつく。彼女は王姫殿下の控える《謁見の間》に向かっていた。
突然、彼女はチッと舌打ちする。
彼女の人ならざる部分、竜の感覚網が、海市に現れた《銀華》を捉えたのだ。
「やばいな。何故こっちに来ないのかサッパリわかんないけど、とにかく今は耐えてよね……」
両開きの扉が見えたところで、彼女の歩みを止める者たちがいた。
「……誰だ? 親衛隊ではないな。所属を述べよ、でなければ斬るぞ」
ノーマンの瞳が、見慣れない装束を見分する。兵士に見えるが正規軍でも無ければ、黒曜の私兵にも見えない。彼女の勘では雇われ兵だ。
特殊な装備だ。
手にした剣が、紫電をまとっている。
「一応、自己紹介しておくと……これでも竜鱗騎士団副団長だからねえ。ちょっと皆さんの相手としては格上すぎると思うよ~?」
視線が、物陰に倒れた人の姿を捉える。
黒の制服、胸に紅の羽飾り。女王の親衛隊――。
判断した瞬間、兵士が動く。
だが、人の姿をした竜の前では、武器は無力であった。
雷を帯びた刃は閃く前に、放たれた魔術によって持ち主が昏倒する。
ノーマンは鱗粉を引き連れながら、女王府の中心へと踏み込んだ。
大広間までの通路は、血と殺戮と混乱によって誘われるかのようだった。
「どうなってんだ、こりゃ……」
臨時の議場となった広間で、人々の視線を浴びながら、招かれざる客となった彼女の視線は異常の中心に引き寄せられた。
そこには玉座が据えられていた。
女王の代わりに、今は王姫たる紅水紅華が腰かける。
彼女は赤いドレスをまとい、少しやる気のない表情でノーマンに手を振る。
「やあ、ノーマン副団長。いいところに来たな。あなたも、見物していくといい」
少々場違いな、平常と変わらない口調で彼女が指差した前方では、黒衣の少年が剣を抜いていた。
褐色の肌に漆黒のローブをまとった姿は、どう見ても女王府の黒曜石と謳われた大宰相・黒曜ウヤクその人である。
彼は血走った目をしていたが、剣で紫電に触れぬよう手甲を狙い切り裂く。
踏み込み、先ほどの男らと同じ装束の兵士の喉元にいとも容易く刃を突きいれた。
純粋な人間のうちではかなりの手錬れである。
剣と共に血を迸らせながら階段を転がり落ちた死体は、先に同じ命運を辿ったらしい仲間達三人の上に重なった。
武器を失うと、大宰相はどこからともなく弓矢を取り出し、引き絞る。
矢は光でできている。
魔術のものとは理解しているが……彼女は短剣を逆手に握り、戸惑いながら射線の上に体を重ねた。短剣の刃は、うっすらと緑を帯びる。
マスター・カガチが《牙折り》を割った際に出た端材で拵えた短剣だった。
竜の武器ならば多少は魔術を阻害する。それに、一撃では死ぬまい。
しかし、ほとんど盲目であるはずの黒曜が、ぴたりと狙いを定めてくるのが不気味だった。
その鏃の先、ノーマンの真後ろには、議席に座る中年の男がいた。
神経質で、それでいて気弱そうな表情を浮かべた男だ。
見覚えがある。貴人だ。
女王府の議席に座る男だ。
「ノーマン副団長、敵か味方か!?」
返り血を垂らしながら、獰猛な瞳が睨む。
よく見れば返り血ばかりでもない。
ウヤクは騎士でもなく武人でもないが、相当血なまぐさい戦いを演じたらしい。
「え~っと、敵ならば?」
「斬り捨てる!!」
「では、敵でも味方でもありません。話を聞きたいだけ……少しだけ、思いとどまってください。さて……この兵は貴方のものか、公爵殿」
肩越しに振り向くと男は黙ったまま、頷く。
「あろうことか翡翠宮に兵を引き入れ、王姫殿下に弓を引いた言い訳があるなら聞いておきましょうか」
中年男は狼狽えた様子で、しかし最後には口を開いた。
「……王姫殿下、女王国の窮状を真に憂うならば、どうか。次の王姫に、姉君であらせられる星条百合白殿下を御指名下さい。これ以上、徒に民を苦しめることもありますまい」
視線はノーマンを見ていない。
あくまでも、王姫殿下に訴えている。
どうやら、厄介ごとの中心に立っているらしいと知ったノーマンは頭痛を感じ、思いっきり眉をしかめた。
「なんだい、これ。もうメチャクチャだよ……」
そのぼやきを聞き、紅華は表情を和らげた。
「彼の言うことも一理あるのだ、ノーマン。どうして《銀華竜》は海市に残っていると思う? 私を脅しているのだよ。海市すべての人命と引き換えに、王位を捨てよと。彼はそれを勧める立場であり、次の玉座に星条百合白を望んでいる」
彼女は文机の上の書類に指を伸ばし、持ち上げ、二つに裂いた。
さらに四つに、八つに。
千々に乱れた紙吹雪が、舞う。公爵はその紙切れで紅華に退位を迫り、次の王姫を指名させようとしたのだった。
「まさか……それでなのですか?」
ノーマンはただ、事実の前に唖然とするしかなかった。
「やはり、賢い女ですね。あなたが悟った通りのことが起きています。いくら不仲とはいえ、直接、天市に攻め入ってわたくしの喉もとに刃を突きつければ、騎士団は動く。マスター・カガチが去り、天藍が率いる騎士団でも、数が揃っている騎士団と真正面から戦えば《銀華》に勝ち目は無い」
「私たちが海市に戻り、銀華と対峙するならば……?」
「その時点で魔術が働き、自動的にわたくしの命を奪うことになっています。どのみち、わたくしは死ぬという理解で間違いありません」
それを知った公爵の謀反は、あくまでもこの危機に便乗しただけの、想定外のアクシデントということのようだ。
「あのう。私ならば、仕掛けが整った瞬間に、王姫殿下を殺害しますけれども……」
何ら衒うことのない意見に、紅華は微笑んだ。
その笑みは十四歳のものではない。
自分の立場を、身分を知り尽くし、生きる望みがないと知った諦めの笑みだった。
女王は、この国でもっとも高貴な身分の女性だ。
しかしその魂は、女王国が存在し続けるための道具でしかない。
「まだ……ほんのわずかな時間だけ、準備が整っていない。向こうに、そうできない理由があるのだ。今は、その微妙な空隙というだけ」
「なるほど……とりあえずは公爵殿をどうなさいますか? 王姫殿下」
紅華は玉座を立ち、命じる。
「殺せ。一人たりとも、ここから生きて出すな」
その命令が通じたかどうかは、まだわからない。
あくまでも、ノーマンは星条百合白派なのだから。
苦礬公爵は苦々しい視線で、女王を睨む。
紅華は、こちらを見上げてくる視線へと静かに言葉を紡ぐ。
「わたくしは正義を語らない。弁解をするつもりは一切ない。だが、敗北を唯々諾々と受け入れ、女王国を竜に引き渡すことも無い。断じてそのようなことはしない!」
それは説得であり、覚悟でもあった。
今、この場を支配しているのは紅華ではない。竜鱗の力を持つノーマン副団長だ。
彼女が公爵を支持するというのならば、紅華は今すぐに死ぬだろう。
大宰相とはいえ、直接的で単純な暴力の前では黒曜の権力もあまり役には立たない。
紅華は赤い瞳を閉じた。誰かが自分の死を願うなら、それに身を任せるつもりで、鈴の力を使うつもりも無かった。
後悔があるとするなら、異界から来た少年を元の世界へと戻してやれなかったこと、それだけだった。
「……ヒナガ、生きていて」
数秒後、闇の向こうで悲鳴が上がった。
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