88 覚悟
『まあ、元気出しなよ二人とも。血の臭いはしなかったんだからサ!』
女の死体は甘いにおいがする、とオルドルは得意気に言う。
そんな台詞は僕らを
騎士団のノーマン副団長の観測では、彼女は竜……《銀華竜》に連れ去られ、貧民街から跡形も無く消え去った。副団長は騎士団の拠点に戻り、さらに捜索範囲を広げている。
天藍は思ったよりも静かだった。
閲覧室の窓辺で、仲間からの連絡を待ちながら、じっと外を見ている。
美しい、氷の彫像のようだ。もちろん、その胸中は複雑だろうけれど。
僕だって、現在の状況に納得できていない。
騎士団がついていながら、とか。
彼女のそばから離れたお前らのせいだ、とか。
人を責める言葉だけが、思わず唇の端から溢れそうになるほど自分の中に溜まってく。そして言えなかった言葉の連なりが、出口をなくして僕自身を責めた。
「先生……先生が図書館に来るときは、いつもお辛そうな顔をしてますにゃ」
背中の傷を消毒して、包帯を巻きながら、アリスが言う。
最初にここに来たとき、僕はリブラの死で打ちのめされていた。
「昔から……こうなんだ。ぜんぶ、台無しにしちゃうんだ」
言葉にすると、苦しかった。
彼女がいない悲しみに引きずられて、過去のことを思い出して、辛い。
僕の家族もひとりずつ減って行った。
父さんが出て行って、母さんは僕を憎んだ。
「僕のせいだ」
その五文字が、体に伸しかかる。なんて重たいんだろう。
両手で膝を掴んだまま、体は岩になったように動かない。
思い出そうと思えば、いくらでも思い出せる。
家事をしながら鼻歌をうたっていた母親のこととか、キャッチボールをしてくれた父親のこと。みんなで買い物に行ったり、幸せな日々は、記憶は、何があっても去って行かない。
でも、そのことが、余計に僕を苦しくさせる。
百合白さんの暖かさや優しさを知っているからこそ、今が苦しいように。
「……先生は、殿下のことがお好きだったのですにゃ?」
好きだったかと言われれば、好きだ。
あんなに優しくて、可憐な人は見たことがない。
「……そんなの、答えられないよ。彼女は優しくて素敵な人だけど……でも、僕はただの部外者だ。天藍みたいに強くもないし、マスター・カガチみたいに立派でもない。資格がない」
「先生、逃げちゃダメですにゃ」
そう言って、アリスは手当ての終わった僕の背中を抱きしめた。
……暖かい。
振り返ると、ふわふわの三角耳が目に入った。
小さな両手が、僕の背中を抱いている。
暖かい。
「辛くなったら、いつでも逃げていいけれど、今はダメですにゃ。今、逃げたら……それは本当に先生のせいになってしまいますにゃ。これから先も先生は、ずっと、何度も何度も自分を責めてしまいますにゃ……」
家族をなくしたことを心のどこかで自分のせいだと感じているのを、見透かされたんじゃないかと一瞬、疑った。
でも違う。アリスは優しいから、そんなふうに言ってくれるだけなんだ。
「絶対に、先生のせいではありませんにゃ。先生は勇気があって、思いやりがあって、強い男の子にゃんですから」
……そんなわけない。
僕には勇気がない。
思いやりなんかない。
一番辛いのは天藍だろうに、自分のことだけで手一杯だ。
でも強がりだから、自分の未熟さをアリスにぶつけたくなかった。
見栄っ張りだから、そんなことをしたら自分のプライドまで傷つけてしまうから。弱いから。
「僕には……勇気と知恵がある。僕は、マスター・ヒナガだ」
口に出すと、やはり、苦しい。
自分をダメだと思うのと同じくらい、自分を信じることは苦しい。
「強くて頼れる、魔法学院の先生……そんなふうになりたい。ありがとう、アリス」
優しさが人は暖かいものなんだと思い出させてくれる。
戦おう、できることは全てやろう。
僕に優しさをくれた人のために。
僕を少しでも信じてくれた人のために。
*
青い制服の上着に袖を通し、朱色のカフスを留める。
杖を脚のホルスターへ。金杖は腰の後ろ。
クリスタルの
そして、天藍の隣に座る。
「……なんだ」
低い声だけが返ってくる。
「悪かったな。僕がいなければ……お前を連れださなければ、お前は彼女のために戦えた。百合白さんはここにいたかもしれない」
ふん、と鼻を鳴らすのが聞こえた。
「……五年前、俺はあの方を止めることができなかった」
僕は顔を上げ、黙って続く言葉を待つ。
五年前、百合白さんは襲われた雄黄市を放棄した。
天藍たち騎士団は天市に留まったまま、そこに住む人々は全滅。マスター・カガチと当時の団長は、そのことに抗議して騎士団を去り……天藍アオイが新しい団長になった。
「あの方が何をなそうとしていたかに関わらず、戦うべきだった。そのための竜鱗騎士なのだから」
「……お前は、まだ子供だっただろ」
「では、望むとき、望む場に、都合よく敵が現れてくれるのか?」
もちろんそんなことはあるはずがない。
天藍が子供だったとか、そんなことは、敵には関係のない都合だ。
「苦しむ民を救えなかった愚かな騎士が、団長と呼ばれる度どんな思いがするか、考えたことはあるか? 死んだほうがよほどマシだ」
僕は……彼は、ただ盲目的に彼女のことを信じ、忠誠を誓っているんだと思ってた。そういう道を、生き方を選んだのだと。
でも違った。
彼はずっと裏切られ続けていた。百合白さんのそばで団長と呼ばれる度に、その資格はないと自分を責め続けていたんだ。
「あの方を恨んでいないかと言われれば、嘘になる。何故、騎士団を派遣してくださらなかったのかと、民を救わせてくれなかったのかと、心の中で何度も問いかけた。それでも……」
それでも、
信じていた人に裏切られ、闘争を望みながら与えられず、死を覚悟しながら批難されて、それでも、騎士団長としての立場を全うしようとする。僕はその壮絶な覚悟に……何十万という人の命を下敷きにした、彼の忠誠に、ただ圧倒されていた。
「別の方法を探そうと言ったな」
それは、僕の言葉だった。
天藍のことを何も知らなかった、知ったふりになっていた、僕の無責任な言葉だ。
「そんな都合のいい方法が、あると思うか?」
それでも、僕は答えた。
「ある」
声は震えていた。
「百合白さんは、どこかで生きている。そして助け出すチャンスもめぐってくる。でも、僕ひとりでは不可能だ。僕には君の魔術が……強さが必要だ、アオイ」
彼の覚悟を知っても、今はそういうしかない。
竜の瞳は、全てを見透かしているようだった。
僕の浅はかさも、弱さも。
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