89 知らせを待ちながら


 僕は天藍に腕関節を極められながら爪をがされようとしていた。


「う……うぅ……やっぱヤメよう! 自分でやるから!」

「できないとかぬかしたのは貴様だろう。情けない声を上げるな。手元がくるう」


 いや、オルドルから要求された量があれば、剥がなくてもいいんだけど。


「安心しろ、本来爪や体毛、骨には痛覚が無い。痛みを感じるのは皮膚や筋肉など他の部位が傷つくからだ」


 わかっていたって、短剣で爪切りするなんて、短刀で鉛筆を削ることすら不可能な僕の繊細極まりない現代っ子魂が耐えられるはずがない。

 何故爪切りが無いんだ、この閉鎖空間。バカじゃないの。

 卓上には銀の盆に水が満たされ、呪文を待ってる。

 天藍が爪の先を三枚ほど切り落とし、それを食らったオルドルが金杖のむこうで魔法を使う。


『偉大なるものよ。千変万化せんぺんばんかの力にて、安らかなるとばりを開きたまえ』

「敵の耳目じもくを欺き、刃を遠ざけ、魔術を打ち砕き、我らを仮初かりそめの地へと誘いたまえ」


 盆の水がわずかに減る。

 僕と天藍の竜の瞳には、もやのような、霧のようなもので、この空間が閉じられているのが見えた。

 時間の制限はある。

 だが、アリスには、僕たちがくだらない話をしながら食事をしているようにしか見えないだろう。オルドルが得意とする幻の技だ。


「……ノーマン副団長の能力で翡翠宮を探れないか?」


 竜を避けることができる場所が、黒曜のテリトリーだというのは厄介だ。

 情報流出を防ぐためには、オルドルの魔法で結界を張り、アリスの聴覚を封じさせてもらうしかなかった。筆談ができればよかったんだけど……。


「何のために?」


 天藍は慎重だった。

 ノーマン副団長の能力で政治の中枢ちゅうすうを探るなんてバレたときの被害を考えればおいそれとやれることじゃない。


「百合白さんの行方を知るために、必要なことだ……と思う」

「そのあやふやな物言いのために、部下に国家を裏切れと命じろというのか」

「僕もいろいろありすぎて、整理できていないんだよ」


 百合白さんがどうして連れ去られたのか、そして今どこにいるのか……これからどう動くべきなのか。それを理解するためには、一連の出来事に関わっている犯人……いや、マリヤのことを理解しなければはじまらない。

 僕は、テーブルに置かれているファイルを手元に引き寄せた。

 玻璃家の下屋敷に侵入し、魔術の罠がしかけられた金庫から回収してきたものだ。

 内容は、リブラの治療記録だった。

 そこに記録されていたのは五年前のマリヤの病状だ。

 全身に火傷やけどを負い、生きていること自体が奇跡に近く、傍目はためにはほとんど死体にしか見えない目を覆いたくなる姿が克明こくめいに記録されている。

 僕と対面していた彼女は、リブラが何度も手術を繰り返し、やっと取り戻した健康な姿だったのだ。

 おまけに彼女の家族は既に死亡したとあり、正真正銘、天涯孤独の身の上だった。

 僕と彼女には微かな共通点があった。


『君も、青海文書せいかいもんじょを手に入れたあと、ほとんど死んでいたんだものね』


 憎らしくもオルドルの言う通りだ。

 僕は自宅付近で死にかけた。そのとき、犯人が女王国に戻るときに巻き込まれ、こちらの世界に来た。ただ、そのときに犯人と一緒だったらトドメを刺されていたはずだ。おそらく……はじめ、何くれとなく僕に手助けしていた光輝の魔女アイリーンが市民図書館まで連れてきたんじゃないだろうか。

 ゲートのない図書館まで移動できたのはそれしか思いつかない。


『アイリーンは救いを強く望む人間の前に現れ、文書の持ち主を手助けする』


 危機的状況におちいった人物のほうが、青海文書の魔法を強く求める。

 文書の魔法を使うことが避けられないような人物をアイリーンはえて選ぶのだとオルドルが言う。

 その意味では、玻璃はり・ビオレッタ・マリヤは条件に全て合致する。

 マリヤは五年前、銀麗竜ぎんれいりゅうに襲われて瀕死の状態になり、おそらくそこで文書の力に目覚めた。

 その後リブラの養女になり……学院の生徒になった。 


「最初の殺人は、ステラ奉仕院の看護師、ヘレンだったんだよね」


「試し斬りだな」と、向かいの席で資料を確かめながら、天藍は言う。


 僕もそう思う。

 文書の魔法には代償が求められる。

 でも、使ってみなければ、それがどんな魔法なのかはわからない。

 彼女は五年の間じっと息を潜めていたが、ここに来て魔法を試してみたんだ。

 殺人という最悪の形で。


 次に彼女は王族の誰かとともに日本に渡り、僕を殺害して『青空の国の物語』を奪おうとした。

 でもそれは不完全で、オルドルの章だけが僕の手元に残った。

 マリヤは次に、僕の自己紹介の場でリブラを殺した。

 でも、あの場に車椅子の少女がいたという記憶はない。


『距離を問題としない魔法だよ……デナクみたいにね』


 黒曜大宰相が使うデナクの魔法は翡翠宮から離れた天市のリブラの屋敷に矢を打ちこんできた。


『離れれば離れるほど代償が深くなる、ということはあるだろうケド……』


 オルドルに慣れてきて、僕にも理解できるようになった。

 目の前に金塊を出現させるのは、オルドルの力があれば容易だ。

 だが距離を越えようとすれば、その何もない空間をつなげたり、維持したりする魔術が別に必要になる。その分、代償は大きくなる。

 今、飛竜がいたるところにいるのが彼女の仕業なら、マリヤはもう代償のことを恐れてはいない。


「どうして彼女は僕を殺さなかったんだろう……」

「本を奪うため。目的達成後は敵だとはみなされていなかったか、顔を覚えられていなかった……あるいは。敵はリブラ医師の近くにいた、と錯覚させるため」


 天藍が思考を手助けしてくれる。

 確かに平常時だったらそういう錯覚もしたかもしれないが、僕は混乱しきっていて、効果はなかった。ただ、全ての感情を排して考えるなら、あそこで殺人を侵すメリットは他にもあった。


「もしかしたら、それも試し斬りだったのかも」


 あの場には学院の教官、生徒が勢ぞろいしていた。

 そしてトラブルはあったものの、全員が事件が起きるまで危険に気がつかなかった。

 マスター・カガチですら、気がつかなかったのだ。

 気紛きまぐれなオルドルの忠告さえあれば気が付ける可能性がある、という程度。

 青海文書は新しい魔術で、既存の魔術では観測しにくいのだろう。

 暗殺者には最適すぎる能力だと、彼女は気がついたはずだ。


 さらに次。

 マリヤは海府議員一家を殺害した。

 短期間でこれほどの殺人を行うなんて、間違いなく異常だ。


「海市府の議員を殺したっていうのは……議員その人ではなくて、奉仕院を運営していた奥さんのほうが目的で……犯行を見られた、とかかな?」

「事件を起こせば派手に人目にさらされる。そのリスクに見合うものがあったはずだ」


 それと同時に彼女は紅華を介してクヨウ捜査官に竜鱗を渡した。

 イブキに疑いがかかるように。

 僕たちはスラムに逃げ込んで、そこでも殺人が起きた。それもイブキに犯行をなすりつけるため……と言えばそれまでだが、ちょっと引っかかるところだ。

 マリヤはそのあと、アルノルト大尉を手にかけた。

 ひどく残忍ざんにんな方法で……。

 他の人たちには、痛めつけたような形跡はない。僕のときは、致命傷狙いであっという間だったのにあの犯行だけは、ほかと違った。

 残虐だった……何より、家族にまで手をかけた。

 しかもアルノルト大尉はかつてマリヤを助けた側の人間だ。

 それでも、マリヤは自分を助けたはずのアルノルトたちの部隊と、リブラを殺した。

 彼らを恨む必要はないはずなのに。


 そして、とどめが竜の出現。


 おびただしい数の飛竜が海市を覆い尽くし、破壊し、殺した。

 竜は殺しても死なず、再生する。おまけに、飛竜だけではなく……準長老級……ダンプカー、という表現では生ぬるい。超大型ダンプカー並、目測では高さ10メートル、全長は20メートルほどに達するだろう《銀華竜ぎんかりゅう》とやらを出現させてみせた。

 あれはサナーリアの魔法だというが、客観的には、二つは全然別の魔法に思える。


「でも、おかげでサナーリアの魔法が何なのか、わかった気がするんだ」


 生誕のサナーリアは、文書の記述では命を生み出すと言われている。


「彼女は生命を生み出してるわけじゃない」


 つまり、玻璃・ビオレッタ・マリヤ……彼女は凄く頭がいい女の子だった、ということだ。

 アルノルト大尉のところに向かっていた頃、僕は罠にハマってた。

 誰も本当の魔法に思い至ることができないように。


「彼女の能力の正体は……《物質の空間移動》じゃないかな」


 あまりにも単純すぎる。

 でも、考えてみれば竜を無数に出現させたのも、突然消してみせたのも、僕の心臓に竜鱗を突き刺したのも、同じ現象だ。

 どこかにあるモノを、ただ移し替えただけ。


「……物質を生成する手間もない、ということか?」


 天藍がたずねる。

 天藍は、白鱗天竜はくりんてんりゅうの力で何もない空間に結晶を生成したり物質を結晶に変えたりする。オルドルも、コストが高すぎるけれど水の力を使い、金の剣を生み出してみせた。


「そうなるね……でも、そうしないほうがはるかに楽なはずだよ」


 彼女は元から、どこかに用意した竜鱗や、と、天海市の物質の位置を入れ替えている。

 竜鱗で人を殺すときは、心臓に近い部位の組織ごと交換してるんだ。

 だから、死体から鱗を取り除いたとき体重が減少するという現象を起こした。

 致命傷になり得る部位……心臓の一部をむしり取ることで、切り裂く。

 その方法なら、確実に対象を死に至らしめることができる。

 実際に、僕も死にかけたし、刺されたんだと勘違いした。でも違った。

 竜の召喚も同じことだ。

 彼女はあらかじめ用意していた竜を地面の下の、同じ体積の土と交換して、移動させたんだ。

 玻璃家の屋敷で突然、床が抜けて崩落に巻き込まれたのは、コンクリや鉄骨といった建築材料と引き換えに飛竜を召喚したから。重みを支えきれなくなり、崩落したんだ。

 あれは屋敷という形をした巨大な罠だった。

 おそらく最初の召喚でわざと若い竜を呼び出したのも攪乱かくらんのための罠だろう。

 そして大気中に浮かんでいるものを移動させるときには、まるで消えるように移動させることができるはずだ。ノーマン副団長や僕らの目の前で、銀華竜を消したときみたいに。


「可能かな?」

「理論的にはな。だが問題はある。生命のある生物はすべて、魔力を持つ。そして個体差はあれども魔術に対抗する力を持っている」


 天藍の魔術によって起きる結晶化は、あくまでも三海七天さんかいしちてんのひとつ、《白鱗天竜》の膨大な魔力を用いるからこそ可能となる。

 だが竜に対して魔術を使おうとしても、その抵抗力を破るのは難しい。

 人であっても、困難が伴う。彼女は生命こそ生み出せないが、七天に匹敵するだけの出力をサナーリアが有しているということになる。


『青海文書のチカラは強大だよ。ただ、それだけの力をタダで引き出せるワケではないね。でも多少の不便を我慢すれば、結果だけ同じにすることはできる』

「条件付けってやつ?」


 オルドルが水を要求するように。何らかの制約を課して、魔法を使っているのだとしたら。


『彼女の行動にはパターンがある。それは、マリヤにもくつがえすことのできない《条件》なんだと推測できる』


 それに気がついたのは、天藍が先だった。


「……竜の出現場所は、殺人が起きた場所だった」


 飛竜が忽然こつぜんと姿を現したのは、学院、貧民街、図書館、玻璃家の下屋敷……いずれも、殺人が起きた場所と一致している。


「一度、能力を使った場所でしか、使えない……?」

『竜を召喚する条件は、それだろうネ。ボクなら、死者の血に魔術をかける』


 死者の血に呪いをかけることによって、触れた者に呪いを拡散させるのだとオルドルは言う。


「じゃ、最初の殺人はどうしてるんだ?」


 まだ、何かある。

 でもそれは、大事なことではない。


「大切なのは、マリヤが人を何人も殺し、竜まで召喚して、何をしようとしてるかだ」


姫殿下ひめでんかへの復讐」と、天藍が言う。


 雄黄市の崩壊を招いたのは、百合白さんの決断のせいだ。

 どんな理由があっても、その事実だけは変わらない以上、あり得ない推論ではない。


「でも、それはおかしい……だって、そのチャンスはいくらでもあった。事をこんなに大きくしなくてもよかったはずだ」

「彼女のそばには常に騎士団がいた」

「騎士団は僕らの魔術を察知できない。学院の生徒だと思えば、油断もする。それに、何故……竜だって、普通ならすぐに百合白さんを殺していたはずだ」


 銀華竜はまるで意志があるかのように護衛を殺し、彼女を奪って、また同じサナーリアの魔法で移動してみせた。


「あの竜、まるで……マリヤの意志がわかっているみたいだった」


 下屋敷を死体ごと、丸ごと、息吹で消したように。

 天藍さえいなければ、あれは僕にとっては必殺の罠だった。


「百合白さんは、竜を使って誘拐されたんじゃないかな。何かの交渉のために」


 僕が彼女を、百合白姫を助け出すチャンスがある、と言ったのは。

 その理由が、これだ。荒唐無稽こうとうむけいだが、妙な確信がある。


「竜は人の命令など聞かない。手を組むこともない」

「なら、こういうのはどう? 逆なんだ。マリヤが……んだよ。スパイなんだ」


 僕にはこちらの常識がわからない。

 だから、条件反射のように、可能性を並べていくことしかできない。

 どれほど陳腐ちんぷな筋書きでも、それしかできない。


「……そういう思考法は、どこで学ぶんだ?」

「三文小説から、かな。君は読まないらしいけど」

「そうらしいな」


 でももし僕の考えが正しければ、マリヤは百合白さんを人質に使って何らかの交渉をしてくるはずだ。

 真っ先に動きがありそうなのは、翡翠宮。女王府だ。

 ここを探る、というのはもはや突飛な発想とは言えないだろう。


「マリヤの意図を事前に知ったとして、お前はどうする」

「彼女はやりすぎたよ。どんな事情があるんだとしても、誰もが彼女を許せない」


 僕の言葉が終わった瞬間、残りの水が蒸発しきって、幻は晴れていった。

 この怒りがどこから来るのか、自分でも不思議だった。

 天藍のカフスが輝く。


「騎士団から?」

「いや……」


 無表情の仮面が、少しだけ歪む。

 驚きの表情だ。


「姫殿下だ……」

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