86 慈悲と哀れみによりて

 *****


 天藍と日長椿ひながつばきが玻璃家の屋敷を脱出した、そのあとのことだ。

 巨大な竜は極めて予定通りに誘導され、そこに辿たどり着こうとしていた。

 もっとも貧しき者たちの街に。


「お願い、ここを開けて!」


 その避難所に指定された倉庫の前で、せた若い女が声を張り上げている。

 むなしい叫びが灰色の風景に響き渡る。

 沈黙した鉄扉を叩きながら、女は絶望の重みに耐えきれず、その場に崩れ落ちた。

 周囲には食い漁られた遺骸いがいが散らばっている。

 飛竜の発生地点のひとつとなった貧民街では、他の地域よりも多くの犠牲者が路地に倒れていた。死体は回収されないまま、その場で腐臭を漂わせる。

 その多くは身寄りのない女、年端もいかない子供だ。

 犠牲者を多数出した理由はただひとつ。この地域の非難所は旧型なばかりか、市民として届け出のない者も多く、必要な人数を収容する容量に欠けていた。

 ときに緊急時の避難においては通常「女性や子供を優先すること」が美徳とされるが、ときどきそのこと自体に非難の声が上がることがある。

 人の価値に男女の差などないではないか、と。

 もし心の底からそれを真実だと思うのなら、魂の価値を平等にするのは簡単だ。

 力の弱い女子供を力ずくで放り出せばいいだけだ。

 女は意を決してその場から逃げ出した。

 どこかの建物に潜りこんで、時が過ぎるのを待つしかない、とでも思ったのだろう。

 しかし、数歩も行かないうちに悲鳴を上げて崩れ落ちる。

 銀色の獰猛どうもうな生物がももに食らいついていた。

 飛竜は足からくちばしを離し、上半身にしかかる。


「いやっ……」


 彼女の視界の端に、高速で飛翔する何かがうつりこんだ。

 牙が柔らかい肌を食い破ろうとした瞬間、竜が甲高い金切声を上げ、喉を晒してうごめく。

 胴体に亀裂が走っていた。パックリと割れた断面から体液をまき散らしながら、後ろに倒れていく。

 さらに、彼女の体は透明な誰かに後ろから抱きあげるように浮かんだ。

 体が風にさらわれるように飛び、離れたところにいた人物の腕が抱き留めた。


「大丈夫か?」


 そこには魔法学院の制服を身にまとい、手裏剣を手にした少女の姿があった。


「ありがとう、ウファーリ……!!」

「いいよ、礼なんて。あんた、走れるか? 下水道に潜って逃げな。ヒゲじいがバリケードを張ってる。あたしがいなくても、しばらくはつからさ」


 飛竜たちが、突然現れたウファーリを毒牙にかけようと、殺到する。

 ウファーリは知っていた。奴らは倒しても何度でも復活するということを。

 彼女は屋上に設置された使われていない看板に目を留めた。看板の根元に集中する。

 海音によって腐食が進み、びついたそれを根本から叩き折り竜たちの頭上に叩きつける。

 轟音とともに、地面と看板の間に竜を閉じ込めた。


「行け!」


 女が駆けだした。

 重たい看板を叩きつけられ、飛竜たちは身動きが取れないが、死んではいない。

 既に、こうして何人もの人たちを守ってきたウファーリの能力は限界に近付いていた。

 竜が出現してからというもの、逃げ遅れた避難者たちをかばって戦い続けた指先が、彼女の意志に反して震える。


「世の中どうなるかわからねえもんだな。……人をおどしたり、暴力を振るうしかなかったあたしがこんなとこで人助けしてるなんて……」


 貧民街の地下では避難所に入りきれなかった人々がおびえ、肩を寄せ合っていた。

 これ以上、竜が増えたら避難所のほうも無事では済まない。

 先ほどの悲鳴に呼び寄せられ、仲間の飛竜たちが集まって来た。

 ウファーリは手裏剣を全て取り出し、宙に浮かせる。


 ――――カツン。


 小さく音を立てて、回転する星が落ちた。


「あ……!」


 限界だ。

 手裏剣を放つが、速度が足りずに跳ね返されてしまう。

 攻撃を避けようとしても体が重い。

 竜たちを押さえている看板も、ガタガタとうるさくわめき出していた。


「くそっ……ここまでかよ!」


 押し寄せる死から、彼女は目をらした。

 もし、と彼女は思う。自分でも不思議だった。思い出すのはマスター・ヒナガのことなのだ。マスター・ヒナガがカガチと違って《完璧》な魔術師ではないことは、彼女も知っている。

 精神的には未熟で、魔術を使う上で多大な犠牲をはらう。だからこそ魔術に近くても、魔術を越えられない《海音かいおん》に頼るしかない自分と重ねてしまうのだろう。

 

《実験動物でも、強さでも、暴力でも魔法でもない。君の価値を、探そう》


 ひとりぼっちだったウファーリの手を繋いでいてくれた、マスター・ヒナガのてのひらは暖かかった。

 ただそれだけで彼女は救われたと思う。


(ありがとう……先生)


 死を覚悟したウファーリだったが、その瞬間はいつまでも訪れない。


「ハ~イ、そこまで~♪」


 とん、と看板の上にブーツを履いた足が、降りた。

 どこから現れたのだろう。

 若い女性が立っていた。ケープを羽織っているだけでやたら露出度の高い服装で、晒された両のももに六枚の花の模様のような紺色の鱗が輝いている。

 背中からは、妖精のような羽が生えている。


「さあっ、良い子たち! そろそろおねむの時間だよ~☆」


 彼女は両手を後ろに組み、くるり、と回転してみせる。

 スカートがひるがえり、背中の羽からふわりと鱗粉りんぷんが散った。

 紺色の、キラキラと輝く細かい粉が、彼女の背中を中心にみるみるうちに広がっていく。

 回転が終わり、トン、とブーツのかかとを合わせる音と同時に、鱗粉を浴びた飛竜たちは地面にバタバタと落ちていった。腹を上に向けて……寝息は規則正しい。


「あんた……誰?」


 彼女はウファーリを振り返った。


「《結界のノーマン》って知らない? ふだん、天海市を覆ってる結界のひとつは私が張ってるものなんだけどね」


 ノーマン副団長はもう一度、くるりとターンする。

 背中から放たれた鱗粉は、今度は貧民街を覆い尽くすほどの勢いで広がっていく。

 紺色のキラキラした輝く砂のようなものが空間を埋め尽くす。前も見えないくらいに。

 そして、風によって吹き飛びもせず、その場に停滞し続ける。

 無限に星が瞬く宇宙の内側のようだ。

 その中にいるウファーリは、何か巨大なものに包まれている不思議な感覚を覚え、無意識に息を止めていた。


「息止めないで吸って~。怖くないよ~毒じゃないよ~」


 ノーマンに促され、粉を肺まで吸い込む。


「あれ……?」


 ウファーリは妙な体の軽さを感じた。

 疲労が消え、海音も復活している。


「それはね、鱗粉を介して君の脳に私が出す《元気になる》信号を送ってるの。疑似的ぎじてきなものだから無理すると死んじゃうけど、地下の人たちを連れて逃げるくらいの時間はあげられるはずだよ」


 ウファーリにも彼女の正体がわかりかけていた。

 彼女の両足に輝くのは《竜鱗》だ。


「鱗粉は私の竜の《息吹ブレス》。拡張された感覚器官なんだ。鱗粉に触れるものは、すぐにわかる。逆に、この粉を吸い込んだ生き物に、こちらから情報を送り込むこともできるってわけ」

「こんなところに、騎士団が来るなんて……まさか、天藍の仕業とかじゃないよな?」

「あらら? きみ、団長の知り合いかい?」


 二人はまじまじと視線を交わす。

 邂逅かいこうした女たちの脳内にはそれぞれの《天藍アオイ》がいて、それは学院の首席生徒と騎士団長としての姿であったが――残念ながら両者の思考は寸分の違いなく一致していた。


「……まあ、あいつが、そんな気を回すはずねえよな」

「ごもっとも。反論の余地よちなし、だねえ」


 ノーマン副団長はやれやれ、と肩を竦めてみせた。


「さあ、急いだほうがいい。正直に言うとだね、この貧民街を救おうとしている機関は女王国には存在しないよ。市警も女王府も軍も、ここの被害なんか数のうちにも数えていない。君たちを救うものがあるとすれば――慈悲。それくらいのものかな。さてさて、それでは《慈悲と哀れみにより》」


 妖精のはねを羽ばたかせる。


「五の竜鱗、その名は《竜鱗狂瀾りゅうりんきょうらん》」


 ノーマンの周囲で、鱗粉が濃くなる。


「十の竜鱗、《竜騎装りゅうきそう紺茨蛇竜こんしだりゅう》」


 鱗粉が両足を中心に、ハイヒールに似た装甲を形成し、さらに全身を覆う。

 濃紺のいばらのようなものが両足に巻き付く不気味な鎧だ。

 両手に下げる武器は円月輪だ。

 ウファーリは、気がつかないうちに周囲に人の影が増えていることに気がついた。

 紺色のカーテンの向こうに、三、四……五人。

 騎士だろうか。


「さ、お嬢さん。そろそろ逃げてね。ここに大~~~きなのが来るからさ!」


 紺色の、光のカーテンの内側に亀裂が入るのをウファーリの金の瞳が捕えた。

 鱗粉は嵐のように荒れ狂う。それを縦に切り開き、銀色の頭が差し入れられる。巨大な頭部。それは、頭をもたげて瞳を向けた。

 不思議な竜だった。

 銀麗竜のように全身が銀というわけではない。

 ところどころ黒ずみ、全身がゴツゴツした角で覆われている。


「敵個体確認、準長老級だな! 名前の記録があるぞ。《銀華ぎんか》だ! ハハハ、こいつはヤバいぞ」


 兜の下から興奮したノーマンの笑声が聞こえる。


「行くよ、みんな。残念ながら無茶苦茶しんどい戦いになりそうだ。あ~あ、ここにマスター・カガチがいたら、最ッ高に楽しかったんだけどな!」


 ノーマンは手にした円月輪を、竜の鼻先に向かって放つ。

 刃の輪が、敵を断絶しようとした。


 が。


「……って、あらっ?」


 ノーマンは間抜けな声を上げた。

 濃紺のカーテンを切り開きながら回転する刃は、敵を切り裂くことはない。

 何もない空間を飛翔し、見当違いの方向に飛んでいって、放物線を描いて手元に戻っていく。

 副団長は鱗粉のカーテンを収束させる。

 そこには、何も無い。

 鎧の内側で、ノーマンはあせっていた。

 鱗粉の《結界》を貧民街全域に展開しても、《銀華》の姿はどこにも無い。


「……嘘だ、影も形もない。私の……蛇竜ちゃんのセンサーに全く引っかからない。なんて、あり得ない」

『副団長、散開さんかいしますか』


 首のチョーカーから、団員の声がする。

 ノーマンはそれを無視。

 鱗粉をさらに広げ、全ての魔力を索敵さくてきに割り振る。

 範囲は海市の全域まで広がった。

 竜の感覚は、同族を感知する。

 無数の飛竜。そして。一際強い生命反応がある。


「見つけた! いやいや待って、でも……嘘だろ……そんな、なんでそこにいるのよ!」


 ノーマンの声は裏返っていた。

 このとき、軍部ですら銀華竜が消えた理由も、行き先も掴めないでいた。

 彼女だけだ。

 彼女の竜だけが、一瞬のうちに消えた竜の居場所を知っていた。

 それは高層マンションの屋上だった。

 繁華街に程近い、高級マンションだ。

 そこに巨大な翼を広げた準長老級の竜が、滞空している。


「嘘、やめて……冗談やめてよ!」


 大気中に散った蛇竜の鱗粉は、彼女の五感に情報を送って来る。

 その視覚に、最上階の窓がうつる。

 竜の視線の先に――少女の姿。


 彼女は桃色の瞳で、恐怖のかたまりを見上げている。


 準長老級が相手だ、というのは事前の情報で知っていた。

 死を覚悟した戦いだ。だから、ノーマン副団長は騎士団の主力を率いてきた。

 護衛役は残っているが、薬は竜騎装を使う者に与えた。

 つまり、彼らはまともに戦えない。

 貧民街からでは、救援が間に合わない……!


「お逃げください! 姫殿下!! 星条百合白殿下あああッ!!!!」


 副団長が上げたのは、絶叫だった。

 守るべきものを守れないと悟った女騎士の、身を切るような叫びだ。

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