番外編 鳥類の覚醒

 プロローグ



「イチゴ(一万五千円)? 本当にそれだけ?」

 私服の南原蘭は、初対面の中年男につづいて、ベッドに腰を下ろした。

「ごめんごめん。お金なくてさ」

「ふうん。現役女子高生とセックスするってのに、それしか出さないんだ」

 中年男は申し訳なさそうな顔をつくった。もちろん本心はわからない。

「本当にごめん。次はもうちょっと持ってくるから。次はさ。ね、最初だけ、ね?」

「わかった。話は成立。って、ことでいい?」

「うん、もちろん」

 その瞬間、ホテルの部屋のドアノブがガチャガチャと荒い音をたてはじめた。いまどきの自動清算機でロックがかかるタイプではなく、昔ながらの、ただの鍵で開くドアだった。

「はいはいはーい。おじゃましまーす。けいさつでーす!!」

 踏み込んできた二人の警官に、中年男は、驚愕に目をみはった。

 ひとりの比較的小柄な警官のほうが、閉まったドアを背につけ、逃げられないように守る。そしてもうひとりの背の高いほうが、異様にニコニコしながら、中年男に歩みよった。

 警察に現場をおさえられたことだけが、中年男の恐怖ではなかった。彼ら二人が、まるで手作りといった安っぽい制服を着ていて、しかもニコニコしているほうはピンクの髪色をしているし、つまり、まるでほんものの警察には見えなかったのだ。

「はーい、話は全部聞かせてもらいました。録音済みです。あ、これ警察手帳」

 一瞬彼は手帳を見せたが、それも、おもちゃ同然だった。

「表彰状~! あなたは女子高生をそれと知りながら買春しようとしました~。よってここに、えー、(と彼は腕時計を見た)二十三時十一分、被疑者を確保~」

「ちょっ、待っ、待っ……」

 彼は中年男の手をかんたんにねじりあげ、後ろ手に、これもおもちゃに違いない手錠をかけようとした。

 ピンクの髪の警官は、素直に動作を止めた。

「うん、待つ。ほら、見てわかるようにおれら、話のわかるおまわりさんだからさ。買収にはいくらでも応じる構えよ。で、手持ちはいくら? おっと失敬」

 彼はさっと男の財布を抜き取ると、中身をあらためた。

「ひい、ふう、……おっと、十万もあんじゃねえか。何がイチゴだ、高校生買おうってときに買い叩きやがって。さて、鷺沢くんと山分けしておれには五万か」

「あたしを忘れないで」

 と、蘭。

「あー、すいませんね姐御。じゃ姐さんにはとりあえず二万。あとは、サラ金がまだあいてるし、セブン銀行さんにも一肌脱いでもらって、みんなで分けましょう。逃げようなんて思ったら」

 ピンク髪は、拳銃を取り出して、中年男のこめかみに突きつけ、ぐりぐりと押してみせた。それだけで、彼は顔じゅうぐっしょりと汗をかき、全身が小刻みに震えた。

「これだけはねぇ、おもちゃじゃないんだねこれが。さあ……こんなやつならおれひとりで充分か。ちょっと外回りに行ってくるわ」

「俺はいなくていいんですか?」

「うん、鷺沢はもうきょう一件こなしたっしょ? ここで休んでていいよ。全部済んだら一回戻ってくるよ」

 ピンク髪は制服の上を脱ぎ、季節に合った涼しげな白いTシャツ姿になった。そしてまた、拳銃を男に押しつける。

「なんか実入りがいい予感するわぁ。きょうはこれでアガろうぜ。サワくぅん、仕事上がり、何かして遊ぼうか? タトゥーでも入れる?」

「いえ、入れません。先生はあるんですか、彫り物」

「そう、下北にいい彫り師がいて。っていうか、もう先生はやめてよ」

「すいません、つい」

「じゃさあ、おっパブでも行く?」

「あんまり好きじゃないですね」

「そっかそっか、ま、若いとあれ、逆に抜けないとムラムラするからな~。とりあえず、こいつん金吐き出させたら、また連絡するわ」

「わかりました」

「姐さんもお疲れ様」

 先生と呼ばれたピンク髪は、半ば無理やり蘭の口にタバコをつっこみ、火をつけた。蘭はしょうがないとあきらめた様子で、タバコを吸った。

 先生は、買春オヤジを連行していって、部屋は鷺沢と蘭の二人きりになった。鷺沢は、中年男が座っていた場所にそのまま座り、蘭からタバコを取り上げて、自分が吸った。

「体に悪い」

「自分ならいいの」

「そう。俺ならいいの」

 蘭は足をぶらぶらさせた。

「……お兄ちゃん」

「何」

「前から思ってたけど、鷺沢って、何。誰?」

「……俺だけど」

「なんでそんな名前で呼ばれてるの?」

「さあ……こういうサギみたいなことばっかりしてるからじゃない」

「そんなの、あの男のほうがよっぽどやってるじゃん」

「そうだけど。単なるあだ名だよ。何かの拍子についただけ」

 電話がかかってくる。先生からだった。

「ヤホッ。いまサラ金」

「そうですか」

「サワくんさ、あんた本当、いつまでもおれについてこんな仕事やってるつもり?」

「しばらくは、勉強させていただきたいと思ってます。社会での生き方を」

「いまのうちならまともな仕事にも就けるし、大学だって入れるだろ。せっかくのホンモノの戸籍が生きてるうちに、やりたいこといろいろやればいいのに」

「ないですよ。もともと、やりたいことなんて、ずっと」

「そう……ま、意外と人間、何歳になっても、やろうと思えばなんでもできるし。おれなんてこないだまでワセダのテンプラ学生やって、モーニング娘。同好会にまぜてもらってたくらいだしなあ。手遅れはないよ。女くらいかな。手遅れがあるなら。好きな女っていまいるっけ」

「……いません」

「それ以上の幸せはない」

 電話が切れた。

 鷺沢はテーブルまで行って、灰皿をひろいあげ、立ったままタバコを吸った。蘭は何も言わなかった。何も会話はなかった。




 1 宇宙人と僕



 僕は高校にあがった。誰もが認めるすべりどめ高校だった。入った瞬間から大学受験のことしか考えてないやつと、ぜんぜんやる気がないやつで、すでに二極化していた。

 僕は、どちらかというとやる気はないが、ただ、私立で無名でしょぼくてもいいから大学くらいは出ておきたいなと考えていた。

 入学式が終わった夜、父と母は僕を呼び出した。

 英彦、おまえは、お父さんとお母さんのほんとうの子供ではない、と言われた。

 それ以降に何を言われたかは正直ちょっとよく覚えてない。僕は、ひとつ上の姉、かなえと、早くこのことについて話し合いたかったのだ。

 両親の話が終わって、かなえはまだ自室で起きていた。音楽をかけ、音楽の雑誌を読んで、ベッドに寝そべっていて、

「やっぱり。私も高一の入学式のとき、言われたもん。きっと来ると思った」

 長い髪をじゃまそうにかきあげ。つまり、姉は、弟がきっとここに来るだろうと思って、待っていたのだ。

「ちゃんと話、きいた?」

「……姉ちゃんは、血、つながってんの?」

「ほら、きいてない」

 彼女はあきれた。

「わたしと英彦は、まだ二歳三歳のころ、孤児院で、べつべつにもらってきたの。ひとりっこじゃかわいそうだからって、二人同時にね。でも適当に選んだだけだから、わたしと英彦は、他人」

「……じゃあ、蘭も?」

 僕は、二つ下の妹の名前を出した。

「蘭は、やっとできた子ども。だから親と血はつながってる。わたしたちとは、ゼロパーセント、つながってないけど」

「……それじゃあ、南原三きょうだいは、全員……」

「そう。全員、赤の他人」

「……信じられないな。姉ちゃんとは共通点、いろいろあるのに」

「そう。若い頃のレオナルド・ディカプリオが好きなところとかね」

「ブラッドリー・クーパーも好きだ」

「FF6のオペラのイベントが好きで、何回も繰り返し、一生見続けた」

「ジェームズ・フランコは、若いときよりトシとった今のほうがいい」

「長風呂する」

「いまでもウィノナ・ライダーは輝いてる」

「耳かきが日課」

「うん……こんだけ似てるのにね」

 もう、すべてを知っていた姉は、ショックを受けている弟を尻目に、余裕しゃくしゃくだった。

「でも似てない部分もあるんじゃん。そんなの血がつながってようが、なかろうが一緒だよ。似てるとこも似てないとこもある。それが人間でしょ」

「そうだけど……」

「むしろ、他人なのになんでか似てるってほうが、わたしはすごく、すごいことだと思う。そのほうが」

 僕は姉の真剣なまなざしに耐え切れず、正座のままうつむいた。

「……音楽の趣味は、似ないね」

「ああ、僕、音楽聴かないから……」

「こんどライブ、連れてってあげる」

「うん……こんどね」

「あ、そうだ。蘭には秘密にしたほうがいい」

「あっ。そうだよね」

「やっぱ親の口から聞かせるのがいいよ」

「っていうか、俺そもそもやだよ。こんな話。なんて話せばいいのかわかんないし。わざわざ話したくなんかない」

「わたしの気持ち、わかった?」

 かなえが笑う。無邪気そうに見えて、しかし、僕は、その裏にある感情を読み取った気がする。

「……少し。一年間、黙っててくれてありがと」

「ぜんぜん。かわいー弟のためだもん」

 そう言って、かなえは自分で笑った。

 僕はやはり照れて、目を伏せてばかりいた。

 チャランポランに見えて、姉はこれでけっこう、たのもしい。

 年の近いきょうだいにしては、仲がよいほうだと思っていた。休みになると、いっしょに映画館デートまでするくらいだ。

 それが、赤の他人……。

 いや、他人なんかじゃない。姉はいろいろと僕のために気を使ってくれた。それが、姉だから以外の理由のなんだろう。

 かなえは、いまでも、僕の姉だ。

 そう思って、僕は当夜、床についた。なかなか眠れるはずはなかったけど。

 デートにつきあってくれる姉は、なかなかおしゃれで、流行に敏感で、スタイルもよく、男子高校生のだれもが、こんな子を連れて歩けたらと夢想するような姿だった。

 もし、かなえが姉じゃなかったら。

 そんな妄想を、一度でも抱かなかったか?

 そして、いま、神が、その妄想をかなえたのか?

 それこそ、妄想だ。ばからしい。

 高校さいしょの授業は、日本史だった。

 妙だった。教師は五分たってもあらわれなかった。六分めあたりでついに、ガララッといきおいよく扉がひらき、ネクタイをなびかせた、彫りの深い顔をしたなかなかの美男が、教壇に飛び込んできた。

「はあ、はあ」

 と彼は息をととのえてから、われわれ生徒を、過剰なほど見開いた、というかすわった目で見すえ、

「諸君ッ!!」

 と、絶叫した。

「諸君にまず教えておきたいことがある。この世には、三種類の人間がいる。ひとつは、感じのいい人間! ふたつめは、感じの悪い人間! そして、変な感じの人間! ……おれは、完全にいちばん最後だァーーッ!!」

 ここで、びったーーんと、手に持っていた教科書を、教壇に叩きつける。

 この時点で、そのような自己紹介をわざわざしなくても、変な人間であるのは明白だった。

「受験用の日本史なんてのは、しょせん暗記でしょ、暗記! だからやる気あるやつは自習してたほうが効率がいい! おれは変な話しかしません! だからやる気のあるやつ、およびないやつは、いますぐここから出ていってよろしい! この時間をほかに使うほうがよっぽど人生の有効活用だ! さあ、翔びたて青年たち! 翔んでいくのだ!」

 先生は名前も名乗らぬうちに、あけっぱなしの教室のドアを指差した。

 ぞろぞろと、生徒たちが移動していった。

 気がついたら、僕しか残っていない。

 先生は狂気的な、ニヤーッとした笑顔で僕を見た。

 ヤバイ。

 僕はとっさに目をそらし、窓の外に目をやった。窓際の席だったから、外がよく見えたのだ。

 不思議なことがおこった。

 グラウンドの外に、茶髪の、ブルゾンを着込んだ、僕たちより少し年上と思われる若者がいた。そいつが、僕を見上げていて、目が合ったのだ。

 ちなみに、階数は三階だ。

 心当たりなんてない。

 誰だ? 気持ちが悪い。

 反対側に目をむけた。すると、驚くべきことに、すぐとなりにもうひとり、生徒が残っていた。

 存在感がないから、ぜんぜん気づかなかった。いかにもおとなしめな女子だった。黒い髪をひとくくりにしている髪型も地味だ。彼女とも目が合う。しかし、一瞬でお互いにそらす。

「よしよし、じゃあ残ってくれた二人のために、おれの千の特技のうちのひとつを披露してあげます。あっ、自己紹介がまだだった。おれの名前はぁ~」

 彼はみぎひだりそれぞれにチョークを持って、二列に同時に、

「真実一郎」

「There can be only one」

 と、みごとに別々の文字列を書いた。

「はいっ、これが先生の名前でーす。おぼえてねー。特技、みたー? 左右で同時に別の字が書けるんだよー」

 名前は……絶対、ウソだった。

 そのほかにも、自称真実一郎先生は、右手でタテに、左手でヨコに字を書いたり、チョーク五個くらいでジャグリングをして見せたり、果ては、

「こんにちはー!! 宅配です」

 とピザの宅配まで来て、お金を払い、授業中に教壇にすわってうまそうにむしゃむしゃと食っていた。

 僕ととなりの女子はともにひと切れすすめられたが、二人ともことわった。

 鐘が鳴った。

 高校とは、こういうむちゃくちゃな場所なのだろうか。

 となりの席の女子を見てみた。先生のスケッチを、手馴れたタッチで描いていた。

 僕と目が合う。

「……絵、うまいね」

「いや。まだまだ」

「僕、南原っていうんだけど、名前」

「私は柿崎しずる」

 よかった。友達ができた。女子だけど……。

 次の時限、となりのクラスから、あの芝居役者のように腹から出ている絶叫が聞こえてきた。

「おれは、完全にいちばん最後だァーーッ!!」

 ……一学年、全五クラスあるから、あれを一日に五セット、繰り返すわけか。

 体力、あるなあ。僕は体力がないのでうらやましいもんだ。

 しばらくして、また聞こえてきた。

「こんにちはー!! 宅配です!」

 ピザも……五回食うのか?

 一日が終わった。高校の教師というのはみんなこんな狂った人間かと思えばまったくそうでもなくて、ほかはみなごくごく穏当な性質の人間ばかりだった。

 下校したとき、校舎のかげに一瞬でかくれた、全体的に何か茶色いっぽい人間を見た気がした。気のせいかもしれない。

 まもなく僕は、つまらない授業をさぼって保健室で時間をつぶす生徒になった。そんな生徒はほかにたくさんいて、保健室では、全学年にわたって、やる気のない人間がたむろして、椅子や床にすわったり、立ったまま、なんということはなくぽつぽつと雑談していた。

 そして、あの僕のとなりの席の柿崎しずるとも、ある日、保健室で遭遇した。

 彼女は窓の外をながめながら、スケッチブックにその景色をえんぴつで描いていた。

「うまい!」

 と思わず声を上げてしまって、僕は視線を集め、ぺこぺこしながら手で口をふさいだ。

「ありがと」

 と、柿崎さんは小さく言った。

「だれかから習ってるの? 絵画教室とか」

「ううん」

「独学か……」

 会話がとぎれた。

「あのさ、僕も、絵じゃなくて、小説書いてるんだよね」

 本当だ。

 僕の読む小説は、おもに姉のお下がりで、小さい頃から大人の読むような本ばかり読んでいた。幼稚園児の頃からクラスになじめず休みがちだった僕は、本ばかり読んで育った。そのうちに、僕にも書ける、なんて錯覚するのは、それほど変なことじゃない。

「そっちもすごいね」

 柿崎さんは、顔をあげて、話をあわせて微笑んでくれた。

「うん……だから、僕の本が出たら、柿崎さんが絵を描いてよ」

「いいよ」

 まったくのたわむれごとだった。平凡な僕が作家デビューなんてできるわけないし、できたとしても、作家がイラストレーターを選ぶわけじゃない。それでも、というより、だからこそ、話につきあってくれた柿崎さんをうれしく思った。

「今度、モデルのバイトやらない? デッサン、弱いから」

「え、バイト。そんな、お金なんかいいよ。いくらでもやるよ」

「本当?」

「うん。でも、そういうの頼める友達とかいないの?」

「友達か。いないね」

 彼女はもう一回微笑んだ。

「女子はね、みんな、私のこと、『宇宙人』って呼んでる」

 柿崎さんの目はくりくりとして大きい。それに、あの真実先生の授業でも女子でただひとり出ていなかったし、絵はこんなにうまいし、女子が変わり者扱いして、そんなあだ名をつけるのも、そんなに突拍子のない話じゃない。

「……絵がうまいから、妬いてるんだよ」

 と僕は言った。

「私はそうは思えないけど」

 柿崎さんは、えんぴつを動かす作業に戻った。

「さて、きょうは特別授業!! 性教育の時間だ!!」

 真実先生は、また腹から声を出して、黒板に、大きく『性』と書いた。

 先生自らサボり推奨の日本史の授業も、このときはひとりも席を立たなかった。

「よしよし! みんな関心が高いな! 先生うれしいな~」

 ぱんぱんと両手をはらってチョークの粉を落とす。彼は映画の中のアメリカ人みたいに、すべてのしぐさが何か大仰だった。

「まず、大切なこと、第一!! セックスはするな!! 妊娠して、死ぬ!!」

 ……聞くほどのことはないようだ。何人かの生徒が椅子を蹴って、さっさと保健室かどこかに向かった。

「次に、第二!! ペッティングもするな!! 性病に感染してぇ、死ぬ!!」

 真実先生の語り口はなぜかうきうきしていて、見開かれた双眸がランランと光り輝いていた。

「第三!! とにかく、セックスはするな!! ジェイソンに襲われて……殺されるーッ!!」

 最後のほうは、ほとんど全身を使って発された絶叫だった。この階の全クラスすべてにひびきわたったに違いない。

 また、五セットこれを繰り返すのかな、と思った。

 二時限目。となりのクラスから聞こえてきた。

「……殺されるーッ!!」

 やっぱりか……。

 三時限目。

「殺されるーッ!!」

 四時限目。

「殺されるーッ!!」

 昼休み。

「殺されるーッ!!」

 ん? いまのは何でだ?

 五時限目。

「こ~ろ~さ~れ~る~~~~ゥ!!」

 お疲れ様でした。

 にしても、いったい何者なのか。



 翌朝、登校すると、机の上に、ルーズリーフを二つ折りにしたものが置かれていた。即座にひらく。几帳面そうなきれいな字。

『昼休みに屋上。カギは開いてる。

 ひとりで来ること。他言無用』

 ……他言無用と書いていても、僕は動揺してたまらなくなって、隣の柿崎さんに、

「あの、こういうのが机の上に置いてあったんですけど」

 と、中身を見せてしまった。

 彼女はシャープペンで、そのルーズリーフに、さらさらっと何かを書いた。

「これ、私の電話番号。登録しといて、やばいと思ったら鳴らして。助けに行くわ」

 柿崎さんは、表情もなかった。

「あっ、マジ……ありがと」

「ヤバいと思ったらすぐにね。別に、私の番号じゃなくて、警察に直接かけてもいいと思うけど」

「いや、さすがにそこまではちょっと。だから、助かる」

 とにかく、少しはほっとした。

 呼び出されるようなこと……。

 ……何もしてないつもりだけど。

 柿崎さん、けっこうかわいいから、彼氏とか本当はいて、僕としゃべってるの、怒ったとかだったら、いやだな……。

 柿崎さん……彼氏いないでいてくれ……。

「さあ、昨日のおさらいだァ~」

 真実先生は、きょうも異様に機嫌がよい。

「みんな覚えてるかな? コールアンドレスポンス形式で行くぞ~、セックスすると~?」

 ぽつりぽつりと。

「死ぬ……」

「死ぬ……」

「死ぬ……」

「よーし、まあ上出来でしょ。じゃあ先生、たまには普通の授業でもしちゃおうかな」

 彼は黒板に年号を書きはじめた。なんだ普通のこともできるじゃないかと思って見ていたが、ただ書いているだけなのに、あいかわらず異常なほどニヤニヤしていたり、ときおりプッと吹き出してしのび笑いをしていたり、やはり様子は普通じゃなかった。

 さて、昼休みだ。

 ……なにか得物でも持っていこうかな、と思いつつ、手ぶらで来てしまった。

 屋上へのドアの鍵は、たしかに開いていた。ということは、学校関係者か?

 真実先生? だったら、すごく嫌だ……。

 嫌すぎる……。

 ところが、肝心の屋上には、誰もいない。

 隅から隅まで調べてみても、ひそんでいる者もいない。

 ただ、発見したのは、フェンスぎりぎりに、二つのもの。

 ひとつは、昔ながらの、僕が手にしたこともないような、年代もののカセットテープのレコーダー。

 ひとつは……ゲームの『真・女神転生』の、敵キャラ、ネコマタのフィギュア。

 テープレコーダーは扱ったことはないが、ここで、「録音」ではなく、「再生」ボタンを押せばいいことはわかる。

 押した。

『……あー、南原くん? 聞こえる? 聞こえてるかな? 南原英彦くんかな? どうも、ご足労ありがとう。

 何から話そうかな……あっ、僕の名前は、わけあって明かせないから、名乗れない失礼をお許しください。それでね、何を言いたいかというと、今後、南原くんはこうやって、屋上とか、高いところに呼び出しを食らうかもしれないけど、絶対に応じちゃいけないって忠告。今回で最後だよ。とくに昼間出歩くときは注意して。出歩くなら夜がいい。理由は、これもね、ちょっと詳しく説明できないんだけど。

 隣にあったフィギュア、見てくれた? これ、説明がわかりやすくなるから、買ってみたんだけど。つまりまあ、ネコマタっていうのはさ、長生きした猫が妖力を持って人の姿を持った妖怪みたいなもんでさ。そういうものがこの世にあるって、心の片隅にとどめて、覚えておいてほしいなって思って。

 えっと、あとは、なんだ。でも、追っ手に追い詰められて、どうしてもってときは、上へ逃げろ。窓を確保できたら最高。でも、これは本当にどうしてものときだけど。でも大丈夫! 怖がることないよ。高さはキミの味方だよ。レッツフライハーイ! あ、フライハイしちゃいけないんだった。

 ええと、それから……あとはなんだろ? あと、何かある? ない? ないそうです。じゃあ、以上です。また、近い将来、会いましょう』

 声は、そこで終わっていた。

 まったく、意味がわからなかった。

 僕はレコーダーとフィギュアを持って、教室に戻ってきた。

「どうだった?」

 柿崎さんは、ひとりでお弁当を食べていた。だれに臆することもなく。

「んー。なんか、フィギュアくれた」

「よかったじゃん。かわいいから」

「うん……かわいい」

 追っ手だって? こいつは、追っ手と言った。なぜ、だれに、僕が追われる必要がある。どうにも、手のこんだいたずらにしか思えない。声は、真実先生のものとは違う。しかし、横にだれかいたような話しぶりをした。真実先生か、もしくは彼なみに頭のおかしい男とぐるになって、僕をからかおうとしている可能性がある。

 しかし、少しひっかかる。

『つまりまあ、ネコマタっていうのはさ、長生きした猫が妖力を持って人の姿を持った妖怪みたいなもんでさ。そういうものがこの世にあるって、心の片隅にとどめて、覚えておいてほしいなって思って』

 これはどういう意味だろう?

 僕は半人半獣のフィギュアを手にとって見つめた。お前は追われているなんておどかして遊ぶだけなら、こんなことは言わないはずだ。

 あ! 考えていたら、昼休みが終わりそうだ。お弁当早く食べないと……。

 そんな感じで、奇妙なメッセージへの恐怖は、日常が押し流してしまった。

「あ、英くん、おかえり」

 自室のベッドに寝転がりながら、姉、かなえ。この人も、何も変わらない。

「ねえ英くん、お姉ちゃんの肩揉んで~」

「……ちょっとだけなら」

 彼女は長い髪をかきあげ、体の前面に置いた。

 ベッドに座った姉の肩に、ぐいぐい指を押し込む。揉むというより指圧に近く、そうしないと満足しないほど姉は肩がこっている。肩だけ、激硬い。他の部分はやわらかいんだけど。

 胸が大きいからこるのだ、と本人はいつも言っている。

 僕は、いつも本を読んだりパソコンとケータイばっかりしてるからじゃないかな、と思っていた。胸が大きいのは事実だけど。

「ありがと。お礼に、ライブおごってあげる。一緒にいこ」

「ああ……前々から言ってる」

「うん。インディーズで、ハコは小さいから人も少なくて、快適だよ」

 僕は、たった一つだけ上なのに、ライブなんていうものに行きなれてる姉が、みょうに大人っぽく思えたりした。

 繰り返すが、僕はクラスになじめず休みがちで、家で姉のお下がりの本ばかり読んだり、ゲオの五十円の旧作のDVDばっかり観てた男だ。村上春樹や、バラードみたいな文系SFなんか読んで、こんなものなら僕にも書けるとちょっとパソコンに向かったり、向かわなかったりしてる男だ。

 そして、クラスに、ということは社会になじめず、いままでずっと、疎外感を覚えてきた。

 だから、姉がここ最近、なにやら音楽のライブに行きはじめたらしいと聞いて、ちょっとショックを受けてるのは普通だと思う。

 お前はそっち側の人間だったのかよ! みたいな。社会に適応しちゃってんのかよ! 的な。

「そのライブってさあ……ジャンルは何?」

「え?」

「ジャンル。音楽のジャンル。いろいろあるでしょ。ロックとかポップスとか」

「うーん……。なんかひとことでは言えない。見てからのお楽しみ。じゃあ、チケットとっとくから、再来週の金曜の夜、あけといてね」

「いいけど」

「わーい、わーい。じゃあ次、英くんの肩やってあげる」

「いいよ、別に」

 自分の部屋に行って、カバンの中からレコーダーとフィギュアを出して、学習机の上に置いてみる。

 何がライブだ。見知らぬ人間から、忠告のような、脅迫めいたことを言われてる。

 そんな、遊んでる場合じゃないのに……。

 次の日の日本史の時間、真実先生は、めずらしく遅刻せず、憂鬱そうに教壇に立った。

「けっきょくさあ、日本史でも世界史でもそうだが、歴史っていうのは戦勝国の歴史なんだよ」

 これがいきなりの皮切りだった。前置きもあいさつもなかった。

 それがかえって不気味で、僕たちはしんとなった。

「そうでしょ? ナチスのやったことはいま非難されてるけど、それがドイツが戦争に負けたからだよ。日本だってさ、鬼畜米英でイケイケドンドンで、人間宣言来たとたんにこうでしょ。おれはそんなに長生きしてないが、それでも、社会の価値観が一夜にしてひっくり返るのを何度も観てきたよ。諸君らの年齢だったら、ぴんと来るのは、ま、人気だった芸能人が不祥事で、一転して悪者になるあの感じとか言えばいいのかな」

 前の席の男子がふりかえって、聞いてきた。

「人間宣言って何?」

 僕は返事した。

「敗戦」

「何に?」

「……第二次世界大戦」

「あー。あんがと」

「だからおれは諸君らに伝えたい。いま、諸君らを絶対的に支配していると思われるものの権力なんて、テンポラリーなもんだ。あらごめん、アメリカ帰りなんですぐ英語が出ちゃうの。一時的ってことね。こんな狭いとこ卒業すれば、何もかも変わるよ。価値がひっくり返る、オセロみたいにね。すべての価値は相対化できると覚えたまえ。ソータイカってわかるかな? 相対というのは、絶対の反対。必ず反対の見方ができるってこと」

 僕は、ドラマや漫画じゃなく現実に「たまえ」と発音した人を、はじめて見た。

 そして真実先生の、テノール歌手みたいに腹から発音され、教室じゅうにびんびんひびく声だったら、なんとも妙にさまになっていたのだった。

「自分の中のすべての価値を相対化して、しかしそれでもなお、信じたいものがあったら、それを大切にして生きていけ。親がうるさくても、クラスの人間関係がきつくても、今だけだ。今だけなんだよ。おれは諸君らがうらやましい。人間は自由だよ。鳥なんかよりもずっとさ」

 僕はふと柿崎さんを見た。演説する真実先生を、いつものように短時間で、みごとにスケッチしていた。

 いつもひとりでお弁当を食べている柿崎さんは、いまの話は、どう受け止めたのか。

 そして、やはり、幼稚園児からぼんやりとした疎外感をおぼえつづけ、友達をうまく作れず、いまでも、じつの話、保健室で弁当を食べている僕は?

「ん~っ、なんかマジな話しちゃうと肩こるね……。ガラじゃないわ~。じゃあ運動ついでに、先生の、千の特技のうちのひとつ、見る? 先生さ、バック転ができるんだよね」

 と、彼はスーツの上を脱ぎはじめ、教壇を押して脇によけた。

 本当に、きれいなフォームでバック転していた。着地のとき、少しもよろけなかった。

 自然に、拍手が沸き起こった。これで、だいぶクラスになじんできている。

 先生もうれしそうで、側転で応えていた。もうむちゃくちゃだった。おまけに、拳を握りしめて、

「諸君の愛してくれたガルマ・ザビは死んだ~ッ!! 何故だ~ッ!!」

 と絶叫した。

「……坊やだからさ」

「坊やだからさ」

「坊やだからさ」

 ポツンポツンと、応えてしまう生徒があらわれて、先生は手を叩いて喜んだ。

「よし、じゃあ先生の千の特技のうちのひとつ! 逆から文字が書ける! しかも両手同時に!」

 彼は両手にチョークを持って、本当に文末から、しかも同時に、

『宇宙世紀〇〇六八 ジオン公国宣言』

『二〇〇一年 宇宙の旅』

 と書いていた。

「どうした~? 先生の特技、まだあと九百九十個はあるぞー。これくらいでビビってたらキリないよ。おっと、中には高校生には見せられないものもあるけどね。女子生徒は卒業してから個人的に会いに来なさい」

「失礼しまーす。宅配お持ちしました」

 またピザか!

「待ってました、どうもどうも。あっ、先生ね、逆立ちしながらコーラを飲めるって特技があるから、まあちょっとこのあと見てて」

 まさか、そのために?!

 ……僕は思った。となりに座っている女の子より、よっぽどコイツのほうが宇宙人だった。

 二時限め。

 となりのクラスから、絶叫が聞こえてきた。

「諸君の愛してくれたガルマ・ザビは死んだ~ッ!! 何故だ~ッ!!」

 以下略。



 2 ミュージシャンと僕



 しかし。

 あくる日、日本史の授業にやってきたのは、なんの変哲もない、まじめそうな中年男性教師だった。

 ……真実先生なりのギャグもついに極まったか、と思いきや、彼は、

「きょうから高岡先生に代わって、日本史の授業をやります」

 と、自己紹介をした。

 高岡?

 あいつ、本名、そんな名前だったんだ……。

 いや、そこじゃない。なぜ真実一郎先生あらため、高岡先生は姿を消したのか?

「なんか、教員免許持ってなかったんだって」

 と、柿崎さんがそっと耳打ちしてきた。

「え?! ……ニセ教師だったってこと」

「お母さんが言ってた。学校の恥だから、表ざたにはしないけど、依願退職したってことにするんだって。教員免許、偽造だったらしいよ」

 ……そんな話がありえるのか? 大の大人たちが、なんの経験もない教師をまんまともぐりこませるなんて……。

 しかも、あんなに、あやしさ大爆発の男を……。

 いや、そこが盲点だったのかもしれない。高岡はあまりにおかしい人間だったが、教師というのはもともと、ちょっと変な人間が多い。

 僕も、少しは、コイツ本当に教師なのかとうたがったことはあるが、あそこまでどうどうと教壇に立たれると、なかなか本気でうたがわないものだ。

 人間心理として、ウソでもどうどうと自信を持って言われると、なんとなく信じてしまう、というのがある。

 でも……。

「でも、何のために?」

 僕は柿崎さんに耳打ちしかえした。距離をつめた瞬間、シャンプーの匂いがして、少しドキドキした。

 彼女はあきらめたように首をふった。

 そんなの知るか、ってわけだ。

「そこ! 私語しない!」

 先生の雷がさっそく落ちた。高岡なら絶対に言わなかった言葉だ。いつでも、どんなときも。

 ……でも、マジで本当、何のためだよ……。

 ふと思い出す。

 テープレコーダーとフィギュア。

 違う。あれは高岡の声じゃなかった。

 いや、こう考えてみては? あの声の主が警告していたのが、高岡のことだったら? 高岡が僕を狙っていると、レコーダーは伝えたかったのでは?

 それもない。狙うったって、何をどう狙ってるのかすらわからないが、たとえば近づいたり、二人きりになったりする機会はいくらでもあったはずだ。げんに、最初の授業では、柿崎さんを入れて、三人きりになったわけだし……。

 ……あのとき僕を見て、ニヤーッと狂人のように笑った顔。

 忘れがたい。あれは、何だったのか。意味はあるのか、ないのか。

「英くん! きょうはライブだよ! 忘れてないよね!」

 学校から帰ってくると、先に帰宅したかなえが、ベッドの上を服だらけにしていた。

「忘れてないよ。すごい迷ってるね、服」

「うん。だって、ミュージシャンってさ、けっこうステージから、客のこと見てるんだよね。見えてたよって言われたことあるの」

「へえ、会話するんだ」

「うん、物販とかで。だからさあ、やっぱりおしゃれしていかないと失礼だし、前の服装とカブってたりしたら恥ずかしいし」

 彼女はうきうきして、漫画みたいにピョンピョン飛び跳ねた。

 ……完全に恋する乙女だ。

 あーあ、なんかつまんないな。ライブか。あんなもの、ただでかい音出すだけだろう。

 そろそろ暗くなってきたころ、二人で地下鉄に乗って、会場へ。

「すみません。クライ・ベイビーさんで、南原、二枚です」

 と入り口で告げて、姉はお金を払って、ドリンクチケットを受け取っていた。

「はい。ドリンクチケット」

「いまの何? クライ・ベイビーさんでどうたらって」

「ああ、そのバンドの名前でチケットを予約しておくの、そうして、入り口でああいうふうに言って入ったら、そのバンドのチケットノルマに加算されるってこと」

「なるほど」

 つまりかなえがいま、首ったけになってるバンドの名前は、クライ・ベイビーということが、導き出される。ジョン・ウォーターズ監督、ジョニー・デップ主演の映画の名前だ。彼らの音楽はまだわからないが、映画の趣味なら合うかもなと思った。

 ただでかい音出すだけだろ、と思っていたライブだったが、僕の偏見はおおかた、当たっていた。

 五組くらいのバンドが出てくる。僕はインディーズのライブに来たからには、メジャーレーベルではできない、インディーズでしかできない音楽を聴きたいと思っていたが、はっきり言って期待はずれだった。独創性なんか、まるでない。

 ほとんどがギターにかきけされて歌詞は聞き取れないというのも腹が立ったが、かろうじて聞き取れた歌詞も、メジャーなJポップと同じような感じで、だったら自分で作詞作曲する意味なんかあるのか、カラオケで歌を歌うのではだめなのかと思った。

 そもそも、シロウトのライブってもの自体が、金と手間ヒマをかけたカラオケのように思えてきた。金をあげて見てもらうのならいい。だけどなぜそんなものを金を払って見なきゃいけないのか。僕の場合は姉が払ってくれたからいいけど。

 ……思えてきた矢先、いよいよトリ、クライ・ベイビーの出番がはじまろうとしていた。

 すると、いままでどこにいたのかわからないが、長い髪の女の子ばかり、ステージ前に三列ほど、きっちりと並んだ。

「……固定ファン?」

 と、少し離れたところで姉に聞いてみる。

「ああ、そう。なんか、あの子たちは親衛隊みたいな感じで、ヘッドバンギングとかがマジ気合入ってるの」

「混ざっていいんだよ。僕待ってるから、ここで」

「やだよ! ヘドバンなんかしたら、せっかく来てるのにバンドが見えないじゃん」

「確かに……」

「あの子たちははしゃぐのが楽しいだけのガキだよ。音楽もろくに聴いてない。アガりたいだけの子たち。あっ始まるっ」

 幕が上がった。

 こ……

 これがウワサに名高い、ビジュアル系!!

「あの超かっこいいボーカルがねっ、ルージュさん!!」

 姉は絶叫した。

 顔を白塗りし、紫の口紅に紫のアイシャドウのルージュさんは、長い黒髪を女のようにポニーテールにしている。上半身は、黒の革ベストに、大小さまざまな赤い鳥の羽根が、むかって左半分にだけ貼りついていて、下はなぜか黒いハカマ。ぬいつけられた十字架とチェーンがじゃらじゃらと揺れ、裾はこれまたなぜかボロボロ。

 そして、足元は赤いドクターマーチンのハイカットだった。

 デタラメすぎる。けれど、厚化粧はしているものの、たしかに顔がいいということはわかった。

 ギリギリギリとギターが鳴りはじめる。ルージュさんとやらが絶叫しはじめる。

 サビで親衛隊の女の子たちが、一糸乱れぬフォーメーションで、左右ヘドバンをはじめたので、面食らった。こういう人生もあるのだなと思った。

 このバンドのよいところは、ギターの音量がおさえめで、ボーカルも腹から声が出ているので、歌詞が聞き取れたということだ。



  だって僕らはあの地上あの旅館で

  君と枕投げしたかった

  だってほんとはあのときあの遊郭で

  君の小指切りとりたかった


  だって居酒屋ハシゴしたあげく

  立ちしょんしておまわりと追いかけっこ

  月とコンビニの光たよりに

  貴様のお部屋に突撃ネリチャギ


  鳥より人間のが自由だよね、飛ぶ方法何種類もある

  生きる種類だって死ぬ種類だって

  セックスもあらまあ四十八手


  お前の帰りを待って死んだふり

  本気でびびられハイ! 大成功

  そのまま血糊にカビ生えるに八千代に

  二人いっしょにぶったおれながら

  ただ、ただ、時が過ぎゆくのを待った

  ただ、ただ、時が過ぎゆくのを


  だってお前に俺の女盗られて

  家に鉄球ぶちこむなどしたい

  だって君のワレメにポンするために

  布団の闇、大冒険したかった


  だって僕らはあの地上あの旅館で

  君と枕投げしたかった

  だってほんとはあのときあの遊郭で

  君の小指切りとりたかった


  だってあの夜あの窓つきやぶり

  君の涙にキスしたかった

  あの夜 あの夜 あの夜あの夜に

  君の体をあたためたかった

  あの夜 あの夜 あの夜あの夜に

  あの夜 あの夜 あの夜あの夜に



「ありがとうございました。クライ・ベイビーでした」

 ルージュさんは無愛想に挨拶した。

「あー、きょうもすごかった……」

 かなえは、完全に目がハートマークになっていた。

 幕が下りていく。そのとき、ハケようとしていたルージュさんの足が止まった。

 僕を見たのだ。僕たちは目が合ったまま、動きが止まった。

 錯覚なんかじゃない。後ろに何かあるわけでもない。

 ルージュさんには、表情はない。ただ、美しい、大きな二重の目が、僕をとらえていた。

 ……男の僕でもドキドキするんだから、女だったらそりゃ相当だろう。

 ドキドキしてどうする! 相手は、唇をムラサキに塗った男だぞ!

 幕が完全に下りて、ルージュさんの顔をおおいかくした。僕は、ほっとしたような、しかし、もっとあのきれいな顔と相対していたかったような、不思議な気持ちだった。

「ねえ、最後ちょっと、ルージュさん、こっち見てなかった?!」

「錯覚でしょ」

 僕はコーラの残りを飲み干した。

「どうするの? 全部終わったけど帰るの?」

「あ……どうしようかな。物販で、きょうは、何か買っていこうかな」

「そんなに毎回買っていくものあるの?」

「やあ、おつかれさま」

 背後から声をかけられて、僕はびくっと飛び上がった。

 完璧に眉目のととのった、見目うるわしい青年だった。にこにこして、人当たりがよさそうだ。上はTシャツ。

 ただし、下はボロボロのハカマで、髪型は……黒のポニーテールだった。

「……ルージュさん?」

「あ、そうそう。わかってくれた? メイク落としてきたから、わかんないかなって思った」

 にこにこ。

「……化粧、ないほうが、美人ですね」

「うん。それが狙いだから」

 さらりと答える。

「る。ルージュさんさっきはお疲れ様でした! 今回もすごくよかったです!」

 姉の瞳の中に、星空ができていた。

「ああ、どうもありがとう。キミも、いつも物販でありがとうね。ポラくじ、いつも」

「覚えててくれたんですか」

「うん、いつもいっぱい買ってくれるから、もちろんだよ」

「ポラくじって何?」

 と僕。

「ポラロイドが当たるくじだよ」

 と姉。

「……ポラロイド?」

「実はさ、ステージからキミのこと見てたんだけど、なんかオーラあるね。ほかの人とは違うってかんじ」

「えっ」

 ルージュさんは、まっすぐ僕を見て、語りかけた。

「ここじゃなんだから、楽屋ででも詳しい話しない? 飲み物飲む? おごるよ、出演者だと安いから。未成年かな?」

「あっ……はい……未成年です」

「がっ、楽屋に……」

「じゃ、コーラとかでいい?」

「はい」

「コーラね」

 ルージュさんが飲み物を買いにバーカウンターへ行っているあいだ、僕は姉の耳にささやいた。

「冷静になれよ。大人気のバンドなんだろ。そんなバンドのフロントマンが僕らに用事あるわけないよ。なんか悪い話に決まってる。なんかだましたり、サギとかさ。浮かれるなよ。気をひきしめないと操られるぞ」

「うっ、うん。そうだよね。あんなすごい人だもんね」

 姉はまだ理性は残っていたようで、肩を抱いてぽんぽんと叩いてやると、目の焦点がしっかりと戻った。

 よし。あとは、この僕がしっかりしていてやらねば……。

「飲みもん買ったよ。ついてきて」

 と、ルージュさんが微笑む。ああ……。オーラだったら、彼のほうがよっぽどある。顔がすごく小さくて、陳腐な言い方だが、お人形さんのようだ。

 僕たちは楽屋に通され、L字のソファに座らされた。ルージュさんも座って、

「まずは、きょう、来てくれてありがとう」

 と、握手を求められる。握り返すと、両手で手を包まれ、ぎゅっと力をこめられた。またドキドキしてしまった。……やわらかかった。

「それでね、俺たち提案なんだけど、実は前々から、キミみたいな若くてスター性ある男の子が欲しかったんだよね、あ失礼」

 ルージュさんは、ピースをくわえて火をつけた。

「それでさ、楽器って、何か弾ける?」

「……なんにも弾けないです」

「じゃ、これから覚えるのでいいや。実はさ、うち、ベースが実家に帰っちゃうんで、オーディションで募集してるけどいいのがなかなかないんだ。でもキミを見た瞬間、ピンと来てさ。楽器はこっちで責任もって、二ヶ月三ヶ月くらいでモノになるよう仕込んであげるから、うちでやってみない?」

 ……絶対、サギだーーーー!!

 そんな話があるわけないだろ。僕にはオーラもスター性もない。そんなものがあるといわれたこともない。

 なのに、突然、人気バンドのベース?!

 ベースの人って、どんな格好してたっけ?!

 たしか、やっぱり突拍子もない衣装だった気が……。あんな服を着て、ステージに立って、どうどうとベースを弾けというのか?!

 僕は作家を夢見てる、しがない文系の高校生ですよ。弁当、ひとりで食ってるんすよ。

「あっ……あの、ほんとに僕は……マジで楽器といったら、ピアニカとリコーダー以外指一本触れたこともなく……」

「心配ないない、俺たちは教え方がいいから」

「実を言うと、ライブってものに来たのもきょうがはじめてなんです」

「なんで? 別にそれは関係ないよ。勉強することはこれから覚えていけばいいんだから。ね。カノジョも喜ぶんじゃない、彼氏がクライ・ベイビー入りなんて」

「あのいえ、これは姉です」

「あら失礼。お姉ちゃんも、弟がクライ・ベイビーのベースマンになったら喜ぶよね」

 姉は完全に固まって、ぼんやりと宙を見つめるだけだった。ショックすぎて、感情のブレーカーが落ちたらしい。

「わかった。確かにいきなりステージに立てって言われても困るよね。じゃあさ、スタッフとして働いてもらうってどうかな? 都合のついた時間でいいからさ。簡単な雑用だよ、物販守ってもらったり、ビデオカメラでライブ撮ってもらうとか、荷物持ってもらうとかくらいかな。少ないけどよかったらバイト代も出すよ。それはどう?」

「それは……」

 簡単だと言ってるけど、そっちはそっちで、なんだかんだで大変そうだ。

「……それくらいなら、いいんじゃない?」

「姉ちゃん!」

 うわ、びっくりした。生き返った。

「そうそう。そういうことしてるうちに俺らのバンドのこともわかってきて、楽器やってみたいって思えるようになるかもしれないしさ。どーう?」

 ルージュさんには、中性的な美しさがあった。ギリシャ彫刻のようなというたとえがよくあるが、それよりも、女神像の顔つきによく似ていた。鼻すじがとおっていて、二つの瞳は迷いというものがなく、まっすぐ人を見すえる……。まずいことに、思わずイエスと言ってしまいそうな魔力がある。

「もっと、よく考えたいかな?」

 彼はポニーテールをはずして、長髪をさらりと揺らして風をつくった。……超、いい匂いだった。

「そ……そうですね。ちょっと、いまはまだ考えられないです」

「そっか。こっちも、しつこくしてごめんね。そうだ、名前は?」

「南原英彦です」

「南原英彦くんね。じゃあ、おわびに今後、その名前受付で言ってくれたら、タダで入れるようにしとくよ。都合があえばこれからも見に来てくれたらうれしいな。物販でも話しかけてよ、気軽にさ。打ち上げにも、来てくれたらうれしいし」

 えっ……あれっ……なんか、いい人?

「出口まで送るよ」

 ルージュさんは、まだにこにこしていた。

 それを不気味と思わなかったかと言えばうそだが、僕はすっかりルージュさんの輝く瞳とあたたかいおもてなしの力で、ふわふわと夢見ごこちになってしまっていた。

「……すごい話になっちゃったね」

 と、地下鉄までの道すがら、僕。

「現実じゃないみたい」

 かなえも、まだボンヤリしていた。

「……ごめんね。断っちゃって」

「え? なんで、ごめんねって」

「弟がクライ・ベイビーのメンバーにならなくて」

「ああ……そんなのいいよ。っていうか英くん、そんなのガラじゃないよ。無理だよ。つとまんない。ダメダメ」

 そういわれて、僕はどこか安心していた。

「だよね。ルージュさんの買いかぶりだよね」

「うん……英彦、顔はかわいいから、人気出るんじゃないかなって思ったのはわかるけど。でも英くんはさあ……クライ・ベイビー、聴いてみてどう?」

「えっ。ああ。悪くないって思ったけど」

「悪くない」

「うん……正直よく歌詞とか聞き取れなかったけど、最後のやつは、よかった。あの、だって、だってだって~ってやつ」

「ああ、『鳥類のキビス』ね」

「きびす?」

「うん。きびすっていうのは、かかとのこと」

「そんなこと知ってるよ。バカにすんなよ。なんでそんなのがタイトルなのかってこと」

「貴様のお部屋に突撃ネリチャギって歌詞があったじゃん」

「うん」

「ネリチャギはわかる?」

「わからない」

「韓国語で、かかと落とし」

「そうなんだ。……そういえばルージュさん、間奏ですごいジャンプしてたけど、あれのことだったのか」

「すんごい足上がってたよね」

「そう! 体柔らかい……だから僕、楽屋連行されるとき怖かったんだよ。あんな身体能力ある人には、絶対勝てないと思ったから」

「たしかに」

「十回くらい……生まれ変わっても……いや十回生まれ変わったらさすがにどうにかなるかな」

「人生八十年として、八百年」

「ああ、そう考えるとちょっと勝てそうだな。八百年あったら。でも人生八十年ってウソだよね」

「そう。あした死んでるかもしれない」

「人生四十年かもしれないし……人生二百年かもしれない」

「それはない」

「それでさあ、鳥類のキビスって、鳥類っていうのはなんなの? タイトル」

「ああそれは、歌詞に、鳥より人間のが自由だよね~ってあったから、それじゃない?」

 ん?

 同じような言葉を、少し前、別の人物の口から聞いた気がする。

 そして。

 しばらくたった日、僕がクライ・ベイビーにスカウトされる以上の大事件が、南原家に起こったのだった。



 ある日、家に帰ってくると、姉の部屋の戸がしまっていた。

 僕よりはるかに近い高校に通っている姉は、いつも先に帰っていて、戸をあけっぱなしにして、部屋で思い思いにくつろいでいる。変だなと思って、

「姉ちゃん。帰ってきたよ」

 と、ノックしてから、戸を開ける。

「はぷっ」

 と、かなえの息を呑む音が聞こえた。

 そして、遠くない過去に嗅いだことのある、超いい匂いが、鼻腔をくすぐった。真っ黒いポニーテールが僕を振り向いた瞬間に、香りを放ったのだ。

 ルージュさんが、床にすわっていた。

 ……何が起きたのか、わからなかった。

「あ、どうも。お邪魔してます」

 ルージュさんは、ニッコリ笑った。

「あ、あのね。変な想像しないでよ」

 ベッドにすわっていたかなえが、飛び出してきた。

「わたしたち、単に、音楽の話、してただけだから。やらしい想像しないでね。ルージュさんなんか、ベッドに近づこうともしないんだから」

「……いや……その、それ以前に、なんで……こんなところに、ルージュさんがここにいるわけ?」

「それは、いろいろあって……」

「うん。こないだ少ししゃべったときに、気になってさ。俺、ひまなときに遊んでよって、俺から頼んだの」

「はあ?! 姉ちゃん、俺、そんな話……」

「ごめん。だって誰にも絶対秘密だって言うから」

「よし、ちょっと男同士の話でもするか、英彦くん」

 ルージュさんは立ち上がって、僕の肩を組み、後ろ手で部屋の戸を閉めた。ルージュさんの二の腕には筋肉がついて、マッチョすぎない程度に盛り上がっていた。

 うちは共働きだから、居間にはだれもいない。妹も部活で遅くまで帰ってこない。

「正直いって、キミのお姉さんのこと、かなりかわいいなって思ってる。でもこう見えて紳士なのね。高校卒業するまでちゃんと待つ。変なことは一切しないから心配しないで」

「ちゃんと待つって……あっ、相手は高校生ですよ!」

 僕はルージュさんの腕をはらった。

「あ、あ、あなたは何歳なんですか。高校生なんて子供でしょ。そんなの相手に本気になったとか、言うんですか」

「年齢なんか関係ないよ、恋愛には。キミはしたこと、ないの?」

 ルージュさんが下目づかいでニヤッと笑った。僕は、なんだかむしょうに腹が立った。

「それは関係ないでしょう。いい大人が高校生の家に上がりこんで、何やってんのかって話です!」

「何って、話、したり、ゲームやったりだよ。やましいことは何もない。かなえさんが好きなんだよ」

「ありえない……僕がベーシストにスカウトされるくらい、ありえないです」

「ひどい言い草」

 ルージュさんは声をあげて笑った。

「弟だからかえってわからないのかな、お姉さんの魅力。だからさ、ツバつけるような真似はしないから安心してよ。当面の間、清い交際だから」

「でも……でも……やっぱりありえない。いい女なんて、まわりにいっぱいいるんでしょ、あんなに人気あったら」

「でも、同じ女はふたりとしていない」

 彼はまっすぐに僕を見て言った。まただ。また、あの、思わず陥落してしまいそうな、力強さにみなぎったまなざし……。

「……英くん」

 いつのまにか戸があいていて、むこうから、棒立ちのかなえが僕を見つめていた。

「じゃ、次はきょうだいで話し合う時間かな?」

 ルージュさんはきびすを返した。

「かなえさん、きょうはいったん、俺帰るわ。たぶん、話し合いが必要だと思うし」

「えっ……そんな。いいんです、弟なんか。ごめんなさい。いやな思いさせて」

「いいんだよ、こんなこと。わかってたことだし、いつかはこうなるって。また遊びに来ていい?」

「もちろんです!」

「じゃあ、きょうはこのへんで。メールするね」

 かなえは丁重に、ルージュさんを玄関まで送っていった。

 僕は、居間でそれを立ったまま待っていた。

 僕とかなえの目線が交錯した。

「……いつから付き合ってるの?」

「つい最近だよ。さっきもいうけど、ルージュさんね、ベッドに座っていいよって言っても、頑として座んないくらい紳士だったんだからね」

「でもおかしいよ。ルージュさんが……」

「いい女に囲まれてるくせに、わたしなんかを選ぶところがっ?」

 姉は語気を強めた。

 そして、目尻にはじんわりと涙がにじんでいた。

「聞こえてたよ。わたしなんかと付き合うのが、そんなに、そんなにおかしい話に見えるんだ。英彦には」

 僕はあせった。

「そうじゃなくて、ルージュさんは大人なんだし……」

「わたしだって、大人だよ!!」

 かなえは感情を爆発させた。僕は、正直いって、かなりひるんでいた。

「そんなにつりあいとれない? ルージュさんだって、ステージの外ではただの人間なんだよ。恋愛ぐらいするでしょ。そんなにわたしたちって、ありえないカップル? わたしって絶対だまされてるって、英彦、断言できるんだ?」

「そんなことないけど……でも、気をつけてほしいんだよ。お金とか……」

「たしかにあの人、ヒモで食ってるとかパトロンいるとか、いろいろウワサある。でもそれが本当だったら、高校生にたかるほどヒマじゃないでしょ!」

「僕はただ姉ちゃんが心配なだけなんだよ!」

「あんたみたいに閉じこもって本ばっかり読んでる世間知らずに心配されたくない!」

 僕はカッとなって、

「じゃあ、もういい。勝手に利用されろ」

 と、自分の部屋に飛び込んだ。

 おかしい……。

 高校に入ってから、おかしいことばかりだ。

 だけど、これは認めざるをえない。

 姉は、美人だ。魅力的だ。物知りで頭もいい。髪もきれいだ。

 スレた女ばっかり相手にしてるバンドマンが、夢中になって、おかしい話かというと……本当は、そんなにおかしくないと思う。

 けれど、姉の手前、虚勢を張り、結果、姉をおとしめるような言い方まで、してしまった。

 あーあーあーあー……。

 でも、謝りたくない。

 ……あんな完璧超人みたいなルージュさんに姉を持っていかれるのを、認めたくなんかない!!

 僕は意地でもごめんねを言わずにいようと決めた。夕食の席でもひとことも会話を交わさなかった。

 なんとなく、僕はネットで、クライ・ベイビーの次のライブを調べた。今週末だった。

 僕の名前を言えば、無料で入れる……。

 それは、本当だろうか。姉をめぐって口げんか(と言うには、相手の対応は大人すぎたが)をしたいまでも……。

 おそらく姉と、はちあわせするだろう。

 それでいい。無視すればいいのだ。

 僕は、自分でもよくわからない気持ちに突き動かされて、ライブ会場の受付で、

「あの、クライ・ベイビーさんの南原英彦で、チケット予約されてますか」

 と、たずねることになった。

「ああ、お話通ってますよ。お入りください。これドリンクチケットになります」

 ……ただでドリンクチケットまでもらってしまった。

 目立たないように会場の隅っこでおとなしくしている。姉はやはり来ていた。少し背伸びした、ギャルっぽい服でおしゃれしている。ほら、さっそく不良に堕落してるんじゃないか、いわんこっちゃない、と僕は思った。

 クライ・ベイビーの出番が来て、幕が上がった。

 ……金のアフロのピエロが、ベースをかかえて、ボンボンベンベン、と奏でていた。

 繰り返すが、ピエロだ。比喩とかじゃない。顔は白塗り、つけ鼻をつけて、ピンクの水玉もようの衣装だった。

「今回は新メンバーをご紹介します。ベーシストのピエロです。よろしくお願いします」

 一応、といった感じの、とまどった拍手。

「ほら」

 と耳元にささやかれて、飛び上がった。

 目をつりあがらせた、かなえだった。いつのまにすりよったのか。

「英彦が加入しないから、こんなことになった」

 そして、さっさと遠くへ歩き去ってしまう。

 僕?

 ……僕のせいなのか?!

「それじゃ、新曲ー。ピエロがさっそく作詞作曲してくれました。聴いてください。『おねがいプレジデント』」



  生まれてきてまずピエロのメイクを

  落とすとこからはじまった

  仕込みのお客に花を差し出したけど

  隣のモガに恋い焦がれてた


  おれの素顔を見る自信ある?

  毎日ちょっとずつ、狂っていってるよ

  さあバナナ頭にかぶって、ゴリラと全力でおいかけっこ

  おれの気持ちなんか、誰にも理解できない

  涙のクラウンだよ


  おれの素顔を見る自信ある?

  さかだちしながらコーラ飲もうぜ

  さあ翼をひろげて、ボロアパートでサルサダンス

  深夜の路上で酔って痴話喧嘩

  舞台裏ですばやくキッス


  おれはアメリカの大統領

  法律だってひん曲げてやるよ

  生まれたときからの宿命さ

  君と手をつないで、あの虹のむこうに行こう


  おれの素顔を見る自信ある?

  おれの素顔を見る自信ある?

  もう自分でも思い出せない

  涙のクラウン 発車オーライ

  メイクが剥げても ショーマストゴーオン



「はい、ピエロの作詞作曲でした」

「次はこのバンドだい」

 とピエロは拳を突き上げ、マイクなしで叫んだ。伸びのある、よく通る声で、何か聞き覚えがあるような気がした。

「はい、ピエロが何か言ってますが、もうねえ……。何年も前からコイツは何か言ってますが、一切無視してます。無視してください。俺はもうコイツは、何百年くらい前から、早くコイツ死んでくれないかな~、死んでくれないかな~って、それを楽しみに生きてますね。俺が殺そうかなって思ったりもしますが、手を汚す価値もないので。そういうわけで次の曲……」

 ルージュさんのMCは立て板に水という感じでペラペラと流暢だった。かまない。人前に出てものをしゃべるのが非常に苦手な自分と引き比べて、あらためて、格の違いを感じる。

 そりゃ、姉も夢中になる。そして、ほんの少しでも、こんな男に好かれたら、女の子は、有頂天になってあたりまえだろう……。

 ライブがハネて、僕はルージュさんにつかまらないうちに、さっさと帰路についた。パソコンの電源を入れて、文書エディタを立ち上げたけれど、小説のつづきは、一行も書けなかった。

「デッサンのモデルになってくれるって話、覚えてる?」

「えっ」

 休み時間に、突然、柿崎さんに言われた。

「そういえば、……そんなこと、言ったね」

「いつなら都合いい?」

「別にいつでもいいよ。僕いつもあいてるから。一生、あいてる」

「じゃあ、きょうは」

「いいよ。きょうでもいい」

 モデルだなんてはじめてだ。興味深い。

 柿崎さんといろいろ話そう。

 最近、思えば、姉やルージュさんのことばっかり考えていた。気分転換、気分転換。忘れなければ。

「まっすぐ、いっしょに帰っていい?」

「うん、いいよ。まっすぐ来ても」

 相手が柿崎さんだからなんとなくスルーしてたけど、女の子の家にひとりで上がりこむというのは、けっこう、すごいイベントなのではないか。

 ……僕みたいに、生意気な弟が出てきて、「姉ちゃんの何だ」とか問い詰められたら、どうしよう。あははは……。ウロボロスの蛇。

 などということを考えて、二人でバスに乗って、ゆられていた。

 ごくふつうの一軒家に、鍵をつかって柿崎さんは入る。小ぎれいな玄関からすぐにある階段を使って、二階へ。そうして、柿崎さんの部屋に通された。

 部屋には水槽があって、まずそれが目をひいた。

「何、飼ってるの?」

「タニシ」

「タニシ」

「うん。タニシ」

 ……そうか。タニシか。

「あの、卵がショッキングピンク色の……」

「それはジャンボタニシ。スクミリンゴガイっていって、別の種類」

「……そうなんだ」

「エアコン、寒くない?」

「え? あ、はい。ちょうどいいです」

 机のわきに、二人して、鞄を置く。

「服脱ぐとき、向こうむいてたほうがいい?」

「えっ?」

「南原くんが服脱ぐとき、向こうむいてたほうがいい?」

「……服」

「ああ、あの」

 柿崎さんはやっと気づいたように、頭のうしろを掻いた。

「私、デッサンって言ったら、裸体デッサンのこと、指してたんだけど」

 あ!

「……そっか。そうだよね」

「うん」

「じゃあ、ぜ、全裸?」

「できれば。でも、恥ずかしかったらパンツはいててもいいけど」

「い、いや。よく確認しなかった僕が悪いんだし。別に恥ずかしくないよ。全部脱ぐよ」

「だいじょうぶ?」

「だいじょうぶ! ぜんぜん!」

 なぜか僕は意地を張っていた。ここに来てヒヨって、恥ずかしがったら、そっちのほうが恥ずかしい、と思ったからだ。

 ……というわけで、はじめて入れてもらった女の子の部屋で、全裸になることになってしまった。

 ルージュさん……二の腕ひきしまってたな。鍛えてるんだろうな。腹筋とかも割れてるんだろうな……。

 いや、ルージュさんと自分を比べるのはやめよう!! あの人は完璧超人なんだから、人間じゃないんだから。

「いいよ」

 僕はなるべく自分がどういう体つきをしているかを意識の外に、外にと追いやって、柿崎さんに声をかけた。

 そうして僕らはともに部屋の床にすわった。僕はさまざまに適当なポーズを取り、柿崎さんはすばやくクロッキー帳(というらしい。教えてもらった)にデッサンしていった。

 僕の下半身は石だ、石だ、少しも動かない、と念じていたが、ちょっとは反応していたと思う。柿崎さんは、眉ひとつ動かさなかった。

「柿崎さんは、将来、画家とかを目指してるの」

 気分をまぎらわそうと、僕は沈黙をやぶって話しかけてみた。

「うん……一応、漫画描いてるから、漫画家かな……」

「そうなの? すごいじゃん。漫画家、なれるよ、柿崎さんの画力だったら」

「でも画力があるからデビューできるって世界でもないし……」

「でも、柿崎さんの年でそこまで描けるって人、なかなかいないよ」

「ときどき、時間が止まんないかなって思う」

「え?」

「私は永遠に高校一年生のままでいられないかなって。そしたら、高一のわりには絵が上手いって、永遠にほめられるから」

 彼女はあいかわらず無表情でえんぴつをうごかしていた。

「そんな……年とったぶん、上手くなってければいいじゃない」

「でも限度があるでしょ。年、とればとるほどライバルが増える。出版社は若い漫画家ほど、将来性を見込んで採用したがる。……私、本当に年をとりたくない」

「……吸血鬼みたいに?」

「吸血鬼みたいに。特別になれるなら死んでもいい。吸血鬼になってもいい」

 僕は何も言い返せなかった。

 帰りのバスのなかで、僕は柿崎さんの言葉を反芻した。

 特別になれるなら死んでもいい。

 あの、とるにたらない、カラオケレベルのインディーズのバンドたち。

 この街は、特別になれるなら死ねる人間たちで、ぎゅうぎゅうにひしめいている、と僕は思った。

 


 3 ピエロと僕



 ものすごく変な教師。

 テープレコーダーの謎めいたメッセージとフィギュア。

 人気バンドの、急な接近。

 このように、僕の周囲にはたてつづけに不可解な出来事がふってわいている。

 しかし、これらすべてをあわせたのと匹敵することが、きょう、起こった。

 ピエロに尾行されている。

 いや、僕の気は狂っていない。

 信じてください。

 本当にピエロに尾行されたのだ。

 バスを降りて、家路につくところだった。僕は歩きながら、何か妙な視線を感じて、なにげなく振り返った。

 金髪のアフロのピエロが、塀のかげからこちらをのぞいていた。

 そして、サッと身を隠す。

 ……あわてて身を隠されようが何をしようが、この目で見た。ピエロはピエロだ。かつらをかぶって、顔を白く塗り、ピンクの服を着たピエロだ。

 僕は、もういちど正面を向いて、歩き出した。奇妙なことだが、人はこういうときですら、自分の信じたいことだけを信じる。つまり、単なる見間違いだ、と自分に信じ込ませようとするのだ。

 しばらく歩く。

 ……また振り返ってみる。

 いる。

 サッと隠れる。

 ピエロが、いる!!

 僕はさすがに全身が恐怖にふるえ、全速力を出して、走って帰った。

 すぐさま、自室に閉じこもる。

 どうしていいのか。

 ……どうしていいのかじゃない。ピエロに尾行されて、何していいかなんて、普通に生きてるたいていの人間はわからない!!

 文明社会に生まれ育った人間には、ピエロへの根源的な恐怖というのがあると思う。

 まず、メイクで何を考えているのかわからない顔になっているし、あのクネクネした動きも不気味だ。僕の街の最寄りのマクドナルドには、屋外にベンチが設置されていて、イメージキャラクターのドナルド・マクドナルドの人形がベンチにすわる形で設置されていて、小さい頃の僕は、そこの前を通りがかるたびに、泣き叫んでいたそうだ。

 わかる、わかるよ気持ち、幼き僕よ。

 そして、スティーブン・キングの小説を原作にした、ドラマ『IT』のペニーワイズ。

 ペニーワイズは怖すぎる。もうなんでなの、なんでなのってくらいどこまでもどこまでも追っかけてくるピエロだ。僕は、今回の件で、『IT』しか連想しなかった。

 せめてもの救いがあるなら、あのピエロに見覚えがあるということだろう。

 クライ・ベイビーの、新ベーシスト。

 あれのピエロの姿かたちが、さっき僕を付け狙っていたのとそっくりだった。

 しかし、クライ・ベイビーのベーシストがなぜ、白昼堂々ピエロの扮装で僕を追いかけるのかはもちろんわからない。ひょっとして、純粋な生まれついてのピエロ(つまり妖怪に近い、それこそペニーワイズ的な)より、ピエロの格好で出歩く精神異常者に付け狙われているということのほうが、恐怖度は高いかもしれない。現実的だし。

 僕は、ふとあのテープレコーダーの忠告を思い出した。

 昼間、出歩くな。出歩くなら夜がいい。

 理由はわからない。けれど、ひょっとして、これのことだったのか?

 出歩くなっていっても、僕、帰宅部だから、明るいうちに帰ってきちゃうんだよな……。

 ちなみにうちの高校は、文系の部活といえば、「演劇部」か「吹奏学部」くらいしかない。どっちも練習がキツそうでいやだ。まったりしたい。文芸部みたいなのがあったら僕にとっては最高なんだけど、一地方都市の、すべりどめ高校には、そんなものはない。文芸部という文化はこの市にはまだ届いていないのだ。

 僕はうーんと考えた末、とりあえず、部活に精を出している妹を待った。

 妹は、バレー部だ。

 バレー部だってさ。完全に社会に適応していて、いいじゃないか、いいじゃないか、僕はそっち側の人間じゃないけど、と、いつも思う。

 完全に暗くなったとき、妹が帰宅した。名前は、南原蘭。部屋にいったん戻ったところに、

「蘭、ちょっと、話があるから、お兄ちゃんの部屋来てくれない?」

 と、ドアの外から頼んだ。

 蘭は着替えをすませ、僕が小学生のとき誕生日プレゼントであげたキティちゃんのシュシュで、肩までの髪をまとめていた。

「あのさあ……」

 妹は、遠慮会釈もなしに、僕のベッドにすわる。

「なに?」

「すごい、突拍子もない話かと思われるかもしれないんだけど」

「だから、なに」

「これ。テープレコーダー」

 僕は蘭に、例のやつを見せた。彼女は目を丸くした。

「うそ。これってカセットテープ? はじめて見た」

「うん。これ、お兄ちゃんの机のいちばん上のひきだしに入れとく。だからさ、もし今後、お兄ちゃんの身に何かあったら、これを警察に提出してほしいんだ」

「はあ?」

 案の定、笑い飛ばされる。

「小説の世界みたい。何それ。何ごっこ?」

 あーあ……。

 だから、ほんとは、姉のかなえに頼みたかったんだ。姉なら、何も言わず、了承してくれただろう。

 でも、まだケンカ状態で、あれから口もきいてない。とてもこんなことは頼めないし、こっちから折れたくない。あの件に関しては、僕は絶対間違ってないんだから。

「いまはそう思ってていいよ。とにかく思い出してくれるだけでいい。いいか、ここだからね、入れとくからね」

「それ、何が録音されてるの」

「えっ。そんなの秘密だよ」

 他言無用といわれたのに、すでに柿崎さんにも、呼び出されたことだけだが、しゃべってしまっている。これ以上広めたら、もっと危険な気がする。

「いいじゃん。誰にも言わないから。それに、中身聞いたら納得して、おとなしく言うこときくかもよ」

「聞かなくても、言うこと聞けよ、お兄ちゃんが真剣に頼んでんだからよ」

「あーあ、そんな乱暴な口調でいいの、人にもの頼む側でしょ」

 妹はやすやすと僕の手からレコーダーを奪い取り、少し考えて、「再生」ボタンを押した。

「何も聞こえない」

「巻き戻してないからだよ」

 僕は奪い返して、冒頭までチュルチュルとカセットを巻き戻してやって、もう一度、「再生」ボタンを押した。

 あーあーあ……。いいのかな。こんなに盛大にバラしちゃって。

 再生が終わった。

「意味わかんない」

 と妹が一蹴した。

「高いところに行くなって言ったり、行けって言ったり。最初と最後で矛盾してる」

「そうだよね」

「フィギュアって何?」

「これ」

「ああ、これか、メガテンのネコマタね」

「そう。アドバンスでやったよね」

「くれたの? いい人じゃん」

「……そうだね」

「心当たり、ないの? この人が誰か」

「……ないっちゃないし、あるっちゃあるような、よくわからない」

「お兄ちゃんが死んだら、これを警察に渡せばいいんだね」

「そういうこと。頼んだよ。頼りにしてるから」

「わかった。なんか楽しくなってきた。ミステリーのドラマみたいだね。あー楽しみ、お兄ちゃん早く死なないかな」

 と、妹は能天気に部屋を出ていった。

 ……まあ、そんなお気楽な、能天気な話で済めば、何よりなんだよなぁ……。

 翌日。朝の登校時間も、下校時間も、僕はなるべく人通りの多いところを歩き、キョロキョロしながら歩いたが、ピエロは出現しなかった。

 だが、気のせいかもしれないが、妙に何か、視線を感じるというか、見張られているような感覚が、すごくする。

 僕の神経過敏かもしれないが。

 塀のかげに隠れて僕を見ていた、あのピエロの、何を考えているのかわからない視線が、忘れられない。

 その夜、僕は夢を見た。

 無数のピエロが僕の部屋に、わらわらと侵入してきて、我先にと、手をのばしてきたのだ。

 汗びっしょりになって、深夜、目を覚ました。

 トイレに行きたかったが、そんな勇気はなかった。

 暗闇にひたすら怯えながら、朝が来た。

 幸いにして、解決法といえるようなものが存在する、と思った。

 あのライブに、また、乗り込む。

 そして、あのベーシストのピエロに、直接ナシをつけるのだ。同一人物であることは、間違いがないのだから。

 はっきり言って、怖い。

 だが、逃げ回っていると、いつまでも怖い。

 どこかで、区切りをつけなければ。

 ネットで、ライブ情報を調べてみた。

 今週末だった。

 ……多いな、ライブ。

「クライ・ベイビーさんの南原英彦です」

「南原さんですね。お話通ってます。こちらドリンクチケットになります」

 また、ただでもらえた。

 今回も、クライ・ベイビーはトリだった。音楽にうとい自分でも、人気バンドがトリをつとめることくらいわかる。幕が上がる前、例の親衛隊が、三列のフォーメーションをつくる。

 そして、サビで気合の入ったヘドバン。

 すべてが以前と同じだ。そして僕はこの目でしっかり確認した。ノリノリでベースを弾きこなすこのピエロは、あの日、塀のかげにサッと隠れたあのピエロとまったく同じ服だ、ということを……。

 音楽が終わり、幕が下がる。

 なんとか、理由をつけて楽屋に入らなければ……。ルージュさんが出てきてくれれば、シャクだが、話が早いのだが……

 というようなことを考えながら、とりあえず使ってなかったドリンクチケットを、もったいないから使おうと、バーカウンターに持っていくと、

「いらっしゃいませ。なんになさいますか」

 ピエロが揉み手をしていた。

「ヒイッ!!」

 思わず、声があがった。

「あ、どうも、おれ、ふだんここで飲み物係もやってるもんで。なんでもどうぞ。未成年なんだっけ? コーラか、ジンジャーエールかな」

「…………ジンジャーエール」

「ジンジャーエールね」

 ピエロは手早くジンジャーエールを作って、僕に手渡してくれた。そして、

「ふー、あっちーな」

 と、アフロのかつらをとった。

 アニメキャラみたいなピンク色の髪だった。

 ……かつらなしでいいじゃん、と僕は思った。

「おっと、英彦くん、来てくれたんだね。ステージから見えてたよー」

 振り向くと、……ルージュさん。来た。二番目に怖い人物。

「感激だな、あんなケンカしたからさ、それでもまだ聴きに来てくれるって」

 にこにこ。

「……いえ、その……あ……きょうは姉は……」

「ああ、かなえさんはきょうは来てないよ」

「ステージから見えるんですか」

「まあね。あと物販にもいないみたいだし。ねえ英彦くん、これから俺らの打ち上げについてこない?」

「打ち上げ」

「そう、対バンした奴らみんなで飲み会するの。もちろん未成年だから、無理には絶対飲ませないし、お金の心配もいらないから」

「えっ……いや……僕はきょうは……」

「なんか用事あるの? あした休みだよね、学校」

「いえ、そうじゃなくて……」

 そもそもの目的は、ピエロとナシをつける……。

 あ、いや。打ち上げに行ったら、そこにいるのか。ピエロ。じゃあ、機会はできるということだ。

「……すいません。それじゃあ、ついていってもいいですか」

「来てくれるの?! 本当?! うれしいなぁ~。じゃあ、後片付けするからちょっと待っててね、会場、ここのすぐ上の居酒屋だからさ、いっしょに行こ。ここで待ってて」

 というわけで、高校生にして、人生ではじめて、居酒屋というところに足を踏み入れることになってしまった……。

 人数は二十人ほどになったので、奥の宴会席に通された。飲み物を、コーラなんかを頼むのは恥ずかしくて、けっきょく、

「生ビールの人」

 のときに、手をあげてしまった。

「おっ、なんだ、本当はいけるんじゃん」

 と、隣のルージュさんは笑った。

 ピエロを見てみる。ななめ向かいに座っている。ラグランTとジーンズに着替えてタバコを吸っているが、ピエロのメイクをなぜか落としていない。ピンクの髪で白塗りをして普段着というスタイルは、はっきり言って、別の意味で怖い。

 生ビールは、ひとくち飲んだだけで、めまいがした。

 もうひとくち飲んで、僕は、壁によりかかった。

 時間がひどく早くすすんだ。

 ピエロとナシは?

 とてもそんな気力はない。

「英彦くん? 英彦くん、起きてる?」

 体をゆさぶられる。まぶたが重い。ルージュさんのいい匂いがする。

「こっから、ピエロんちで俺らと二次会だよ。ギターとドラムは帰るけど。来るかい?」

「……いま何時ですか」

「三時。どうせ電車もないし、来るしょ?」

「はい……帰れない……」

「やれやれ、一杯でこれか」

 誰かが口をはさむ。この声は、おそらくピエロだ。この芝居がかった大仰な声色……聞いたことがある。どこかで、必ず……。

「よし、おぶされ、聞こえてるか?」

 言われるがままに男の背中におぶってもらうと、それはどうも、ピエロであるらしかった。

 あれ……なんだ、この展開……。

 ナシつけるんじゃなかったの?

 っていうかあんた、僕を狙ってたんじゃないのか?

 疑問に思っているうちに、一軒のボロいアパートについて、鍵もつっこまずに、ルージュさんがドアをあける。

 冷蔵庫とちゃぶ台ぐらいしか家電のない、殺風景な六畳一間だった。

「はい。おつかれさん」

 と、ちゃぶ台の前に寝かされる。

「水いる?」

「あ、はい……」

 水道水をもらって、ごくごく飲む。おいしい。

「もう一杯……」

「はいはい。世話が焼ける」

「かわいいじゃないか、子供らしくて」

 と、ルージュさん。

 気がつけば、僕たちは三人きりしかいない。あ! そういえばさっき、ギターとドラムは帰るとか言ってたな……。

 僕はもう一杯水を飲み干して、また、ばったりと倒れふした。

「おっ、ポン酒なんかあるじゃん。グッジョブ」

 と、冷蔵庫をあける音がしたのちの、ルージュさん。

「おれはビールでいいよ」

 缶ビールをあける音が聞こえる。カチ、カチ、と二つの音。これはたぶん、ライターでタバコに火をつけた音。

「おれさあ、さっきはみんながいたから言えなかったけど、黙ってたことがあって」

 とピエロ。

「何だよ」

「こないだお前にまわした女でさ、まりかちゃんっていたじゃん」

「うん」

「あのちょっと情緒不安定な子」

「ちょっとどころか、あの子病院行ってるよ」

「マジ? まあいいや、そのまりかちゃんとさ、お前にやる前に一回デートしたんだけど」

「うん」

「本屋さんに行ったとき、たまたま、ほらあの、写真家のニ●●●●●の写真集が平積みされてて、あれだよ、父親が芝居のニ●●●●●●で有名な」

「灰皿飛ばしてくる」

「そう、灰皿飛ぶおやじな。それでまりかちゃん、私、この女大嫌い、ニ●●●●●って大嫌いって言うのさ」

「うん」

「おれはそのへんのサブカル娘がニ●●●が嫌いって言ってるレベルで言ってるのかなって思って、そうなんだーとか相槌打ってたら、まりかちゃん、『私、ニ●●●●●に探偵、つけられたことあるんだよね』って言い出して」

「ええええ?」

「ええええ? でしょ。あの子しゃべっててもさ、虚言癖とかあるタイプのメンヘラじゃないでしょ、驚いたけど、なんかね、当時つきあってた彼氏の元カノだったんだって」

「ハッハッハッハ。彼氏が何モンだよ」

「でね、なんか、彼女のおなかに、もう子供がいたらしくて、彼女ってニ●●●ね」

「えーーーーっ」

「それで話がこじれにこじれて、最後は父親まで出てきて、大変だったよーとか言ってて」

「父親って、ユ●●?!」

「そう、びびるでしょ。ユ●●?! 灰皿、飛んできた?! むしろ灰皿に乗ってやってきた?! 灰皿、飛んできたの、かわしたの?! って頭いっぱいになっちゃって、なんか、『そうなんだー、大変だったねー』みたいな普通の相槌しか打てなくて。ほらおれそもそもさ、芸能人とか有名人の知り合いだとかいう話に、スゴイスゴーイって食いつくのイナカモンみたいだからやだから、そういうプライドが邪魔して、もっとすっごい追及したいところをできなくて、それで話は終わったんだよ」

「ニ●●●●●って、本当にメンヘラだったんだ。ファッションメンヘラじゃなくて」

「ファッションメンヘラってなんだよ」

「え、でもほらビジネスメンヘラっているじゃん。ホンモノじゃないやつ。椎名林檎みたいな……」

「てめえっ! おれの椎名林檎ちゃんをバカにするのかよ!!」

「いや馬鹿にしてないけど、あの人は健康体でしょ。病気じゃないでしょ本人は。戸川純みたく首切って自殺未遂とかしてくれれば、ああ、ホンモノだったんだーって信じられるけど」

「戸川純は、ファッションじゃないな。完全にガチだな。血で文字書くし」

「皆恨む」

「皆恨む」

「ねえ、鳥居みゆきってどう思う? あの人ってファッション? ガチ?」

 とルージュさん。

「んー……。ファッション、と見せかけてガチ、と見せかけてファッションだな」

「あははは」

「どっちにしても抱きたいんだろ、お前は」

「抱きたいよねー、鳥居みゆき」

「いやー、しかしまりかちゃんと二●●●が対決してたとはなって話だよね……。メンヘラ対メンヘラだよね。つうか、メンヘラってメンヘラを呼ぶよね」

「間違いねえわ。最近いないの? いい物件、メンヘラちゃんの」

「ないねえ。……あれうけたな、何ちゃんだっけ? 姫カットの……。おれが紹介したその日に、お前、顔見ただけで、『年内に自己破産させる。いけるわ』って、賭けつうか宣言したよね」

 僕は遠のく意識で、しっかり話をきいていた。そしてそのまま、気絶しているふりをした。

「うん。あの子すごかった。境界例(境界例人格障害)の女王みたいな子で」

「最初おれとデートしてたけど、そんときもすごかったよ、異様に嫉妬深くて。ちょっとおれがよそ見したら、『あの女のこと見てた?』で、映画のポスターなんか見てたら『あの女優が好きなの?』で、しまいには、『あの女、あんたのこと見てた。文句言ってやる』って、本当に文句言いに行ってたんだよ!!」

「知ってる。そういうタイプほど、相手の望む言動してたらすごい尽くしてくれて、操りやすいから都合いいんだよ。その子、すごかったよ、家に来たらさ、即尺で抜いてくれて、始末も全部やってくれて、俺がそのまま疲れて寝たら、次の日の朝、上から下まで着替えが全部済んでんの」

「そうだよ、それで、けっきょくどうなったっけ? 宣言……」

「年内どころか、ハロウィン前にさせたよ」

「あっ! あぁーっ! あの年のハロウィンパーティー、やけに盛大だったと思ったら、おン前、あの子の金」

「まあ、そんな感じ」

「はー、お前は悪い奴だわ」

「お前だってメンヘラ好きじゃん」

「おれの場合は、ちょっと頭おかしい子のほうがおもしろくて好きなだけだよ。お前は搾取の対象としか見てないだろ」

「いや、俺だってかわいいって思ってる。メンヘラかわいい」

「片っぱしから自己破産させてる奴の言うセリフかよ」

 ひとりが席を立った。ルージュさんだった。トイレだ。

 いま、僕は確信した。

 見込みどおりだった。ルージュさんは、やはり、悪人も大悪人だ。女を食い物にして、金をしぼりとっている。

 姉はだまされているのだ。もっとも、未成年で高校生の姉に、しぼりとられるべき何かがあるかどうかは、僕にはまだわからない。

「真実先生」

 と僕は、かすんだ目でピエロを見あげながら、つぶやいた。

「あら。どうしたの、寝言? それ、キミの好きな先生の名前かな?」

 ピエロは、ニヤーッと唇を左右にひろげて、笑った。

「あの、あなたは……」

「起きてたんだろ。おれとルージュのこと、あんまり悪く思うなよ。おれたちは社会のはぐれ者なんだ。生きる手段が必要なだけ。社会はおれらみたいなのに冷たい、時には人を食いもんにしないと生きていけないんだよ」

 ジャーッと水の流れる音がして、ルージュさんが帰ってきた。ぼくは気をうしなったふりを再開した。

「酒がまわってる。つまみ、あんまり食わなかったからだな。あそこ、マズいんだ」

 と、ルージュさん。

「言うわりにはまだ飲むか」

「飲むよ、ほかに楽しいことなんてない。人生にはさ」

「言うわぁ」

「何かもがむなしい。本気で女を愛しても、あっという間にババアになってく。そして俺の美しさを憎んでくるんだ。だったらたくさんの女に短い夢を見させてやったほうがいいと思ったが、だけど、それがなんになる」

「なんになるって、カネになるに決まってる」

「だから、それがなんなんだって言ってる」

「おい、念のためだが、お前は絶対カネにならんセックスはするなって言ったの、覚えてるよな? まさかタダ売りしてないよな? 本気で恋なんかしてないよな」

「タダ売りはしてない。俺は女に裸を見せるだけでカネがとれる。タダでセックスなんかするわけない」

「だったらそう生きていくだけだ。お前、本気で酔ってるな。むなしい? そんな高尚な感情なんか持つな。大事なのは、あしたメシにありつけることだけだろうが」

「何にもならん!」

 薄目をあけた。ルージュさんが立ち上がっていた。日本酒の瓶を持って。それを、ぐいっとラッパ飲みする。

「お前なんかと話をしても何にもならん。お前に俺の気持ちなんかわからない。永遠にだ」

「おい……」

 ルージュさんは言い終わると、もう一回ラッパ飲みして、空になった瓶を投げ捨てた。

 そして、ぼくの両目は大きく見開かれた。

 ここは、二階だった。なのに、彼は窓に走り寄ると、ガラスをひらき、桟に足をかけ、

 ぴょん、

 と夜気のなかへ飛翔していったのだ。

「ルージュさん!!」

 僕は飛び起きた。

 そして、……これは、僕も、ここへ来て情けないことに、まだ完全に酔っ払っていたとしか言えないのだが、ルージュさんを助けようと……あーっ、なんで助けられると思ったんだ? とにかく、なぜか、なぜだか、全力で、彼のあとを追ったのだ。

 つまり、僕もまた、二階の窓からジャンプしていたのだ。

 謎のメッセージを思い出す。

 高さはキミの味方だよ。

 あれは、ウソだった。

 なんとか僕は両足で着地し、そして、それを見事に砕き散らせ、その場に倒れふした。

 アスファルトではなく、芝生だったから、まだよかったんじゃないかな。

「……おい、赤田!! バカ野郎、赤田!! 戻ってこい!!」

 ピエロの怒鳴り声が聞こえる。

 僕は薄れゆく意識の中で考えた。

 飛び降りた瞬間のこと。

 近くにルージュさんが倒れていてもおかしくないのに、どこにもいなかった不思議。

 ルージュさんの本名は赤田というらしいこと。

 そして、ピエロの謎の言葉。

「赤田!! 南原はまだ人間だ!! 人間のままだ!! 救急車呼ぶぞ!!」

 そして、生まれてはじめて担架に乗り、救急車に乗り、救急病院に搬送された。付き添いのピエロ、いや、高岡は、まだメイクを落としていないままで、神妙な顔つきをして僕を見ていて、僕はそれがおもしろくて、足の痛みに脂汗をだらだら流しながらも、少し、笑った。


 4 鳥類と僕



 膝から下の両足にギプスを塗り固められ、そういうわけで、とりあえず、入院もはじめて経験することになった。

 両親からは、むちゃくちゃ怒られた。

 あたりまえだ。他人様の家で、明け方に酔っ払って窓から落ちたなんて。

 ギプスがとれ、リハビリなどを経て、また完全に歩けるようになるには、一ヶ月以上はかかるらしい。

 じきに夏休みに入るからよかった、と親は言ったが、別の言い方をすれば、夏休みがまるまるつぶれる、ということになる。

 ああ……僕の貴重な青春が、と思ったけど、別に夏休みだからどこに行くといった計画もなく、どうせ家にこもって、ネットか読書かDVDを見てたんだろうから、……入院しているのと、あまり変わらなかったかもしれない。入院そのものと同じくらい、なんだかそれが悲しい。

 病室は六人部屋で、僕はたまたま窓際だった。ヒマなときは、木の枝に鳥がとまるのをボーッと眺められるので、得だと思う。病院の正面が公園になっているので、ハトなどがよく集まるようだ。

 さて、見舞い客は、順番にやってきた。

 まずは、妹の蘭。

 どうどうと、ケータイをいじりながらカーテンを開けてきた。

「きょう、家にルージュさん来てたよ。あいさつしに」

「……マジ?」

「うん。髪の長い人でしょ?」

「うん」

「それですごいイケメンの」

「……そうだよ」

「でもなんか、ネクタイしめて、スーツとか着てて、すごい丁重に、高そうな菓子折り持ってきて、お母さんにすっごいあやまってた」

 ……高そうな菓子折りって……それ、女の金だろ、どうせ。

「そしたらお母さんもなんかほだされてたよ。うちのバカ息子が悪いんですくらいのこと言ってた」

「はぁ?!」

 確かに、あのときつられて勝手にダイブしたのは僕だけど……。

 お母さん……。あんたも、女のうちか……。

「あの人、すごいワルだね」

 蘭は、共犯者を見やるような顔で、ニヤッと笑った。

「そう! そうなんだよ! わかってくれるか」

「あれは、女の生き血をさんざんすすってできあがった美貌だよね」

「そう、僕もそれが言いたかったんだよ! 姉ちゃんはあの男にすっかりだまされて……」

「でも気持ちわかるな。あのルックスだったらだまされてても別にいいやって思えてくるの」

「なんだよ、蘭までそういうこと言い出すのかよ」

「まあ、女の気持ちは女のほうがわかるからね」

「絶対ダメだよ。骨までしゃぶりとられる」

「わかってるよ。わかってても、観賞してるだけでもウットリするじゃん」

「観賞なんかするな! あんな悪人!」

 蘭は立ち上がった。

「じゃ、お兄ちゃんの機嫌も悪くなってきたし、きょうは帰るわ」

 ……けっきょく蘭は、僕の気分を害しに来ただけだった。

 その次にカーテンの向こうから声をかけたのは、当のルージュさんだった。

「失礼します」

 蘭の言ったとおり、スーツ姿だった。幅が大きめなピンストライプが入っていて、つとめ人というよりは、一流ホストといったテイだ。

 そして、持ってきた立派な花束を、サイドテーブルの花瓶に活けてくれた。

 僕は彼を下から上まで眺めて、疑問を口にした。

「ケガはないんですか?」

 僕と同じ高さから飛び降りたのに。

「うん。鍛え方が違うから」

 と、彼は花の位置などをととのえながら、僕を見ずに答えた。

 まさか!

 そういえば、僕が飛び降りようと窓の桟を蹴った瞬間、地上にすでにルージュさんの姿はなかったはず……。

 まさか、テレポーテーションしたとでも?

 でも、そうとしか……。

「どうした。化けモンでも見る目してる」

「る……ルージュさん。あなたは、あのとき、いったいどこに……?」

「どこにって?」

「どこに消えたんですか? 僕が落ちたとき」

「近くにいたよ。見えなかったの?」

「どこにもいなかったですよ!」

「薄暗かったからな。明け方で」

 僕は、言葉に詰まってしまった。僕はごく小さな頃から鳥目のケがあり、栄養不足などではなくこれはもう生まれつきだとの医者のお墨付きだ。だから、暗いから見えなかったと言われると、かなり弱い。

「足、お大事にな。もう酒は飲まないほうがいいな。正直、ちょっと責任感じてる。気まずい。それじゃ……」

 ルージュさんは完全に無事な二つの足で、さっさと僕から離れようとした。

「待ってください」

 と、僕はとっさに呼び止めた。

 彼が振り返る。

「……姉も、自己破産させるんですか」

 天使の無邪気な笑い顔をも連想させるほど、邪気のないそれを、彼は見せた。

「高校生だろ。できないよ」

「でも、でも、……いつかは?」

「どうしても、信じられないんだね。よこしまな気持ちはないって」

「本気なんですか」

「よこしまな気持ちはない」

「誓えますか」

 彼はまっすぐ僕の目を見た。数多くの女を破滅させてきた双眸で。あまりにまっすぐで、ぐっとその目が眼前に迫ってくるような錯覚をいだかせるくらいの力があった。

「誓える」

 僕はまだ信じられなかった。

 けっきょく僕は、認めたくないのだ。姉が、男と付き合うことを。

 それも、ルージュさんみたいな、僕がどうあがいても勝てないような完璧な男と……。

「話、終わり? 本当に帰るけど」

 僕は、歯を噛んでいた。

 ルージュさんは、そんな僕を流し目で見やりながら、カーテンの外に消えていった。

 次に来たのは、ルージュさんの次に会いたくない人物だった。

 高岡。

 きょうはさすがにメイクはせず、黄色いパーカーに、やや大きめの黒いキャップを目深にかぶってきた。それでピンクの髪を隠しているみたいだが、バレバレだ。

「やあ、お元気そうでなにより」

 高岡はにこにことスツールに腰をかけた。

 かけてほしくない。

「先生」

「ん」

「先生は知ってるんですか。ルージュさんの秘密」

「んー?」

「どうしてケガひとつないのか」

「えー? さあね。鍛え方が違うんじゃない?」

 ……ありえない。

 そしたらルージュさんは、完璧超人というよりも、……ただの超人だ。

「それより、あー、びっくりしたよ。お前が窓から飛んじゃったときはさ」

「……すみませんでした」

「ふふっ……いいぜ、楽しかった。足だけだろ? 内臓なんかやられなくて、儲けモンだろ」

 ……それは、確かに、おっしゃる通りなのだった。

「先生……」

「はい、はい」

「先生はピエロの格好で、僕を尾行してましたよね」

 高岡の表情が変わった。

「なんだって?」

「先生はピエロの格好で……」

「なんだってぇ? よく聞こえないな」

「だから、先生はピエロの格好で、僕を尾けましたよね?!」

「おい南原。お前、高一のわりにはでかいが、身長いくつだ」

「えっ」

 なぜ、いま身長が出てくるのだ。

「……百七十三ですけど」

「ほー、でかいな、もう赤田といっしょだ。それで? もう少し伸びたいか?」

「伸びたいっちゃ伸び」

「だったら」

 高岡はするどく僕の言葉をさえぎった。

「あれこれ考えてウロチョロするのはやめるんだな、このガキがァ」

 僕は驚いて彼を凝視した。

 陽気なピエロも、おかしな真実先生も、もうどこにもいなかった。キャップの日よけの下でぎらぎら光る瞳は、完全に、やくざめいた殺気をはらんでいた。

「なあ南原ァ。ジョン・ウェイン・ゲイシーって知ってるか」

「……シリアル・キラー?」

「おー、物知りだな。そう、アメリカの有名な連続殺人者だ。ぜんぶで三十三人殺してる。こいつはピエロの格好して子供を誘って、さらって殺してたことから、殺人ピエロとか呼ばれててな。いやあ……殺人とピエロって、なんだかよく似合うよな。そう思わないか?」

 高岡は、狂気にたぎる目を見開き、いつかのように、ニヤーッ、と笑った。

 僕は、背中にぐっしょり汗をかいていた。

「はじめての救急車だったんだってな。でも、はじめての霊柩車はイヤだろ?」

 彼はタバコを取り出し、一本くわえて火をつけた、病院なのに、公然と!

「お前は変に嗅ぎまわらずに、おとなしくしてりゃいいんだよ。馬鹿の考え休むに似たり。それじゃ……また頃合見て、様子見に来るわ。馬鹿なこと考えてねえか、な」

 彼は立ちあがって、煙を吐き、さっさと立ち去ってしまった。

 ……殺される。

 これ以上、あの連中に関わったら、殺される。

「お兄ちゃん」

 ヒッと声をあげそうになった。僕の体は、ひざから下をのぞいて飛び上がった。

 蘭だった。

「なっ、どっ……忘れ物っ?」

「うん。忘れ物っていうか、お姉ちゃんから預かってたもの、あったんだった」

「ああ、姉ちゃん……」

 姉のアイポッドと、ヘッドホンだった。

「……姉ちゃん、やっぱ、来ないんだ」

「うん。かなり怒ってる。ルージュさんの家で騒ぎ起こしたからね」

「だよな……」

「ルージュさんと姉がどういう関係かも、親に問いつめられたみたいで。まあ、逆にルージュさん、株を上げてたからよかったんじゃないかなって私は思うんだけど」

「そうか……」

「ま、いまはヘソ曲げてても、入院中に一回は来るんじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ。だってお兄ちゃんとお姉ちゃん、昔から超、仲いいじゃん。こんなにケンカしっぱなしって、おかしいって」

「うん……そうなんだけどさ……」

 本当に来てくれるだろうか?

「私からも言っとくわ。お兄ちゃんがさびしがって泣いてたよって。あ、それね、新曲のデモ、入ってるからって言ってたよ」

「新曲?」

「クライ・ベイビーの。お姉ちゃんなりのプレゼントじゃない? ほらね、お兄ちゃんのこと、気にはかけてるんだって」

 いや、でも……だから、これ以上あいつらに関わると、殺されるんだよー……。

 と思いつつ、蘭が帰ったあと、プレイリストを見てみる。

 そしてまた、飛び上がった。


 おまえを殺す


 と表示されていたのだ。

 つまり、それが新曲のタイトルらしい。

 ヘッドホンをあてて、聴いてみる。



  おまえを殺す きょうこそ殺す

  百八つに刻んで殺す


  地の果てまで追い詰め殺す

  地獄にカチコミかけて殺す

  画面の端まで寄せてハメ殺す

  そのあとビニール袋に肉片集める


  俺に目をつけたがお前の最後

  全身ピアスでおしゃれさせ死なす

  親の顔など見たくもない ただ

  預金サラ金カードのキャッシング枠

  全て下ろさせブン盗ったのち殺す


  おまえを殺す きょうこそ殺す

  百八つに刻んで殺す


  出会った日から決まってた宿命

  別に最後の一人になるまで

  戦おうってんじゃないが ただ

  性病巣窟女を抱かせまくり

  チンコが腐り落ちたのち殺す


  おまえを殺す きょうこそ殺す

  百八つに刻んで殺す


  地の果てまで追い詰め殺す

  地獄にカチコミかけて殺す

  画面の端まで寄せてハメ殺す

  そのあとビニール袋に肉片集める


  ガソリンぶっかけ火をつけ殺す

  コンクリートを流し込んで殺す

  岩巻いて夜の海に叩き込んで殺す

  自ら墓穴を掘らせ埋め殺す

  車で轢いたのちバックで二度轢き殺す

  ランプ五回はジゴクイキのサイン


  おまえこそ俺への天からの賜物

  いまここ この瞬間にたまらなく

  血沸き肉躍らせてくれる供物

  おまえこそ俺への天からの賜物


  おまえを殺す きょうこそ殺す

  百八つに刻んで殺す!!



 ……だめだ。状況は変わらない!!

 やっぱり僕は殺される!!

 殺されるんだ!!

「南原くん」

「ギャーッ!!」

 とんとん、と肩を叩かれただけで、僕は絶叫した。

 驚いた顔の柿崎さんが立っていた。

「か、柿崎さん」

 僕はヘッドホンをとった。

「ごめん。声かけたんだけど、音楽聴いてるみたいで、気づかなかったから」

「柿崎さん!! 来てくれてありがとう」

 掃きだめにツル、といった風情だ。僕はなんだか、なんの罪もなく、なにも知らない柿崎さんに、もうれつに心洗われて、たまらなかった。

「さっき受付のとこで、真実先生とすれ違ったよ」

 と柿崎さん。

「タバコ吸ってたし、あと、髪がピンクだったけど。向こうも気づいてたけど、知らんぷりされた」

「ああ……そう」

 いまここで、柿崎さんに、高岡に脅迫された話なんて、しても仕方ない。

 忘れよう。

 おとなしくして、ウロチョロしなければ危害は加えないというようなことを、高岡も言っていたのだし……。

「酔って窓から落ちたんだって? すごいね。みんな驚いてるよ。お酒なんか飲むイメージないから」

「それは……僕みたいなのがたまに飲んじゃうとこうなるっていい見本で」

「アハハ」

「たまにっていうか、はじめて飲んだんだよね、正直」

「もう飲まないほうがいいね」

 みんなが同じことを言う。

「……みんなが同じこと言うよ」

 柿崎さんは果物のバスケットを持ってきていた。サイドテーブルに置いてくれる。

「ごめん。そういうの高いんじゃない?」

「いや、大丈夫。親がお金くれたから」

「そっか」

「お母さんね、南原くんがケガしちゃったら、しずるは夏休みさびしくなるねって言ってた」

「えっ? それ、なに的な意味で?」

「わたし、南原くんしか友達いないから的な意味で」

「……夏休み、僕と遊んでくれるつもりだったの?」

「……やっぱ、ずうずうしかった?」

 ずうずうしいどころか。

 ……超、うれしい。

「いや、ずうずうしくなんかないよ……僕も一回くらい、柿崎さん誘おうかなって思ってたくらいだから」

「本当?」

「本当だよ」

「果物……」

 と、彼女はバスケットの果物を手にとった。

「なんか、果物ナイフ持ってくるんだった。ごめん、抜けてて。剥いてあげれたんだけど」

「い、いやいやいや、そこまで言わないよ、来てくれただけで充分だよ」

 柿崎さんは、うれしそうに微笑んだ。

 それから僕らは、柿崎さんのいま描いている漫画の話などをあれこれした。そして、日が暮れなずむ夕方に、彼女は帰っていった。

 僕は、ふと思い出した。

 高岡と、柿崎さん、三人きりになった最初の授業。横に振り向いて、柿崎さんと、はじめて目があったときのこと……。

 あのときは、こんなに仲良くなるなんて、思ってなかった。

 そして、なぜか、あの日、高岡が自己紹介として、黒板に書いた字が、ぱっと思い出された。

『真実一郎』

『There can be only one』

 ……僕は、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 思い出した。

 やっと、思い出した。

 ずっとひっかかっていたのだ。高岡が黒板に書いた、謎の英文。

 どこかで聞いたと思っていたが、やっとわかった。

 八十年代の洋画、『ハイランダー ~悪魔の戦士~』。

 コミックが原作の、とくにどうということはないファンタジー映画だが、クイーンがサウンドトラックを担当していることで有名だ。けっこうヒットもしたらしく、続編もいくつも製作され、ドラマにもなっている。

『There can be only one』

 は、その映画のキーとなる、とても有名なセリフだった。日本語では、生き残るのはひとりだけ、などと翻訳されていたと思う。

 肝心なのは、そのストーリーだ。

 ハイランダーと呼ばれる一族は、首を切り落とされるまで死なない、一種の不死身体で、世界じゅうに点在する一族が、最後のひとりになるまで戦い、お互いに殺しあう、というものだ。

 そういったストーリーを受けての、セリフのような、キャッチコピーのようなのが、前述の英文なのだ。

 ……高岡は何を考えてあれを書いたのか?

 ひょっとして、ハイランダーは実在するとでも? あれは映画ではない? 高岡もルージュさんも、そしてこの僕も、ハイランダーなのか?

 いいや……それは考えられない。前にも、高岡が自分を狙っているのではないかとの疑念を抱いたことがあったが、殺す機会はいくらでもあった。

 特にゆうべ、僕らは三人きりで、しかも、つぶれて半分寝ていた。

 首をはねて殺そうとすれば、後始末の時間まで、たっぷりあったはずだ。なのにのんきに、女の話ばかりしていて、しまいには、ルージュさんは酔っ払って二階からジャンプした。

 だったら、なぜ高岡は僕を狙っていた?

 あのテープの意味は?

 高いところは僕の味方だ、という言葉の意味は?

 僕や姉に近づいたルージュさんの真意は?

 ……ああ、まずい。

 余計なことを考えたら殺すって、脅されているんだった。

 ジョン・ウェイン・ゲイシーか……。

 ……ハイランダーは年をとらない。

 もし、逮捕されたジョン・ゲイシーが替え玉で、まんまと国外脱出して、日本人のように顔を整形して、……教員免許を偽造して高校教師になりすまして……。

 ないないない!

 それはない!

 だめだめだめ! 余計なこと考えると、来る! ピエロが来る! ピエロが殺しにやってくる!

 しかし、入院なんてしてると、余計なことを考えざるをえない。いちおう親には、読むものを持ってきてくれるよう、頼んではいるが。

 音楽でも聴くか……。

 アイポッドを見る。文字が浮き上がる。

 おまえを殺す。

 ……神様、助けてくれ。

 面会の時間が終わった。

 姉は、ついに来なかった。

 晩ごはんが終わって就寝するまでのあいだ、僕は姉のことばかり考えた。

 小さいころからわりあい背の高い僕と、どちらかといえば小柄の姉。ひとつ違いだが、双子のようだねとよく言われた。

 仲がよかった。よく一緒に遊び、よくケンカした。

 いっしょにビデオを見てくれないと姉が泣いたときもあった。いっしょにビデオを見て泣いたこともあった。

 風邪もインフルエンザも、いっしょにかかった。

 ゲームを取り合いしたこともあるし、交代でレベルを上げっこしたこともある。

 ……せめて、あの、あまりにもあやしすぎる男と付き合うんじゃなかったらなぁ、と思う。

 さて、その後の日々もたいした面会客も来ず、姉もいつまでも来なかった。

 ギプスが取れたが、その後に待っていたのはキツいリハビリだった。僕は車椅子を使って移動した。その次は松葉杖になった。

 だが、そろそろ、少しなら自力で歩けるかな、くらいまで回復し、夏も終わりに近づいてきたころだった。

 朝六時、目覚ましの音で目を覚ますと、枕元に、厚くて小さい、白い紙が置かれていた。

 ドキッとする。

 こう書かれていた。

『退院の前日、西階段の踊り場で。午後三時』

 まず直感的に思ったのは、これを書いたのは、あの、いちばん最初、机に二つ折りのルーズリーフを置いていった奴ではないということだ。

 筆跡が違うし、紙も違う。二つに折りたたんでもいない。

 そして、あのカセットテープは、こう警告していた。

 今後、呼び出しがあっても、絶対に応じるな、と……。

 行かないほうがいいのだろう。

 ……でも、行かなかった結果、どうなるのか?

 それがおそろしかった。

 ルージュさん、高岡……。

 誰に相談すればいいのかもわからなかった。誰が黒幕でもおかしくなかった。

 気が狂ってしまいそうだ!

 その日はもうひとつ、特別なことが起こった。

「失礼します」

 ……ひさびさに見る、姉の姿だった。

 しばらく見ないうちに、なんとなく大人びた感じになって、ドキドキする。まさか、この夏に処女喪失を……

「許したわけじゃないから」

 と、彼女はむっつりと言った。

「ただ、退院が近いでしょ? 荷物とか取りにいけって、お母さんにおつかい頼まれただけ」

 と、彼女はベッド脇の、衣類などを詰めた紙袋をさっさと持ち上げる。

「なにこれ。ラブレター?」

 しまった! サイドテーブルに、呼び出しのメッセージが書かれた紙を置きっぱなしにしていた。

「い、いや、ラブレターじゃないよ。いまどきそんなのあるわけないだろ」

「退院の前日、西階段の踊り場、三時にだって……。ふーん。英くんもけっこうやるじゃん」

 姉の目が、笑っていなかった。

 ……なんだよ! 自分だってルージュさんと付き合ってるくせに!

「だから、違うって! ぜんぜん別の用件だよ。女の子じゃない」

「ふーん、それじゃ、お姉ちゃんもついてっていい?」

「えっ」

「ほら。やっぱまずいんだ」

 かなえは、二ヤッと笑った。

「ま、まずいっていうか……まずくはないんだけど……」

「じゃ、覗きにいこ。英くんの彼女の顔、こっそり見るわ」

「いっ、いや待って」

 姉は荷物を持って、僕の言葉も聞かず、髪を揺らして去っていってしまった。

 ……ああ……。なんてことだ。

 いや、かえって、決意が固まったのかもしれない。

 僕はこれで、呼び出しに応じずにいられなくなった。

 姉をひとりで向かわせるわけにはいかない。どんな奴が現れても、僕は姉を守る。

 そして、僕は絶対に負けるわけにいかない。

 化け物が出ても、超人が出ても、ハイランダーが出てきてもだ。

 そして……。

 退院前日の日がやってきた。

 僕は時計ばかりを見て、午後三時が来るのを待った。

 もう、自分の足で歩ける。走ったりはできないが。

 西階段の踊り場……。

 階数は、僕が入院している、ここでいいだろう。

 この建物は西にエレベーターがあり、中央にエスカレーターもあるから、階段を、とくに西階段を利用する人間はほとんどいない。

 僕は踊り場の壁によりかかって、人が来るのを待った。

 やがて……

 来た。

 予想はある程度ついていた。

 下り階段の影から、すっかりおなじみのピエロが、じっとこちらを見つめていた。

 目が合うと、ゆっくりと、近づいてくる。

 度胸は固めてきたつもりだった。

 それでもいざとなると、足がすくむ。

 それだけではなかった。

 ピエロはひとりだけじゃなかった。ひとりふたりと、影からどんどん現れたのだ!

 僕は声にならない絶叫をあげて、階段を駆けのぼった。

 足が万全ではなく、すぐに根をあげる。振り向く。

 ピエロは五人もいて、ニヤニヤと笑いながら、じりじりと僕との距離をつめていた。

 僕はもう足を捨て、手と膝だけをつかって、もがくように階段を這いずり上がった。夢中だった。

 やがて、屋上。

 ノブにしがみついて、回しまくる。ダメだ。鍵がかかっている!

 窓!

 窓があったが、これもはめ殺しになっていて、開かない。

 振り向いている。

 十人ものピエロが、階段を占拠し、ニヤニヤと僕を見ていた。

 夢。

 悪夢。

 あの悪夢と同じだ。大量のピエロに追いつめられ、手をのばされるあのときの悪夢……。

「あ、あ、あ、あ、……」

 そのとき、顔の横で、

 ガッシャーン!!

 と、窓ガラスが派手に音を立てて割れた。

 勢いよく闖入してきたのは、一羽の大きな鳥だった。カラスでもハトでもなく、もっと体長がある。

 鷹?

 謎の鳥は階段の天井を滑空すると、壁に激突したかと思うと、……手品のように、人間に変化していた。

 素顔の高岡だった。

「いっててて、間に合ったか」

 僕はこの不思議な体験を目にして、恐怖しか増幅されなかった。僕は気が狂っているか、世界の裂け目の上に立っている。そして、何より確実なのは……

 ピエロが増えた!!

「あ、あ、あ……ああああーッ!!」

 僕は喉もかれんばかりに叫んだ。

 そうすると、体が、僕自身も目がくらむほどの光を、一瞬放ち、

 ……僕は一羽の鳥になって、先ほど高岡がやってみせた手品のように、ピエロたちの頭上を滑空し、手も足もつかわず(いや、いまはそんなものはない!)、階段を下りてみせたのだ。

 バタバタと羽音がして、砕けた窓ガラスから、二羽の小鳥が侵入してきた。そのことに驚いたのと、なにせ翼をもってはばたくといった体験がはじめてだったので、バランスを崩し、やはり高岡と同じく壁に激突し、気がついたら、僕には手も足もあった。

「間に合ったか」

 どういうことだ! そこにはルージュさんがりりしく立っていた。後ろには、見覚えがあるような気がする、茶髪の男も、心配そうにぼくとピエロの様子を交互にうかがっている。

「ああ。でも覚醒しちまった」

 と高岡。

「でかかったな。サギか?」

「そうだ。アオサギだな」

 僕には、すべてがわけがわからなかった。

「さて、ハトの諸君ら、よくもおれさまの姿を騙ってくれたな。南原がだまされると思ったか? 代償はもらうぞ」

「俺ひとりで充分だ」

 ルージュさんはなぜ杖を持っているのだろうと思ったが、彼はそれをはらうようなしぐさをすると、刃があらわれた。

 仕込み杖! ゲームでは見たことあるけど、実物も、やっぱ、あ、あるのか……この現代日本に……。

 ピエロたちはひるんだように後ろにあとさずる。

「つれないなあ、ひさびさの機会にコンビプレーもしてくれないの? 百年ぶりくらいだろ? 見て生き残ったものはないというヨタカとアカモズの連携、冥土のおみやにひとつ……」

 高岡が言い終わらないうちに、ピエロたちは、みなそろってさっきのあの『手品』を見せた。次々にハトに変身して、窓から逃げていったのだ。

「やっぱりな。あいつらは、あの程度の数じゃ何もできん。ザコが」

 ルージュさんは満足げに刃を杖におさめた。

「ヒュー、かっこいい」

 と茶髪の男。

「あっ、大丈夫すか南原くん。立てますか?」

 彼は手を貸してくれた。

 声をきいて、わかった。

「……僕にテープレコーダー、くれました?」

「いやあ、あはは。あげるつもりなかったんですけど、南原くん勝手に持ってっちゃって。年代モノで貴重なんすから、返してくださいよ。あっ、申しおくれました、オレ、鈴尾っていいます。職業は探偵です」

「……二●●●●●の探偵ですか?」

 三人が、どっと笑った。僕だけが笑わず、汗で体にべっとり貼りついた肌着を感じていた。

 下から足音が聞こえてきた。窓ガラスの音を聞きつけてきたのか。

「とりあえず逃げるべ。ゆっくり説明しなきゃいけねえこともあるしな」

「おお、そうだ。病院前の公園は? ヤニも入れれるし」

 そういうわけで、全員ですばやくその場から逃げ、病院の外に出た。

 姉は来なかった。

 よかった。何より、それが安心だった。

 そして僕は、自分が鳥に……『アオサギ』に変身したときの感触を思い出していた。

 不安はなかった。むしろ、みなぎるほどの安心感と、芯までとろけるようななつかしさがあった。そう、まるで、母親の胎内に戻ったのとひとしいと、言ってもいいくらいに……。

「おれたち鳥は、自分がかつて鳥であったと『思い出した』時点で、体の成長が止まる。……時間が止まるんだよ。だから、おれらの第六感が、思い出しかけてるお前の存在を感知した時点で、できるだけ延ばしてやりたいと思った」

 高岡は、ベンチにすわらず、タバコの灰を灰皿に落としていた。ルージュさんも立ったままだった。僕は座らせてもらい、鈴尾という男がとなりに腰を下ろした。

「コドモのままで成長止まっちゃうのは、かわいそうだからね」

「逆も悲惨だぜ。中年になってから『思い出し』て、何百年も中年オヤジやってる奴もいる」

「……時間が止まるってことは、死ななくなるんですね。何百年も……」

「永遠の命があるかはわからない。でも少なくとも、俺は能の全盛期の時代から生きてる」

 とルージュさん。

「昔から遊郭狂いだったな」

 と高岡。

「違う。向こうが俺に狂ってた」

「何の目的で? ……最後のひとりになるまで戦う?」

 全員が笑った。

「おれらはそう思ってない。たぶん、鳥から人間になったってこと自体が目的だったんだ。おれらは必ず、人間のように地に足をつけて生きたいって思ったから、なったんだ」

「でも、そう思わない一派も数は少ないけどいて」

 と鈴尾さん。

「それがいま見たハトの連中。奴らは、人間と鳥、両方の姿を持つような、特別な人間は自分たちだけで充分だとか思っていて、ときどき、残忍な『鳥狩り』をする。奴らに南原くんの存在が知れるとまずいことになると思った。言ったとおり、おれらの第六感は『思い出しかけ』の人間をうっすら感知するから、ハトにも知られる可能性がある。そこでオレが今回の計画を組み立てたんだ。あ、名前でわかるかもしれないけどちなみにオレはスズメっす」

 なんだって? それって、つまり……。

「つまり……皆さんは、みんなして、僕を守るために?」

「そ。けっこう大変だったんだよー。あんたが知らないような奴らでも、小鳥みたいな目立たない外見だったら、あんたを見張るためにローテ組んで出動したりね。おれの正体は目立つ鳥だから、しょうがないから人間の姿で見張ってあげてたけどね」

「も、もしかして先生、ピエロの姿で僕を尾行してたのって……」

「はあっ?! ピエロの姿だあっ?!」

 ルージュさんが、高岡の胸倉をつかんだ。

「本当か? 本当にこいつ、ピエロの格好で尾けてたのかっ?」

「え、いえ、その。はい」

「だってー、あまりにもあやしすぎる姿って逆にあやしまれないかなーって思って!!」

「馬鹿野郎!! 守ってやるってんのに、相手を怯えさせてどうする!!」

「はい、めちゃくちゃ怯えました」

「ほら!!」

「なんか黒板に、There can be only oneとか書くから、殺し合いするのかなって思ったり」

「何やってんだお前!!」

「えー、だってあの映画おれ好きだしー」

「ジョン・ゲイシーって殺人ピエロ知ってるかとか、脅迫されたり」

「何やってんだぁーっ!!」

「だってー、危機意識はないよりあるほうがいいじゃーん」

「やっぱり、俺は最初からコイツが参加することには反対だったんだよ! 必ず番狂わせを起こす。おかげで作詞作曲ははかどったけどな」

 あ……。あの、『おまえを殺す』って曲、もしかして……。

 もしかしなくても、高岡にあてた曲だったのか。

「いいじゃんいいじゃん、終わりよければすべてよし。南原くんは、予定より早く覚醒しちゃったけど、身長百七十三で赤田と同じだし、悪い結果でもないんじゃないかな」

 僕は腑に落ちた。あのとき飛び降りたルージュさんが消えたように見えたのは……本当は消えていなかった。『正体』の鳥の姿に戻って、朝の薄闇の中を、飛んでいってしまっていただけだった。

 出歩くのなら夜がいい、というのも、当然だった。みんな、鳥目なのだ……敵も味方も、そしてこの僕も。

 僕は静かに立ち上がった。

「ルージュさん」

「ん」

「僕をバンドに誘ったのも、僕を近くにおいて、守るためですか?」

「よくわかったな」

 彼は笑んだ。

「……スター性があるとか、オーラがあるとかも、でまかせなんですね」

「そうだ。キミにはスター性も、オーラも、少しもないよ」

 はっきりと言ってくれる。

 ありがたい、と思った。ウソをついてくれないほうが、いまの、まだ突然の話に混乱している自分には。

「姉に近づいたのもそうですね」

 ルージュさんは、タバコをひと吸いし、煙を吐いた。

「そうだよ」

「……よこしまな気持ちはないって、誓うって、言いましたよね」

「そうだ。俺は新しく誕生する仲間を守るためならなんでもする。それがよこしまな気持ちか」

 僕は全力でルージュさんの頬をぶん殴った。

 彼はよろめきもせず、タバコすら取り落とさなかった。

 涼しい顔をしている。よけることができて、わざと拳を受けるに甘んじたのだ。

「赤田さんを殴るなら、オレたち全員、殴ってください」

 と、鈴尾さんが肩に手を置くも、そんなの半分しか聞こえない。

「あああああ!!」

 僕はわめきながら、ルージュさんの胸板をどんどんどんと力いっぱい叩いた。相変わらず少しも揺るがない。そして、殴れば殴るほど、まるで僕のほうが殴られているかのように、涙がにじんでくる。あっというまに、頬をつたい、次々にボロボロとこぼれ落ちていく。

 僕はその場にくずおれ、手をつき、そしてきょう起こったすべてのことに対して、わあわあと声をあげて、子供のように泣いた。

 不意に思い出されたのは、柿崎さんのことだった。

 柿崎さんは、年をとりたくないと言った。

 特別になれるのなら死んでもいい、とも。

 柿崎さんじゃなかった。

 選ばれたのは、僕だった。

 柿崎さんじゃなく、僕が、特別な人間で、年をとらない。

 こんなときなのに、不思議だった。

 僕の胸をいっぱいにしているのは、ただ、柿崎さんへの罪悪感だけだった。



 全員で、僕を病室まで送ってくれた。

「わからないことがあるんです」

 と、僕は言った。

「僕は……まだ、『思い出し』ていません。鳥でいた時代、人間になりたいって願った記憶もないし、だから、どうして人間になりたかったのも、わからないし」

「そんなの、オレらもうっすらしか覚えてないよ」

 と鈴尾さん。

「いずれわかるんじゃないかな。自然に、いつか思い出すよ。……何せ、人生が長くなっちゃったからね。いっきに」

 そういわれても、僕は、不老不死になった実感なんて、もちろんない。なりたいと、思ったことすらなかったのだ。

 ベッドに戻ると、スツールにすわっている人物がいた。

 姉だった。無表情で振り返る。

「じゃ、オレたちはこれで失礼。困ったことがあったら連絡して」

 三人は、空気を読んで、そそくさと帰っていった。

「……来たの? 踊り場」

「ううん。行ってない。信じてたから」

 ドキッとする。

「信じてたって……」

「英くんが、彼女とかできたら、絶対わたしに言うと思うって。ウソとかつかないって思って、ここで待ってた」

「……そう」

 僕の足は疲れていたが、なぜか、座ることがためらわれた。

「いま、ルージュさんいたでしょ」

「えっ。うん」

「何か話した?」

「いや、別に……姉をよろしくとか、そんなことかな」

「本当にそんなこと言ったの?」

「……いや、言おうと思って言えなかった。だから、姉ちゃんのほうに言っとくよ」

 僕は目を落とした。

「姉ちゃん。……ルージュさんをよろしく」

 かなえは立ち上がり、僕の胸にしがみついた。

「……英くん。ごめん。ずっと意地張ってて」

「うん……僕もだね……僕もごめん」

「さびしかった。英くんと会えなくて」

「僕もさびしかった」

「英くん。大好き。大好き。ごめんね。ごめんね」

 姉は涙を流していた。僕はだれはばかることなく姉を抱きしめた。とっくに追い越してしまった、かなえの小さな、あたたかい体を。

 その瞬間、頭のなかに、あるメロディが流れ出した。

 僕は、ほうけたようにそれをそのまま、口に出した。

「……だってあの地上あの旅館で……」

「え? あっ……。『鳥類のキビス』」

「だってあの地上あの旅館で……」

「君と枕投げしたかった」

 姉も、うれしげにいっしょに歌ってくる。

 僕はまた冷たい汗をかきはじめていた。

 そんな……。そんなことが……。

「だって、あの夜あの窓つきやぶり……君の涙にキスしたかった……」

 と僕は、うつろに歌った。

「あの夜あの夜あの夜あの夜に~、君の体あたためたかった」

 姉は僕の両手をとり、リズムをとりながら、うれしげに歌っていたが、僕にはもう何も聞こえなかった。

 鐘のようにがらんどうになった体に、ただ、言葉だけが響いていた。

 僕が人間の姿を得たいと思ったのは……。

 あの夜、あの夜、あの夜、あの夜に、

 あの夜、あの夜、あの夜、あの夜に……。







 エピローグ



 さっき別れたばかりの先生から、また電話がかかってきた。

 鷺沢は、警官の制服をつめたボストンバッグを片手に、歌舞伎町を突っきっていた。

 酒は飲めないし、ギャンブルも、女遊びも興味が持てない。

 帰って、寝るだけだった。

「さっきの姐御だけどさ」

 と先生が言った。

「肉親とはなるべく早く縁を切ったほうがいい。老けないのを騒がれる。実の妹なんだろ?」

「蘭は、そんなタマじゃないですから。鳥だ、不老不死だって言っても、笑って聞き流すくらいの女ですよ」

「だったらいいんだがな。おれらに迷惑はかけないよね?」

「かけません。ち……」

 誓います、と言いかけてやめた。嫌いな言葉なのだった。あの日から。

「よし、じゃ、サワくんがそう言うなら信じるわ」

「はい。名前も捨てたことだし、ほかの親きょうだいとはもう連絡もとってません。とる気もありません」

「よしよし。いい子だ。つらかったろ」

 姉と手を取り合って歌った、退院前日。

 あの夜、あの夜、あの夜、あの夜に……

「……いいえ、特に。高岡先生、あしたは非番でしたっけ」

「そう。それと、いまは高木。免許証も新調したよ、いい男に撮れたんだ。今度見せるわ」

 彼は趣味でバーテンダーのバイトもしているらしく、そういう日は、美人局は休みだ。

 僕も何か趣味を持とうか、折り紙でもやるかな、と鷺沢がぼんやり歩いていたとき、彼は信じられない光景を目にして、立ち止まった。

 チェーンのカフェバーでせわしなく働く、ひとりの女性ホールスタッフ。

 間違いない。

 だいぶ垢抜けてはいるが、間違いなく、柿崎しずるだった。

 この都会、東京で偶然再会するなど、奇跡に等しい確率だった。

 鷺沢は、そのカフェバーに入っていって、彼女に声をかける自分を想像した。

 でも、できなかった。

 どうしてもできなかった。

 漫画家の夢を、まだあきらめていないか。

 どうしても聞きたくて、どうしても聞けなかった。

 彼は悄然と歩きだした。人ごみに埋もれるように。埋もれたいと願うように。

 作家?




 (了)





 

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鳥類の時間 とよかわ @toyokawa

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