第8話 鳥類の蛇足
01
「絵理菜さん、折り入って何ですけど」
駒野は、ソファの前にキッチリと正座した。
鴨島のくれたマンションで、二人はひととおり生活必需品の荷解きをしたあと、イケアで駒野が選んで買ったソファに座って、ひといきついて、そしてちょっといちゃいちゃした。
そのあとで突然、彼は前述のように床に脛をつけ、突然あらたまって切り出したのだった。
「はい」
絵理菜は反射的に返事した。
「付き合って、もうすぐ二ヶ月ですね」
「そうですね」
「オレたちの交際もこうして、同居という新たなステージを迎えました」
「そうですね」
「そこでオレは提案があって……」
「はい」
「別の部分でも新たなステージを歩みたいと思っています」
「なんですか」
「ええと……」
駒野は急に、恋する乙女みたいに、もじもじしはじめた。
「なんですか。言ってくださいよ。せっかくおめでたい日なんだから」
「……じゃあ、いつまでももったいぶってるのも何なので、男らしく、ちゃんと言います」
「どうぞ」
「……絵理菜さんのパンツの匂いを嗅がせてください」
絵理菜は、ちょっと考えた。
「それは、洗ったやつのことじゃないですよね」
「はい。できれば、超新鮮な……つまり、脱ぎたてで」
「脱ぎたて!」
「っていうか、脱ぎたてじゃないやつは、実はもう……」
「嗅いでた?! いつのまに」
「なんか洗濯機のとなりにランドリーバッグがあるじゃないですか。あそこに放り込まれてる、絵理菜さんの……」
「使用済みのを?」
「はい」
「……ホントにわたしの匂い、好きなんですね」
絵理菜は、大して動じていなかった。
「そういうわけで、なんとか、もし、嫌じゃなかったら……」
「ぜんぜん、嫌じゃないですよ」
絵理菜はショートパンツを脱ぎ、ついでにボクサーブリーフを脱いで、彼に差し出した。
「……絵理菜さんって、やっぱ、羞恥心ないですよね」
「そうですね」
「いまもまんこ丸出しですし」
言いながらも、駒野はパンツを受け取った。
「でもあるところにはありますよね」
「ありますよね。お風呂入ってないときはわたしも恥ずかしいですし」
「なんで、自分の匂いは恥ずかしいのに、パンツの匂いは恥ずかしくないんですか」
「パンツの匂いだったら、自分から離れた、物体の匂いだからだと思います」
「なるほど……」
駒野は両手で、ぎゅっと握るように絵理菜のボクサーブリーフをして、見つめた。
「絵理菜さん」
「はい」
「これ、宝物にしていいですか」
「アハハハ。いいですよ。あ、嗅ぐとこ見るの、やっぱりちょっと恥ずかしいので、見えないところでお願いしていいですか」
「あっ、はい」
駒野は寝室にひとり籠り、ぞんぶんに欲望を満たし、満たしつつも、絵理菜のこういう、ちょっと変わってるところが好きなんだよな、と、思いを新たにせずにいられなかった。
02
土曜日の九時だった。駒野がいってきますのキスをしたのをぼんやり感じたあと、幸せに、好きなだけ寝れる休日を満喫していた。
そこに電話がかかってきた。
画面をのぞく。
高田。
土曜の朝に高田。嫌な予感しかしない。
「……はい」
律儀な絵理菜は、それでも、いちおう出た。
「あっ、出た出た。うっそだー。出ないかと思った。出たし。マジ出たし。うける」
「用事はなんですか」
「そんな冷たくしないでよ、おれ、いま仕事明けだよ。最後の客がねばってさ。お疲れちゃんなんだから」
「それは、お疲れ様です」
絵理菜は半分寝ながら、うにゃうにゃと返事した。
「あ、本題なんだけどね、絵理菜さんさ、おれのオペラ鑑賞につきあってくんない?」
「……オペラ」
「うん。ああいうところって、だいたい夫婦とか恋人とか、ペアで行くもんなんだよ、欧米とか、上流階級、カップル単位社会だから、基本。ひとりで行くなんてできないんだよ、エスコートする女がいねえとさ、必ず。だから一緒にと思って。もちろん、おごり」
「オペラなんてどこでやってるんですか」
「もちろん東京まで出てくんだよ。新国立劇場」
「東京……」
「うん。ほら、車もあるじゃん」
「ドレスコードとかあるんですか」
「うん。おれもタキシード、昔は持ってたけど、どっかに置いてきたみたいで、せっかくだから仕立ててきた。あした、取りにいって、その足で劇場に向かうよ」
「あしたって……」
「予定あった?」
「ないですけど……」
「はい決まり。朝十一時に迎えにいく」
「え、えっと、ちょっと待ってください……」
「何が」
「着ていく服が……スーツじゃダメですよね」
「大丈夫。絵理菜さんの服を買いにいく時間も計算に入れて十一時だ。なんか適当な部屋着ででも来ていいよ。買ったその場で着てけばいいんだから。金も、まあ、おれが持ってやってもいいよ」
絵理菜はちょっと笑った。いつもの高田らしさが出て、緊張がほぐれたのだ。
「演目はなんですか」
「リゴレット。おれの好きなイタリアオペラだ。オペラはやっぱりイタリア語だよ」
「リゴレット……」
「うん。主人公道化師。だから好きなんだよな。ってことで絵理菜さん、あした、忘れないでね」
「えっ、でも、駒野さんに……」
「なんて言えばって? さあ。そこはアナタの心しだいだね。正直におれとオペラに出かけるって言うのもいいし、ひさびさに実家帰って、ついでにお泊りもしてくるって言ったら、おれも話合わせるし」
「バカっ!」
そして、果たして翌日、彼はマンションの前に到着した旨を、十一時きっかりによこしてきた。
言われたとおりに適当な服を着た絵理菜は、駒野に行き先を告げ、エントランスまで降りてきた。
……ピカピカの真新しいタキシードを着込んだ高田が、例の、ひらべったいルパンカーに乗り、絵理菜に気づくと、にやけて手を振ってきた。
絵理菜はくらっとした。二十二でマンションを持つ、タキシードの男が外車で迎えに来る、二回さらわれる。確実に、生き急いでいる。無駄に人生経験値がたまっていく。絵理菜の家は、裕福なほうだったが、父親の方針で家族にぜいたくをさせなかった。だから、こんなぜいたくをしては、人間の根幹が腐ってしまうのではないか、と日々震えている。
それとは別に、いま、高田が待っている。
彼女がぼーっとしながら車に近づくと、高田は運転席から出て、助手席のドアを開けてくれた。
「あっ。ありがとうございます……」
「いえいえ。普段着もいいね。でもこれから、ドレスアップするから。ちなみに、BGMは、おれが六本木で雇われDJやってたときに作ったミニマルテクノです」
県道を走り、インターチェンジを抜け、高速道路に入り、高田が飛ばしはじめても、絵理菜はぽけーっとしていた。景色よりも、彼女はひんぱんに彼の、ギアを握っている右手を見ていた。
オートマ限定免許しか持っていない絵理菜には、この、ギアチェンジというのはどうにも摩訶不思議なものだった。いつ・どこで・どんなときに、なにをどこにチェンジするのか、まったくわからなかった。予測もできないタイミングでたまに高田の右手は動いた。大きくて節が太く、ごつごつした骨の見える高田の手。彼自身のようにミステリアスなギアチェンジ……このあいだのことを思い出して、体が熱くなったのを、彼は感じ取ったろうか? そしらぬ顔で運転しているが。
「おれの作ったトラック、どう?」
不意に彼がたずねる。
「……いえ、ミニマルテクノって、あんまり傾聴して感想を持つような音楽じゃないですよね」
「鴨島にも聞かせたらよ、あいつ、『こんなの、カネもらっても聴きたくない』って言ってた」
「ははは……」
高田に連れていかれた店はずいぶん遠かった。たぶん、もう東京に入っていたのではないだろうか。地理にうとくてよくわからない。
その店は路面店で、どうも、結婚式に着ていくような礼服を売っている店だった。
色とりどりのドレスを着たマネキンにかこまれて、絵理菜は目に見えて、アワアワとした。最近こんなにアワアワしたのは、福井の手を握ってしまったときくらいだ。
おかしい。
ここまでかかって、やっと気づいた。
高田とオペラを観に行くなんて、明らかにおかしい。しかも、貴重な、駒野と重なる休日である日曜日を消費してまで、だ。
彼は、あんなことがあった夜以降も、何もなかったかのように、みんなの前で振る舞っていた。だから、絵理菜もすっかり忘れきっていたぐらいだ。しかし、こいつは、わたしのことを、まるで犯すように……
「わかったわかった」
と高田が彼女の肩を後ろから持った。
「絵理菜さんは選ばなくていい。おれがぜんぶ選ぶ。よしっ、絵理菜さんはこれを着る!」
彼が指さしたマネキンは、淡いピンクのシフォンミニドレスだった。パフスリーブ(ちょうちん袖)が、お姫様みたいだった。黒い太ベルトが縫いつけられている。
「ホントは白が似合うかなって思ったけど、ピンクだと結婚式なんかにも着ていけるでしょ? 七号じゃちょっとおっぱいがきついかな。九号だな。はい、バッグはこの黒のクラッチ! バッグの中いれかえて、入んなかったぶんは、車においときゃいい。はい、試着室っ!」
試着室に押し込まれながら、絵理菜はぼんやり思った。これだ。これがこの人のいつもの手口なのだ。つまり、相手に考える時間を与えない。
「高田さん」
と、試着室のカーテンごしに彼を呼ぶ。
「はいはい何? まだおっぱいきつい? 後ろのファスナー上げる?」
「高田さんは、なんでわたしを誘ったんですか? わたし、駒野さんとの休日だったのに」
「はあー? ほかに誰もいないからに決まってるでしょ。鴨島の女に手ぇ出したらアイツはキレるし、かといって絞りカスにさせられて、カスッカスになってもう用もない女誘っても、愚痴でオペラが聞こえなくなるだろうし」
「そうですか……」
「ああ、ごめん、正直に言っちゃったな。もっとロマンチックなのが聞きたかった?」
「いえ、たいして」
絵理菜がカーテンを開けると、下には、エナメルの黒いパンプスが用意されていた。サイズはぴったりだった。
「金は払っといたよ。さっ、行こうか」
高田はくるりと背をむいて、風呂上りの牛乳を飲むときのように、右手を腰にやった。
最初は、その意味がよくわからず、しばし眺めてしまった。
「なんだよ。払ったって言ってるだろ。そのぶん、こんくらい乗っかってくれよ」
と彼が口をとがらせて、やっとわかった。
絵理菜は、おそるおそる、その輪に左手をくぐらせた。
「うっし。やっとエスコートって感じだ」
彼は非常に機嫌がよくなり、また絵理菜を車に乗せ、劇場までもうひと走りした。
新国立劇場の中は、絵理菜にとって、まるで異世界だった。彼女はぼんやりしてるうちに、事前に彼がとっておいた席に座らせられ、オペラが始まり、圧倒されているうちに、終わった。
そして、これはこれで、いい人生経験なのかもと思った。もし彼女の人生に高田がいなかったら、オペラなど鑑賞もしなかったろう。彼女が駒野を愛していながら、かつて過ちをおかした相手の車に、ボーッとしてるうちに、乗り込むような人間でなければ。
二人は、腕を組むか、そうでなければ高田が絵理菜の腰に手を回すかして歩いた。座りっぱなしだったから散歩でもとぷらぷらしていたら、わりあい広い公園に突き当たった。
噴水のある公園だった。あそこに座ろう、と高田は噴水を指さした。
03
アパートの前にバイクを留めると、ちょうど、いつも夜にゴミを出していて、その日も同じことをしていた鴨島が降りてくるところだった。
「おお、カモ、ひさびさ」
駒野は、ヘルメットを脱いだ。
「バイク? 借りモンか?」
「いや、同僚が安く譲ってくれた。いいだろ。絵理菜さんとか朝弱いから、いま、これで会社まで送っていってあげてんだよねー。いってきますのキスまでしてくれてさー」
「はいはい、ごちそうさん。それで、肝心の伊藤さんは?」
「きょうは留守。だから、さびしくなって、遊びにきちゃったー」
「邪魔だな……」
二人は階段をあがって、皆が集まる部屋へと向かった。
「留守といえば、高田もまる一日いないな」
「高田ぁ? デートとかじゃねえの?」
「いや、アイツがそういうことするときは、俺へのエスカレーターを作ってるときだけだから、それはない。いま手持ちの女でいっぱいだから、いまはまわすなって言ってるから」
「ああ……下りのエスカレーターね」
「メシの時間まで帰ってこないの、珍しいな。あ、そういえば、高田と絵理菜さんといえば……」
鴨島はニヤッと笑った。
04
「はあ……正直、よくわからないところもあったけど、でも、おもしろかった……」
「だろ? 一回観たらハマりそうでしょ」
「はい。機会があったら、また観たいです」
「行こうぜ行こうぜ。こんくらいだったら、おれもおごるよ」
「あっ……ありがとうございます。でもせめて、次回くらいは出します。一応、会社勤めしてるんで、お金はないことないので……」
「いいんだよ、最近、戸籍作成の案件が続けて来て、おれ、小金持ってるから」
「戸籍作成……」
「言っとくけど、コマじゃないからね」
「戸籍って、どうやってつくるんですか」
「作成っていうのには語弊があるんだけどね。ようは、ああいうのって一から作成するのは難しいけど、既存の情報を書き換えるのは、ただ役所のネットワークに入り込むだけでいいから、楽なんだ。そこで、上野とか新宿あたりのホームレスさんとちょっとおしゃべりしてね、そういう人から二束三文で戸籍を買うわけだよ」
「はあ~……」
「しゃべってみた感触で、頭がいかれてる感じがしたら最高。そいつは精神病患者、厳密に言えば統合失調症患者で、親戚家族にも見放されてホームレスやってるヤツらだよ。体感七割はそうかな。話、しててもパキパキしてて、日雇い労働にもいつも出てるなんてヤツはダメだね。いつ社会復帰されてもおかしくないヤツには、バレる危険性があるから、話を持ちかけない」
「……なんか、わたしが知らなくてもいい世界の話ですね」
「本当、そうだよ」
彼はクールメンソールを取り出して、一本くわえて火をつけた。
「はー」
そして、腰のうしろで手をついて、わずかに暗くなりはじめている空を見上げる。
「まだ晩メシはこれからだけど。絵理菜さん、きょうのデート楽しかった?」
「えっ。あ、はい。ん? デート?」
「実はさ、リハーサルしとこうかなって思って。それがきょう」
彼はタバコの煙を吐いた。
「いま、これって思った女がいる」
「……よかったじゃないですか」
「うん。まあ、そいつ、いまは彼氏がいるんだけど」
……わたし?
「でも、一回はセックスに持ち込んだ」
……わたしじゃん。
「いまは気がなさそうだけど、ちょっとずつ落としていくのも乙かなと思ってさ。まあ、気長に行こうと思ってる。はっきり言って、自信、あるし」
ということは、今後もこんなふうに、付きまとわれる可能性が高い、ということで……。
「……た……高田さんが好きになる女の人って、どんな人なんでしょうね」
「ふはははっ。やっぱ、それ思うよね」
ふと、彼はむこうを向いて、表情が見えないようにして。
「らしくねえんだけどさ。運命、みたいなの、感じちゃってんだよね」
絵理菜の位置から、高田の顔は見えない。いちばん見たいところだったのに。いや、同じなのだろう。高田は、それをいちばん隠したかったのだ。
……困った。
困ったなあ、としか、言いようがなかった。もし、ここで、それってわたしですか、と訊いたら、その答えが正解でもそうでなくても、高田は自分を指さしてゲラゲラ笑うだろう。そういう男だ。そうしたらいま、この話を続けるとしたら、絵理菜であるかもそうでないかもしれない女Xを、仮に、いるものとして進めなければいけない。
「……そんなに追いかけることないんじゃないですか? 彼氏がいるのに高田さんとセックスするような、尻軽女でしょ?」
と、ぼそぼそ言ってみる。
「ふっ。そういうところが好きなんだよな」
また、ぷふーっと煙を吐く。
彼はタバコを、後ろに放り投げ、噴水に浮かせた。
そして、ズボンのポケットを探り、ごく小さな紫のサテンの小箱を出すと、絵理菜にむかって、それをひらいた。
「結婚しよう」
箱は小さかったが、指輪は大きかった。ドンと大きく中央に鎮座するダイヤモンドは、何カラットだろう。そもそもカラットとはなんだろう。しかも、そのダイヤのまわりは、細かなエメラルドでふちどられていた。
指輪を凝視したあと、彼女は、いまいちど、高田の顔を見てみた。真剣そのものだった。そのうえ、彼はこう付け足した。
「愛してる」
05
「はぁ~?! なんだよそりゃ?!」
『空白の一夜』事件。
その名前を聞いたときの駒野の反応は、こうだった。彼はちゃぶ台の前にどっかり座ったが、大好きな酒を手元に寄せもしなかった。
「ふふっ、あっこれ、言っちゃマズかったかな、ワッシー」
「知らん」
鴨島は楽しげだが、鷲崎はあくまでも、われ関せずを貫いた。
「お前が職場の連中と酒盛りした夜かな。雨降ってたからさ、ヤツが伊藤さんを駅まで送ってったのさ。だけどよ、終電過ぎても高田が帰ってこんので、何かあったかと思って伊藤さんの番号にかけてみた」
「そしたら」
「高田が出てな、『絵理菜だったら、おれの横で寝てる』って」
「なんだよそりゃ。いつものあいつのつまんねえ冗談だろ」
「そうだろうかね。すぐ伊藤さんが代わって、二人で飲んでるからとか言ってた。でも、高田が帰ってきたのはけっきょく朝んなってからだ。俺、おもしろいから高田の部屋で寝て帰りを待ってたから、わかる」
「……で、ヤツはなんて言ってたんだよ」
「いや、聞いてもなんだかはぐらかすような感じでさ。これは何かあってもおかしくないと感じたね」
駒野は、やっと焼酎の瓶を手にして、蓋をあけて、ひと口、ラッパ飲みした。
「バカか。……あるわけねえだろ。よりによって高田だろ。福井とかお前とか、鷲崎でも話はわかるよ。で・もぉ! あのキチガイとだけは、ぜってえない。わかるんだよ。絵理菜さんはそんなバカじゃねえ」
「そうかな? 伊藤さんって押しに弱そうな感じじゃん。それに反して、高田は他人をコントロールするのがうまいからな。ボーっとしてるうちにいつのまにかラブホでいっしょにお風呂入ってたとか」
「ありえねえって言ってるだろ!! 確かに絵理菜さんは、ちょっと抜けてるとこはあるけど、高田とだけは、あの男とだけは、ない!!」
駒野は歯をむいて、ちゃぶ台をどんと叩いた。
「そういやあいつら趣味も合ってるし。映画の話で盛り上がってて、コマがキレたときとかあったじゃん。あの、なんとかってダンスゲーでも息ぴったりだったし。案外、二人きりで話してみりゃ気が合って、トントン拍子ってセンも」
「ねえよ。絶対ない!!」
「じゃあ、伊藤さん、きょうどこに出かけてるの? なんつって出てった?」
「それは……」
06
「えっ、えっ、えっ、えっ」
絵理菜の尻はとっさに後ずさったが、噴水が円形だったために、やがてそれは、ぼすんと芝生に投げ出された。
「えーーーーーーーーーーっ!!」
彼女は抜けそうな腰をなんとか持ち上げて、ヘロヘロと走って逃げようとした。妖怪を目撃したときの反応と同じと言っていい。
「えーーーっ!! えーーーっ!!」
彼女は植木を見つけ、その陰から、遠くもない高田を観ながら、なおも叫び続けた。
「あー、やっぱ、そういう反応になるよねーえ。ごめんごめん、だから、リハリハ。リハーサルだってば」
「あ、ああっ……、腰が……」
ついに腰が抜けて地面に手をついた絵理菜に、へらへらと笑う高田が手をさしだす。その助けを借りて、絵理菜は立ち上がり、噴水に戻りかけるが、足がもつれて、また膝が落ちる。
「あらあら」
高田がしゃがんで抱き起こそうとしたとたん、彼女は、おのれの上半身までもおのれで支えきれなくなり、ばたっと芝生に倒れこんだ。高田は笑って、真似して彼女の隣に寝っころがり、
「ゴメンね」
とかわいこぶってみせた。
「ホントにもう……勘弁してください」
「ごめんって」
「いいんですか? タキシード汚れますよ」
「いいよ」
絵理菜はそれより、つなぎっぱなしの、それも、指と指を交互にする、例のあの、恋人つなぎとか言われるやり方の二人の手のほうが気になった。振りほどいてもいいが、そこまでやるほどでもない。
「夕暮れだ。おれたちの苦手な時間だ。死の時間がやってくる。可知と不可知の世界の、あわいの時間だ」
と高田は言った。二人はあおむけで、東京に夜のとばりが訪れるのを、なんとはなしに眺めていた。
「絵理菜さんってさあ」
「うん」
「初体験、どんなだったの」
唐突だ。だが、そんな突っ込みをいちいち入れていては、コイツとの会話は成り立たない。
「高校一年生ですよ。ろくに入らなくて、初体験かどうかもよくわからない感じでしたけど。終わったあと、記念にって、わたしの裸の写メ撮られました」
「うわ、高校生で写メとかあるんだ。さすが平成生まれだ」
「次の日には、クラスでその写メ、見てない人、いませんでした」
「はっはははは。あ、わりい。笑いごとじゃないな。悪いヤツにひっかかったんだな、それ」
「悪い男じゃなかったみたいですよ。どうも仲いい友達数人だけに送ったつもりだったけど、こんなにひろまるとは思ってなかったみたいで。彼自身はいい人でした。でも、その日からわたしのいたグループの女子、全員、ガン無視」
「ああ、それは嫉妬だよね。アナタの裸がきれいだったからでしょ」
「いまだからそうだとわかるんですけど、当時は意味わからなくて、落ち込みました。単位、落とすギリギリまで学校休んだりして。でもいちばんつらかったのは、彼氏までわたしを避けるようになったことですね」
「マジ? やっぱそいつ、悪いヤツじゃん」
「同い年だけど、クラスは違ったんです。廊下で会ったときに、あっ、なんとかくん、って言って、手を振ったけど、無視されて。メールも帰ってこなくて。彼もこんなに写真が広がって、まあ、思うところがあったんでしょう。って、いまだから思えるけど」
「ダブルパンチ」
「それがいちばんつらかった。わたしは心のどっかで、男の人はわたしの味方って思ってるとこがあって。小さいころからかわいかったから、男の子に好かれたり、逆に女子からはいじめられたり。だから、男子はわたしを裏切らないって、無邪気に思ってたんです」
東京特有の、重たくて不透明な空が、ゆっくりゆっくり、暮れていく。
「その出来事があったから、人に裸を見られても気にならないって思ってたけど、……いま話してわかったけど、最初から、そんなこと、どうでもよかったのかも。最初から。羞恥心は社会によって教育されることで、抱かなければいけないと義務づけられる感情ですよ。どんなときに羞恥心を抱かなければいけないか、それを決定するのはわたしじゃない。巨大すぎて、名前もわからないだれかなんです。それをずっと、漠然と考えてました」
「いいね、いいね。じゃあ、ここでいますぐ下着姿になってって言ったら、なれるの?」
「なれますよ」
「見たいな」
絵理菜は立ち上がって、ミニドレスの背中のファスナーをおろし、着ているものを足元に落とした。ちょうどさきほどのエメラルドのような、高貴さを感じさせる深緑色の、上下おそろいの下着をつけている。彼女は胸を張って立っていた。
「待って。もう、よく見えなくなってる。照らしていい?」
「いいですよ」
彼は二つ折りの携帯電話を開いて、絵理菜の下着姿を照らした。
「きれいだ。きょうは勝負下着だね」
「はい。オペラ観劇にベージュのパンツじゃ、失礼かなと思って」
「ダャッハッハッハ」
「なんだったら、この格好でこの公園、一周してきますか」
「いいねいいねえ、絵理菜さん。そういうところ、好きだよ。自由だね。アナタの魂には、翼が生えてる。きれいだ。本当にきれいだよ」
絵理菜はなんと答えていいのかわからなかった。そのうちに、
「もう、服着ていいよ」
と彼は言った。
すっかり、夕闇が二人を包んでいた。
「やばいな。もう目が見えない。車、運転できない」
「だったら、わたしが……あ、マニュアル車だった」
「どっかで、一泊していこうよ」
絵理菜は、動物が人を警戒するときのような目で彼を見た。
「なんだよ。セックスしようとまで言ってないだろ。だいたい、おれには目当ての女がいるってさんざん言ってるじゃんか」
「もちろん、部屋は二部屋ですよね?」
「もちろん、部屋は二部屋。さっ、行こう。地図出したから、絵理菜さん見て、うまくおれを誘導してよ」
立ち上がって、背中の汚れを払い、彼は携帯電話を絵理菜に渡した。たしかに地図と、経路を示した太線が出ている。いつのまに操作したのか。そして、彼女の手を、もういちど取る。
「……こんなにふらふらしてるから、落とせる女も落とせないんじゃないですか」
「ふらふらって?」
「わたしと手つないだり」
「甲斐性だろ」
「そうですか……」
まさかとは思ったが、そのまさかだった。というのも、高田が指定したホテルは、世界じゅうの人間が知っている名前を冠していた。
ああ、また、人間が、だめになっていく……。
絵理菜は、また回転ドアを一周した。
「天丼、天丼」
と高田は笑った。ここでいう天丼とは、お笑いの業界用語の、繰り返しギャグのことをさしているほうである。
「じゃ、ここで待ってて」
と、ちょっとしたダンスホールくらいもある大きなロビーで、彼は絵理菜をソファに座らせ、フロントまで歩いていった。彼女はそわそわしっぱなしだった。借りができすぎているのが心配だった。高田の金離れのよさはありがたかったが、たとえばいざ迫られたとき、こんなにデート代を使ってもらってるんだからと思うと、キッパリ断りきれず、優柔不断な態度をとってしまうかもしれないと、それが怖かった。
「絵理菜さん、シングル二部屋はなかった」
戻ってきた高田はツラッと言った。
「だからツインにしたよ、ツインなら別々に寝るから、いいでしょ?」
彼はニッコリ笑った。なんとなく雰囲気で、こいつは最初からツインを取ったのでは、という気がプンプンしたが、どうにもならないので、絵理菜は抵抗しなかった。
「さーあ、腹減ったな。晩メシだ。レストラン、一階だってよ。埋まってなきゃ、そこで食べよう」
さあ、困った。レストランは、当然だがホテルの看板と同じくらい立派な雰囲気をかもし出していた。ウェイターさんが、テーブルの上のキャンドルに火をつけてくれた。高校を卒業する直前、家庭科でテーブルマナーを習ったはずだが、まるで覚えていない。
「食前酒、どうする?」
と、メニューを見ながら、高田が。
「はっ、え。食前酒?」
「うん。希望なかったら、こっちで決めるけど」
「あ、あっ、はい。おまかせします」
「じゃ、白にしよう。料理も、アラカルトで何品か、おすすめのやつとか聞いて頼もう。じゃなくて、コースがいい?」
「あ、わたしはその……おまかせします」
「そんなしゃっちょこばるなよ」
彼が笑った。でも、なんとなくうれしそうだった。
白ワインは、ワインの酸味が苦手な絵理菜でも、フルーツジュースを飲むようにすんなりと飲めた。あの苦手なすっぱさはほとんどなく、味が丸かった。
「すごい……。おいしいです」
「だろ? おれが選んだやつだもん。なあ、この店、ピアノあんだな」
絵理菜は振り向いた。たしかに、店の中心に、一段盛り上がった床があって、その上にグランドピアノがあった。いつかは知らないが、ピアニストを呼んで生演奏をするのだろう。
「そうですね、ありますね、って……」
彼女が顔を戻した瞬間、高田はすでに飛びだしていた。
彼は椅子に腰かけ、ピアノの蓋を開け、ポロンと、軽く鳴らした。レストランじゅうの客の視線が集まった。
出たよ、これだよ……。と絵理菜は思った。しかし、彼がピアノを、流れる小川のように見事に弾きはじめると、客たちはけして悪いトーンではなく、お互いにささやきはじめた。ウェイターたちすら止めに入るのもためらうほどだった。
しかし、いちばん驚いたのは、絵理菜だった。
「……高田さん、それ、アーケード版の悪魔城ドラキュラの、『夜まで待てない』!!」
もちろん原曲そのままではなく、おそらく高田自身の手によって、重厚なアレンジがされている。練習する暇がいつあったのか。
「どうして、それがわたしが悪魔城ドラキュラでいちばん好きな曲って、知ってたんですか?!」
「まあ、聴いてな」
高田はニヤニヤしながら目にも止まらぬ指づかいを披露する。そうすると、彼の言葉の意味がわかった。メドレーで曲がつながる。『Heart of fire』だ。
「あっ、それ、『暁月の円舞曲』の、わたしがいちばん好きなメドレーっ!! 高田さん、なんで……」
「タネもしかけもありません」
「あっ……」
絵理菜は手で口をふさいだ。
「鷲崎さんでしょ?! こないだ、悪魔城ドラキュラの音楽のことで、話盛り上がったから、鷲崎さんに聞いたんですよね」
「バレたか」
「もうっ……」
それでも、演奏が終わったときには、レストランの客たちにパラパラと拍手をもらっていた。高田は自分の席に戻ったが、椅子につかず、かわりにテーブルナプキンをくるくるとたたんで帯状にして、自分の目線にくくりつけた。
「あっ……!」
そして、目隠ししながらも、さきほどの演奏をもういちど、完璧に同じくこなしてみせた。これには、演奏中に、すでに、客じゅうから拍手をもらっていた。
演奏が終わると、彼は目隠しをとり、鳴り止まぬ拍手にお辞儀でこたえ、そして、さっそく次の曲にかかった。
……今度は、ボーカルつきで。
Oh yeah I'm the great pretender
Pretending I'm doing well
My need is such I pretend too much
I'm lonely but no one can tell
Yeah, I'm the great pretender
Just laughin' and gay like a clown
I seem to be what I'm not, you see
I'm wearing my heart like a crown
Pretending that you're still around
「お客様、ご遠慮下さい」
ウェイター長とみられる初老の男性が、キッパリと彼に言い渡した。
レストラン内の空気は、明らかに悪くなっていた。
「えっ? でもこれ、プラターズですよ」
「ご遠慮下さい」
「フレディ・マーキュリーがカバーしたんですよ?」
「申し訳ございません。ご遠慮下さい」
「歌詞にクラウンって出てくるけど、実際におれ、ピエロやってたんですよ?」
最後はとうとう絵理菜がひっぱっていって、席に強引に戻さしめた。料理が運ばれてくるまで、高田は本気でずっと、首をひねってばかりだった。絵理菜も不思議でしかたなかった。自分の喉という楽器だけは、唯一弾きこなせない彼を。
食事については、もちろん、書くまでもない。
テーブルナプキンで口をふいた高田は、それをティッシュのようにくしゃくしゃに丸めて、テーブルの上に置いた。
「これがマナー」
というから、絵理菜も真似する。
そして、いよいよ部屋に入ることになる。
絵理菜は駒野が猫のルーファスとじゃれているところを撮った画像をスマートフォンで見るなどして、できるだけ駒野のことを考えようとした。
「なあ、ちょっと飲みなおさない? さっきのワインもうまかったけど、一本三十万くらいするやつ、あけないか? 人生変わるぜ」
「いえ、いりません。シャワー浴びてきます」
絵理菜はこんどはちゃんと鍵をかけた。シャワーを浴びている最中にガチャガチャとノブを回す音が聞こえたが、二度同じ手にはひっかからない。
もふもふのバスローブを着て、絵理菜は浴室から出てきた。
「はあ……あした、仕事なんだけどな。夜明けの時間から車飛ばしたら、間に合いますかね?」
「おれ、早起き苦手なんだよなー」
「じゃあ、早寝しましょう」
絵理菜は自分のベッドのベッドカバーを剥がし、とっととシーツとシーツの間に身をすべらせ、高田に背を向けて寝そべった。
「おやすみなさい」
少しのあいだ、静寂が場を支配した。すぐに仕掛けてくると思っていたが、拍子はずれだった。だが、それはたんに、彼がもったいつけて、じらしていたのにすぎなかった。彼はタキシードを着たまま、絵理菜のベッドに近づき、しゃがんで、彼女の耳たぶにいきなりキスした。
「あっ……」
「絵理菜さん、絵理菜さんは、まだ女の歓び、知らないんだよね?」
「えっ……それは……そんなの……」
「約束する。今夜じゅうにいかせてあげる。明るくなるまでかかっても、おれの名誉にかけて、必ずだよ。魅力的だろ?」
「……しません」
「そう? コマとのセックスじゃ無理なんだろ? いま無理なら、百年たっても無理だよ。言っちゃ悪いかな~って思って、今まで黙ってたんだけど、絵理菜さんってさあ~……」
「なんですか」
「かなり下ツキじゃん。あれじゃあいきにくいのも当然だな。普通の男じゃ太刀打ちできないよ。おれのテクニックがなきゃあな」
絵理菜は、口を閉ざした。
高田はいつのまにかベッドに乗り上げて、絵理菜の肩をうしろから抱いていた。
「興味津々なんだろ? 挿入でいくってどういう感じなのか。なんでも、男の七倍……」
「男の七倍気持ちいいというのは都市伝説です」
「ああ、そう? でも、女だったらやっぱり、セックスでいける女になりたいよな? きょう、デートオッケーしてくれたんだって、どうせ、期待してたんだろ? 天国行かせちゃうよ、何度でもさ。どう?」
耳元で話されると、息がかかって困るので、絵理菜は体を丸めて頭を逃がす。しかし、相手もついてくる。
「また、無理やり犯したほうがいい? そういうの、好きだったよな。正直になれよ。おれが好きなんだろ? 何されてもいいって思うくらいに」
ふふんと、高田が鼻を鳴らした。
「……確かに、」
絵理菜は言った。
「自分でも、よくわからないけど……わからないけど……、惹かれてるのかもしれない」
「……えっ」
07
「それは……絵理菜さんは、実家に行くって言ってたんだよ。荷物取りに行くって……でも、きょうだいと遊ぶかもしれないから、夜遅くなったりとか、帰らないかもしれないって言ってた」
「よし、確認しよう。実家の電話番号は?」
鴨島は、ニヤニヤして言った。
「そんなん知らねえよ! 絵理菜さんに電話すれば、連絡はつくんだし」
「伊藤さんに電話してみるか? また、高田が出るかもしれないぞ」
「嫌だね」
きっぱりと、首を振る。
「そんな絵理菜さんを疑うようなことを、オレはしねえ。オレは絵理菜さんを信じぬく」
「うお~、カッコいいねえ。ま、真実を知るのが怖いだけとも言えるな。えーと、高田、高田」
鴨島はスマートフォンで電話をかけてみる。
「ダメだ、やっぱりあいつ、電源切ってる。自分からかける以外は切ってるんだよ、いつも。携帯電話の意味をわかってねえ」
「オレは……」
駒野は、苦渋の表情で。
「オレは、絵理菜さんが、自分で納得いかねえようなことはしねえって、信じてる……」
まるで、自分に言い聞かせるように。
08
振り向いたときに眼前にあった高田の顔は、自分から言い出したくせに、まったく予想外だというように、ぽかんとしていた。
そして、少し、こわがっているような顔もしていた。何を? 絵理菜をか、それとも、彼女の言葉をか、この状況をか?
「あなたの人間らしい部分を見たら、そう思えるようになった気がするんです。でも、そんなこと、いいんです。わたしの気持ちなんか、関係ないんです。わたしはただ、駒野さんを傷つけることは、しないだけです」
「なんだよ……結局ヒヨってるだけじゃねえか」
高田は、逆に、まるでほっとしたかのように、笑った。
「いいよ、駒野と別れろとまでは言ってない。おれは一生、二番目でいい」
また、彼女の耳にささやきかける。
「確かに何度も会ってれば駒野は気づく。でも奴は必ず見て見ぬふりをするね。波風ひとつ立たないよ。実際、昔そういうことがあってさ。ヤツが飲み屋でひっかけた女がデリヘル嬢でさ。最初はうまくいってたんだ」
彼はぺろりと絵理菜の耳蓋を舐め上げた。
「でも、今月ピンチだから、お店通して会って、なんてのが続きだしてさ。ピンと来たんだってよ、他の男の存在がさ。けっきょく別れちゃったんだけど、浮気に気づいてたってことは、最後まで黙りとおしたんだって。なあ、この話どう思う? ヤツを男らしいって思うか?」
「……駒野さんらしいって思います」
絵理菜は耳を責められる快感をおさえこむのに、いっしょうけんめいだった。
「おれは思わないね。ヤツぁ、ヒヨってただけだよ。他の男の話を持ち出したとき、二者択一で自分が切り捨てられるのが怖かっただけだ。臆病なだけなんだよ。弱い男だ」
「でも、そんな弱い駒野さんが、わたしは好きです」
「ふーん……じゃ、オープンに、三人で仲良く付き合っても、おれは構わないけどね」
「何いってんですか……」
「金曜は駒野、土曜はおれ、そして日曜のうららかな午後には三人でやる。どーお? 楽しそうでしょー」
「高田さん、あなたって寂しい人ですね」
彼は絵理菜の耳の溝にそってぺろぺろと舌を上下させるのをやめ、彼女の顔を見る。微笑む。
「おれが?」
「いつもウソとハッタリばかりで、それ以外はからっぽ。それをわかってて、いかにもへいきって顔してる」
「そうだよ、おれは巨大なからっぽだ。へいきな顔じゃない。本当にへいきだ」
「んーん。高田さんは、からっぽを埋めてくれる人を待ってるんです」
「考えたこともない」
「だったらどうして、ひとりの女性に、運命なんて感じたんですか? その女性との運命の先には、何が待ってるんですか?」
「あんまり調子に乗るんじゃないよ、お嬢さん」
彼は一転して、凄味をきかせて絵理菜を睨んだ。
「自分がいいこと言ってるように感じてるのか? 鋭いとこついたとでも思ってんだろ。残念だな。こっちはだてに、自分の年齢もわからなくなるほど生きてないんだ。同じことをおれに言ってくる女なんて山ほどいたよ。同じ表情で、同じ声色で、同じようなシチュエーションでね」
「だったら、その人のこと、教えてください。高田さんの、運命の恋の相手」
彼はベッドにあおむけになって、天井を見つめはじめた。
熟考のすえ、彼は空中にむかって、何かを包みこむように、両手をさしだした。
「百年に一度の、運命のおっぱいだった……」
絵理菜は、口をはさむ気にもなれなかった。
「よくおわん型がいいとかバカの一つ覚えみたいに言う連中がいるが、おれの理想はモンゴロイドによくある、いわゆるハの字型おっぱいだ。もちろんボリュームがあるほうがいい。握ったら両手の指までいっぱいになるくらいで、でかすぎずも小さすぎずもしない。そんで、大事なのはニューリンだ。うすーいセピア色のニューリンのふちが、白い肌にスッと溶けるようにグラデーションを描いてる。ニューリンはなあ、小さかったりひらべったいのはダメだ。ほどよくでかめで、おまけに、プクッとふくらんでるのが最高。敏感で、ちょっと刺激してやると、キュッと小さくちぢこまっちゃう風景なんて、たまんないねえ」
……わたしじゃねえか!!
絵理菜は思いきり叫びたかったが、我慢した。
「わたし、寝ます」
「本当にやらないの?」
「はい」
高田は傷ついただろうか。わからない。でも、自分にはこうするしかない。
彼が、隣のベッドにぼすっと体を投げだす音がした。服を脱いでいく衣擦れの音。
「あのさあ、本当にやらないの?」
「やりません」
「マジかぁ……」
しばらくして、ベッドサイドランプが消された。絵理菜は寝つくのに苦労した。耳を責められたおかげで、かっかと熱く、体が燃えていた。でも、これでよかったのだと思う。
「本当にやんないの?」
「やりません」
「つまんねーなあ。バーカ」
「子供ですか」
「ビッチ」
「アメリカですか。ていうかこの場合、やるほうがビッチだと思いますけど」
運命か……。
わたしも、ほんのいっときだが、福井さん相手にそれを感じていたことがある。だからわかる。だから、無下にできない。しかし、気を持たせるのは、いちばん残酷なのだろう。
「あーあ。ほんと、マヌケなヤツ」
それが二人のうちどちらかを指しているのかをあきらかにする以前に、意外とわりあい早く、寝息、そしていびきが聞こえていた。
目が覚めると、予想はしていたが、パンツだけの高田は、絵理菜の胸に顔を寄せていた。というか、バスローブの前をあけて、おっぱいを両手で握り、その合間に顔に突っ込んで、気持ちよさそうにグガグガいびきをかいていた。おまけに、のんきに朝立ちしたペニスが、絵理菜の脚に当たっている。
絵理菜は彼を、冷静に引きはがした。
完全に出社時刻に間に合わない時間だった。高田に聞かれると恥ずかしいから、絵理菜は浴室に行って、会社に、風邪で熱が出ているから休みたい旨、申し出た。風邪で、と言ったとき、不意に呼吸器官に唾液が入って、ゲホゲホと咳が出て、あっすごくわざとらしい、と思ったが、上司はかなり心配そうな声を出していたから、成功だったらしい。お大事にね、しっかり治して、との言葉が、痛かった。
「高田さん。チェックアウト三十分前です」
ミニドレスではなく普段着に着替えて、椅子にかけ、彼女は言い渡した。
「眠い……十分で支度する、だから、あと二十分寝かせて」
確かに彼は十分で魔法のように身なりを整え、タキシードのタイを結んだ。そして彼女はホテルのベルボーイがドアを開けてくれた助手席に乗り込んだ。
「じゃ、また」
高田は何事もなかったかのように、マンションに乗りつけ、ニッと笑った。ピエロのメイクは完璧というわけだ。そうされたほうが、よけいに、彼女の胸は痛かった。
彼は絵理菜が去ったあと、ポケットの小箱をつまらなさげに助手席に放り投げる。
「鴨島様の質屋行きかね」
そして、車を発進させた。
絵理菜は猫のルーファスが待っているマンションのドアを開ける。待っていたのは、猫ばかりではなかった。
「……駒野さん!」
彼は、ソファに横たわって、テレビを見ていた。
「あ、エリナさん。おかえりなさい」
「こっここ駒野さん。なんでいるんですか」
「仕事、休んじゃった……エリナさん、帰ってくるかなーって思ったから……」
「それだって、夜になったら必ず会えるじゃないですか」
「ごめん。夜まで待てなくて……」
「もう……」
絵理菜は駒野の腕に飛び込んだ。ふと、高田の香水の匂いがしみついてないか、心配になる。
「エリナさんこそ、仕事は……」
「休んじゃった……」
「仕事、いつもキツそうですよね。もう、辞めたら?」
「いえ、こんなわたしに内定をくださった会社なので、しばらくは働きたいと思っています」
「エリナさん……」
駒野はふと、真剣な顔になって、彼女を見つめた。
「はい」
「オレ……エリナさんを孕ませたいんですよね」
絵理菜は目をぱちぱちさせた。
「あっ、大丈夫です、エリナさんは仕事やめても、やめなくてもどっちでもいいです。エリナさんの気持ちを尊重します!! あと、育てるのなんかは、全部オレがやりますんで、心配しなくていいです。オレか、もしくはあいつら全員で、がんばって赤ん坊は見るんで、何もしなくていいんです」
「でも、前例ないんですよね? いままでの歴史で」
「わかんないじゃないですか。オレらが最初の前例になるかもしれないじゃないですか」
「駒野さん……。駒野さんの言ってることは、駒野さんの好きな『パットン大戦車軍団』とか『バルジ大作戦』とかを、百回観たら一回はドイツ軍が勝つときもある、って言ってるようなもんですよ」
「わかんないじゃないですか!! ドイツ軍、勝つかもしれないじゃないですか。実際に百回観ないとわからないですよ。だから、エリナさん……」
「はい」
「……百回、しましょう」
絵理菜は笑った。
「わたし、まだ二十二ですよ。赤ちゃん産むの、ちょっと早いかなって、うまくイメージできない」
「えっ……あ、そうですか……」
「……でも、駒野さんとの赤ちゃんだったら、きっと、かわいいんだろうな」
絵理菜は、駒野の首に抱きつき、唇に唇を重ねた。
「百回、してみましょうか……」
「エリナさん……いまさらですけど、エロい……」
「駒野さん、世界でいちばん、愛してる……」
猫のルーファスが、絡み合う二人を見ながら、ごろごろと喉を鳴らした。
09
「なあ、新宿とかにゴミ箱から拾った雑誌、売ってるホームレスあるだろ。あれって元締め、ザーヤクだって本当?」
「あーっもう、お前またすぐそうやって、あぶってすぐのやつ食べるーっ!」
黒川は怒り心頭だったが、福井は平然と特上ハラミを口に運び、ついでに大ライスのごはんも食べた。
「ちょっと生焼けのほうがおいしい」
「オレはなあ、じっくり焼いたのが好きなの! わかる?! お前みたいな生派がどんどん食べてくから、オレのようなのは肉、なかなか食えないんだよ!」
「よし、じゃあテリトリー制にしよう。こっから半分はお前の焼き場所。お互いに好きなだけ焼いて食うんだ」
「あっ、なるほど……」
「いまあるの食いきったら、店変えないか?」
相変わらず、一度に箸にのせるごはんの量が、ハンパじゃない。
「は? 店変えるって、また肉かよ、もしかして」
「うん、焼肉。ここ、店員の態度は悪いし、さっき頼んだ馬刺し、奥が凍っててシャリって音した。ガリガリ君みたいな食感だった」
会計で福井は、お前より稼いでるからと、半分より少し多めに払った。
「おい、本当かよ。焼肉屋ハシゴするヤツなんて初めて見たぞ……」
いい店を知ってる、と繁華街を歩き出した福井に、黒川がついていく。
「なあ、本当にやるのか? 普通、もう終わりだよなあっ? マジでまだ続くのか?!」
(了)
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