第7話 鳥類の救済
01
「あー、見つけた見つけた。伊藤さん」
改札を抜けたとたんに声をかけられて、絵理菜はびくっとした。鴨島は、長い髪をポニーテールにし、この暑い夏だというのに、スリムのジーンズにスタッズブーツを合わせていた。
「びっくりした」
「ごめんね。もう暗いから迎えに出ろって指令が出た。駒野、きょうも職場の酒盛りだし」
「家まで歩けるようになりました?」
「なんとか。次のライブの練習も始まったし、何往復かして、稽古して」
二人で歩いたまま、彼はポケットからフライヤーを出して絵理菜に渡した。
「これ、日程決まったから。都合よかったら来てね」
「あっ、行きます行きます。駒野さんが怒るかもしれないけど」
「じゃあ、アイツも誘えばいいんだよ。あ、髪の毛、明るくした?」
「あっ、ハイ。気持ちも明るくなるかなって思って。よく気づきましたね。駒野さん、気づくまで三日かかりましたよ、毎日のように会ってるのに」
「アイツはそういう奴だからね。っていうか、絵理菜さんって仕事、スーツなんだね」
「えっ。ああ、そうですね」
「高田あたりが騒ぐぞ、エロいエロいって」
「えーっ。ただのスーツですよ」
「でも、そのカッコのまま、コマとやったでしょ」
「……しました」
「あっはははは、あ、ちょっと待って」
鴨島は駅前のたい焼き屋でたい焼きを買い、二つのうちひとつを絵理菜に渡した。
「はい。伊藤さんのぶん」
「えっ、え。そんな、いいのに」
「こんな遅くまで仕事でしょ? ごほうび」
「……ありがとうございます……」
絵理菜はありがたく、たい焼きにかじりついた。
「あっ。それ半分くらいまで食べたら、交換してよ。そっち、白あんだけど、俺も白あん、食べたいから」
「……鴨島さん、さすがですね」
「え? さすがって」
「ちょっとドキドキしました。そういうところが、さすがの手口だと思って……」
「えー? ぜんぜん意識してなかった。でもたぶん、無意識にそういうことを日常的にやってるのが、俺の才能なんだな」
「そういうことだと思います」
「大丈夫、俺にときめいたって、駒野には言わないでおいてあげる」
「いや、そんな、ときめいたってほどではないです!」
「あーあ、もしかして四人全員が、駒野への秘密を握っちゃったりしてるのかな」
「へんなこと言わないでくださいよ!」
「そーいえばさー、さっきライブの話が出てるけど、実はちょっと憂鬱なんだよ。うちのベースが胃潰瘍持ちでさ、今回も入院決まっちゃって、ヘルプ引っ張ってこなきゃならなくてさ。人がいなくて、結局、あの男に決まっちゃった……」
「あの男って?」
「そいつ、万能で、ボーカル以外全部のパートこなせるし、腕はめちゃくちゃいいから、便利は便利なんだけど、MCで変なこと言うし、音痴のくせにコーラス入れたがるから、マイクのスイッチ切っとかなくちゃいけないし、コントロールが大変で……」
「あ。音痴ってところでわかりました」
「聞いたことある? 奴の歌声」
シャワーで、と絵理菜は言おうとして、すんでのところで、思いとどまる。
「なんか、酔っ払ったときかいつかに」
「アイツさあ、ありとあらゆる楽器を弾きこなせるんだよ。なんかこっちがよくわかんない楽器まで。なんか、『二胡』とか」
「ああ、ニコ……胡弓みたいなやつかな……」
「一時期ムキになって、奴が弾けなさそうな楽器を探しまくって弾かせてたくらいだが、本当に何も弾けないものがないんだよ。おまけに腕がいいんだ。特に、奴のラグタイムピアノの速弾きには、腹が立つほど感動するものがある。ちょっと前だが、楽屋で化粧してたら、次の日のイベントかなんかで使う、でっかい祭り太鼓が搬入されてきて」
「うん」
「まだタイタツ(太鼓の達人)も何もない時代だからさ、これやらせてみようぜって話になって。あー、思い出すだにムカつくよ、あの、妙に腰の入った……」
「あはははは」
「これだけ腕があるだけだったらいいんだが、実際はなあ……。リズムギターをやってもらったとき、なんか最後に、昔のパンクみたいに、うぉーとか叫んで、ギター真っ二つとかにしてて」
「はっはっはっは」
「そのバンドどころか、会場まるまる出禁にされてたよ。『そいつ見つけたら、真っ二つにしろ』みたいな。そしたら紹介した俺の立場もないだろ。本当にいいかげんにしてほしい」
「なんかないかなぁ、高田さんが弾いたことない楽器」
「おお、伊藤さんもなんか考えて。奴の鼻をいつかは明かすと決めている」
「……バイオリンはどうですか?」
「バイオリン? そういえば、意外とないかもな。基本的な楽器だけど」
「わたし、中学生まで習ってたので、実家にあるんですよ。中二のとき、受験でやめちゃいましたけど」
「ふーん。習い事してたんだ。もしかして、伊藤さんち、金持ち? あ、悪い。やっぱり後ろ歩かせて」
道がしだいに住宅地に入り、灯が少なくなってきたころだった。
「あははは、いいですよ。後ろ歩いてください。ちょっとドラクエみたい」
「なんの話だっけ? あ、そう、伊藤さんって実はお嬢様?」
「あー、えっと……どうですかね」
「お父さん、何やってる人?」
「えー……そのー……地方検察官っすね」
「なんだ、司法か。俺たちの敵じゃん。いつか殺すかもよ」
「えっ、ちょっといやそれは、勘弁してください」
「うそだよ」
「……バイオリン、今度持ってきますね」
「うんうん、よろしく。そっかー、お嬢様だな。この情報は流してもいい情報?」
「いや、そんなたいしたものでもないですよ、ぜんぜんぜいたくとかしなかったし」
「じゃあ偏見とかなしに、お父さんの職業だけ流すわ。どう判断するかは受け取った者しだいということで」
「……なんか、よけい怖くなりました」
ということで、二人はアパートに到着した。ドアを開けなくても今夜のメニューがわかった。カレーだった。
玄関を開けたとたん、さきほどさんざん話題になっていた人物が、
「おれはおっぱい派だ」
と、頬杖をつき、日本酒をラッパ飲みしてから、重々しく宣言した。
「っていうか、すべての男は潜在的におっぱい派なんだよ、鷲崎ィ、お前もそうだろ?」
「少な目によそってくれる? あんまり腹へってない」
「あ、わたしもせっかくですけど、少な目で。この時間におなかいっぱい食べちゃったら、また太っちゃうんで」
「わかりました」
鷲崎はそのとおりに、少な目のカレーライスを二皿、ちゃぶ台に置いた。
「おい、鷲崎聞いてんのか。お前もおっぱい派か、おしり派かで言ったらおっぱい派だろ」
絵理菜と鴨島はそろってカレーライスに手につけたが、鴨島がひとこと、
「それ以上飲ませるな。っつーか、だれが最初に飲ませた」
「カモ、お前だってそうだろ」
「俺はどっちでもない。どっちも好きだ」
「ほら出たー。そういうどっちつかず人間ー。でもそういう男だってな、必ず初対面の女のおっぱいチェックはしてるだろ? おっぱいチェック、してるだろ?」
「まあ、するけど」
「ほら! おれがすべての男は潜在的におっぱい派と主張するのはこれなんだよ! すべての男は、初対面の女のおっぱいをチェックしてるんだよ!! っていうか鴨島! お前は節操なさすぎだ。昔からさー、なんかゴミ出しに行くときとかさー、すげえババアとかがお前の部屋から出てきて、正直ひくんだけど。本当にあんなババアとお前、やってんの?」
「どんな女にも、必ずかわいいところの一つや二つ、あるもんだ」
「……やばい。お前、ちょっとかっこいい」
そこに、玄関ドアが開いた。駒野を待っていた絵理菜は彼を期待したが、彼ではない。
高田さえ一瞬押し黙った。絵理菜は嚥下しかけているカレーを戻しそうになった。
福井はあれ以来、ずっとサングラスなしだった。
「ちょっと寝過ごした」
と彼は言った。
「カレー、大盛で。急いで食べる」
ボウルに盛られた超大盛のカレーが、たちまちのうちに減っていく。口に運ぶのが早いというより、一回にスプーンに盛る量が、半端じゃなかった。絵理菜は茫然とその光景を見ていた。
「昔は、大食い店荒らしとか、よくやってたよなー。ほら、あるだろ、これ食いきったら一万円とか」
「懐かしい」
と福井が、咀嚼と咀嚼の合間に言った。
「へっ。大食いなんか、なんの特技にもならないね。単に燃費が悪いってだけだろ」
と高田が毒づく。
「今夜は、朝まで外か?」
「いや、つまらん用事だ。すぐに帰ってくる」
彼はからっぽのボウルを鷲崎に渡すと、ティッシュで口をぬぐい、氷水をがぶ飲みすると、さっさと玄関を出て、消えていった。
嵐が通り過ぎたみたいだった。絵理菜はぼんやりと、福井さんはおっぱい派かおしり派か、そしておっぱいチェックはするのかを、なぜ訊かなかったか、高田を憎々しく思った。
「気づいたか」
と鴨島。
「ああ。気づいた」
「はぁー。スーパーヒーローの次は何だ」
「えっ。えっ」
絵理菜は何が何だかわからずに、皆の顔をきょろきょろ見回す。
「ああ、絵理菜さんにはわからないか。玄関出るとき、アイツ、ちょっとだけ殺気が出てた」
「えっ!!」
「つまんない用事なんて言いやがってさ。ひと波乱ありそうな感じじゃない?」
「しかも奴は秘密主義だから、何も言わんだろうな」
鴨島は高田のまねをして、大げさに肩をすくめた。
「はー、いいなー、おれもそろそろ戦いたいなー。もう体がなまってなまって、油さしたいよ。おれさあ、棒術とか好きなんだよね」
「棒術?」
「そう。たいていは喉とか肝臓とか突くのがセオリーなんだけど、おれは力の加減ができないタチでさ。突き破るようになっちゃって、殺しちゃうから、それはできなくなった。だから、せいぜい足払いかけて倒して、金的潰すくらいしか戦法がないんだが、でもさあ、棒術は見た目がカッコいいんだよ! 棒術はさあ、男のロマンなんだよ!」
バンと音をたてて、勢いよく玄関ドアがあく。こんどは、駒野だった。かなり酔っ払っている。
「……あー、飲まされたー……」
「おい駒野! お前、おっぱい派か、おしり派か、どっちだよ」
「駒野さん、大丈夫ですか」
絵理菜がすぐに、支えに向かう。
「なんだよ。生まれついてのおしり派だよっ」
「じゃあお前は、初対面の女のおっぱいチェックはしないのか?!」
「しねーよ!!」
「絵理菜さんのおっぱいもチェックしたろ」
「うっ……」
座り込んだ駒野の隣で、絵理菜が、
「そこは嘘でも否定したほうがいいと思います」
「さあこれで、おれの主張する説、すべての男は潜在的におっぱい派がここに成り立つものとする」
「あ……鷲崎、カレーいいわ。つまみとかなんかで、おなかいっぱいになっちゃった」
02
しなびた木のように古びたアパートから出てきた福井を見て、黒川は目を丸くした。
福井は、あたりまえのように、後部座席のまんなかに乗り込み、足を広げた。
黒川は振り向いて、その様子をまじまじ見つめる。
「あの……誰?」
「俺だ」
「サングラス、どうしたんだ」
「落とした」
「……しかも、若頭じきじきに呼ばれて、Tシャツにハーフパンツかよ……」
「ドレスコードがあるとは知らなかった。いまからタキシードに着替えてくればいいのか?」
「もういいよ、わかったよ。俺の知ったことじゃない」
黒川はあきれ返りながら、黒のベンツを発車させた。
「マル暴って、ホントにベンツ、乗ってんだな」
と福井は言った。
「ステレオタイプとか、自分たちで思ったりしないのか?」
「うるさいな。……きょうの若の用事は、制裁か、スカウトか、どっちかだ。だがまあ、後者の可能性が高いだろ。オレたちに招集がかかっていないからな」
「それは、ご親切にどうも」
「油断すると不意を打たれるかもな。オレはしょせん、組織全体からすればまだまだ下っぱだ。オレにも回ってこない情報なんて山ほどある」
「用心するよ」
「……なあ、マジな話、お前、あん時、四人を一瞬で片付けたんだろう? 一対何人までなら対応できるんだ?」
「人数によって戦法が違うし、なんとも……」
「一対十とか、二十ならどうだ」
「チンピラレベルの実力だったら、とにかく相手を翻弄するような動きをしていれば、向こうがビビッてる間に一瞬。格闘技とかで鍛えてる奴らだったら、まあ、背中をとられないようにして……」
「囲まれたら」
「まず囲まれる状況に持ち込まない。どうしても持ち込まれたら、ジャンプして、そのへんにつかまるもんがあるかどうか探して……。家とかあるんだったら、屋根を走って逃げて、敵を散らして、一人ずつ片付ける。何もない場合も、むこうが俺の跳躍力にビビるだろうから、ビビられてるうちに逃げて、敵を散らす」
「……じゃあ、一対三百なら」
「トラックで突っ込んで、全員轢く」
「背後からピストルで撃たれたら」
「振り向いて、歯で噛んで止める」
「ウソだろ?!」
「うん。冗談」
「……なんだよもう。で、正直な話、お前、習った格闘技の流派とかあんのか」
「格闘技という言葉が日本にできる前から戦っていたから、ない」
「あー、もーいいよいいよ、まったく」
車がビルの駐車場に停まる。どうやら、ここが組の事務所らしい。
「さっきも言ったが、お前。今夜の話はほぼスカウトだ。だけど万に一ってことはある。そのときは……」
黒川は、じっと考え込むようなそぶりをする。
「なんだ」
「……いや……その……なるべく、組員にケガ人は出さないでくれよ。ただでさえ人手不足なんだ」
「心にとどめておく」
黒川はいちおう、いやいやながらという顔をつくって、後部座席のドアを開けてくれた。
下りた福井に、耳打ちする。
「事務所の窓は強化ガラスだ。万一のときは逃げれるか?」
「問題ない。どうも」
「ちっ」
黒川は中指を立てながらも、ビルに入り、福井を事務所へ案内していった。
03
「確かにオレは最初はおっぱいチェックはした! けれど、その後、エリナさんのおしりを見たオレは神に誓って改心した! オレは一生、おしり派というより、エリナさんのおしり派でいる!!」
「あの、駒野さん恥ずかしいからやめてください」
「絵理菜さん、裸見せるの恥ずかしがってなかったじゃん。泊まったときとか平気でおれの前で着替えして、コマがピリピリしたりしてさあ。なのにそれは恥ずかしいの」
「裸見せるのと、彼氏が私のおしり派宣言するのは、ちょっと違います……」
「高田!」
駒野は、しがみついていた絵理菜も思わず退くくらいの大声を、突然出した。
「きょう、お前は鴨島か福井の部屋に移動しろ」
「俺のとこでいいよ。女、きょうは来ない」
と鴨島。
「じゃあ、立ち退き料、一万えーん」
「あーもう、コイツはいちいち……」
「悪いね、こういうところから金とっとかないと、貯まらんしね」
「払うことないですよ、駒野さん」
絵理菜は、妙にすわった目で言った。
「こんなやつなんか無視して、目の前でセックスしてやればいいんです。そしたら、向こうから逃げるでしょ」
「なんだよ、絵理菜さん最近冷たいなぁ~。おれが絵理菜さん怒らせるようなこと、最近、あったっけ~? それにおれは逃げねえぞ。参加させてもらうか、ダメでもじっくり眺めるね」
「あーあ、ひとり部屋が欲しいなぁ~」
壁に背をついた駒野は、タバコをふかしはじめた。
「借りればいいじゃん。こんなに大所帯でたくさん借りてんだから、大家さんも家賃だいぶまけてくれるよ」
「いや、それも考えたけど、初期費用とか考えると、貯金作ってからとか思うんだけど、貯金がたまんなくて……」
「いっそ、絵理菜さんちに転がり込んで、同棲すれば?」
と鴨島。
「えっ!!」
と絵理菜。
「ああ、いや、それも考えたんだけど、あそこワンルームだから、女の子と二人で暮らすには、ちょっと狭い部屋なんだよな」
「でもここも同じくらい狭いだろ。いっそちょっとだけいい部屋借りて……」
「いいじゃんいいじゃん。絵理菜さんとの愛のセックス部屋借りなよ」
「セックス部屋って……普通に言ってくださいよ」
「絵理菜さんはどうなの? 同棲できたら、したい?」
「えっ……」
絵理菜はそこで、口ごもる。
「え、えっ……なんでそこで口ごもるんですかエリナさん。そのー、オレはいいなって思ったんですけど、ダメですか」
「ダメっていうか、ほら、引っ越しって大変だし、梱包とか。いま仕事で手一杯だから、もうちょっと先かなーみたいな」
「あ。思い出した」
と鴨島が手を叩く。
「俺とあのビール瓶女、あれからどうなったと思う」
「どうなったんだよ」
「いっそう仲が深まって、おこづかいが倍になった」
「ダャッハッハッハ」
高田が笑った。
「お前はそういう男だよ、カモ」
「しかもおまけに、なんだかわからないけど、マンションくれた」
「マンション!!」
「つっても一部屋だけど」
「十分すごいよ!!」
「うん。一回だけ見に行ったけど、2LDKで、まあまあキレイだったよ。そこ、二人にやるから、住まない? もともと俺たち用に買ったんだろうけど、こないだ、名義も俺にしてもらったから、知らないうちに駒野と絵理菜さんの共同名義にでも変えて、鍵とかなんかも変えといて、あとはトボけとけば大丈夫。あの女と会うんだったらここでも会えるんだし。ちなみにペット可物件だった、ご心配なく」
「ば、場所は?」
「T駅のすぐ北」
「い、一等地じゃないですか!」
「ほーら絵理菜さん、おれたち初対面のときに言ったこと、あたったでしょ」
「え?! な、なんか言いましたっけ?!」
「なんでもうまくいくってさ」
「あ、ああ」
絵理菜は、足をくずして座っている自分の太もものあたりをじっと見つけた。
「……エリナさん、どうっすか。オレ的にはかなり、ウェルカムな状況なんですけど」
「な、なんか、うまくいきすぎて、こわいです」
「えっ?」
「いや、皆さんと付き合ってからというもの、すごい外車に乗せてもらったりとか、人にさらわれるというあんまりない出来事を体験させてもらったりとかして……その上、二十二歳にしてマンションを持つとか、ちょっと、あまりにも……」
「そうか。所有するのが気がひけるなら、家賃でも取ろうか。月五万とかでいいぞ」
「安っ!」
「だ、だから、ダメなんですよ……若いうちにそんな贅沢をしては……」
「エリナさん……その感覚、ちょっとよくわかんないなぁ……だって、くれるって言ってるなら、とりあえずもらっとくのが普通だと思うんですけど」
「だ、だから、ほら! いま忙しいから、引っ越しは無理だし」
「いいかげん察せよ、コマ」
と、高田が鴨島の髪を三つ編みにするなどして、遊びながら言った。
「はあ? 何をだよ」
「絵理菜さんは、お前と同棲なんか、したくないんです」
「そ、そんなこと言ってません!」
「なんだよそれ。なんでそう思う」
「って言っても、お前を愛してないわけじゃないよ。ただ同棲がイヤなだけなんだよ」
「言ってませんって!」
「じゃ絵理菜さん、同棲の経験はある? ない?」
「う……」
彼女の動きが、止まった。
「えっ? あるの?!」
駒野が飛び上がった。
「……二十のときですよ。一年間くらいだけです」
「別れるとき、大変だったでしょー? 家具の分配とか、引っ越しとか」
「はい……」
「正直引っ越しが面倒だから、ズルズル付き合ったままでいて、なかなか別れようにも別れなかったり」
「……はい」
「わかった? 絵理菜さんは、お前と別れたときが面倒だから、同棲したくないわけ。つまり、今後別れるかもと思ってるの」
「そんなことねえよ!!」
駒野はもともと酔っ払って赤い顔を、いっそう赤らめて、大声を出した。
「なっ、エリナさん、そうだよな? なんか言ってよ。コイツの言ってること、全部デタラメだよ」
「い、いえ……」
絵理菜は涙がこみ上げてくるのを感じて、自分も酔っ払っている、と思った。酔うと涙腺がゆるくなるタイプだった。
「高田さんの言うとおりです。みんな、ほんとのわたしを知ったら、すぐ、離れてっちゃうから……」
「えっ、エリナさん、そんな……」
「はーあ、キレイなこと言ってるけど、それが本当? だってこいつ、絵理菜さんのこといかせられもしない男だよ」
「えっ」
「あっ」
駒野と絵理菜が、固まった。
「……ちょ、ちょっと駒野さん。何ふれまわってるんですか」
「いやちち違う。待って待って。付き合いはじめ! 付き合いはじめて二週間とかそのくらいに、えーと、」
「ふれまわったんですね?!」
「いや、違う。相談。相談したんです。悪意とかじゃなくて、そのー、悩んで」
「やっぱりセックスの相性って、大事だよな……。いかせてくれない男なんかとは、まあ、付き合いも短命だろうなあ」
「違います!! いきました!! 駒野さんがそういうこと言ったあとに、いきました!! 毎晩、いきまくってます!!」
「ふーん。じゃ、潮吹きは? 平均どのくらいで吹く?」
高田は右手で、Gスポットを刺激するときの卑猥な動きをしてみせた。
「し、潮……」
「ああ、もういいよ、わかったわかった。絵理菜さんって、セックスでまだ一回もいったことないでしょ」
「あーもう!! 駒野さんのバカっ!! ちょっと、頭冷やしてきます!!」
彼女はちゃぶ台にあった誰かのハイライトとライター、それに灰皿用の空き缶をとって、ベランダに出た。駒野があわてて追いかけた。
手すりに体をもたれかけている絵理菜の隣に並ぶと、すぐに毅然と、しかし涙目で、
「あんなことバラすなんて、信じられない」
「いやあれは、知らなかったんだよ、ぜんぜん知らないときに相談したんだよ。リラックスすればいくってことを信じきってた時代に……ていうかさ、エリナさん」
彼女は頭がくらっとするぐらい思いっきりタバコを吸い、そして、思いっきり煙を吐き出した。
「不思議なんだけどさ。エリナさん、オーガズムを体験してない女性は七割、って言ってたよな? だったら、何も恥ずかしがることないじゃないか。多数派も多数派じゃん。……って思うんだけど、オレ、なんか、わかってない? わかってないポイントとか、ある?」
絵理菜はタバコをいったん手に持って、駒野にぎゅっと抱きついた。
「え、あ……」
カーテンはないから、中から様子が丸見えだ。みな、ニタニタしている。それでも駒野は決心して、彼女を抱き返した。
「駒野さんの言うとおりなんです……」
「エリナさん」
「駒野さんの言うことは正しいんです。なのに、私がいま、恥ずかしがっていることが問題なんです」
「え? ああ……」
「これが問題なんです……」
「エリナさん……だったらやっぱり、エリナさんは恥ずかしがることないと、オレは思います」
「そうなんだけど……。でも……。駒野さん……ありがと」
「えっ?! ああ、いや。エリナさん、泣かないで……」
「うっ、うくっ、ごめんなさい。うぇーん」
「え、エリナさ~ん、泣かないでよー」
04
「はぎっ」
ドアを勢いよく開けると、壁とドアと、なぜか黒川がサンドイッチになった。
福井は後ろ手にドアを閉めると、両手をついてはあはあと息を切らす黒川を見下ろした。そばにはプラスチックのコップがころがっていた。
「お前、何やってるんだ」
「……べ、別に……ああっ、また……」
黒川はとれた前歯の差し歯を、ぐいぐいと押し戻した。
「その様子じゃ、スカウトだったみたいだな」
「ああ」
「それで、どう返事した」
「組員はごめんだと断った」
「な、なにぃっ。お前、それでどうして生きて帰ってきたんだ」
「組に所属しない、完全外部契約のセキュリティガードってことで、話がおさまった」
「完全外部契約だぁ~~?」
彼を無視して階段を降りはじめる福井を、黒川がついていく。
「そう。あとは、仕事は日が落ちてから日が昇りだすまで。週休二日。あとはまあ、それなりのお給金」
「それなりって、どれくらい」
「んー、あのとき四人いっぺんに倒したから、とりあえず、四倍かなって思って、四倍って言ってみた」
「四倍もかよ……」
「値切られるのコミでふっかけてみたんだけど、案外、そのまま通った。人手不足ってのは本当みたいだな。一週間ばかり、お前について勉強しろって言われたよ」
「ほっほう。そうか。たった一週間だが、お前はオレの下につくわけだな。悪い気分じゃない」
「違う。上も下もない。お前のやり方を見て勉強するだけだ」
「……学校で言ったら、生徒と先生だろ。下だろ! お前が!」
「給料を教師の四倍もらう生徒がいるか?」
「い……いるかもしれないだろ! そういう学校も、あるかもしれないじゃん!」
「家まで送っていってくれるか?」
「うるせえよ。言われなくてもオレの役割だ」
05
「完全外部契約だぁ~~~?!」
聞いた瞬間、駒野は福井の胸ぐらをつかみあげていた。身長差があるから、福井はつま先を伸ばすかたちになった。
「お前、それで本気で組と関わり合いにならないとでも思ってんのか?! 冗談じゃねえ。どんな形でも一度組と手を組んだら、あいつらはどこまでも追いかけてくる」
「大丈夫だ。俺はそんなヘマはしない」
「その自信はどっから湧いてくるんだよ!! あ?! お前な、オレたちだけで行動してるうちはいい。だけどな、もうお前は、守る人がいるだろ!! 守るべき女がいるだろうが!! お前がなんかやらかしたとき、エリナさんの身に何かあったら、どうワビ入れんだよ!!」
「伊藤さんに何かあったら、この街の構成員全員海に浮かす。こんな小さな田舎街だ、手間でもない」
「はあ?! 何もわかってねえじゃねえか、何かあってからじゃ遅いんだよ!!」
「駒野さん、やめて」
絵理菜は言葉通り、涙ながらに駒野にすがりついた。
「やめて……福井さんが大丈夫って言うなら、きっと大丈夫だよ」
「……ちょうどいい。てめえは前々から気に入らなかった」
「ああ。気に入らない理由もなんとなくわかる」
「そこはわかんないでもいいポイントなんだよ!! お前とタイマンでやり合うのは久々だな。言っとくけど、オレは毎日、現場で体鍛えてるからな!! お前がつえーのはわかってるけど、勝つのはオレだ!!」
「おっと、待った」
福井の背後にまわって彼を駒野からひきはがしたのは、高田だった。
「こんなかわい子ちゃんのきれいな顔に傷がついたら、絵理菜さんが悲しむ。ここは代理試合といかないか?」
「代理試合だぁ?」
「そう」
「お前は引っ込んでろ。オレがヤキ入れたいのはコイツだ」
「お前は言ってることが大げさなんだよ。絵理菜さんの身に何があったらって、いまどきヤクザもカタギのタマまで取らんだろ。せいぜいマワされる程度だろー? それくらい、もともと絵理菜さんは誰とでも寝る女だから、ヘーキでしょ」
空気が凍りついた。高田だけが躁的にニヤニヤしていた。
「お前、いま、なんつった」
「そんなに何度も聞きたい内容か」
「なんつったか言えやっ!!」
「いいよ。何度でも言うよ。あんたの女はヤリマンだよ」
駒野は福井をどんと突いて脇にのけ、今度は高田の胸倉をつかんだ。彼は顔色ひとつ変えず、ニタニタ笑いをやめなかった。
「よくわかった。まずはお前からだ。お前をぶっ殺してから、福井だ」
「おおっ、おれの挑発を受けて立つか? いいのかぁ? 東洋のジョン・ウェイン・ゲイシーと呼ばれたこの殺人ピエロとホントにやり合う?」
「だれだろうが関係ねえ。エリナさんを侮辱したヤツは全員ぶっ飛ばす」
「場所、近くの中学校のグラウンドにしようぜ。広いし、けっこう明るいし、大声出しても大丈夫だ」
「いいぜ」
「ちょ、ちょっとやめて。高田さんも、駒野さんを止めてください」
「いいんだよ、絵理菜さん」
鷲崎が彼女の肩に手をかける。
「あれで、ガス抜きになってんだ。たまにこういうこともないと、本気で爆発する」
「そんな……そんな……」
絵理菜は震えが止まらなかった。ぞろぞろと出ていくとき、誰かのブルゾンをとって肩にかけてやるなど、鷲崎はなにかと彼女を気遣った。
中学校はすぐそばだった。高いフェンスをひょいひょいと、難なく、駒野と高田は越えていった。あとの人間は、フェンスの外から観戦だ。
「このあたりにしない?」
と、ピッチャーマウンドの土が盛り上がる寸前のところあたりで、高田は足を止めた。
「いいぜ」
「じゃ、ちょっとだけ待ってて」
高田はピッチャーマウンドの丘の上で、何かを拾った。全員の視線が注目する。
それは……。
「……棒術か」
と福井がつぶやく。
「は、はぁ?! お前、いつそんなもん、そこに置いといたぁー?!」
「んーなんか、なんとなく、きょうこんなことが起こるかと思って、夕暮れに置いといた!」
「はぁっ?!」
「ふふっ。ビビっちゃった? ビビったなら、すでにおれの術中にハマってるよ」
「だ、だれが!!」
「こっちはもう、いつでもいいよ」
高田はななめに角度をつけて、棒の先を地面につけた。
「棒術なんて、また、マニアックな……」
あきれた様子で、鷲崎がつぶやいた。
「だけど、あいつらしい」
と鴨島。
「確かに」
と福井。
棒術の棒は、もちろん、どんな武器よりリーチが長い。フルコンタクト空手の構えをとった駒野は、なかなか飛び込めず、様子見に少し踏み込んでは、棒が円を描きかけるのを見て退くのを繰り返していた。
「早くも膠着か。駒野にも得物があったらよかったんだが」
と福井。
「俺が相手だったら、とりあえず二三発殴らせておいて、首の、気絶するとこ叩いて、すぐにでも終わらせたんだが」
そこで、絵理菜ははっと気がついた。聞いてない。駒野は、高田がペラペラしゃべっていた、棒術の戦法を聞いてない!
「こ、駒野さんっ!!」
絵理菜がいきなり大声を出したものだから、彼女を守るように肩に手を置いて鷲崎が、ちょっとビクっとする。
「あっ、足払いです!! 高田さんは、足払いを狙ってきます!! 気をつけてください!!」
「あーあ、戦法一個、つぶしちゃっていいのかなあ~?!」
高田はこれでも顔色を変えない。
「本当に喉とか肝臓、突き破っちゃうかもよーーー?!」
よそ見をしている高田の隙をついて、駒井はいっきに距離をちぢめ、彼の顔を狙って拳を打った。その瞬間、棒が鋭く回転し、彼の手をビンとはじいた。いったん距離を取る。今度は腹に蹴り。届く前に、また棒が回転し、あやうくバランスを崩して倒れそうだったが、なんとか堪える。
要するに、プロペラの中に手を入れようとするもので、まったくの完璧な防御だったし、そのうえ、びんびん痺れるようなダメージも残る。
「……ちきしょう」
手出しができない。高田は、実にいきいきとしていた。
「相変わらず、構えだけは極真で実際は我流なのな。時間がもったいないから、こっちから行こうか?」
「う」
さっき聞いた、棒で体を突き破るという話。もし実行するとしたら、急所はもちろん外すだろうが、この太さの棒が、体を貫通するかと思うと……。
「どうした、腰が引けてるぞ!」
ズズズズッ、と棒が地面を擦る音がした。リーチの長さが売りの棒を持ちながら、なんと、高田は距離を詰めてきた。
そして彼は、地面に垂直に棒を立てたかと思うと、それを起点に円を描くように、横向きに浮いた体全体を振り回して、駒野の顔に回し蹴りを食らわせた。
駒野の体は、あおむけで、どさりとあえなく地に落ちた。
「ああ、駒野さん……もう、見てられない」
「絵理菜さん、大丈夫ですか。吐きますか?」
「あははは。こういうのもあるんだよ。びっくりしたろ。あ、気絶したかな」
高田が駒野の様子を見るため、彼の顔をのぞきこんだとたん、彼のアッパーカットが顎に直撃した。いきおいをつけて、棒が飛んでいった。
後ろに手をついて倒れた高田が、起き上がった駒野を見て、ニヤーリと笑う。駒野も笑う。
「らぁぁぁぁぁ」
それから先は、ガードなしの殴り合いだった。いや、違う。常人には見えないほどの速さで、彼らはガードしつつも、拳を打ち合っているのだった。
「ああ、もう……」
「絵理菜さん、大丈夫ですか」
「うん。鷲崎さんの作ってくれたカレーだから、吐かない……」
それでも鷲崎は、絵理菜の背中をさすってやった。
「そろそろ勝負に出るな」
と福井がつぶやいた。
「ああ。決着をつける。どっちかがしかけてくるぞ」
「あっ……」
それは駒野だった。彼は高田の顔を、ぐい、と両手で包むように掴んだ。
「ヘッドバットか。……ん?」
観戦者の全員が、首をかしげた。
駒野は高田の顔めがけて、連続で何発も何発も、ヘッドバットを入れている。しかし観戦者たちは、何かが違う、と思わざるをえなかった。
「……あいつ、デコじゃなくて、自分の顔でヘッドバット入れてないか?」
鷲崎が指摘した。
「……もうっ! あの酔っ払いっ!」
絵理菜が頭を抱えた。
そんなヘッドバットの入れ方をするもんだから、両人どちらのものともしれない血しぶきが、遠くの観戦者からもわかるほど、激しく飛び散っていた。
「うらぁぁぁぁぁ!!」
駒野は雄叫びをあげたが、最後の力を使い果たしたとみるや、その場にぶっ倒れた。彼に掴まれたままの高田もいっしょに。
「勝負はついたな。いや、ついたと言っていいのかどうか……。とりあえず鴨島、運びに行くぞ」
「おう」
福井と鴨島がフェンスをひょいひょいと乗り越えて、駆けていく。絵理菜は一刻もはやく二人のそばに行きたかったが、それはかなわない。
顔を血まみれにし、死体のようにぐったりとなった駒野を、福井がひょいとフェンスの内側から投げると、鷲崎がキャッチする。高田も同様だ。
「大丈夫、歩ける」
絵理菜も声をかけるほどためらうほど、高田の顔はひどいものだった。それでもニタニタ笑っているところが、なお不気味だ。
「いやー、アレはさすがのおれでも読めなかったわ。あー、あばら、二本はいったな」
「勝った。オレは一本だ」
鷲崎におんぶしてもらって帰っていく駒野は、意識だけはあるようで、強気に毒づいた。
「ま、こんくらいの軽傷で済んでよかったな。二人ともスッキリしたろ」
と鴨島。
「まだだ。まだ福井をやってねえ」
「駒野さん、お願いします、もう……」
「エリナさん、止めねーでくれ。男にはなあ、なにがあっても戦わなきゃいけないときってのがあるんだよ」
「もう今回で十分です。駒野さんが福井さんとやるなら、わたし、駒野さんと別れます」
「……マジに?」
「マジです」
「……じゃ、やめる」
06
初出勤日は、さすがにスーツを着ていった。
「いい生地だな。仕立てか」
「吊るしだと、サイズが合わない」
「ふぷっ。そうだな、そのタッパじゃな」
黒川は、車を発進させ、それから、彼のさまざまな行き先についていった。たいていは、金の取り立てだ。みかじめ料、振り込め詐欺、ソープで女の売り上げのピンハネ。
「どうだ。つまらん仕事だろ」
黒川は薄暗いバーに入って、カウンターに座り、ダイキリを頼んだ。福井も、同じの、と言った。
「売人とか、振り込め詐欺のトップとか、ああいうのは基本的に組員はやらん。やるのは、まあ、たいていシャブ漬けにした一般人だ。組員はシャブをやらんからな。それをエサに働かせてるってわけだ」
サングラスをかけ、厚着をした男が黒川の後ろにまわると、スッと封筒をテーブルに置いて、すぐに退散していった。
「いまのは売人」
封筒は、すぐにセカンドバッグにしまう。
「待ち合わせ場所は毎回変えてる。シャブを渡す場所も、別々だ」
「なんで、こんなつまらん仕事をしてるんだ」
「決まってる。真面目にコツコツやってりゃ、いつかのし上がれるからだ」
「会社員でも、真面目にコツコツやってれば、いつかはいい立場になれると思うが」
「うるせえな。どうせオレは裏稼業の人間なんだ。そういうふうに生まれついたんだよ」
「お前、正体はヤタガラスだろ? ずいぶん落ちぶれたもんじゃないか。神の使いが」
「日本じゅうにヤタガラスなんて、佃煮にして食うほどいるぜ。っていうか、みだりに正体を口にすんなよ! お前のも言ってやろうか、このシロフクロウ」
「それは悪かった」
「まったく……コイツが同僚かよ。頭いてえ……」
繁華街から事務所へ歩いて帰るとき、福井は正面から向かってくる人物に気づきながら、けしてその方面を見ようとしなかった。
鷲崎は、黒川の後ろをついて歩く福井の姿に、茫然となっていた。
あの男は……。
鷲崎は考え込んだ。
「……誰だっけ……?」
07
チッと舌を鳴らしながらも、鴨島は彼に演奏をやめさせることはなかった。
絵理菜は、少しばかり、涙ぐんでいた。
駒野は、滂沱の涙を流し、ついでに鼻水も流して、ぐずっぐずっと、子供のように泣いていた。
高田のバイオリンの演奏である。
「こんな感動的な音色が、世の中にあるのかっ……」
駒野は涙をぬぐった。先日の決闘のあと、すぐに顔じゅう腫れ、紫色になっているのだから、ちょっとしたホラー映画のような顔になっていた。
「ねっ、これでわかったでしょ。音楽に心なんかいらないんだよ。よく心のこもった演奏とか言うけど、演奏なんか、完全に物理的なものなんだよ。このおれがこんな素晴らしく弾きこなしてるんだから」
高田は最初はケースを開けて『おお、これが世に名高いストラディバリウス』とつまらない冗談を飛ばして一同の黙殺を買い、次に、『子供用か。うまく弾けるかな』と言って一同の期待をあおり、また、『じゃ適当に、モーツァルトあたりでいい?』と言って、反感を買った。こいつの口からモーツァルトという言葉が出るだけで穢れる気がする、むしろモーツァルトに土下座して謝ってほしいなどの大ブーイングだった。
『わかったわかった。じゃ、マルティーニのPlaisir d'Amourで』
その結果が、こう、というわけである。
「まいりました……」
絵理菜は鼻をぐすっと言わせながら、深々と頭を下げた。
「なんで、これでああまで音痴なんだか」
と鴨島が首をかしげる。
「さ、次は何がいい~? ロマサガのバトルメドレーもできるよー。もちろん1から3までね」
08
絵理菜はハッと目覚めた。
駒野は、彼女のそばで、大いびきをかいている。
時計を見る。午前六時。窓の外はもう明るくなりはじめている。
はーっと息を吐く。
……初めてじゃない。けど、いつも戸惑う。
福井の夢を見てしまった。
……しかも、やってた。いわゆる淫夢だ。
彼が、絵理菜の肩を床に押しつけていた感触まで、まだ残っているようだ。無理やりだった。強姦だった。周囲に人もいて、わたしたちを見守っていた!
絵理菜は体の中心に手をやる、ああ……。
濡れている。
向こうをむいて寝ている駒野のそこを、彼女は操られるようにまさぐる。硬い。朝だ。絵理菜は、トランクスの前をあけて、駒野のペニスをひっぱりだした。そして、傷にさわらないように、そっと、あおむけにする。
そして、腰にまたがり、亀頭を入り口につける。
もともとたっぷり濡れていたから、それほど上下させて慣らさなくても、どんどんそれは絵理菜の奥へ入っていく。
「あ……」
それが彼女のいちばん奥を突いたとき、彼女は白い首を見せて喘いだ。
「ん……んう……エリナさん……?」
駒野が気づいて呼びかけるときには、もう、彼女は自ら腰を上下する動きをはじめていた。
「エリナさん?!」
「んっ……気持ち、いい……」
駒野はしばらく茫然と彼女の様子を見守っていた。が、絵理菜は、はあはあと大きく息をつきながら、動きを止めた。
「つかれた……」
「あ、じゃあ、オレが動きます」
「ああっ……」
下から激しく突き上げる。その動きは、肋骨にひびが入っているケガ人のものとは思えなかった。力強く、速く、続く、いつまでも。
「こ、こまのさん……」
「あ、はい」
「正常位って、できる?」
「あ、もちろん」
「ほんと? 傷、痛くない?」
「大丈夫です。ちょっとなら我慢できます」
そして、いつものように、正常位でのフィニッシュで、絵理菜は長々と嬌声をあげ、どくどくとペニスが動く感触を入り口で感じて、ぶるっ、ぶるっと震えてしまったのだった。
二人がかりで大声を出すものだから、猫のルーファスが飛び起きて、驚いてニャーニャーと激しく鳴いているが、もう慣れたもので、二人とも気にならない。
「……起こしてごめんなさい」
絵理菜のそこをティッシュで拭いてあげている駒野に、声をかける。
「いや、そんな……大丈夫だよ。オレもなんか、逆レイプされてるみたいでコーフンしたし……でも、いきなりどうしたの」
「エロい夢、見た……」
「はっははは。それでか」
「うん。でもね。わたし、多分だけど、あれ、まわされてたんだよね……」
「ん? うん」
「まわされてたんだけど、でも、すっごい気持ちよかった……」
福井のペニスが侵入し、彼女の存在が完全になるあの瞬間を、いまでも鮮明に思い出す。
まわりには、鷲崎と高田もいた。どっちも奇妙な仮面をかぶっていたからわからないはずなのに、なぜだか絵理菜にはわかった。
「あのさあ……」
真面目な面持ちで、彼女は駒野に聞いた。
「輪姦って……どこに行けばしてくれるのかな?」
09
次の週の土曜正午、駒野はちゃぶ台にひじをついて頭をかかえていた。
他のメンバーは、鷲崎のハヤシライスにがっついていた。
駒野は、聞こえよがしに、ハーッとため息をついたり、憂鬱な表情を作ってみたりして、人の気をひいた。
「なんだ駒野。また相談ごとか」
「うん、まあ、そんな感じ……」
「また絵理菜さん関係? あの決闘やったことで、もしかして、嫌われた?」
「いや、そうじゃないんだわ……」
とは言っても。
輪姦って、どこに行けばしてくれるのかな。
……絵理菜の気持ちを汲んでさせてあげるとして、男はどこで調達するのか。身内ですませるのか、なんか外部の、乱交サークルみたいなところとか、ハプニングバーみたいなところでやるのか。
そもそも、これは、実施すべきなのかどうか。
スパゲッティみたいに、頭がこんがらがっている。
「絵理菜さん関係ってとこは当たってるんでしょ?」
高田がうれしそうに言った。
ダメだ……。この男は、相談したが最後、いつか、絶対バラす……。やっぱ、ダメだ……。
「……やっぱり、『ヤフー知恵袋』で相談する。カモ、スマホ貸して……」
「えっ、なんでー。つまんなーい」
10
「その、いつまでも後部座席でふんぞり返ってるの、やめろ」
黒川は苦々しげに言った。
「助手席乗れや、助手席。きょうはオレたちより格上の組員も拾ってから行くんだから」
「なんの仕事だ」
「ま、いままでの仕事とは一風変わったやつだよ。これもやくざの仕事だ。役得ととるかつまらん作業ととるかは、お前しだいだ」
福井は少し考えて、ゆっくりと、咥えたキャメルに火をつける。
「あーもう! 車内禁煙だって! 何度言えばわかるんだよ!」
「悪い。ファブリーズ買ってくれ」
11
高田からの電話はめずらしい。番号も知らず、登録もしていなかった。土曜の夕方、駒野が仕事から帰ってくる少し前に来てくれとのことだった。
絵理菜は正直、どきっとした。高田が、それじゃ、と言って電話を切ったとたん、記憶の奔流がはじまった。彼はまるで、絵理菜の全身を舐めつくす気でいるかのように……。そして、あの力強い動き……。
やめよう。忘れよう。
アパートのドアに近づくと、バイオリンの旋律が聞こえる。たぶん、モーツァルトだ。
「あ、絵理菜さん、いらっしゃいませ。冷蔵庫見て」
彼は器用に、難曲を弾きこなしながら、平然としゃべった。
「冷蔵庫……?」
そのとおりにすると、まわりの野菜やら肉やらとはまるで雰囲気の違う、しゃれた紙の小箱が入っている。彼がこれを見せたいのは明らかだった。
「こないだ、ひどいこと言ったじゃん、だれとでも寝るとかヤリマンとかって。挑発の方便とはいえさ。だから、ワビ」
「あっ……ありがとうございます。そんな、ぜんぜん気にしてないのに……」
箱を取り出し、冷蔵庫の蓋をしめてから、気づいた。
「……高田さん、わたしこのお店知ってます」
「うん。有名らしいね」
「なんか、テレビで見ました! いま大人気で、並ばないと買えないとかって……」
「うん、並んだよ。おれ、並ぶのけっこう好きなんだよね~。なんか、『おれ、不死身なのになんでこんなことしてんだろ』って気持ちになれるのが楽しいんだよ」
「……ごめんなさい。どうもありがとうございます」
「おっと、勘違いしないでよ、おれも食いたかっただけだから。おれ、スイーツ王なの。甘いもの好きだからさ。絵理菜さんの分は、ついで」
それは本心だろうか? 絵理菜はさっそくフォークを持ってきて、箱をちゃぶ台の上で開けた。高田の演奏つきでケーキを食べれるなんて最高だ。
真ん丸いケーキにフォークをうずめ、ひと口食べる。口の中でとろける。素敵な魔法のようにおいしかった。しかし……。
「高田さん……」
「ん」
「これって、バナナ味ですか?」
「そうだけど、何?」
絵理菜がむーっと睨みつけるのも構わず、高田はニタニタ笑いで演奏を続けた。
「……ほんと、なんでこんなヤツに、こんな演奏ができるんだろう」
「だからさ、心なんていらないんだよ。演奏だけじゃない。何をやるにもだ!」
彼は自分で言って、自分で高笑いした。
「おれはありとあらゆる楽器を弾きこなし、あらゆる書類を偽造し、あらゆる言語をしゃべり、あらゆる武器を使いこなし、あらゆる体術を会得し、あらゆる女を騙す。でもそれにはなんの心も、魂もいらない。おれはからっぽなんだよ。ピエロの仮面を剥いでみな、中はがらんどうだ。そしておれはそれを、少しも恥だと思ってはいない!」
その言葉を聞いているうちに、ふと、絵理菜は涙ぐみ、片方の頬のうえを、つうっと涙がつたい落ちた。
「どうした。おれの演奏に感動したか」
「いいえ。でも」
彼女は涙をぬぐう。そして、正面から高田を見つめる。
「わたしにはときどき、あなたが、頭がおかしいふりをしてるだけなんじゃないかって、そう思えるんです」
「ってことは、おれのために泣いてくれてるのか? 素晴らしいね。そんな女が現れたのは百年ぶりだよ」
絵理菜はどこか脱力しながらも、ぼんやりと、ケーキを口に運んだ。
「もしかして、本気になったかとでも思った? 残念だね。おれは同じ女を二度抱かない。それも、ここ百年、自分に課してる禁忌だよ」
絵理菜はケーキとフォークだけ持って、立ち上がった。
「ねえねえ、これわかる? ロマサガ3の四魔貴族~」
彼女は黙ったまま部屋を出て、階段に座って、ケーキの残りを食べた。
涙がかわいたころに、駒野が帰ってきた。どうしてそんなところにいるのかもちろん聞いてきたが、中には高田さんがひとりだけでいる、と言っただけで、ああ、と彼は言い、話はそれで終わった。
12
福井たちがマンションの部屋に到着したとき、髪をつかまれた女は、とっくに、恐怖のあまり言葉をなくしていた。
「ま、地上げ関係の案件だな」
と黒川は面倒くさそうに言った。
「コイツの旦那が話が通じねえヤツだから、身内をヤるってわけだよ。これで、えーと」
先に到着していたのが二人。黒川、福井、あともう一人が到着して、五人。
「計五人か。ま、申し分ない人数でしょう。福井、お前、できるか」
「しない」
と、彼はきっぱりと言った。
「なんだお前、インポかホモかぁ? だったら、押さえつけてるだけとか、とにもかくにも仕事しろ」
「いいや。しないのは俺だけじゃない」
彼は女のそばに立ち、彼女の髪を掴んでいるやくざの胸を、ドンと突き、一メートルも吹っ飛ばした。
彼女の前に立つ福井は、まるで女を守るかのようだった。
「今夜、ここにいる全員が、女を犯さない」
「はぁっ?! お前……」
彼は胸の裏のポケットから拳銃を取り出し、やくざたちに順番に銃口を向けてみせた。
「わっ、うわわわわっ」
黒川が恐れおののきながら後ろずさった。
「おっおっおっお前、ハジキなんかどこで手に入れた」
「本来なら、銃を使うより俺の体術のほうが強い。だが、こうしたほうがわかりやすいから、見せてみた」
確かに、黒川以外の組員たちも、福井が突然銃を見せたことに、かなり腰がひけていた。
「お、お前、本気で組を裏切るのか。嘘だろ。お前、やくざに勝てると思ってんか。組員何人いると思ってんだ。お前、女を二回もさらわれてるだろっ。どんな目に遭うか想像つかないのかっ」
「俺は外部契約のセキュリティガードだ。組に属してないから、裏切るも何もない」
「そんな綺麗事、通じると思ってんのか!! オレたちと仕事をした時点で、もうお前は逃げられないんだよ」
福井が銃を下に向け、パン、と音がした。組員の全員が飛び上がった。
「わーっ、バカバカバカーっ!! 本当に撃つやつがあるかーっ」
「見てみろよ。一発目は空砲にしてある」
黒川の足元には、フローリングの材木が割れてへこんだ跡がある。
「空砲ってわかるか? 火薬を詰めてない弾丸だ。火薬なしでここまで威力があるんだから、実弾はケタ違いだ。人体に銃弾が撃ち込まれるとき、多くは弾そのものではなく、弾が命中したときの衝撃波のほうがダメージが大きく、人はそれで死ぬ」
「……お前、何がしたいんだ? その女、知り合いか?」
「いいや。ぜんぜん知らない」
「何がしたいんだよ」
「全員で口裏を合わせろ。今夜、輪姦したという話だけ持って帰れ。アリバイ作りには、そうだな、全員で海ぞいでもドライブしてきたらどうだ」
「おいおい……」
黒川はひきつった笑いを見せた。
「四人じゃ人数が多すぎると思っているか? きっとだれかがご注進に行くと? 心配ない。一人でも秘密を洩らしたら、ケガ人は出ないが、死人だけ出る。ここにいる全員とその家族を殺す。所帯のないものは親を殺す。それもいないものは兄貴分を殺す。黒川」
「はっはいっ」
「お前は新婚さんみたいだな。秘密を洩らされてもいいのか?」
彼ははっとして、いまさらのように、結婚指輪をポケットに入れて隠した。人はパニック状態になると、このように無意味な行動に出るときもあるものなのだった。
「おっ、おいお前ら、湘南の風に当たってくるぞ。佐藤さん、それでいいですよね?!」
「お、おう……」
まるでカラスの群れがはばたいていくように、黒いスーツの組員たちは、いっせいにリビングから出ていった。
そして、福井と、見知らぬ奥様だけが残る。彼はその人妻を見てみる。ひっというような声を喉から出して、ベッドルームか何かの部屋に飛び込んで、とじこもる。
福井は拳銃をしまった。実のところ、それは高田が気まぐれに改造して、威力が出るようにした、単なるエアガンだった。
終わった。
福井は茫然と目の前を見つめていた。いや、見つめているようで、彼には何も見えていなかった。
終わった。
どっと、汗が噴き出した。
13
「エリナさん……」
裸になって横になり、当然のように駒野の抱擁を待ち受けていたとき、彼は、突然に真剣な顔になった。
「あれから、いろいろ考えたんすけど」
「あれからって?」
「ほら、エリナさんが、輪姦されたいって言ったとき……」
「え? わたし、そんなこと、言っ……いや、言ってますね……」
「やっぱ、オレ、エリナさんがほかの男にマワされるのは、考えられないと思って……。でも、そのかわりに……」
「えっ」
「これ……」
彼は柔道の帯くらいの幅のある、黒く細長い布を取り出した。
「あのー、エリナさんが好きそうなことを、いっぱいいっしょうけんめい考えて、こうなったんですけど……」
「あ」
彼は帯を絵理菜の目の高さで巻きつけ、耳のあたりできつく結んだ。
「……どうですか? 間違ってたら言ってください」
「……それほど」
「え?」
「それほど……間違ってない」
「よかった……」
駒野は唇を吸ってきた。視覚を遮られたぶん、感覚が研ぎ澄まされ、まるでとても大きな舌で、とても奥まで侵入されているような錯覚を生んだ。
「手も、巻いていいですか」
「……うん」
絵理菜の手首が頭の上で交差し、ぐるぐると布を巻かれ、また、ぎゅっと強めに縛られる。これこそ、犯されているみたいだと思ったとたん、きゅんと子宮の奥が甘くとろけた。
「……エリナさん、すいません。我慢できないです。エリナさんのこんなかっこ見たら……!」
「あぁっ」
駒野は彼女の脚を持つと、前戯なしで、乱暴にぐぐっと、がちがちに硬くなったペニスを押し入れた。絵理菜は声を出す。だけど、やめてほしくない。これこそ、レイプに近い。それが、甘美だった。まだ十分に濡れていないので少しばかり痛みが走ったが、それすらもせつなさの演出のひとつだった。
「エリナさん、エリナさん」
彼は熱に浮かれたようにひたすら腰を腰に叩きつけた。絵理菜も声をあげ、今夜はこのまま、二人とも満足するかと思われた。
しかし……。
「エリナさん。……オレのこと、信じてくれますか」
するりするりと音をたて、エリナの手をいましめているのと同じくらいの帯が、彼女の首に巻きつけられたのだった。
福井は、気がつくと、激しく呼吸していた。
コントロールができなかった。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
床に膝をつき、かがみこんで手をつくと、エアガンが打ちポケットからすべり落ちて、音をたてた。
彼はのどに手をやった。しかし、それが限界だった。手足の先がひどくしびれていた。ネクタイやシャツの襟をゆるめたかったが、それはかなわかった。
「はあっ……はあ……ああっ……」
「はっ、あ……ふ……ああ」
駒野が布を引き、絵理菜はいっそう強く首を絞められることになる。彼の力といったら、つられて胸部までもがベッドから浮かび上がるくらいだった。
「あ、エリナさんすげ……いつももしまるけど、もっとしまるっ……」
驚いたことに、絵理菜はいっそう濡れていた。レイプ魔に手を縛られ、殺されかけながら犯されている。
この世の中で、対等ってものほど、エロくないものはないんだよ。
高田が笑う。
「エリナさん、大丈夫です、加減はわかってるんで……だから……」
「ふぅうっ……」
絵理菜は声もなくうめいた。
「うっ……がはっ……あ、う、あ……」
福井はめまいに耐えきれず、床に倒れこんだ。
死。
俺は死ぬのだろうか。天国で感動の再会か? まさか。俺は敬虔な無神論者だ。
「……うぅっ……」
彼が床に倒れると、別の部屋のドアが開き、人妻がそうっと彼の様子を見やる。
14
スマホが鳴った。
もう、日付が変わっていた。充実したセックスを満喫した絵理菜と駒野は、仲よく熟睡していた。そこで、絵理菜は叩き起こされた。駒野のほうはというと、うらやましいほどぐっすり寝ている。
知らない番号だ。でも、一応出る。
「はい。もしもし」
「もしもし。あの……福井さんの奥様でしょうか」
絵理菜は、飛び上がった。
「い、いえ、違います。友達っていうか知り合いっていうか」
「そうですか……女性の名前で番号が登録されているのが、これしかなかったので……福井さんのご家族の番号はご存じですか?」
「いいえ、知らないですけど……何があったんですか?」
「私は、仕事中に福井さんが倒れたときに、たまたま居合わせた者です」
仕事中? 仕事といったら、例のあれか? 完全外部……
「あの、福井さんはケガでもしたんですか」
「いいえ、過呼吸で失神したんです。他に誰もいなかったから、私が救急車を呼んで……いま、救急病院からかけています」
福井が、失神……。
あの鬼のように強い福井に、失神するような出来事?
考えるより先に、言葉が出た。
「病院の名前を教えてください。わたしがいまから行きます」
そういうわけで、絵理菜はそのへんに脱ぎ捨ててある服を適当に着て、アパートを飛び出し、大通りに出て、タクシーに病院の名前を告げた。
動悸は速まりっぱなしだった。絵理菜はいまにも泣きそうだった。手と手をぎゅっと合わせる。神様、もしかのことがあったら、わたしの命を福井さんにあげてください。
だが、夜勤の看護師の説明は、のんきなものだった。
「過呼吸で死に至ることはまずありません。現在は容体も安定してますし、すぐにでも意識が戻るでしょう」
案内してもらって、ベッドに行く。窓際だった。
枕元の灯に照らされて、エイリアンみたいな酸素注入器をつけられた、福井の姿があった。
「福井さん……」
命に別状はないと言われても、この姿はショックだった。
壁にかけられたパイプ椅子をひろげて、頭のすぐそばに座る。
「福井さん……やだよ」
彼女は彼の、スーツの肩あたりに触れてみた。充分あたたかい。少しほっとする。絵理菜は肩を握る。
「……福井さん」
「……ん」
驚くべきことに、呼びかけに答えたかのように、彼は鼻を鳴らした。
「あっ……福井さん!」
ゆっくりと、切れ長のまぶたがあいていく。
「そうか。気絶か……」
「あっ」
彼は酸素注入器をはずし、サイドテーブルに置こうと身を乗り出したとたん、またばたりと倒れそうになった。思わずさしだした絵理菜の手と、福井の手が、ぎゅっと握られる。
「心配いらない。ただの立ちくらみだ。もう少し寝てることにする」
「はっ、はい。そのほうがいいと思います……」
彼はおとなしく身を横たえる。
元通りだ。ただ、ひとつだけ。彼らは、片手どうしをつないでいた。
福井さんと、手をつないでいる……!
絵理菜は内心パニック状態だったが、つとめて平然をよそおった。
「誰か、他に知ってる奴は?」
「いえ、まだ、だれにもしゃべってません。でも、連絡を取ってきたのが……」
「誰なんだ? 黒川か?」
「いえ、名前はわかりません。でも、女の人でした。仕事中に倒れられて、ほかに誰もいないから、スマートフォン見て、その……わたししか、女の子の名前がないから、奥さんかなんかだと思って、連絡してきたみたいです」
「そうか。あの女か……」
彼は絵理菜に質問するときはさすがに彼女をちらちら見たりもしたが、それを聞いて、押し黙って、天井を見つめはじめた。
何か変なことを言ったろうか? 心配になったとき、彼は語りはじめた。
「あの女を救った瞬間、俺は、時間が戻っていくような感覚をおぼえていた。フィルムのリールを逆回しにするような……それを……五百年分だ。ついにその日が来た。俺は、ついに歴史を改変したような気でいっぱいになっていた。五百年の願望がかなった。俺はついにやりなおした。もう一度歴史をやりなおした。そして、ついにあの女を救ったのだと……」
絵理菜は、言葉をはさもうともしなかった。
「でも違う。この現代でいくら同じような状況で、同じような女を救おうが、けして歴史は変わらない。違う場所で違う女を救っただけだ。そう思ったら、息ができなくなったんだ。……でも、救急車の中で意識が落ちかけているあいだ、俺は思った。過去はけして変えられない。この腐って蛆が湧いた傷ですら、もう、この俺の一部になってしまっている。だが、今夜、確実に、ひとりの女は救った。俺にできることはそれだけだ。……俺は俺にできることをするしかない。なら、これで、きっといいんだ」
「福井さん……」
こらえようとする間もなく、絵理菜は涙を流している。ぎゅっと手を握る。掌中の汗が混ざり、どちらのものともわからなくなる。
「福井さん、聞いてください。わたし、夢を見たんです。わたし、怖くなかった。福井さんは、あたたかかったから」
福井がけげんそうに絵理菜を見る。ばかげたことを言っている? わかっている。しかし、絵理菜にはいま、確信があった。
「福井さんがわたしを守ってくれているって、感じていたから……。そばに、鷲崎さんや高田さんとか、他の、よくわからない人たちもいたけど、わたしは、福井さんの優しさを感じていました。だから……だから……福井さんは、いまを生きて……」
彼は、ごくわずかに、頬をゆるめた。
「ありがとう」
ああ。福井の笑顔を、いま、ひとりじめにしている。生きてと言ったばかりの絵理菜が、もう死んでもいいと感じてしまっている。
「さて、そろそろ退散の時間かな」
「あ」
彼はヒョイとベッドから飛び降りると、壁にかけてあるスーツの上を取って、着た。手と手が、離れてしまった。でも、もう充分、堪能した。
「ここ、何階だ?」
「二階です」
「ちょうどいいな。伊藤さんもいっしょに行ける」
などといって、窓をあけ、下をうかがっている。
そして、絵理菜に背を向け、しゃがみこんだ。
「伊藤さん。おぶさって」
「えっ!」
「しっ」
「あ、す、すいません」
震える体で、絵理菜は、彼の首に腕をまわした。彼の手をひざの裏に感じる。
彼はひょいと窓枠に飛び移った。
「下は見ないほうがいい。目を閉じていて」
「ひゃ、ひゃい」
これは『はい』だ。
絵理菜は言われたとおりに目を閉じた。だから、落下していく感覚と体が風を受ける感じを、とてもよく集中して感じられた。
これだよ。福井に微笑みかけられ、おまけに彼と手もつなぎ、最後におんぶでこれだよ……。と、絵理菜は思う。
「よし、タクシー拾おう。伊藤さん、大丈夫?」
「はっ……はい……」
いろんなことが起こって、絵理菜は腰が抜ける寸前で、体がこんにゃくになったみたいだった。彼女の背中を支えながら、パキパキと福井は歩いた。
タクシーの中でも、彼女はぼんやりしていた。ただ、投げ出された自分の手と、福井の手が、たった二センチほどの距離だけおいて、座席に置かれているのが、気にかかった。
また重ねたいと思うし、重ねたとき、まるで、彼を苦しめた、気が遠くなるほど長年の懊悩のすべてが、流れ込んでくるような錯覚すら、おぼえたことを、ぼんやり思い出した。
愛の喜びは一瞬だが、愛の苦しみは永遠だ。
このあいだ高田が弾いていたバイオリンの曲をぐぐって調べたら、そんな歌詞が書いてあった。
絵理菜は、繰り返すが、確信をもって、たわいないはずの自分の夢の話を、福井に伝えた。
それは彼にとって、少しでも、救いになっただろうか?
タクシーがアパート前に停まった。
「じゃあ、伊藤さん、きょうはありがとう」
彼はもう、いつものポーカーフェイスに戻っていた。
「はい」
絵理菜はタクシーを出た。
「おやすみなさい」
と福井は言った。
「おやすみなさい」
と絵理菜は言った。
ドアが閉まり、タクシーは行ってしまう。彼女は自分の部屋に戻った。何にも知らない駒野の、聞きなれた高いびき。彼女は裸になって眠りに落ちる。その寸前、今夜のことを、だれにも説明する必要はないだろう、と思った。
15
「えーっ?! 絵理菜さん何いまの動き」
「練習モードで二三回やったら慣れますよ。どうしても目が追いつかなかったら、ニコニコ動画でスロー再生の動画がアップされてるんで、それで調べてやればいいんですよ」
しゃべりながらも、テレビとPS3の前で、絵理菜はハードモードの激しいダンスを平然と続けていた。その横で、高田が必死についていく。
「え? いまのやつ、入らないの判定? おっ、この動きなら知ってる。やった。ようやく息が合ってきたじゃないか」
絵理菜はきょうの高田とのダンスバトルの約束のために、わざわざ深緑色のストレッチタンクトップと、動きやすいホットパンツを着て挑んでいた。ストレッチのタンクはもちろん絵理菜の胸元を強調し、ダンスに合わせて揺れるそれをなるべく男たちに見せないために、駒野がやたらと絵理菜の横あたりをウロウロしていた。
「うわー……メンズノンノ、やばいな」
寝転がって、鴨島が持ってきた雑誌を読みながら、鷲崎が言った。
「星占いのページとかあるよ。何万もかけて美容院で髪いじって、何万もする服でコーディネートしながら、星占い信じてるとか、ヤバい……」
「俺も、ツーブロックとかにしようかな」
と福井。
彼はいまだに少しも顔色を変えず、組のセキュリティガードとして、週休二日で出勤していっている。
「ツーブロック? え? ふくちゃんが? やめとけ。とっちゃんぼーや感が増すだけだよ」
と、食後に麦焼酎を飲む鴨島。
「とっちゃんぼーやとは何ですか!」
と、絵理菜。
「……ツーブロックって、何だろ」
これは駒野。
「やったー! 全青だ!」
「はぁー、この曲、判定おかしいってマジ……ま、おめでとさん」
高田は両手でハイタッチを求めた。絵理菜はできるだけ大きな力で、弾き返すように、ばちんとハイタッチする。
「ね、駒野さんもハイタッチ」
「え? あ、うん」
駒野は絵理菜とハイタッチする。そして、ぎゅっと抱きつかれた。駒野は目を白黒する。
「耳貸して」
絵理菜の瞳が、きらきら輝いている。どきまぎしながら腰を低くする。
「あのね。……一緒に暮らそ」
駒野は、びっくりして、咳き込むところだった。でも、しっかり。
「……ハイ」
地獄耳の鴨島が、肩をすくめて笑う。
「じゃ、書類、来週までそろえておくから」
「う、うん。じゃあオレもそれまでに、エリナさんといっしょにイケアに行って、北欧風の家具をそろえて買ってく」
「駒野さん、それはわざわざ言わなくていいとこですよ」
「あ、ワリぃ……北欧風の家具そろえたさに、ついっ……!!」
「懸念事項があるな」
寝そべって『近代麻雀』を読んでいた福井が、そのままの姿勢で言った。
「俺たちは長生きしたぶん、敵も多い。もし突然攻められた場合、メンバーひとりがいるかいないかで、生死が分かたれることがあるのは事実だ。だが」
福井は、駒野と絵理菜、両方の目をちらりちらりとだけ見て、また雑誌を読みはじめた。
「穴は全員で埋める。行ってこい」
「福井さん……あ、ありがとうございます」
「戸籍が欲しかったらいつでも言ってよ。分割手数料もお安くしておくよ」
と高田。
「戸籍? 戸籍ってなんで?」
「戸籍がなきゃ、入籍もできないだろ?」
駒野は、真っ赤になった。
「あ、あのな、オレたちそもそも、まだ付き合って一ヶ月そこそことかでえ……」
「披露宴でスピーチしてやるよ。『絵理菜さん、あなたとの体の相性は最高でした。ぜひ結婚してからも定期的に密会をびゃぐっ」
絵理菜は高田の向こうずねに思いきりつま先を入れた。
「絶対スピーチさせません。あーもう、とっとと次の対戦、いきますからね。今度も負けないですよ」
「いってーぇ……、ああ、おれもだ。おれも、負けないよ」
(了)
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