第6話 鳥類の不意


01

「持ってる」

 気持ちよく就寝しているところを起こされ、昼の光に目を覆いながらも、さっとサングラスをかけた福井は、寝起きでいつつまったくはっきりと答えた。

「ホント? 前のボロボロんやつ言ってるわけじゃないよな?」

 かがみこむ駒野の声が、期待から、ワントーン上がった。同じ姿勢の絵理菜はただただ、不安そうに、二人を交互に見やっていた。

「じゃない。あれは処分するにも金がかかるから、ほっといて引っ越してきた。また新しいのをもらったよ」

「また『仲裁』でか? やるじゃんやるじゃん。でな、実は次の土日、貸してほしいんだよな。オレ、給料入ったから、二人で温泉にでも一泊してこようと思って」

「こ、駒野さん、それはいらない情報です。福井さんは寝てる時間なんですよ! 省略してもいい箇所でしょ!」

「えっ? あー、ゴメン」

「駐車場は地下の六番。鍵は……わからん。鷲崎が買い出しのときに使ってるみたいだから。ワッシーに訊いてくれ」

 福井は寝返りを打ち、布団をかぶり、かと思うと、サングラスを持った腕だけ出てきて、敷布団の横にそれを置いた。

「あーもう! 福井さんの貴重な時間ジャマした!」

 絵理菜は憤然とアパートの階段を駆け下りた。パンプスのパカパカ言う音がパーカッションのように響きわたった。

「ゴメンゴメン、ゴメンって。そんなに謝るようなこと? オレは必要最小限だったと思うけど」

「わたしはそうは思わないです。午前四時に叩き起こされるようなもんですよ」

「早い、エリナさん早い。手、つなごうよ」

 機嫌をとるように駒野が追いかけて、ときどき、よろけて転げおちそうになる。

 しかし、実際に地下駐車場の六番に停車してある車を見て、彼らは言葉をなくした。

「……ひらべったい」

 車は、やけにひらべったい、まっ黄色のオープンカーだった。

「何、なにっなにこれなにごと。どこ社製?」

「わ、わかんないですよそんなの」

「まあ、外車だよなあ? これ、ほ、ホロ的なものはついてんの? 雨降ったら出てくるよな?」

「いや、いや、たぶん出すんですよ、手動で」

「そんなことくらいオレだってわかってる。ヤバい。なあ、こんな車乗ってたら煽ららられれまくられれねえ? オレああいうの苦手なんだよ。すごい怖いんだけど」

「で、でも友達が国産オープンツーシーター乗ってたら、ととトラックのうんてんしゅさんから、ねえちゃんさむくないのーっていわれて、かんコーヒーをポーンって投げてよこしてもらえたっていってました」

「それは女の子だからだろ! こんな車にオレンジのモヒカンが乗っててブイブイ言わせてたらどうなんだって話でしょ!」

「帽子をかぶりませんか!」

「いや、これはいわばオレの人生なので……」

 二人とも動揺しきって、そろって体を震わせ、最後は手に手をとりあって震えを止めにかかっていた。

「福井って……もう、マジでやくざになっちゃったのかなぁ」

「なんですか、それ」

「最後の女に言われたらしいんだよ。やくざみたいだって。その女をひきずってたらさ、なんか、たとえば、無意識のうちに、なぞってたり……」

「ああ……福井さんの、最後の……」

 絵理菜が一瞬だけ、傷ついたような色彩を顔に見せるのを見て、駒野は話題を変えようと思った。

「なあ、免許証っていると思う? 安全運転してりゃ大丈夫だよなあ? 普通に運転してて、そうそう警察なんかいないし」

「でも万が一ってこともありますよね」

「まあ確かに、マーフィーの法則ってのもあるけど」

「駒野さん……。マーフィーの法則って古いですよね。いまや、誰も知らないですよ」

「えええっ!! うそっ?!」

「高田さんが作ってくれるんでしょ? 作ってもらいましょうよ」

「いや、作ってもらえるにはもらえんだが、あいつ、かなりふっかけんだよな。だから保険証もギリギリ絶対必要になるまで頼まないんだよ、みんな。おかげで赤江は、いや鴨島は、背中にビール瓶グッサリ刺されったてなのに、窓から飛び出して病院から逃げた」

「なんで土地を変えるごとに名前も変えるんですか? 赤江さんのほうがかっこいいと思うんですけど」

「なにも追いかけてこないようにだよ。人も過去もな。おっ、ちょっとかっこいいこと言った」

「まあとにかく、背に腹は代えられないでしょう。無免許運転でつかまるなんてことがあったら、同乗者のわたしも面倒なことになるだろうから、嫌なんですけど」

「しゃあないか……高田いるかな。占い師はやめたらしいが」

 ふたたび、階段をのぼる。

「なんでやめたんですか」

「鴨島にまわす女がいっぱいになったから」

「ああ……」

 高田は自分の部屋で、アコースティックギターを持った鴨島と、譜面を見たり指さしたりしながら、何か書きつけ、鴨島にワンフレーズずつ歌わせたりしていた。例によって、鷲崎もカレーを煮込んでいた。


 奇跡のようにきみはやってきて

 すれちがって、それでおしまい

 思い出なんてすべて、あとからこしらえればいい

 一瞬も、永遠も、同じことだよ

 かなわぬ恋は、ずっとなくならないペロペロキャンディ

 でもそれも、きょうでおしまい


 弾き語りを終えた鴨島の横で、高田が渾身のガッツポーズを作った。

「よし! いいぞ、すごくJポップっぽい! これで天下取れる!」

「まだだ、肝心なのはサビだろ。油断するにあたわず」

 女のまえ以外ではかなり笑顔を出し惜しみする鴨島も、いまは昂奮しているようだった。

「なんだ、あの二人、こないだはあんなに仲悪かったのに」

 と鷲崎。

「こないだって?」

「ほら、先週のフェス」

「えっ!! あれ行ってきたんですか。わたしも行きたかったのに。教えてくれたら、いっしょに行ったのに~」

「ま、いやまあまあエリナさん。エリナさんは会社勤めでお疲れだと思ってさ」

「なんですか、みんな行ったんですか? あのお二人と鷲崎さんと、駒野さんも?」

「オレは行かなかったよ、知ってるだろ。先週は一緒に遊んだんだから」

「あ、そうか……」

 真相は、今年のは自分も行きたいと福井が言いだしたとき、あんな狭いところで雑魚寝する場に福井と絵理菜を帯同させたくない、絶対させたくない、と思って、自分も行く予定だった駒野があえて下りて、絵理菜の前で、フェスのフの字も顔に出さずに、いっしょに過ごしたのだった。

「で、なんかあったの、あの二人」

「まず、カモのほうがサングラスかけたり、パーカーのフードかぶったりして、わりと変装してきてな。ほら、ライブの客とか、誰がどこから見てるかわからんから、とにかくイメージダウンになるものは見せられないと」

「ああ、だよな……でも、そこに高田か……」

「そう、そこに高田が、もう会場着く前からテンションマックスでな……」

「目に見えるわ」

「なんかすれちがった知らない女指さして、あ! あの女すげえ誰にでもやらせる顔だ! 見ろよ、もうユルユルだぜ、とか言って」

「アッハッハッハッハ」

「いや、絵理菜さん、こうやって聞くぶんには笑えるが、実際はもう、鴨島はもうピリピリ、ピリピリして、なるべく離れて、他人のふりして歩いてたりして」

「うんうん」

「でさ、踊ったりとかしても、もうあいつのあれは、酒が一滴も入ってなくてもシラフの踊りじゃありえないんだよ、なんか悪魔でも召喚ささってそうな……。そんなもんだから、なんか知らねえヘラヘラした連中が近づいてきて、どんな薬きめてんですかー、僕にもわけてくださいよー、なんて言って、ヤツはいいですよ! とか言って、そいつらにフリスク配りだして、もうカモは、走って逃げてた。で夜が明けるまでぷりぷり、例の鬼ギレ顔で酒傾けながら悪口をずーーーと言ってて、他みんな寝てるけど、福井がうんうんとか言って起きてんのかも寝てんのかもわかんない感じで聞いてて。もううんざりだ、もう口もききたくないとか言ってて」

「で、きょうはああなんですね」

「あれをたぶん、五百年間くらい繰り返してんだろうな」

「おいおい……そんな状態で頼みごとして大丈夫かな……。あー、ちょっと、取り込み中のところ悪いけど、高田」

 台所の駒野が、腕を上げて注意をひく。

「おれの普通自動車免許証一枚」

「マニュアル車?」

「……だっけ? あれ」

「たぶん」

「じゃあ、マニュアル」

「納期は?」

「……次の土曜、もらえればいい」

「一週間んん~?」

 高田は背を向けてあぐらを組むと、エビぞりになってひどく瞳孔のひらいた目で駒野を見つめるという、この時期キチガイとか物狂いとか言われる特有の所作をした。

「特急仕上げだなあ。そりゃあすいませんけど、相応のお代はいただきますよ、ダンナ」

「ブラックジャックかよ……。わかってるよ、分割でもなんでもしてキッチリ払うから、とにかく間に合わせてくれよ」

「ま、勉強しときますよ」

「絵理菜さん、ちょうど、コーヒー落ちたてなんですけど」

 鷲崎がキッチンのコーヒーメーカーをあごでしめした。

「あ、じゃあ、いつも悪いですけど」

「いえいえ」

「あー、おれも飲みたーい」

「キチガイにカフェインを与えるな」

 と駒野。

「わかってる。奴には麦茶すら与えてない」

「何飲んでんの」

「水道水か、お湯」

「ブハッ。お似合いだわ」

「伊藤さん、駒野のパンツ穿いてるんですか」

 鴨島が仰天した。きょうの絵理菜はシフォンスカートだった。コーヒーカップを持って座布団に座った瞬間、それがふわりと上に浮いたので、男たちの視線が瞬間的に集中したというわけだ。

「えっ。違いますよ。これ、自分で買ったんです」

「ボクサー?」

「はい。最初は駒野さんの穿いてみたんですけど、やっぱりちょっと大きかったので、自分で買いました」

「わかる。ユニクロだろ。おれも買ってた」

 と高田は得意げに。

「そうです! あれ、まとめ買いすると安いんですよねー」

 絵理菜は無邪気にスカートをめくって、ボクサーブリーフを見せてみせるのを、駒野が飛んできて、それを下げた。

「エリナさん、なんでパンツ見せてんだよ!」

「えっ? 別になんでって……なんでですか。高田さんともおそろいですよ。男物ですよ」

「違う違う違う。問題はその中身でしょ」

「なんで男物なんて穿きはじめたの?」

「わたしの大好きな女優さんが、男物はいてるって言ってて、それの真似したら、快適でやめられなくなっちゃって」

「だれ? 日本の女優?」

「違います。カナダ人ですね。エレン・ペイジちゃんっていうカワイイ系の女優さんなんですけど」

「……誰?」

 と鷲崎。

「知らない」

 と駒野。

「『インセプション』に出てた子だよ。ほら、あの、スカーフまいてたちっさい子」

 と高田。

「あー、アリアドネだ」

「ああ、あのデコちゃんか……」

 納得する一同に対して、駒野だけが、

「なんだよそれ。オレ、観てないからわかんねえよ。インセプションだか何セプションだか知らねえけど……」

「そうです、インセプションで有名になった人です! わたし、エレン・ペイジちゃんになりたいんですよっ!!」

 絵理菜の瞳は、キラキラと輝いていた。

「ジョセフ・ゴードン=レヴィットとのキスシーンが印象的で、あのシーンでファンになった人が多いんですよ!」

 すると、高田が座布団ごと、スーッと絵理菜の隣に移動して、なんと肩を抱いて、

「Quick,」と流暢に、「give me a kiss, quick」

 絵理菜は口に手をあてて照れ笑いし、見つめてくる高田に唇を寄せ、ちょっと迷って、ほっぺにキスした。

「オーウ」

 絵理菜は大げさに、うれしげにうろたえてみせた、

「ゼイアー、スティル、ルッキングトゥアス」

 周囲が凍りつくなか、二人の世界は熱かった。

 高田のウィンクは、まるで西洋人のように上手なもんだった。

「It was worth shot」

「なんだよ、いまの完璧な発音は。お、お前、英語しゃべれんのかよ」

 と駒野が震撼するに、高田はぽかんと、

「えっ? みんなしゃべれないの?」

 とのひとことをもって返した。周囲がいっきにざわついた。

「高田さん、すごい。私、ワースなんて発音できませんよ」

「いや、別に普通に、むかし外国暮らしもしてたから。みんなずっと日本なの?」

「たいていはそうだろ」

「おれ他にもいろいろあるよ、フランス語とか。あっ、そういえば鴨島はけっこう最近まで上海にいたじゃん。ワーワーツー終わって日本に戻ったんだろ? まっ、上海語なんてしょせん方言だけどな。おれは広東語とマンダリンのしゃべりわけできるけどねー」

 明らかに見下した視線をもらった鴨島は、しかし何も言い返せず、ただにらみ返すにとどまった。駒野はそうっと鷲崎ににじり寄り、小声で、

「……ワーワーツーって、何?」

「たぶん、ワールド・ウォー・ツー」

「いやだから、それ何?」

「第二次世界大戦」

「はーあっ? そんなん日本語で言えよ……。じゃあ、じゃあ、マンダリンってっ?」

「んー……楽器?」

「ねえねえ、エレン・ペイジの主演作で何がいちばん好き? ハード・キャンディ? アメリカン・クライム?」

「どっちも好きなんですよね……。どっちも、髪型がぜんぜん違うけど、どっちも超カワイイんですよ! だから、髪型もマネっこしようと思いながら、迷っちゃって、なんにもできずに……」

「そうなんだ。じゃ、Whip itとジュノだったら、どっちが好き?」

「おい、ヒッ……何? 発音できない。お前、そんなの借りてたか? 目にした覚えがないぞ」

 鴨島はいつも、ツタヤのレシートのタイトルだけを見て、自分も観たいと思った映画にチェックを書き入れておく。そうすると、高田が二人だけの上映会を開いてくれるか、もしくは高田が先に見てしまった場合でも返却日ギリギリまで返さないでいてくれる、という仕組みだ。

「ああ、原題だよ。ほら、ドリュー・バリモアが監督やったやつで、邦題はなんだったっけな」

「ローラーガールズ・ダイアリーですよ」

「出たぁっ!!」

 鴨島はまるで泣き出すかのように顔を両手で覆った。

「出たーぁっ、妖怪、洋画の話するときに原題でしゃべる手合い!!」

「ローラーガールズ・ダイアリーは、最後、エレンちゃんを騙してたミュージシャンにTシャツ返そうとして、ブラジャー姿になるとこいいですよね」

「そうそう、ミュージシャンなんて全員あんなもんだからさ、あそこはすげーリアリティあったよねえ。よし絵理菜さん、次は、そこの、ブラジャー見せるシーンのマネやろうよ。もしくは、『スーパー!』の、ボルティちゃんの逆レイプシーンのマネでもいいけど」

「鴨島っ!! 部屋、貸せ!!」

 駒野が絵理菜の腕をひっぱった勢いといったら、まるで一瞬、絵理菜が宙に浮いたかのような錯視さえ、一同にもたらした。

「ああコマちゃん、いつでもいいから証明写真一枚な」

「十七時四十五分まで。時間厳守。禁煙。清掃必須」

 駒野と、彼に引っ張られて部屋を出た二人は、ドアを閉めてから、しばらく見つめあった。駒野は激しい運動でもしたかのように汗をかき、顔は真っ赤で、そして、疲れきっていた。

「……高田にキスした」

「ごっ、ごめんなさい」

 絵理菜は彼の機嫌をとるように身をすり寄せた。

「でもあのあれは、なんか回避できないっていうか……ボケられたらツッこまなきゃならない的なあれで……」

「……オレの目の前で、高田にキスした」

 駒野は、憔悴しきっていた。

「あの、ごめんなさい。ほんと。もうしません」

 彼は顔を覆った。

「オレの女が……オレの女が、あのクソキチガイの高田にキスしたぁっ!!」

 高田はマグカップからお湯をすすりながら、「聞こえてるんだけど」

「エリナさん、オレいま、スーパーマリオになりたい……」

「えっ?!」

「スーパーマリオになって、ブロックを破壊しまくりたい……」

「駒野さん大丈夫ですか。幼児退行起こしてませんか」

「スーパーマリオは、なんとかセプションなんて映画観ないでも平気だし、自分の女がキチガイと、映画の話で盛り上がってても平気だ……」

 駒野はとぼとぼと鴨島の部屋に入っていった。絵理菜はあとを追う。

 新しい家具ができていた。真っ赤なソファ。ハート型のクッションのおまけつき。両側に、花がいろどるように、色とりどりのブーツがたてかけられている。夢のような世界を打ち破るように、かなりの達筆で、禁煙、と太く筆書きされた紙が、ソファの真上に貼られていた。

 駒野はソファに倒れるように腰を下ろした。機嫌をとりたい絵理菜は、さらにその脚の上に座り、お姫様だっこの形になった。駒野はタバコに火をつけ、ゴミ箱から缶チューハイの空き缶を見つけて、それを灰皿にした。

「あの、駒野さん」

「ん」

「駒野さんの好きな映画はなんですか。その話で盛り上がりましょうよ。わたしが観てなかったら、観ますから」

「好きな映画か……」

「はい」

「『トレマーズ』と、『トレマーズ2』と、『トレマーズ3』……」

「はっ……」

 笑ってしまいそうになった絵理菜を、睥睨する。

「なに? どうした? トレマーズ馬鹿にすんのか? トレマーズ、馬鹿にすんのか?」

「いえっ、いえ、そんなことないです。他には」

「『パットン大戦車軍団』と『バルジ大作戦』」

「……ほかには」

「ほかぁ? ほかかぁ……えー、あとは、あとは……」

 彼は天井を見る。

「……うー……い……『インデペンデンス・デイ』とか……」

「あっ……はい。わかります。おもしろいですよね……インデペンデンス・デイ……」

「あのさあ、噂で聞いたんだけど」

「はい」

「むずかしいんだよね? インセプションって」

「へぶっ」

 さすがに絵理菜も耐え切れず、吹き出してしまった。

「いや、なんか、難しくてわかりにくいって聞いたから、じゃあオレの頭じゃたぶん理解できねえなって思って観てないんだよ」

「いえ、大丈夫だと思います。たぶん、言うほどじゃないですよ。言うほどじゃ」

「そっかぁ……」

「……駒野さん、さっきの高田さんへのキスですけど、本当は唇にするところを、それをやめてほっぺにしたんです」

「え。あ、そうなの」

「はい。こっちは駒野さんのものだから」

 絵理菜はタバコを缶の上に置き、両手で駒野の頬を包み、そして、何万回めかのそれを。

「……エリナさん」

「はい」

「ソファって、いいな。なんかのお店とかみたいで、エロい」

「あははははは」

「なんかのお店って言えばさ、……」



02

 四人は標的である子分に夢中だった。

 袋叩きにしてやるのに忙しくて、だれも気づかなかった。

 これ以上の不意打ちはなかった。

 彼は、まるで舞い降りるように振ってきて、そのうちのひとりの頭を路地裏のコンクリートに叩きつけた。その反動でふわりと浮いたかと思うと、別のひとりの腹にかかとを入れ、壁に叩きつけ、肋骨を折った。

 リンチされていた男すら恐怖をおぼえるほどの、あざやかな舞いだった。

 彼はもういちどジャンプし、残る二人のうち一人に超高速のネリチャギを入れ、意識を失わせしめた。最後の一人が、逃げようと腰を引く。その瞬間、謎の男は消えていた。

 視線で気づく。まったく見えていなかった。だが、彼は、もういちど跳躍すると、建物の外壁の、人の背のはるか上に設置された排気口の突起に片手でぶら下がり、また蹴りの瞬間をうかがおうと、体を丸めるような体勢のまま、機を見ていたのだった。

 人間じゃない。

 逃げ出した男の背に鋭い蹴りが入る。それで終わりだった。

「た……高橋さん、大丈夫ですか! 大西さん! 生きてますか?! み、みなさんっ」

「どうした。早く逃げろ」

 リンチの標的だった男は、自分も少なからずけがを負っているというのに、いままで自分に制裁を加えていた男たちに順番に声をかけ、気遣っていた。

 リンチの標的は、まだ少年とそう変わらないような面持ちだった。彼は突然の制裁者を見やった。背は低い。サングラス、白いTシャツ、ジーンズ。見ただけでは、ふつうの人間と変わりない。

「逃げられません。いや、逃げません」

 彼は宣言した。

「おれは、この組の人間です。見捨てません」

「いいさ。勝手にしろ」

 謎の男は、路地の向こうに消えていく。

「ゆ、悠馬……」

 かろうじて意識がある男が、その方向を指さす。

「……ヤツを追え。逃がすな」

 悠馬は傷をかばいながら、彼が曲がった路地を同じように進んだ。

 が。

 制裁者は、煙のように消えていた。

「そんな」

 悠馬は思わずつぶやいた。

「やめとけ。そいつは追うな」

「あ……」

 組の人間が、彼もまた、どこからともなく現れた。彼は思うところあってか、着るもののなかで唯一白かったワイシャツまでも黒にした。腕を組むと、スーツに金のバッジと、左手の薬指に真新しい結婚指輪が光った。

「救急車は呼んでおいた。お前も同乗しろ。どうせ、ケガしているんだろう? それから、意識のあるヤツに、ヤキ入れは当分屋内で行うように伝えろ。ヤツに邪魔されたくなかったらな」

「……黒川さん、あいつ何者なんですか」

「さてな。だけど、腹の立つことに手加減していることだけは確かだ。あのウェイトで蹴り主体で戦っても、命は取れん。まったく、何を考えているんだか……」

 そこまでしゃべって、黒川は口に手をやった。修理したばかりの前歯の差し歯が、またもやぽろりと取れたのだった。彼はむきになってぐいぐい入れ直す。

「くそっ。ヤブ医者が」


03

「自分のやっていることが単なる私刑に過ぎないと考えたことは?」

「私刑? ああ、こないだ俺がシメたやくざどもがやってたことですね」

 鬼島はケラケラと笑った。

 福井はひさびさに葉巻を吸っていた。いちばん長く吸って愛着があるのはキセルだが、いまや骨董品の類で、家の外では吸えなかった。

 鬼島の勤める店では、氷入りのビールという面妖な飲み物が出てきて、福井はひとくち飲んで、ほったらかしにすることに決めた。

「そのやくざどもがお前を探してるらしいぜ。警察もだ。あんまりにも、最近のストーカーだの変質者だの強盗だのリンチの現場だのの、通報者の声とか、市民権利での現行犯逮捕をする男の姿が似通っていて、さすがに不審に思ってるらしい。ま、加害者はみんな犯行を認めてるから、自作自演とまでは思ってないらしいが」

「知ってます。無線で全部同じことを聞きました」

「これは失礼。そういや、お前のTシャツがいつも白いから、カラーギャングの残党じゃないかなんて言ったおまわりさんもいたよね」

 福井は小さく笑った。

「次は虹色のシャツを着てきますよ」

「ねえ、真剣に考えてる? もし警察が情報を手に入れたら、それはやくざが情報を手にするのと同じだ。面倒なことになるんじゃない?」

「俺を的にかけるやくざが出てきたら、」

 彼は葉巻の煙を吐いた。

「見つかる前に調べ上げて、そいつと、そいつの家族を全員、的にかけ返します。まあ、最初は警告ということで、全治きっかり三ヶ月程度で済ましますけど」

「あははは、いいねお前、女みたいな顔して、女子供も殺せるのか。そうか、お前はいっとき、ナントカ家の間謀をやっていたって噂は、本当だったのか」

「間謀なんて耳当たりのいいもんじゃないですよ。ありゃ単なる賞金稼ぎに近い。銭をもらって仕事すればおしまいだ。忠誠心すらなかった。俺と鷲崎のコンビを忍者と呼んだ奴らも多かったが、はっきり言って忍者に失礼だ」

「あっはははは、いいねえ! 忍者! 職業欄は忍者!」

 鬼島はしばらく笑い転げていたが、しばらくすると、真顔に戻った。

「捕まるんじゃねえぞ。やくざにもサツにも」

「わかってます」

「お前がポカやるたぁ思ってないが、しょっぴかれたら、お前と同じ場所で暮らしてる奴ら全員がヤバい」

「わかってます」

「あーあ、変装でもすればよかったのにねぇ、バットマンとかロビンみたいに。おお! ロビンっていえばお前、コマドリと一緒に暮らしてるよな」

「正確に言うとロビンはヨーロッパロビン、コマドリはジャパニーズロビンです」

 彼は灰皿に葉巻の灰を少しばかり落とし、静かにもみつけて火を消し、あらかじめ頼んで借りておいたハサミでその口をわずかに切り落とした。そして、ポケットに戻す。

「おい、クラーク・ケントさん。こんなことで、お前の求めてるものは、見つかりそうなのかい?」

「まだわかりません」

「おお、勘定はおれのオゴリでいいよ。初回は飲み放題千円だ」

「痛み入ります。失礼します」

 福井が退店したあと、テーブルを片付けながら、楽しげに鬼島はつぶやいた。

「鳥だ! 飛行機だ! い~や、やっぱ鳥だわ!」


04

 次の日の日曜だった。

 前の夜に駒野はやたら深酒していて、だれより起床が遅かった。目を覚ますと、まだ寝ているはずの福井以外の全員がいる。ホワイトシチューの香りがした。

「♪かなわぬ恋は~」

「カモ、そこCだろ」

「いやDだよ」

「Cだって」

「Dってここに書いてある」

「あ、本当ですね」

「黙ってろ」

「ごめりんこ」

「どこまで行った? えーと、かなわぬ……かなわぬ恋は~」

 駒野は手洗い場に行った。歯を磨いてから、自身の無精ひげを、ちゃんと『無精ひげ』に見えるように、きっちりとトリミングし、まだ眠たい目で、鏡を見つめた。

 舌を出してみる。

「あのさあ……」

 駒野は、だれにともなく口火を切った。

「オレの舌のピアスの穴、完全ふさがっちゃった? 自分じゃよく見えない。だれか見て」

 鷲崎が歩み寄って、突き出された駒野の舌を見やる。

「ああ……もうこれは、ふさがってるな」

「そうか。ありがと」

「またあけんのか?」

「……エリナさんにやってもらおうかなって、思ってるんだよね」

 鴨島と高田が、ぴくっと反応する。おもしろい話のにおいを嗅ぎつけたときの反応だった。

 駒野は、ちゃぶ台に腕をついて座った。

「それは、エスエム的な何かで?」

 高田の瞳孔が、早くも、ガン開きになっている。

「いや、いろいろ考えてさ。いまちょっと、実は、エリナさんにワビ入れないといけない状況になってて……」

「なんだ。ケンカしたのか」

 と鴨島が、うれしそうに。

「……まあ、そんな感じ。まあ、はじまりから聞いてよ。オレってさ、エリナさんが、ちょっとしたことでヤキモチ妬いてくれるの見るの、実はけっこう好きなんだよね」

「あ、もう話の着地点が見えた」

 と高田。

「俺にも見えた」

 と鷲崎。

「要するに、マッチ箱で火遊びしてたら延焼して大火事系の話だろ? うわー、そういう話大好き」

 と鴨島があぐらをかいた足を、置きあがりこぼしのようにぐらぐら揺らした。高田とつきっきりで作詞作曲している影響か、彼もまた、ここ数日妙にテンションが高い。

「いいから、最初から聞けよ。ほんとにちょっとしたレベルのやつが好きだったんだよ。たとえばさあ、ヤングなんとか系のマンガの雑誌って、最近よくアイドルのクリアファイルとかついてくるじゃん。エーケービーのとかさ。そういうの、捨てないまま投げ出しといて、枕元とかにあるとこ、エリナさんに見られたらさ、『これ、とっておいてるんですか?』とか、ちょっとスネた感じで言われて、もう超大、かわいいわけだよ」

「あのクリアファイルって、困るよね。捨てようにも、なんか女そのものを捨ててるようで、捨てにくいし……」

 と鷲崎。

「それでオレは、『いやオレんじゃないよ、高田んのだよ。オレはエリナさんのクリアファイルしか使わないから』とかなんとか言って、機嫌とってさー、エリナさんはもう、そういうことがあったりすると、『じゃあ、わたしが一番なんですよね?』とか言って、なんかこう熱く求めてきちゃったりとかさー」

「おいちょっと待て。それじゃお前、エーケービーのクリアファイルをおれが後生大事にとっておいてるなんて大嘘を喧伝してるのか」

 高田の声は、突然低くなった。

「えっ。悪かった?」

「お前がエーケービーのクリアファイルをとっといてる男だとエリナさんに思われたくないのと同じくらい、おれだってエーケービーのクリアファイルを持ってる男だと思われたくない」

「エーケービーのなすりつけ合いだ」

 と鴨島。

「それに、どうせ絵理菜さんに見せるんだったら、たとえば朝まで輪姦地獄とか、三十人に連続ぶっかけとか、そういうキチクい感じのエロビデオをおれの所蔵品だと紹介してだな、次に絵理菜さんに会ったとき、おれを見る目が確実にドン引きしてて、あいさつしたあとそっと目をそらすとか、そういうような……」

「それはお前の単なる性癖だろっ。話を元に戻すぞ。そう、だからきのうもエリナさんにかわいく妬いてもらって、ついでに熱く求め合おうと思って、おれは……」

「どうしたんだよ」

「……十年くらい前、スロプロで食ってたころの話をした」

「ああ、いい時代だったなあれは。風営法の改悪前だろ?」

「そう。もうとにかく景気がよくてよくて、いくら使っても金があまってさ。気に入ったニュークラ嬢とかをアフターに誘って、札ビラ見せて、十万くらい渡してセックスしてた。……とオレは言った」

 しんと場がしずまりかえった。シチューの番をしていた鷲崎が、はあっと嘆息して、頭を抱えた。

「……それ、男でもひくんだけど」

「いやー、エリナさん、嫉妬を通り越して怒り出してさ。最低ですよ、それって買春じゃないですか、買春なんてレイプと同じですよ、レイプは腕力で女性をねじふせるけど、買春は金の力でねじふせるんですって」

「お前さあ、情報に疎いばかりか、手に入れてもなんの活用もしてないな。伊藤さんはフェミかぶれの大卒女だってこないだ言ったろ。そんな話怒らんわけないだろうが」

「いやだってっ、きのうはこのキチガイのほっぺにキスしてラブラブの日でもあったんだぞ。そのお返しになるくらいキツイ話でもいいだろって思ったし、だいたい十年も昔だよ」

「いいよ。いくらでもキチガイキチガイ言えばいい。言ってるお前は無神経の一等賞だ」

 高田にまで見下げられて、駒野はいよいよ、居場所がなくなる。

「まあそれで、いやいや十年前だからとかなだめてるうちに、エリナさんだらだら泣き出すし、こうやって、肩をさわろうとしたら、振りほどかれて。汚いって言われたみたいな気持ちになっちゃって……」

「だいたいが、なんでまたニュークラ嬢なんだよ。本番やりたきゃ、それこそ、ソープに行けだよ」

 と高田。

「……いやそこは、私は風俗なんかまで堕ちないし、みたいに、お高くとまってる嬢に金見せて本番をやらせるのが、快感? みたいな?」

「最低だ。最低の男がここにいる」

 鷲崎が肩を落とした。

「いやだから、十年前! もう改心しました! って、エリナさんにも何度も言ったんだけど、もう、ぐしゅぐしゅ泣いて、オレが近寄ったらあとずさる有様なんだよ。それで、オレは、つい……」

「最後のひと押しか」

「ひと延焼だな」

「オレは、つい……言ってしまって……」

「どんなふうに」

「いや。暴言を吐いてしまって」

「暴言ってなに」

「ひどいことを言ったんだよ」

「言えや」

 高田が凄んだ。

「一字一句、正確に言えよ。おれらの前だからって、おとなしく改変するのはなしだ」

「……いいよ、わかったよ。どうせお前は、最初から、福井のほうが好きなんだろ」

 聞き手たちの全員が天を仰いだ。

「福井が好きなら、あいつと付き合えよ、クソアマ。……って、言っちゃった」

「大火事も大火事だな。向こうの反応は?」

「子供みたいに泣きじゃくってたのが、突然、冷たい顔になって、合鍵返してもらえますかって。そこでオレはようやく事態の深刻さに気づき」

「気づき?」

「ここで返したら、二度と会えないっ……って思って……そんなもん持ち歩いてるかよっ、て、ウソこいた。そしたら、エリナさんは、帰りました」

「これは舌にニードル刺されるだけじゃ済まんな」

 と、鴨島が恐ろしい笑顔で。

「あ、刺すときはもちろん、アイシングとかなまぬるいこと言ってる事態じゃないのは、もうわかっとろうな?」

「わかってます……」

「よしっ、タトゥー入れていきな、タトゥー。二の腕がいい」

 と高田。

「エリナ・フォーエバーって入れてくんだよ、ジョニー・デップみたいにさ。もっともジョニデはウィノナと別れたあと、タトゥーを改変した玉無しだけどよ」

「タトゥーか……そういえばお前、一時期ずいぶん凝って、全身入れてたな」

「うん、そういえばそんなこともあった。もう消しちゃったけど」

「もったいねえな」

「まるっと消したのか? 一個くらい残さずに?」

 と鴨島。

「まるっとだよ。ていうかこないだみんなで温泉行ったじゃん。気づけよ」

「お前の体なんかジロジロ見るかっ」

「よし、ワビの印に舌ピアスにタトゥーはこれで決まった、あとは?」

「鞭の中では、乗馬鞭が一番痛いらしいよ」

「俺、ふつうに、花束とかがいいと思うんだけど」

 鷲崎が提案したが、ほとんど無視された。

「あーあれは? 焼印!!」

「ああ、カイジみたいなやつ」

「違う違う、ここはO嬢の物語の終盤と言ってほしいね」

「往生?」

 鴨島は大声で聞き返した。

「往生って、大往生の往生?」

 と鷲崎も。

「違う違う、お前らそろって教養がないなあ。ポーリーヌ・レアージュという覆面女流作家が描いた官能小説の有名どころだ」

 高田は譜面を裏返して、ボールペンで、O嬢、と書きつけた。だが、そう言っている彼の、嬢、という漢字も、後半がかなりあやしかった。

「なんだそれ。知らない」

「オレも知らない」

「じゃあ、澁澤龍彦は知ってるか」

「そいつなら知ってる」

 と鷲崎。

「かみさんぶん殴ってた男だ」

「そう、これは澁澤がかみさんをぶん殴って翻訳させて、でも名義は自分にして出版した本だ」

「で、その嫁殴り男の本がどうしたんだよ」

「最後のほうにな、Mの女のケツに、ご主人様のイニシャルの焼印を押すシーンがある。だから、おれはそれをやるのがいいと思うってこと」

「焼印……。オレ、痛みには強いことくらいしか自慢ないけど、たぶん、それ、かなりヤバいよな……」

「M女は入れられた瞬間、気絶してたよ」

「マジで!!」

「いや、カイジで番号入れられるときは、わりとサクサク押されてた」

「どっちだよ!!」

「ちょっと待て」

 と鷲崎。

「絵理菜さんの名前って、イトウ・エリナだから、イニシャルがIEにならないか」

「……インターネット・エクスプローラー」

「インターネット・エクスプローラーだ!!」

「おいおい、マジかよぉ」

 汗びっしょりで、駒野はこうべを垂れた。

「駒野、しょうがない。愛のためだ。絵理菜さんを愛しているなら、素直に、インターネット・エクスプローラーとしての第二の人生を歩め」

 鴨島は、重々しく駒野の肩を叩いたが、耐え切れずに、ぶぶっ、と吹き出して笑った。

「はいはいはーい、このへんでいいでしょう。法廷内静粛に~」

 高田が両手を使って、法廷の木槌を鳴らすまねをした。

「えーただいま判決が下りました。駒野被告には、えーまずなんだっけ」

「舌」

「そう、舌に穴あけてもらって、あとタトゥーにエリナ・フォーエバー、焼印にインターネットエクスプローラー。あーあと絵理菜さんを泣かせた罰としておれからの怒りのキャメルクラッチ。まあこのへんで許してもらえるでしょう。あ、ワッシーからもなんかあった気がするんだけど、なんだっけ?」

「花束」

「あーそうだった、最後には鷲崎さんから感動の花束贈呈です! おめでとうございます!」

「なんか、相談する相手を間違った……」

 駒野は肩を落とした。

「ははっ。ほかに誰がいるっていうの~?」

「……沖縄、帰りたい……」



05

 絵理菜はどきりとした。お互いに登録したばかりの鴨島の携帯電話の番号から呼び出し音が鳴っていた。彼女はせっかくの金曜の夜だというのに、何もせずに家にいた。酒をあけて気晴らしする気にもなれなかった。

「きょうもまた鍋なんだ。来てくれると嬉しいんだけど」

「あ、あの、せっかくですけど……」

「大丈夫だ。駒野はいない。職場の仲間と酒盛りするらしいから、朝まで帰ってこないよ」

「……やっぱ、知ってます?」

「ぼんやりと。ケンカしてるってことぐらいは。でも、俺たちは基本的に、絵理菜さんが、駒野とどうなろうが、変わらずに遊びにきてくれたら嬉しいって思ってるよ。駒野も駒野で、あれで大人の対応くらいはできるし」

「あ……ありがとうございます。それじゃ、うかがいます」

 たぶん、駒野抜きで絵理菜に会えるというので昂奮したのだろう。彼女がドアを開けた瞬間、キッチンから登場した高田は、包丁、肉切り包丁、フルーツナイフをジャグリングしながら、いらっしゃいませを言った。鴨島がひどく冷静に、かつ見事に、それらすべてを白刃取りの要領で順番に右手の指と指のあいだを使って受け止め、ついでに左手で高田を殴った。

「人に心配をかけるな」

「いや、これはキチガイに刃物っていうおれなりのギャグだったんですよ……。それにオレは前職ピエロだよ、プロになってからジャグリングでポカしたことなんてないね」

「百年前の話だろ」

「昔は火のついたたいまつでだってやってたんだからよ」

「それもだ」

「火の輪くぐりもしたよ」

「それは、ライオンさんと記憶が混じってる」

 そういうわけで彼女は鍋を囲む高田、鴨島、鷲崎の輪に加わった。福井だけが座布団を二つ折りにして枕にして身を横たえ、けだるそうにテレビを見ていた。そして、めずらしく黒い色のTシャツを着ていた。

 絵理菜は席に加わった時点から、一同の、あれこれ聞き出してやろうというオーラをひしひし感じていたし、もっと言えば、きょうここに来ると決めた時点で、それは覚悟していた。

「ひどいこと言われたんだって?」

 高田がやけにうれしそうに言った。

「いえ、その、あのときは、たぶんわたしも悪かったので」

「なになに? なんて言われたの?」

「……いちおう、人並みにいろいろな人と付き合いましたけど、クソアマって怒鳴られたの、はじめてです」

「わかるよ、女の子って、大きな声とか出されると怖いんだよね」

 と鴨島は同情的に言ったが、その場にいるだれもが、お前もふだんそれを利用して女を支配しているのでは……? と、思わずにはいられなかった。

「で、それで肝心の……おい」

 高田は鴨島にアイコンタクトを送る。すると鴨島は音もなく立ち上がって、福井にすり寄り、

「福井。こないだ、うちのバンドの新譜が出たんだが、聴いて感想をくれないか」

「新譜? たしかだいぶ前じゃないのか」

「そうかもしれない。ま、このアイポッドに入ってる。ヘッドフォンあるから、かけてくれ」

 福井は、なかばむりやりヘッドフォンをかけさせられる。

「大音量でな」

 と、鴨島は念を押した。

「で、福井とのことは、ヤツの言ったとおりなのか?」

 さっそく眼光するどく、高田が切り込む。

「えっ、言ったとおりって」

「まだ好きだけど、義理で駒野と付き合ってる?」

「まっ、まっ、まさか!」

 絵理菜はあわてた。

「もう、駒野さんにも、何度も何度も言ってるんです。好きだったのは、むかしの話で、いま残ってるとしたら、つまらない未練くらいしかないですよ。わたしの好きなのは、駒野さんなんです。でも、これだけのことを、なんだか、いつまでも、信じてもらえなくて……」

「まあハタから見ても、美女と野獣だし……駒野はいままでの付き合いで、福井がどんないい男か知ってるしな。怖いんだよ、絵理菜さんを失うのが。怖さのあまり、いっそ自分から突き放したくなる。宝くじを当てたはいいが、当選券をどこに保管したらいいのかわからなくて発狂する人間の典型だね」

「そうですね……駒野さん、たぶん、怖かったんだと思います。わたしが突然泣き出したりしたから……。すごく悪いことしたと思ってます。わたし、嫌われてないと思いますか?」

「なんだ。馬鹿馬鹿しい。絵理菜さんも全然怒ってないじゃないか。アイツ、ワビ入れようとするあまり、絵理菜さんに舌にピアス開けてもらおうとしてたぜ」

「えええっ!! なんですかそれ。いやですよ、怖いですよ、そんなの」

「結局、のろけに付き合わせられただけだったな」

 と鷲崎。

「よし、じゃ、罰として駒野にはおれからのコブラツイスト三十分プレゼントをもって、この件はもう当人同士で、仲直りセックスでもなんでもしてもらうってことで終了だわ」

「えっ、そんな乱暴に言ってますけど、わたし、また会ってもらえると思いますか。ひどいことまで言ったんですけど」

「なに?」

「合鍵、かえせって」

「のろけの範疇っ!!」

「す、すいません」

 のっそりと、福井が立ち上がり、アイポッドの音楽を止め、ヘッドフォンといっしょに鴨島に返した。

「よかったぞ」

 それから、すぐに玄関へ。

「時間だ。仕事に出てくる」

 彼が出ていってすぐ、鴨島が、

「ワッシー。シフトは?」

 鷲崎が壁掛けカレンダーに指をなぞり、いくつもの記号の意味を読み取る。

「入ってない」

「おお。じゃあきょうは、正義のスーパーヒーローの日か」

「スーパーヒーローってなんですか」

「ああ、絵理菜さんはまだ知らないか。アイツ最近急に、人助けにハマっててさ。町じゅうまわって、強盗とかつかまえたり、放火魔を現行犯逮捕して引き渡したりしてるんだよ」

「ええええええ?! あの福井さんが?! ぜんぜんイメージじゃない……」

「たったひとつの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体、あ、石の橋をば叩いて渡る、フクイーンがやらねば誰がやる~!」

 高田は、歌舞伎ともなんともいえない珍妙なポーズをとった。

「ゴロ悪すぎだろ。しかも、キャシャーンって、人間を救うけど人間には愛されない悲劇のヒーローじゃねえか。縁起でもないこと言うんじゃねえ」

 鷲崎はわりと本気で凄んでいて、高田はそれをわかっていて、怖い怖いと茶化しにかかった。

「どうして福井さんがそんなこと始めたんですか」

「まったくわからないね。そもそもアイツ、おれたちには何にも話してない。こんなマネを夜な夜な繰り返してるなんてこと自体、おれがヒマがてらにたまたま警察無線をワッチしてて気づいたくらいだよ」

「ワッチ?」

「そう。あー知らないか。ひとくちで言うと、カンタンな機械を使ってさ、公共の電波に周波数合わせて、人の使ってる無線を聞くんだ。警察無線は普通のやり方じゃ聞けなくて、ごくごくちょっとした小細工が必要なんだけど、これが一回聞くとなかなかおもしろくて、やめられなくなるんだよね~。あ、あと、アイドルのライブのワイヤレスマイクの無線なんてのもいいよね。アイドルグループだったりすると、誰がクチパクかそうでないか即わかるしね。あー、過去に、モー娘。の石川梨華ちゃんが舞台ソデでファンの悪口言ってるとこワッチされて、大騒動にもなったりしたね~」

「大の大人が、ニャーン、ハァーン、ニャーン」

「福井さん、まさか、警察にマークとかされてるんですか」

「そこが微妙なんだな。明らかに不審人物ではあるが、福井自体がなんか犯罪をしてるわけでもないしね。困ってるって感じ」

「ちょっと待ってください。そもそも、それは本当に福井さんなんですか?」

「目撃した巡査が、ご丁寧に、着てるTシャツの英字まで無線で読み上げてくれたよ。それが……ぷふっ」

 高田はこらえきれずに吹き出した。

「なんですか」

「いや。タイムリーだと思って」

「タイムリー」

「Tシャツに書いてたのはねえ……」

 と、思いきり、ためて。

「……『Real men don't buy girls』」

 これには、鷲崎と鴨島も笑った。

「走者一掃タイムリーだな」

「たまに着てるでしょ、あのTシャツ。絵理菜さんも見たことある?」

「……ありますね」

「ヤツの目的はおれらの誰もわからん。まあ、迷惑がかかるわけでもないし、気のすむまで勝手にやればって感じ。はあ、それにしても、なんで普段着でヒーローやるかねー。バレバレでしょ。コスチューム作んなきゃ、スパイダーマンとかみたいにさあ」

「キック・アスでもいいな」

 と鴨島。

「おお、キック・アスだったらサイドキック(相棒)にヒットガールちゃんが必要じゃないか。絵理菜さん、ここは絵理菜さんもスーパーヒロインコスチュームで、福井の片腕となって戦うのだ」

「え、いや、普通に無理です」

「……って、もし、福井に頼まれたら?」

「…………ありえないので、考える必要性がないです」

「もしあったら」

「ないです!」

「じゃ、福井が片膝をついて、ついでにサングラスもとって、駒野と別れて俺と一緒になってください、って頼んできたら?」

「そういうことが百パーセント起こらない世界を、いままだ、受け入れている途中なんです!」

「おー、本音が出たね。まだまだ、未練タラタラって感じ?」

「……それとは別に、駒野さんのこと好きでしかたないのも本当です」

「コマもここで、オレが忘れさせてやるとかなんとか、強気に出ればいいのにねえ。あっ……そうだ、スーパーヒーローといえば、おれ、ジャック・ニコルソン版のジョーカーの顔マネ、できるよ。ほら、ねえ見て見て~、ジャック・ニコルソン~」

「福井は、なんで真っ先にコイツを成敗しないんだろう」

 鍋が尽き、酒が尽き、たわいのない馬鹿話の種もつきたとき、まだ、絵理菜は終電の間に合う時間だった。駒野がいないいま、泊めてもらうとなると高田と二人きりになるだろうと思うと、ちょっと荷が重いな、と思っていた絵理菜には、都合がよかった。

「じゃあ、ありがとうございました。おやすみなさい」

 駒野が帰ってくるのを待てばと止める男もいたが(むろん高田だ)絵理菜はことわり、笑顔で出ていった。

 鷲崎が窓の外を見上げる。

「けっこう降ってるな。絵理菜さん、傘持ってたっけ?」

「いや、持ってない。おれらのも持ってってない」

「……あの子、わりかしそういうとこあるよな。いまごろは降られて大変なんじゃないのか。タクシー拾ったかな?」

「しょうがないな。おれが追いかける」

 高田が立ち上がったのを見て、残りの二人が、目をむく。

「なんだ。文句あんのか。この中で、目隠ししても駅まで歩けるヤツはぁ?」

「……すべって転ぶなよ」

「大丈夫大丈夫。鴨島、借りるぜ」

 高田は上機嫌で、鴨島のカットソーフーディジャケットを羽織り、ビニール傘を手に外に出ていった。

「不安だ……」

 と鷲崎。

「俺もだ。絶好調の高田が傷心の伊藤さんと二人きりというのは……なんか、嫌な予感がする。そうだ、福井は? 近くにいたらいいが。こんなときこそ市民を守ってくれよ」

 鴨島が彼の番号にかけたとたん、テレビの前、座布団の上に放置されているスマホから、呼び出し音が鳴った。

「ああーっ、役立たずめっ」

「たぶん、警察の追跡を恐れているんだろう。電源の入ってるケータイを持っていれば、警察はそれだけで位置を追跡できるし……」

「それにしたって、ご町内の皆さんの安全を守る前に、身内の安全を守ってくれよ……」

「あー、いたいた。待って待って。絵理菜さーん」

 バッグを傘にして頭の上にかかげ、小走りで道を急いでいた絵理菜が、声に振り向く。

 高田は、さしていたビニール傘に絵理菜を入れてやった。

「傘、持たないで出てったでしょ? 降られて困ってるかなって思って。ついでに駅まで送ってくよ」

「……高田さん、わたしが見えるんですか」

「あんまり。でも、すぐわかったよ。こんなにいいにおいの女の子、ほかにいないから」

 絵理菜の心の中で、なにかが切れた。彼女の涙腺は、とめどなく水分を排出しはじめた。

「ごめんなさい。ありがとうございます。……ごめんなさい」

「あらあら」

 絵理菜は顔をそむけ、顔を覆った。耐え切れずに、何度もしゃくり上げて、いっしょうけんめい吐き出そうとする言葉が、震える。

「いつも、……いつも、こうなんです。ダメなんです、わたし」

「ダメなんてことないよ、傘忘れただけでしょ。あーあ……おれ、女の子に泣かれるの、弱いんだけど……」

「ごめんなさいっ……」

「いやいや、いいよそれは。どうしたの? なんか、たまってたの、あふれちゃった?」

「ほ、本当は、天気予報とか見て、雨降るのとか、把握して、傘くらい持つのが、ふつうなのに、わ、わたしは、そのふつうができないんです。ダメなんです。ふつうができないんです」

「よしよし。絵理菜さん、びっくりして涙も止まる、手品でも見せてあげようか? 言っとくが、種も仕掛けもないからね」

「えっ……」

「絵理菜さん、今夜一晩、おれがアナタのことを買うって言ったら、自分に、いくら値段をつける? 何万でも、何十万でもいいよ。頭に浮かんだ数字を言って」

「えっ。え、え、え、え」

「いいよ、パッと思い浮かんだ値段を言ってもいいし、時間をかけてよく考えてもいい」

「あ、あの、それってたとえ話ですよね」

「よく考えてみるかな?」

 高田は、ニヤーリと笑った。

 絵理菜は、パーカーの袖で、涙をぐしぐしぬぐいながら、言われたとおり、よく考えた。

 高田は、いつものニヤニヤ笑いで、答えを待った。

 絵理菜は言った。

「……にじゅうまん」

「ビンゴだね」

 彼はスウェットのポケットに手を突っ込んだかと思うと、すぐに何かを絵理菜に投げてよこした。彼女はびっくりして、ぎりぎりで受け止めた。マネークリップで留められた、二つ折りの、万札の束だった。

「数えて」

「………十七、十八、十九、二十。……うっ……うっそだぁ~」

「ほんとです。種も仕掛けもありまっせーん。疑うなら、気が済むまでボディチェックしていいぜ」

 絵理菜はまず札束が飛び出てきたポケットをあらためたが、ほかに何も入っていなく、たとえば発射の瞬間に数を調節するなどの手わざを使ったわけではなさそうだった。逆のポケット。何もない。カットソーフーディジャケットの胸についたポケット。ここにも何もない。

「涙、とまった?」

「あっ。……とまってる。び、びっくりした、から」

「歩きながら話すか。もっと、こっちに来なよ、濡れるでしょ」

 そういうわけで、二人は雨の夜を歩き出した。

「……あの、で、トリックは」

「ないって言ってるじゃん。おれは今まで、百億人もの女の子としゃべってきたよ。そうするとね、だいたい相手の言うこととか、思ってることとか、性格なんかが、もう顔を見ただけでわかるんだよ。絵理菜さんみたいな女の子も、たくさんいた。あんなふうに泣く女の子は、いっぱいいたよ。だから当たっただけ」

 絵理菜は、話としてはわかるが、何か、釈然としないものを感じていた。というか、なにか、不愉快な感情が、むらむらと腹の底にたまっていた。

 百億人としゃべった? なら、なんでわたしはいま、この男に不愉快にさせられているのだろう。そんなにご立派にも経験豊富なら、けしてわたしを不快にさせないはずだ。

 返すわけでも、受け取ったわけでもない、宙に浮いた二十万を絵理菜はつかむというよりも、はじっこをちょっとつまむように持っていた。だがいまだけ、ポケットに突っ込む。

「高田さん、それなら……」

 絵理菜は足を止めた。高田が振り返る。

 彼女は高田の首に左手をまわし、つま先をのばし、半開きの瞳と唇で、彼の顔に近づいた。反射的に、高田も目を閉じる。

 そこを、絵理菜は思いっきり、顔面に右フックを叩きこんでやった。

 高田はコンクリートに叩きつけられ、ついでにおおよそ左半身が水たまりに落ちて、ばしゃんと音をたてて雨水が舞った。

「これなら、どうですか!!」

 絵理菜はすかさずマウントを取りにいった。起きあがろうとする高田の顔面を、バッグをつかって、何度も何度もめちゃくちゃに殴りつける。

「これは?! これは予測できましたか?! 百億人としゃべった経験から予測できました?! できなかったでしょう!! だったら、まるで自分が神様みたいな下らないこと言って、他人を勝手にカテゴライズして遊ばないでください!! わたしはわたしですっ!!」

「ちょっ、えりなさっ、い、いたっ」

 彼はすでに両手で顔をガードしていたが、そうと見るや、絵理菜はみぞおちに力いっぱい肘を落としてやった。そこに確かな筋肉の手ごたえはあったが、うぐっ、と高田がうめいたのも確かだった。

「ひゃーっはっはっは!! 予測できなかったでしょ!! ざまあみろっ!! いい気味だあっ!!」

「わかった、わかった、絵理菜さん、もう好きにやってくれ」

 そう言われると、なんとなく気が済んだような気になってくるのも、人情だった。

「……はー。まさかおれが、女の子にふっとばされて、受け身も取れなかったなんつう……マジでたるんでるわ」

 高田は体のうしろに両手をついて、呼吸をととのえた。

「……どんな最強の格闘家も、不意打ちには対応できない、って、何かの本で読んだので、いけるかなぁ~と思って」

「ああ、そうだな、そんな本あったわ。マス大山だっけなぁ。はあーっ……絵理菜さん、おれが言いたかったのはさあ」

「はい」

「自分はダメだ、ふつうじゃないって思ってる女の子が、アナタ以外にもたくさんいるわけさ」

「はい」

「だったらさあ、それって、全然ダメじゃなくね? ふつうじゃないって思ってる子がいっぱいいたら、それはふつうなんじゃないの? だから絵理菜さんが泣く必要はないって、おれぁそういうことが言いたかったわけ」

 絵理菜はいまさら、自分はとんでもないことをしたなぁ、と、ぼんやりと思った。

「すみませんでした」

「いーえ。絵理菜さん、やけにパンチに腰が入ってたけど、格闘技はじめた?」

「あ、いえ、でも、PS3のキネクトコントローラってやつで……」

「あっ。おれの欲しいやつじゃん。おれも買おう、駒野の免許証売ったら」

 だったら、この二十万はなんなのだろうと思ったが、彼女はなんとなく、聞くに聞けなかった。そもそも、自分が持っているままなのが、彼の意図か、忘れているだけなのか、知るのが恐ろしかった。

「でもよかったよ。絵理菜さんが、わたしはわたしですって言ってくれたから。あれ、うれしかった」

 いつもの無邪気な笑顔に、絵理菜は一瞬、ドキッとした。よりにもよって、この、気の触れてる男相手に!

「……そういうもんですか」

「うん、おれにも、そういう人間らしい感情はあるんだよ。さーて、絵理菜さん、朝までマウントとってよっか」

 彼女はあわてて立ち上がった。彼女もまた、左半分、ホットパンツと黒タイツがびしょ濡れだった。

「あのー、高田さん、大丈夫でしょうか。なんか、やみくもに攻撃してたから、わかんなくて……自分がどれくらい……」

「何言ってんだよ、こんなにほっそい腕の子にどうされようが、なんともないって。アナタに見せたいね、おれの本気の戦いぶり」

「でも、服、濡らしちゃったし……ああ……ほんと、なんか、すいません……」

「いいっていいって、さっきの絵理菜さん、輝いてたよ。いい女じゃないか。やっぱり、コマにはちょっともったいないかね」

 絵理菜は、彼の顔を見れず、うつむいた。まずい。なるべく早く返さなくては。二十万。絶対、話が変な方向に進む。進んでしまう。

「おれの女にほしいけど、ま、普通に無理でしょ? 自由にできるのは、一晩だけだ」

 進んだーーーーーーーーー!!

 絵理菜はポケットから札束を取り出して、ものすごい勢いでぐいっと高田の胸に押しつけた。

「これ、お返しします」

「なんで?」

「全然、本気じゃなかったし、それに、困ります。全然、……全然、そんなつもりじゃなかったし」

「そう。本当にいいの?」

「はい!」

 高田は突然、あたりをキョロキョロと見まわしはじめた。いや、かなり道は暗いから、何も見えないはずだ。

「何してるんですか」

「においを嗅いでる」

「におい」

「そう」

 彼はあごひげをさすって、絵理菜に笑いかけた。

「何せ元が動物だからさ。鳥目は鳥目だが、そのかわりにほかの感覚が発達してる。人間に説明しても、きっと理解できないくらいにね。人には見えないものも見えるし、聞こえない音も聞こえる。そして嗅覚はよく、いちばん原始的な感覚と言われているが、それが真かは知らん。だが、つねに自分が動物であることを忘れずにいて、磨きをかけていれば、たんなる五感のひとつでしかないそれが、人間から見れば超能力のように見えるだろう」

「……さっき、においだけでわたしが走ってるの、見つけたときみたいに?」

「くらくらするくらいのにおいだったよ。さて、これを受け取った瞬間のアナタはというと、まずは大量の発汗が、まるで目に見えるように、おれには感じられた。それと、あとは……」

 高田は空を見ながら、ほとんど無表情で言った。

「濡れやすいね」

「えっ」

 絵理菜は雨のことかと思って、高田が掲げているビニール傘のなかに、一歩すすんで体を寄せ、雨を気にして背中や肩を軽く払った。

 まったくの勘違いをしていることに気づいた瞬間、彼女は、さっと一歩戻って、もとどおりの位置になった。

「うっ……うっ……うそだ!!」

「ほんとです。受け入れたら? アナタは一晩かぎりの男に好きにされるのを想像して、」

「絶対そんなことはありません」

「否定するならそれでもいいんじゃない? 絵理菜さんは頭のいい子だから、自分をごまかしても、すぐに、ごまかしてる自分に気づくはずだ」

「……確実なんですか」

「だね。素晴らしいオーケストラを聴くように、おれはそれの分泌を感じたよ」

 突き出された札束を、高田は、ゆっくり相手の方向へ戻した。

「恥ずかしいことじゃない。誰だってその手の願望があっておかしくないしね。駒野だって好きで女を買ってたろ? じゃ、女のほうにも、買ってほしい欲望があってもいい」

「う……そんなぁ……」

「レイプと同じかな? だったらなおさらいいね。アメリカじゃかなり保守的なフェミニストすら、女性にある種の被レイプ願望が存在することを認めたのが、何十年も前の話だよ。ってわけでぇ……」

 高田は傘を絵理菜の手にたくすと、トコトコと道を進み、しばらくしてから振り返った。

「駅はこっち! ホテルへの近道はこっちです! どっちを選んでも、ま、カネはとっといてよ。鴨島様の財布にはいつも入ってる額だよ」

 高田は、いつものようにひどく明るかった、だけど、それは本心だろうかと絵理菜は思った。彼が、ゆっくりと自分が置いてけぼりにされるのを、においだけで感じるとき、このいつも自信満々の、ニヤニヤ笑いの、頭のおかしい男は、少しも傷ついたそぶりを見せないのだろうか?

 ニコニコしながらどんどん雨に濡れていき、そしてそれを少しも気にする気配を見せない男を絵理菜はしばらく眺めていた。そして、歩みだし、彼の手を取り、こう思った、

 ……わたしの頭も狂ってる。

 高田の喉からヒューというような音が出て、絵理菜を抱きとめ、彼女は傘を落とし、宙に浮いた。首ねっこに抱きつくしかなかった。そんな状態なのに、舞い上がった高田はそのまま夜を疾走しはじめた。絵理菜はとにかく早くおろしてほしかった。

「ウロヘビ! ウロヘビ!」

 という言葉をうれしげに繰り返しているのを聞いたとき、ほんとうにこの男は気がふれたのではないかと一瞬思った。

「なんですか、それ」

「えーっ、ウロボロスの蛇知らないの?! 因果は巡る、巡る。女を買って遊んでた男が、今度はそいつの女が買われるんだ、愉快な話じゃないか! ああ、目がまわる、目がまわる、目がまわる」

「えっ、ちょっと、大丈夫ですか。おろしたほうがいいですよ、わたし」

「違うよっ、カート・ヴォネガット知らないの?! ボコノン教だよ。これはねえ、要するに人生のたとえ」

「ああ……確かに……いま、まわってますね……」



06

 どれくらいドアの前で躊躇していたか、駒野はもうわからない。電話をかけるよりはましだった。だが、ドアから顔を出した絵理菜が、またあの、信じられないほど冷たい顔で彼を一瞥するや、ばたんと音をたてて彼を拒絶するかもしれないと思うと、胃がきゅうきゅう言って、彼を麻痺させるのだ。

 そもそも、彼女は中にいるのだろうか? 終電は、さっき行った時間だ。駒野はさきほどから、アパートの廊下を人が通るたびにびくっとしている。でも、だれも絵理菜ではない。

 勇気をふりしぼって、どんどんとあの合図のノックをしてから、しまったと思った。オレだとわかったら、出てきてくれないかもしれない。呼び鈴にすればよかった。あわてて呼び鈴を押すも、もちろん、遅すぎた。

 沈黙以外には何もない。餓鬼がすべてを食い尽くしたかのように。

 合鍵……。

 もちろんそれは、どこへ行くのにも持ち歩いている。だが。

 合鍵、返してください。

 またも、彼女の冷たい視線が脳をよぎる。

 あんなことを言われた以上、これを使うのは、なんとなく、ずるい気がした。

 彼はどっかりとドアの前に腰を下ろした。雨だ。だが、屋根があるので濡れはしない。鳥は濡れるのをもちろん嫌うから、ありがたかった。マルメンライトをくわえる。最後の奥の手の合鍵を、もてあますように投げたりつかんだりして遊ぶ。

 そして、だれかから聞いたことのある言葉をつぶやいてみる、

「『思い出は消えてゆく、雨ににじむ涙のように』」

 だけど、誰が忘れられる? この自分のそとみを見て、殺されるといわんばかりにおびえた絵理菜が、くりまんじゅうを渡されて、ほっとしたしたようにわずかにほほえんだ、あの顔を?

 あの瞬間からずっと、魔法が解けないのに。


07

 驚いたことに、高田は、立派なシティホテルにずんずんと入っていった。本当にびっくりした。ラブホテルですませるかと思っていた。おかげで絵理菜は、ピカピカの回転ドアから出れずにもう一周し、高田に指をさされてゲラゲラ笑われた。

 さっきの、何枚か貸して、こんど返すからと言われて、二十万のうちから数枚渡すと、彼はフロントに行く。本当にきっかりあの金額しか持っていないのが、これでわかった。体の半分がずぶ濡れで、しかも下は部屋着のスウェットなのに、堂々としたものだった。部屋までベルボーイがポーターを兼任して案内を申し出た。あずける荷物がないのがかえって悪くて、彼女はボストンタイプのバッグを渡したくらいだ。

 高田はそれでも何も感じていない顔をしていた。超然としている。そういうところを、人はキチガイだと言うのかもしれないが、絵理菜は実は、ちょっとかっこいいと思っていた。エレベータで並んだとき、彼を見上げてみる。彼女はいつも、人が自分をどう見るかばかり考えている。会社でもプライベートでも、駒野の前ですら。そんなことを意に介さない高田の、そういうところは好きだった。

 いや、だめだ、まずい。いま、好きだとかかっこいいとか思っては。あの超人的な嗅覚の餌食にされる。

「あのー」

「ん?」

「元々が鳥の人は、みんな、あんなふうに鼻がいいんですか?」

 エレベータのドアが開く。

「磨きをかければって言ったろ? 感覚器の能力を引き出すのは訓練の結果でもある。そうそう、絵理菜さん、昔ネットで流行した、バスケのチームに熊が混ざっている動画を見ても、初見じゃみんな気づかないってやつ、見た?」

「いいえ」

「じゃあ、適当なキーワードでぐぐって見てみてよ。人はいつも感覚器の力を百パーセント使ってるわけじゃないんだよ。だから……」

 ベルボーイがドアを開け、高田が先に、絵理菜があとに続いた。

「ふくちゃんがたまーにサングラス外して磨いてるとき、ものすごい横目で盗み見てるときの絵理菜さんの汗の量とか、駒野にはどうせばれてないから、安心していいよ」

「……めっちゃシャクですけど、安心しました」

 高田はまっさきに冷蔵庫を開ける。

「あれ? ビールとか売ってないの?」

「ラブホじゃないんだから、ありませんよ」

「ルームサービス? いや、ああ、自販機か。買ってくるわ。先にシャワー浴びといて」

「あ。はい」

 軽く返事してしまったが、いよいよ本格的に、おかしいことになってきた。だが、服が濡れているので、とりあえずシャワーを浴びるくらいは、絵理菜もそれほど抵抗はなかった。脱いだ服は便器の蓋のあたりに、てきとうに置いておく。シャワーカーテンをひいて、お湯を出して、シャワーヘッドを壁に固定する。

 ああ……天国だ。実を言うと、濡れてからというもの、寒くてしかたなかった。ボディシャンプーをぬるぬると体にすべらせながら、自分の体を見落とす。この一週間、仕事のストレスと、駒野とのケンカのことで、お菓子を食べる量が増えていた。太っていないだろうか?

 もし、もしも、本当に高田と一発かます事態になったとき、デブだと思われるのはいやだ。『女の子はちょっとぽっちゃりしてるほうがいいんだよ』なんて、いかにも高田の言いそうな台詞だが、絶対言われたくない。

 ガチャッとバスルームのドアが開く音がした。

 飛び上がった。とっさに壁に体のおもて側を壁につけて防御したが、ほぼ同時にシャワーカーテンが開かれ、瞳孔がガン開きの、ついでに全裸の高田が、浴槽をひょいっと飛び越えてきて、彼女を後ろから抱くと、

「不意打ちのお返し~!」

 と、うれしげに耳を噛んできた。

「た、たった高田さん、すいません、出ていってください」

「何、照れてる? もうすぐ男女の仲でしょ。ほら、おれが洗ってあげるよ」

「あ、あ、あー」

 彼は両手で絵理菜の胸やおなかのあたりを踊るように洗いまわしたが、絵理菜の感想はただひとつ、『勘弁してくれ』だった。しかもそんなことをしているうちに、お尻のあたりに、硬いものの存在も感じてくる。絵理菜はふりほどこうと必死で、その様子は、ちょっとした戦争だった。

「だめです! ほら、あ、明るいし! そういうのとか!」

「じゃあ、消してくる?」

「真っ暗じゃないですか! 怖いですよ! とにかく、すぐ泡流して行くんで、ちょっとの時間待っててください!」

「わかった、わかった」

 高田は先に自分が泡を流すと、風呂を出て、絵理菜は猛然とシャワーカーテンを引いた。本当にまったくの不意打ちで、鍵をうっかりかけなかった自分のうっかりさに、やっぱり自分ってこういうところがダメなんだよなあ、と自己嫌悪した。それにしても鳥たちの面々は、ふだんせっせと鍛えている姿は見られないのに、ほぼ全員立派な筋肉を持っている。彼らには、体の時間を止めることくらい、わけはないのだろう。

 浴槽から上がってみると、脱ぎ散らかしていた服はなく、ついでに棚の上にあったはずのバスローブもない。仕方なしに体にバスタオルを巻いて、出ていく。

 高田は腰にタオルを巻いて、ひと足はやく、一人がけのソファでロング缶のビールをあおっていた。

「高田さん、私の服は」

「ああ、クローゼットに干しといてあげたよ。ほとんど濡れてたし」

「じゃあ、バスローブはどこですか?」

「うーん?」

 高田はいかにもよく聞いてくれたという満面の笑顔で振り返った。

「あんなモッコモコで色気のないもん、着られたらたまらないから、先に窓から捨てといた~!」

 絵理菜は、体じゅうから力がぬけていくのを感じた。

「じゃあ、チャッチャと浴びてくるわ。飲んでていいよ」

 彼女はむかいあわせのソファに座る。ロング缶が四本もあった。二本ずつの計算だろうか。それとも自分で三本飲みたいのだろうか。よくわからんが、とりあえず一本あける。

 ……もともと鍋をつつきながら酒も飲んでいたわけだし、ここでもものすごい勢いで酒を飲めば、自分はそんなに強くないわけだし、酔っていたのだから、というエクスキューズができる、のかもしれない。だが、駒野との仲直りを最優先に考えるなら、あまり飲むことをせず、やっぱり断るほうがいいのかもしれない。

 何が最善手なのか?

 暗闇のなかにいるように、まったくわからない。

「♪ほとんど夢でも~」

 シャワーを浴びながら高田が歌っている。意外と音痴だった。だけど、ああ! だれも言及しないが、高田はけっこう、昔風の甘いマスクで、外人みたいに眉が高い。夕方ごろの時間、暗くなっていく部屋のなかで高田を見たことがあるが、一秒ごとに夕陽が彼の顔の上に複雑な陰影をつくっていくのが、とてもミステリアスだった。

「♪きょうこそなりたい 君だけのヒーロー~」

「高田さん、ジャスラック来ますよ」

「ギャハハハ、ほんとだ」

 そして彼女はもうひと仕掛けの準備をした。ビールの缶をもって、浴室の前で待ち構えている。

「へぶばっ!」

「やったー、お返しのお返し!」

 何をやったかというと、ビールをよく振っておいて、高田が出てきた瞬間に泡をぶっかけてやったのだ。

「くっそー、やられた。また浴び直しだ」

 絵理菜ははしゃいだし、こんな楽しい時間がいつまでも続いて、セックスのことはうやむやになればいいと思ったが、はしゃいだあとには、かえって、ガクンと、もっと暗くなってしまった。高田がふたたび浴室から出てくる音をきくだけで、とびあがるほど。ビールを飲んでいるのに夢中なふりをする。

「じゃ、遅くなったけど、二人に乾杯」

 高田は上機嫌で、缶を絵理菜の缶に鳴らしてきた。

「……二人に乾杯」

 絵理菜は悄然と肩を落とした。そして、あることを思い出し、バッグの中を探った。

「あの、これ、お返ししておきます」

 何枚か減った二十枚だ。

「なんで? もらっとけばいいじゃないか」

「あの、今夜お断りするとは言ってないです。そのへんは、あのー、いまもちょっと迷ってて。でも、どっちにしろ……。もし、何かあるとしても、対等の立場でのぞみたいなと思ったから……」

「ふっ。そっか。絵理菜さんは気づいてないんだね」

 絵理菜は座っている彼の横につったっていた。肩に腕を巻かれ、無理やり引き寄せられて、耳元で。

「世の中にはね、対等ってものほど、エロくないものはないってこと」

「あ……」

 耳は弱い。今回もまた、勘弁してくれのひとことだった。

「なに迷ってんの? おれ、これでも口は堅いよ。一生の秘密にする自信あるね。それに、少なくとも駒野よりは楽しませてあげる自信もあるよ。どう? チャンスは今夜だけ。今夜を逃せば、おれたちは、一生ただの友達だ」

「うっ……」

 さすが年の功だけあって、売り文句はたくみなものだった。

「やっぱり、駒野のことが気になるかい? それとも、男がいるのに浮気する女になるのがイヤか?」

「……それもあると思います」

「もしこのことが明るみに出て、だれがアナタを非難しようが、少なくとも確実に、おれと駒野だけはアナタを守るだろうよ。それで不足? おれには絵理菜さんが何か悪いことをしているようにはまったく思えないねえ」

「……あっ!」

 バッグの中のスマートフォンが鳴った。取り出して見てみて、驚いた。鴨島からだった。

「どうしよう。鴨島さんだ……」

 高田はぱっとスマホを奪い取り、電話に出ると、相手が何か言う前に、

「絵理菜だったら、おれの横で寝てるけど?」

 と、くっきりとした発音で話した。

「バカッ!!」

 絵理菜はスマホを奪い返すために彼の腰に乗り上げ、高速でむしりとった。

「すいません。キチガイのバカが酔っ払ってるだけです」

「絵理菜さん? だいぶたっても高田が帰ってこないから、なにか、絵理菜さんの身にあったのかと心配だったんだが。アイツはケータイ、電源切ってるし」

 電話の先は、鴨島でなく鷲崎だった。借りたのだろう。

「あ、その、だ、大丈夫です。なんか、飲もうってことになって、飲んでるだけです」

「よかったよ。じゃあ、身の危険を感じたら、即コールバックしてきて」

「は、はい」

 電話が切れて、ふーっと、息をついた。高田はニヤニヤしていた。ふと気がつくと、高田の足の上に、足をひろげて座っていて、絵理菜は体の中心部で、まだそれほど硬くない高田のあれを感じてしまっている。彼は、絵理菜の腰に腕を巻きつけて、逃げられないようにしている。

「高田さん……何が一生の秘密ですか」

「えー? だって信じてなかったでしょ。ならいいじゃないか」

 彼は絵理菜の体をぎゅっと抱いた。

「おー、絵理菜さん、ちょっと最近肉づきよくなった? いい抱き心地だよ、大歓迎だよ。女の子はちょっとくらい肉がついてるのがいいんだよ」

 ……勘弁してくれ。



08

 やっと決意がかたまって、合鍵を使って入ると、中は真っ暗だった。駒野はほんのちょっと安心する。居留守を決め込まれていたわけではなかった、少なくとも。

 雨に濡れたジャケットやジーンズ、靴下などを脱いで、ベッドにごろんと横になる。絵理菜は、こうやって駒野が勝手に入って待っていたら、……どういう反応をするだろうか。

 ……ストーカー扱いされたら、どうしよう。そうなったら、それこそ、福井に退治される……。

 そのとき、駒野は別の生き物の気配を感じて、上体を起こした。浴室のほうから、わずかだが、なにかの鳴き声が聞こえた。

 この鳴き声は、まさか……。

 カッと汗が吹き出す。

 やがて、その生き物は、ゆっくりとワンルームの居間に足をすすめてくる。その正体は……。

 予想は当たった。ぶち模様の、かわいらしい子猫。

「わっ、わっ、わーーーーー!!」

 駒野は恐怖から絶叫し、お布団を頭まですっぽりかぶり、怪獣のジャミラみたいになって、壁に背がつくまであとずさった。にゃん、とまた猫が鳴いた。

「わーーー!!」

 駒野は震えながら逃げ場を探したが、玄関ドアに行くには、いったん猫に近寄るしかない。

 要するに、鳥だから猫が苦手なのだ。猫はしばしば、小鳥を捕食する。



09

「鴨島のケータイから、鷲崎がねぇ」

 彼はクールメンソールに火をつけ、灰皿をテーブルの上から手にとった。あいかわらず、絵理菜は彼のうえに座ったままだった。

「モテモテじゃん、絵理菜さん」

「そ、そんなんじゃないですよ……みんないい人だから、気遣ってくれてるだけで」

「と思ってるのは、本人だけかもよ。なにせ、『友達のカノジョ』って、それでなくてもなんとなく男にとってはエロい存在なんだよ。そういうエロビデオが出てるくらいだよ。そこにカレシとケンカして傷心ってなると、三割増くらいに見えちゃうね。たまたま、行動に出たのがおれだけだったに過ぎないのかもしらん」

「あー、もう、いったいなに言ってるんですか。自分がエロいからって、他人まで……」

「だな、絵理菜さんはまったく期待なしだったみたいだな。おれの好きなベージュのブラジャーだった。期待してたら、かわいいのを着けてくるもんね」

「まあ、それはそうですね」

「この位置で見る絵理菜さんもなかなかいいね」

「えっ。ああ。それは、ありがとうございます」

 あ、と思った。高田の外性器がむくりと動いた。絵理菜がそれを自分の敏感な箇所に押しつけられているのは、タオル一枚でしか隔てられていない。相手も感じているはずだ。いや、その前に、とっくに、嗅覚が作動しているのだろうか?

 とにかく、陰核にすら当たっているから、こう、むくむくと硬くされると、こっちまで変な気分になってくる。

 高田は絵理菜の唇をひとさし指でなぞった。抗議も遁走も封じるように。実際、絵理菜はなにもできなくなってしまった。

 こんどは親指で。

 タバコを消す。

「絵理菜さん。目、閉じて、口ひらいて」

 これこそ手品みたいだった。催眠術にかけられたみたいに、絵理菜はそれに従ってしまったのだから。

 高田が近づいてくる気配。

 しかし、

「あ、やべ。タバコ吸ったから、歯磨きしてからがマナーだ」

 と、絵理菜をよいしょと脇に置いて、浴室に消えていってしまった。これには、彼女もぽかんとした。

 ドアは開けっ放しだった。絵理菜は、歯磨きを終えた高田の様子を見ていた。顔を洗い、おもてを下げたまま、水滴がぽつりぽつりと垂れていくのを、ぼうっと見ている。

「……ヒヨってるのは、そっちのほうじゃないですか」

 彼はタオルで顔をぬぐうと、振りむきざまに不敵に笑った。

「言ったな。もう容赦なしだ」

「えっ」

 高田は壁に絵理菜の両手首を強く押しつけることによってはりつけにした。唇を求める。逃げられる。追う。

「おいおい、まだ決心つかんのか」

「……そうみたいです」

「じゃ、その気になる方法を使う」

「あっ」

 彼は絵理菜の白い首を強く吸ってきた。

「あ……あー……ちょ、困ります」

 一回だけじゃない。もう一回、また一回と、通算で三度もキスマークをつけてきた。

「よし、きれいに仕上がったーっ! 鏡で見てみて。強くやったし、絵理菜さん、色、白いから、これはマジで一週間はとれないぜえ」

「ああ……あああ~……」

 壁に貼られている姿見を見ると、本当に、くっきりとあざやかな真赤の線が、縦に三つ並んでできている。

「なっ。これであきらめもつくだろ」

 後ろから、高田がやさしく抱いてくる。



10

 学校の体育館の屋根の上で、福井は両手をまくらに、横になってひとやすみしていた。雨の金曜。濡れるのは苦手だが、いまはなにか、すべてがどうでもいい気分だった。

『例のヒーロー気取りは、きょうは現れましたか?』

 小型傍受器は、市販のものだと警察無線をワッチできないようになっている。改造を頼んだとき、高田は何かを勘づいたのか、何も訊いてこなかった。そして、自分用にも一個作ったから、スペアが必要なときにはいつでも言ってくれとまで、言った。

『はい、一件だけ。食い逃げを取り押さえたそうです』

『ははっ、食い逃げか。正義のヒーローにしちゃみみっちいな』

『いま取り調べてる最中みたいで、情報が入ってきたんですが、生活保護の申請を却下されて、食い詰めた老人みたいでした。つかまえる相手を間違えたんじゃないすかねえ』

『確かにな』

『そうそう、きょうはTシャツは黒だったらしいですよ』

『はははっ、とうとうイメチェンか』

『新コスチュームにして、子供に新しいおもちゃを買わせる戦略かもしれませんね』

『ぎゃっはっはっは、傑作だ』

『目撃者が何人かいました。奴はいつも屋根づたいに移動して、まるで鳥みたいだったそうです。どうも空から犯罪を探してるみたいですね』

『屋根づたいか。体育大学の人間や、アマチュアの体操選手なんかを洗ったほうがいいのかもなあ。もちろん、令状を取るときにはだが……』

 福井は、ゆっくりと体を起こし、あぐらをかいて、遠い光たちを見た。街の灯を。



11

 ベッドの上で片手で頭を起こしている高田は、ふわあ、とあくびをした。

 絵理菜は依然として、ダンゴムシのように、一人がけのソファの上で、自分の体を抱きしめていた。

「あのさぁ……もういいかげん、決心したら? 最初だけ思い切って飛び込んできたら、もう何も後悔はしないよ」

「ごめんなさい……心が弱い人間で……」

「まあ、いいけどね。このホテル、シティホテルのくせに有線なんて流れてんのな。おれ、セックスのときにBGMあるの苦手だから消すぜ。えーと、どのツマミだ」

「その曲、わたしの好きな曲なんで、それが終わってから消してください」

「ほっほう。クイーンか」

 高田はベッドに座った。

「いいよな。フレディ・マーキュリーは歴史の中で二番目に偉大なシンガーだ」

「一番は誰ですか」

「おれさま!」

「あ、おれさまって一人称を現実世界で使ってる人、はじめて見た……」

「フレディがあんなに早く死ぬとわかってたら、来日公演、一度くらいは行ってたのになぁ」

「わたし、フレディが死ぬ一年前に生まれました」

「えっ? えええーっ?! ……あ、ホントだ。ホントだっ! わー、隔世の感だわ。ん、っていうかこれ、失恋の歌じゃねえか、縁起でもないな」

「かなわなかった恋の歌ですよ」

「どう違うの?」

「違うんです」

「……よしわかった。絵理菜さん。ここで二人の相性をはかって、セックスするかどうかをキッパリと決めないか?」

 高田はむかいのソファにやってきた。

「相性ってなんですか」

「クイーンのトラックメーカーでだれが一番好きかを、せーので言う」

 絵理菜は笑った。

「一致したらセックス。しなかったら清いからだのまま、朝を迎える。恨みっこなし。どうだ」

「……確率は、えっと、四人だから、……四分の一……?」

「四かける二で八分の一だよ、絵理菜さんどうやって大学卒業したの。とにかく、もうこうやってウダウダするのはここでやめってこと。答えは天任せだ。さあ、乗るか。乗れ」

「天任せか」

「そう」

「……のります」

 高田はここ一番のギャンブルにのぞむときみたいな顔で、揉み手をした。実際に彼にとってはそうに違いなかった。

「せーの、でテーブル叩く。叩いた音が合図だ。後出しなしだからね」

「わかってます。そっちこそ」

「じゃあ、……せーの」

 高田がテーブルを叩いた。

「「ジョン・ディーコン!!」」

 高田の顔が、みるみるうちにジャック・ニコルソンになっていった。

 絵理菜の顔は、みるみるうちに蒼白になっていった。

「ウォーーーーーーーーー!! セーーーーーーーーックス!!」

「ひ、ひゃあああああーーー」

 高田は絵理菜をお姫様だっこにすると、ぽーんっとベッドに投げ飛ばし、そしてその上に飛びかかった。

「たった、高田さっ」

「絵理菜さん、ずっとこうしたかった」

 絵理菜の口を高田がふさいだ。逃げようとする彼女の顔を手で無理やり固定してのディープキスだった。彼は、絵理菜の歯の裏側すら、求めてきた。

「たっ……たかだひゃんっ……これって、マジですか……」



12

『では、逆に訊く。俺がいつ法を逸脱した? あるいは、犯罪者の素質をいつ見せた?』

 警察無線に、聞きなれない男の声が混じる。

 聞くものすべてが、凍りついた。

『日本は法治国家だ。その原則をもって俺は動いている。貴様ら警察組織がそれをわからなくてどうする? つかまえた食い逃げ犯が、生活保護を却下された哀れな男だと? 俺のせいじゃない。責があるとしたら役所の生活保護の担当者だろう。

 ……俺が人助けをするのは人のためじゃない。自分のためだ。だからこそ、法律のラインを守ろうと、最初に決めた。

 俺には、……意味がない。生きていく意味が。どんなかたちでも、俺の力を活用して、この街にコミットすれば、何かが見えてくると信じ、行動に移した。

 少なくともひとつのことはわかったよ。俺は、生きている意味がないことを嘆いているんじゃなかった。

 ……こんなクズみたいな人生のまま、朽ち果てて、腐っていくことが、怖いんだ。怖くてたまらないんだ。俺は自分の人生で何をやりとげた?

 ……「思い出は消えてゆく、雨ににじむ涙のように」』

 うつむいた瞬間、雨に濡れていたせいか、サングラスがすべり降りていった。球体の屋根をつたい落ちて、サングラスは、見えなくなっていった。

『映画のセリフだ。だが、俺にはあてはまらない。俺は物事を忘れる能力がない。思い出は消えていかない。そしてさだめられた寿命もまた、持っていない。腐っていくだけだ。きのうのことのように鮮明な思い出を毎晩、夢に見ながら。

 ……守れなかった』

 聞き手の警官たちは、不意打ちを食らった。このスーパーヒーローが、一度、子供のようにしゃくり上げたからだ。

『救えなかった。いちばん大事なものなのに、救えなかった……だから、いまここで人間の力になれたら、だれかを守れたら、失ったものを埋められると思った。

 でも違った。見込み違いだった』

 ヒーローは、もはや、すすり泣きに近い音を出していた。

『会いたい。……もう一度だけでいいから、会いたい。会いたくてしょうがないんだ。

 俺の魂は勝手に翼を生やし、俺の体を出ていき、行き場もないのにただ飛び続ける、そして、俺は、もう、ただの抜け殻だ……』

 音声が途絶えた。たまたま、機転のきく男がひとり、無線機に向かって言った。

『あ、あの。聞こえていらっしゃいますか? もし最近の通報や市民権利の逮捕が全部あなたのものだったら、あなたは表彰ものです。氏名と住所だけでもうかがえませんか』

 だが、ヒーローが警察無線に割り込むことは、そのあと、永遠になかった。




13

 布団をかぶって猫におびえるばかりだった駒野は、振り向いて窓の方角を見た。

 窓ガラスを開け、濡れるのもかまわず、身を乗り出して、夜空を見上げた。

「……福井……」

 受け取ったのは、言の葉ではない。

 ただ、情動の奔流を。


「痴れ者め」

 鴨島と鷲崎は、ともに寝転がって、高田の小型傍受機から聞こえる声に耳をすませていた。

「禁欲主義なんて貫くからああなるんだ。忘れたいなら、女を抱いて抱いて抱きまくればいい。気をやりまくってるとどんどん頭が悪くなってくもんだ。それでちょうどいい。せっかく身近に、なんでも言うことをききそうな女だっているのに」

「お前、絵理菜さんのことそんなふうに思ってたのかよ」

 鷲崎があきれたように言うのを、鴨島は愉快そうに返した、

「そうだ。福井の女になればあいつのいいなりだろうな。駒野で妥協しといて、あずかり知らぬうちに命拾いしたってわけだよ。もっとも今度は駒野のほうが、女のためにはなんでもしそうな腑抜けの体をなしとるがな」

「……福井は変わるだろうか。今回の件で」

「さあ。新しい女は抱きそうにないな」





14

「福井か……」

 ベッドから上体を起こしてタバコをふかしていた。その横で、絵理菜がぐったりとして、しかし、無造作に丸められたバスタオルに抱きつくようにしている。そのしぐさが、まるでその場にいないだれかを想っているようにも見えて、非常に高田の気をそそった。

 彼は灰皿でタバコをもみ消した。

「絵理菜さん、バアさんになって死んで、リーンカーネションしても、また福井と会いな。まだいるはずだからさ。そこまでしつこいと、相手も諦めるだろ」

「いまは……それより、駒野さんに会いたいです」

「おっ、そそること言うね、バナナちゃん」

「バナナちゃん……」

「意味わかんない?」

「うー……」

 絵理菜は、首を横にふる元気もないという体だった。額をぬぐってやると、汗まみれの前髪の感触を味わえた。

 高田は不意に彼女の陰部をまさぐり、ティッシュで水分をぬぐってもなお、いまだに非常にやわらかいそこに指を二本深く埋めた。

「あぁっ……」

「正解は、ストリップ小屋でバナナをちぎる芸ができそうの意味です」

「……そうですか」

「いやー、意外と入り口きついよね、びっくりしたよ。大学でさんざん遊んだくせにね」

「あそんでません……」

「でも、モテたでしょ」

「モテてません……」

「カレシ以外の男ともやってた」

「……やってました」

「まあしょうがないな、大学入って突然フェミにかぶれちゃ、恋愛とセックスは別なんて言われてその気になっちゃって、だれとでも寝まくるようになっておかしくない」

「……わたしは、小学生のころにフェミニズムに出会いました」

「あら失礼。絵理菜さんはさぁ、いわゆるバキューム型の名器よね。あれだよ、官能小説でよく、指がもってかれそ~なんて書いてあるでしょ」

「官能小説、読んだことないです」

「はいっでは絵理菜さん、この指が福井のものだとはりきって想像してみましょう」

「う」

「あ、ほらほら吸いついた。こういうまんこはさ、終わって抜くときにちゃんとコンドームおさえとかないと、ゴムだけ中に残っちゃって、ちょっとポタポタこぼれちゃったりするから、気ぃつけなね」

「……一回、ありました」

「ダャッハッハッハ。遅かったか」

 激しいセックスのあとはふつう、女より男のほうがぐったりしてるもんじゃないのか、と絵理菜は思ったが、この男の場合は、変なスイッチが入ったまま、ずっと元に戻ってない。たぶん、桜が咲いてから、ずっと。

 疲れる。

「っていうか、高田さん……」

「はい」

「なんか、さっきより大きくなってませんか」

「ああこれ。まあ、さっきは緊張してたから。おれみたいな男でも緊張するって信じてくれたらね。おれって、案外繊細なのよね~。あれ、どうして目をそらすの」

「いえ、そんなに見ていたいものでもないので……」

 高田は絵理菜の顔を無理やり自分の方向へ向かせ、ついでに手もとって握らせた。彼女の手のなかで、それはさらにどくどくと大きくなっていった。

「ほら、見ろよ。ちゃんと見ろ」

「あ、あんまり、気が乗らない……」

「乗る乗らないの話じゃねえよ。こっちは安くねえカネ払って買ってんだよ。言うことは全部聞いてもらわないと」

「……うー」

「どう? 太いでしょ。そこは自信ある。レンジはまあ、駒野と同じくらいかね。比べてよ」

「え、そんなのいやですよ」

「おれが比べろって言ってんだよ。ゴチャゴチャ言ってると、裸のまま放り出すぞ。ほら、ひとこと言えばいいんだよ、あいつより太いだろ?」

「……太いです」

「だれより? ちゃんと言えよ」

 絵理菜は鼻をすすりあげた。真っ赤な目から涙がこぼれていた。

「……駒野さんより太いです」

「よしよし。大丈夫、怖がらなくても。ぶん殴るって言ってるわけじゃないんだから」

 頬にこぼれた涙に、高田はキスした。

「うー……」

「じゃ、その、最愛のカレシよりおっきいしろもので、拡張しちゃおうか」

 驚いたことに絵理菜はたっぷり濡れていたが、高田は当然という顔をしていた。もちろん、この太さでも、難なく、ずるずると入っていく。二回目だ。絵理菜は思わず声をあげてしまう。一回目の快感を知っているから。これからどんな快感の津波が自分を襲うか、知っているから。でも、一回目以上だった。

「ねえ、マジで広がると思う? 朝までこうやってたら、広がっちゃうかなぁ?」

 絵理菜は動きにあわせてたえず悲鳴のような声を出していたが、そんな中でも、いまどき三十歳の男でもEDに悩むことがあるのに、五百歳だか六百歳だか千歳だかで、この元気さはずるいのではと、馬鹿なことをぼんやり思っていた。

「駒野が気づくかもなあ、おれがやりすぎて絵理菜さんのがユルくなってること。あーっ、駒野と絵理菜さんのカラダについて語り合いてー。あ、バレて捨てられちゃっても、もちろん責任とるから安心して。その前に、やつのじゃ満足できなくなって、絵理菜さんのほうが先に捨てるかもだけど」

「……や……そんなこと……」

 はっきり言って、息が切れすぎて、まともに日本語も話せない。

「マジで、絵理菜さんのまんこ、おれ仕様にしたいなぁ。他のだれでも満足できないように……」

 唇を求めてくる。クンニのあとはキスNGの絵理菜でも、逆らえずに舌を絡ませてしまう。タバコの匂いのほうが強かったから、よかった。

 高田はどうも絵理菜がオーガズムを迎えるまでがんばろうとしていたようだったが、彼女自身が別に封じようとしていたわけではなしに、それは来なかった。ただ、喉がかれるほど、始終、声をあげまくっていたのは間違いない。最後のほうは、泣き出すくらいに。

「……高田さん。高田さん」

「んうー……」

「チェックアウト、三十分前ですよ」

「え……マジ」

 高田は、バチッと目をさました。

 絵理菜はすべての服をきっちり着込み、靴まで履いて、バッグも抱えて、椅子に座っていた。

「やばい……マジ眠い」

「わたしもです」

「あーあ、シャワー浴びてこよ……うおっ、腰っ!!」

 起き上がった瞬間の、高田のリアクションがおもしろかった。

「♪ほとんど夢でも~」

 シャワーを浴びながら、また、音程のはずれた高田の歌声。

「♪いつかはなりたい きみだけのヒーロー~」

「ジャスラック……」

 ホテルを出たとき、朝日をじかに浴びて、高田はもうひとつ、特大のあくびをした。

「ごめん、絵理菜さん。送ってあげたいけど、おれ、帰ります。なぜなら、眠いから」

「いいですよ、別に」

「コマが帰ってきてたら、よろしく伝えといてやるよ」

 絵理菜は身構えた。

「よろしくって、何をですか」

「いや、普通に、会いたがってて、怒ってなかったよって」

「変なこと言わないですよね」

「なんだよ、変なことって。何も言ったりしないよ、バナナちゃん」

「言ったーーーーーー!!」

 絵理菜に本気で胸のあたりをどすどす殴りつけられて、高田はうれしそうだった。彼女は憤然と駅までの道を急いだ。

 玄関ドアをあけた瞬間、

「うわっ」

 という声がした。絵理菜は目を見開いた。駒野だった。駒野は、怪獣ジャミラのように布団をひっかぶっていた。

「……何やっとんすか」

「いや、だから、猫! 猫がいる! 絵理菜さん、いつ飼いはじめたの!」

「ああ」

 絵理菜は靴を脱ぎ、ベッドに乗り上げた子猫を抱き上げてやった。

「先週の半ばかな。脚、ケガして歩けなくなってるとこ、アパートの下で見たから、かわいそうになって、手当てしてあげたんです。そしたら、ちょっと愛着がわいちゃって、ごはんとか買ってきちゃったりして……」

「あ、あ、あのさ。オレ、ほら、鳥だし、猫、怖いんですよね。食ったりするじゃん。天敵なんだよ」

「でも、いまは人間じゃないですか。食べられませんよ。ほら」

 彼女は腕に抱いた子猫の喉あたりを、掻くように撫でてあげた。

「こうしてあげると気持ちよさそうなんですよ。やってみて。怖くありませんから」

「え、えっ、う、うん」

 子猫を差し出されると、駒野も勇気を出して、喉もとをいじってみる。たしかに、子猫は気持ちよさそうに目をほそめる。

「ね? かわいいでしょ」

「う、うん。そうだな。あんまり、怖くなくなった」

 そして、駒野は思った。いまの、なんかちょっと、赤ん坊が生まれたての夫婦みたいじゃなかったか、と。

「あっ、やだ、そうだっ! 一晩ほったらかしにしてたから、この子、おなかへってるんだ! ルーファス、ごめんね。すぐ出すから」

 彼女は子猫を床に置くと、目にも止まらぬ勢いで、ペットフードを皿に注ぎ、お水の皿もなみなみと満たしてやった。

「はあ……。今度から、外泊するときは、ちゃんとおとなりさんにお願いしなきゃ……」

 ベッドに座った絵理菜と、駒野の目が合う。そして二人とも、気まずそうにうつむく。

「……あの」

「いや待って! 先に言わせて!」

 と駒野は声を張り上げた。

「……すいませんでした」

「いえ、わたしのほうこそ……ごめんなさい」

「なんでですか。エリナさんが謝ることないですよ」

 それでも、どうしても、絵理菜の涙腺はゆるんだ。

 高田とのことをぶちまけてしまいたい衝動にかられる。でもそれはだれも幸せにしない。だいいち……。

 だいいち、それを聞いてもなお、駒野が自分を抱きしめてくれたら、わたしは本当に、だめになってしまう。

「ごめんなさい。こんなわたしでも、いいですか」

「当たり前だよ!!」

 駒野は絵理菜をかき抱くと、ぐるんと足を持ち上げてベッドに押し倒し、夢中でキスをした。

「絵理菜さん……」

「はい」

「……一週間会えなかったので、一日一発の計算で、きょうは七回します」

「七回!」

「はい! あ!」

 駒野は絵理菜の首筋を見て、目を丸くした。彼女は、すぐぴんと来て、まずい、と思った。首筋の、三本の赤いあと。

「エリナさん……それ……」

「う……」

「ひっかかれてるじゃないですか! ちゃんと消毒しました? 元は野良猫なんでしょ、なんか病気持ってるかも……」

「あっ……う、うん、しょうどく、した……」

「なら、よかった! じゃあ、続き!」

 絵理菜はそのとき、重大なことを思い出して、服をぬがせにかかる駒野を止めた。

「駒野さん、駒野さん!」

「どうしました!」

「温泉!」

「えっ。あ。予約、取り消してなかったんすか」

「いや、取り消しちゃったんだけど、たぶん、向かいながら、わたしがスマホで探せばきっとどこか、空室あると思う」

「ええっ?! スマホってそんなこともできるんですか?!」

「うん、できる」

「スマホ……やばいな……勝てない……」

「……行かない? いまからでも、間に合うよ」

「……うん。行きたい」

「じゃあ、温泉入ってから」

「おう、温泉入ってから、七発!!」

 絵理菜にしてみればとんぼ帰りの体で電車に乗り、二人は駒野たちのアパートに向かった。免許証ができているはずだった。

 ドアを開けると、鴨島の歌声。


 奇跡のようにきみはやってきて

 すれちがって、それでおしまい

 思い出なんてすべて、あとからこしらえればいい

 一瞬も、永遠も、同じことだよ

 かなわぬ恋は、ずっとなくならないペロペロキャンディ

 でもそれも、きょうでおしまい


 過去に泣かないで、終わったことだ

 未来を恐れないで、まだ来ていない

 いまを生きて、いまを輝かせて

 運命はチャンスじゃなくチョイス

 自分を幸せにできるのは、自分だけ


「ナイスプレイ、いぇーぃ!」

 鴨島と高田がハイタッチする。

「すげえよ。百パーセントJポップだ。おれらはこれでJポップの帝王になろう」

「当然だ! なあ、二番は『きみと出会えた奇跡』をおもに歌おう」

「おい、高田、免許証できてる?」

「おう、できてる」

 彼はポケットからそれを取り出すと、投げてよこす。

 絵理菜も背伸びしてそれを覗き込む。完璧な仕上がりだった。

「すげーな。これでしかも、照会されても問題ねえんだろ?」

「もちろんだ」

「高田、ありがと」

「高田様と呼べい」

「あ、ワッシー、車の鍵貸してくれない? ちょっと一泊してきたいんだけど」

「いいよ。玄関に下がってる小物入れ、上から二番」

「ありがと、でもさ、お前本当にあんな車ふだん使いしてんの?」

「しょうがないだろ」

「まあ、しょうがないな……。ん?」

 駒野が違和感の正体に気づいたのは、そのときだった。

 福井。

 サングラスをかけていない福井が、座布団を二つ折りにして枕にして、テレビを見ていた。

「ふ、福井さん」

 と絵理菜も声を上げた。

「……お前、なんで起きてんの」

「ゆうべ、早く寝たら、早く起きた。少ししたら、また寝る」

「あの、目は……」

「治った」

 絵理菜はもう少しいい角度で福井の顔を見たかったが、それに勘づいた駒野が、さっと鍵を取ると、絵理菜を引っ張って、とっとと地下駐車場に向かった。

「……ごめん。また、つい妬いちゃった」

 と、駒野は車に手をついてうつむきながら、謝った。

「あ、そ、そんな。ごめんなさい、わたしが……」

「もう謝らないでください、エリナさん。オレ、一週間じっくり考えて決めたんです、オレはもう……」

 彼は顔を持ち上げた。

「オレはもう、エリナさんが何考えてるなんて、そんなことはどうだっていいんです」

「そんな……駒野さん、」

「ただ……オレといる時間、楽しく過ごしてくれれば、それでもう、いいなって……」

 絵理菜は、今まで駒野にどんな思いをさせてきたか想像すると、いまにも涙があふれそうだった。しかし、そこに駒野が付け足した。

「だから……」

「だから?」

「車乗ってて、煽ってくるヤツいたら、エリナさんが励ましてください……」

「ふぷっ」

 彼女はこっそり、目のはしをぬぐった。

「いいですよ。ファックユーって言い返してやります」

 と、両手の中指を立てて。

「いやだから、そういうふうに事を荒立てないでほしいんですよ……」

「うそうそ」

 何せ車体が無駄にでかいので、駐車場から出てくるのもひと手間だった。地上に出てくると、なぜか高田が待ち受けていた。絵理菜は、五年ぶんくらいまとめてこの人の顔を見たな、と思っていた。おなかがすいているのに、胃がもたれる、というまれな経験を、いま、していた。

「おお、これが噂のか。確かにルパンが乗ってそうだ」

「だろ? ルパンカーだろ、ルパンカー」

「ああ、これ『ルパン対複製人間』でルパンが乗ってるの見たよ」

「お嬢さん、やつは大変なものを盗んでいきました」

 駒野は納谷悟郎の声マネをはじめたが、これでけっこう、うまいものだった。

「それは、あなたの……」

「あなたの、二十万円です」

 彼は、にっこり笑顔で、マネークリップにはさまった二つ折りの札束を掲げてみせた。

「えええええ!!」

「えええええ!!」

 駒野と絵理菜は、同時に驚愕の悲鳴をあげていた。

 絵理菜は必死で思い出そうとしていた。たしか、ホテルの部屋でも返そうとして……返そうと、して……その後、どこにやったか、あんまり覚えていない。それどころではなかった。

 駒野は、絵理菜の顔を見た。

「絵理菜さん、あれ、払ってくれたの?! ちょ、貯金とか崩した?!」

「えっ、あ。は、ハイ」

「公文書偽造の代金、たしかに査収いたしましたよ。じゃあ、楽しい旅を」

 高田は、ジャック・ニコルソンの顔になって、手を振った。駒野はややしょんぼりしながら、車を発進させた。

「絵理菜さん……ごめんな。ちゃんと、ローンで返すわ……」

「い、いえ。いいんですっ。わたしは、そのー……駒野さんがわたしなんかといてくれるだけで……」

 二人を見送り、ジャック・ニコルソンをやめた高田は、手持ちぶさたのように口笛を吹き、二十万より少し足りない金を投げてはつかみつつ、階段を上がり、へたな歌を歌う。

「♪かなわぬ恋は~……」


[newpage]


15

 出勤するときは、いつも繁華街を横切る。

 そんなところを歩くとき、こんなことが書かれているTシャツを着ていたら、すれ違う人間に、笑われたり、指をさされたりは当然だが、彼は少しも気にしていなかった。

 Real men don't buy girls。

 そして彼は人並みはずれた背丈の男とすれ違う。鷲崎だった。互いに互いの存在に気づいたまま、彼らはどちらも、一瞥もくれずに終わった。

 このタッパでスキンヘッドというのは相当人を怯えさせるものらしく、ただ、実際出てきた風俗嬢が写真の顔と違うと言っただけで、従業員はちぢみあがった、どの店でも。

 五、六店めで、見つかった。

 彼はただ、寝台の上で、素裸の女の胸に頬を寄せ、抱擁を交わした。女は彼のこわもても、何も恐れず、そんな彼をいとしげに、頭や肩をなでた。

 帰り際に、することをしないのは失礼にあたらないのかと聞いたとき、彼女は破顔一笑した。予約してくれれば確実だからと、名刺をもらう。ポケットに突っ込む。

 面影と面影を重ねる。

 俺の魂は、まだここにある、と鷲崎は思う。

 店を出て、夜空を見る。もはや、福井はその方角から街を守ってはいない。だが、彼の行き場をなくした迷子の魂が、いまも、どこかをさまよって、翼をひろげて旋回している。

 満月が出ている。



(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る