第5話 鳥類の物狂
01
垂れ下がっている札には、「Please clean up room」とあった。
駒野はドンドンと乱暴にノックしただけで、返事も聞かずにドアを開けた。鴨島は、ピカピカのアコースティックギターをつまびいていて、その前には譜面とえんぴつがあった。作詞か作曲か、もしくは両方をしていたようだった。
「よう」
「ああ、伊藤さんか」
鴨島は駒野には目もくれず、遅れて入ってきた伊藤絵理菜に、必殺の微笑みとともに手を振った。
「久しぶり。これ見てよ。今度さ、ソロで弾き語りするハメになっちゃった。久々だから緊張する。観に来てよ」
「おいおいおい、そういうのは困る」
駒野は絵理菜と鴨島との間に、敢然と割って入った。彼は昔もよくこういうことをした。多くは高田と三人でのザコ寝から目覚めたときで、ショートパンツなどを脱ぎ散らかして寝ていた絵理菜が、パンツ丸出しでショーパンを探すそのとき、高田が機嫌のよさそうにそれを眺めている気配を感じるや、駒野はだまって、サッと間に割り入り、視界をふさいだものだった。
「エリナさんからはお前に一銭も落ちんからな」
「なんだ。じゃあ、なんの用だよ」
「ちょっと、部屋を貸してほしいんだよ」
駒野はそのいかつい外見とは裏腹に、わずかな羞恥の表情を見せた。
「二時間か、三時間でいい。高田の部屋に移動してくれるだけでいいんだ」
「は? 高田の部屋はお前の部屋でもあるだろ? 高田がいるなら、ヤツに動いてもらうのがスジじゃないのか」
「それが、動かねえんだよ……」
「何で」
「……瞑想に入ってる」
「瞑想?!」
すぐさま、鴨島は、ギターを抱えたまま腰をあげた。
「……本当だ」
なお、高田の部屋には鷲崎もいて、大なべでカレーを作っていた。これはいつものことだ。昼に寝る福井に、カレーの匂いがすると腹が鳴って眠れんと追い出されるのだ。こうして彼はよく大量にカレーやシチュー、おにぎりなどをこさえては冷凍し、共同生活の一同が朝メシなどに食べれるように用意してくれているのだった。
問題の高田だが、たしかに、部屋の真ん中に、ヨガマットを敷いて、座禅に似た(しかし違うのは手を両膝の方向にひらいている点だ)かっこうで、目を閉じていた。
「ヨガに凝ってるって話は聞いてたんだよ」
駒野は困り顔で腕を組んだ。
「ほら、こいつ格闘技マニアじゃん。呼吸法が参考になるとか言って始めたらしいんだけど。ここまでハマるとは思わなかった」
「なんだ、カレー以外の香りがする」
「あれだよ」
彼は、すぐ脇に香炉を置いていた。
「……ヨガって、香使うのか? それ、たしか禅宗じゃないのか?」
「知らねえよ。とにかくこの状態で、なんかの境地に行っちゃってるみたいでさ、何言っても叩いても無反応。せめて部屋のすみっこでやってもらえばよかったんだけど、帰ってきたら、なんでか、真ん中に陣取ってやがってさ……邪魔なことこの上ないわけよ」
「本当に何も聞こえてないのか? ちゃんと試したのか? おい、腐れダカ。ホラ吹き。インチキ山師。大口叩きの香具師。ほら、お前らもなんか言え」
「ドスケベ、キチガイ、アル中」
と駒野。
「貸した三千円返してください」
と鷲崎。
「あのー、こんど、格闘技のこと教えてください」
と絵理菜。
「コイツはもともと頭がおかしいが、毎年このへんの季節にもっとおかしくなるのは十年二十年のことじゃない」
「それは春が来たあたりだろ? もう初夏だ」
「まあ、そうなんだ。昔だったら、『もの狂ひ』と歌に詠まれるような風情だが、要するに春になるとキチガイがイキイキするのはオレらも人間も変わらないって話。そう……こないだ桜が咲いたあたりのころ、なんかコイツ、東京でフランス映画のなんとかって巨匠の映画がフィルム上映されるからいっしょに行こうとか言い出して。コイツ、フィルム上映とデジタル上映の違いなんかわかんのかよって思ったけど、なんか目がランランしてて、瞳孔クソ開いてて、なんか逆らえないものを感じて、いっしょにいった」
「映画はどうでしたか」
と絵理菜がたずねた。
「ん? あー、映画はねー……オレは、『トレマーズ』とかのほうが、いいと思った。そんな感じ。でさ、まだあんの。続きあんのよ。帰り二人で歩いてたら、小学生がひとりさ、缶をずっと蹴りながら歩いてるとこに遭遇して、オレが、ああ小学生だなとかボーっと思ってる間に、あいつ、『フッ!』とか声出して、いきなりダッシュして、サッカー選手みたいに、小学生から缶を奪って、缶蹴りながら走っていって、消えていった」
「はははははっ」
絵理菜は声をあげて笑ったし、ほかの二人も、ぷっと失笑した。
「いやあ……こうして話してると面白いかもしれないけど、こっちは勘弁してくれだよ。小学生、茫然としてるし。オレの頭見たらさ、あからさまに怖がってるし。思わず、すいませんって謝っちゃったよ。謝って、走って追いかけた」
「絵理菜さん、コーヒー飲みますか」
「あ、いただきます」
「俺も」
お盆の上の二つのコーヒーカップを、絵理菜と、そして、駒野から奪うようにして鴨島が取る。
「だからさあ……こう……オレら全体としては、なるべく、人間社会の常識からハミ出していただきたくないわけじゃん。ただでさえ怪しい奴らなんだから。コイツはもう、春、夏の間はもう……」
「絶好調なんですね」
「そう」
「なあ、本当に反応しないのか? 助走つけて思いッきり顔面に膝打ちかますとかしても?」
「まあ、カモちゃん、ここは穏当に行こうや。本人、悪気があるわけでもないし」
「ごめん。なにせ、コイツの行動には積年の大怨があるもんで」
彼はギターを壁に置き、壁に背をついて座って、コーヒーをすすった。
「ああ、わかるよ。オレだっていくらとばっちり食らったか知らない。エリナさんも気をつけてな」
こうして駒野と絵理菜は、鴨島の明け渡した部屋へと消えていった。
「そういえば、お前と高田って、どれくらいの付き合いなんだ? どっちが立場、上?」
「いやなことを思い出させるな」
「おお、悪い悪い」
「……能の全盛期、俺は、あまりにも顔がいいから、面をつけずに舞っていたときがあってな。たぶんそんくらいに目をつけられた。立場は、むこうがおそらく年上だから、上なんだろう。俺は無学だったから、ヤツにはずいぶん色んなことを教わったよ。……あの二人、いつまでもつと思う? トトカルチョするか?」
「絵理菜さんで賭けるのか? ちょっと気の毒に思わんでもないな」
「どっちが」
「もちろん、駒野がだよ」
二人はなんとはなしに声をしのばせて、笑った。
そのうちに、壁のむこうから、声がきこえてきた。
「あーっ、あーっ、あーっ」
怪訝そうに、鴨島は首をかしげた。
「なあ。……この部屋、俺の部屋とはひと部屋またいでるよな? なんで声が聞こえるんだ?」
「知らん。しかし、ずいぶんでかいな。絵理菜さんも顔はかわいいのに、裏腹に……」
「あーっあーっ!! エリナさんっ!!」
鴨島は無表情でギターをポロンと弾き、鷲崎は大きくため息をついた。
「……なんであいつの声のほうがでかいんだよ」
「エリナさん!! あっそろそろ!! そろそろなんですけどいいですか!!」
ジャンジャンジャン、とギターをでたらめにかきならして、ひとこと。
「なんといったらいいのか。……不愉快」
「エリナさんっ!! ああっエリナさんエリナさん、エリナさんの子供が欲しいっ!! あーーーーっ!!」
瞬間、カッと、高田のまぶたが勢いよくひらいた。
思わず、鴨島と鷲崎は、両人ともに目をまんまるにして、顔を見合わせた。
そして、しぜんに、目をそらす。鴨島はもう、感情にまかせてギターを鳴らす気力もない。
「なにか、とても面白いことが耳に入った気がする……」
高田は姿勢を崩さずにつぶやいた。
鷲崎は煮込んでいるカレーの様子を見ながら、
「……あのさ」
「うん」
「自信、ない。どうしよう。次にコマに会ったときに、吹き出さない自信がない」
彼は本当に、困り果てた様子だった。
「それは俺も同じだ。高田もな。まあ、いまこそ一致団結して乗り越えようじゃないか。……あいつ、高田のことをさんざん春に湧くキチガイ扱いしておいて、自分のほうこそ物狂いの態じゃないか」
その晩の鍋の集まりに、絵理菜の姿はなかった。
「あれ? 帰ったの、伊藤さん」
「うん。なんか、持ち帰ってきてる仕事があるとか言ってた。大変そうだったよ。で、日暮れる前に、高田のチャリ借りて駅まで送ったよ。帰り、ちょっとやばかったな、暗くなりはじめてて」
「なに? お前、いまだに駅までの道くらい、アタリで走れないの?」
高田が塩鍋を取り分けながら言った。アタリで、とは、道のアタリをつけて、の意味だった。
「しょうがないよ。オレはこないだ越してきたばっかりなんだから」
「それでなくても音の反響を聞き分けるとかでなんとかしろよ。おれはもう、バーからの帰り道、真っ暗で完全メクラ状態だけど、いつもチャリで帰ってるよ。帰りが朝日がさす時間になってても、もうありがたいとも思わねえ。まあ、完璧に道がわかるようになるまで、三回くらい、ひとんちの塀とかに突っ込んで、累計で二十メートルかふっとんだけど」
たまたま白菜を頬張っていた福井の携帯電話が鳴った。いや、携帯電話ではない。それは……
「福井……アイフォンじゃん……!」
高田が目をみはった。福井は冷静に白菜を咀嚼し、嚥下しおえてから、電話に出た。
「はい」
「なに、いつのまにアイフォンにしたの? 発音、あってる? あ……アイフォーン?」
「ついこないだだよ」
「どこかわかったのか?」
福井は膝をあげた。
「長崎? どうして? 遠いな」
「最近、ああやってずっと、ほうぼうと連絡とってる。あと、ネット見たいときは、俺が借りるときもある」
福井はいかにも話しにくそうなことを話すときのように、ベランダに消えていった。
「福井が電話魔? いったいなんで」
「目的はよくわからんが」
鷲崎も、くちゃくちゃと鶏肉を噛んだ。
「俺たちのような一族の始祖をさがしてるらしい。一番最初の『鳥』だ。なぜだか生きてると確信してるらしくてな。そして、そいつが、俺たちの生まれた意味や、生きていく意味を知ってるとも」
「はぁ~? なんだそれ。まさか高田に続いて、ふくちゃんまであったかくなってヘンになったのかぁ?」
駒野のこの言葉に、高田、鴨島、鷲崎の三名は、喉まで出かかった言葉を、お互いの目配せによって、なんとかこらえた。
「お前の影響もあるかもしれないぞ、コマ」
「え? オレえ?」
「正確には、お前と絵理菜さんの様子に、だけど。過去の自分の女を思い出したのかもしれない。あるいは、哀れに感じたのかもな。幸いにして絵理菜さんと添い遂げたとしても、死ぬのは必ずあっちが先だ。人間は死ぬことによって生きることを終え、いままでの生に意味をつけることができる。お前は、そしておれたちも、いつまでも区切りをつけることができない」
「おい、それ伊藤さんには内密にしとけ」
と鴨島。
「福井が伊藤さんに影響を受けたなんて知ったら、彼女、内心舞い上がるぞ。なんせいまだに、鍋の席で福井の横になると、キョドってるからな、あの子」
「大丈夫大丈夫、添い遂げるなんて幸せなことが起こるかっての」
毒舌は高田だ。
「おれの見込みだと、絵理菜さんは会社の先輩とかそういう関係の男にこまされるね。仕事とか教えてもらったり手伝ってもらってるうちにさ。なんせお前より顔のいい人間なんて山ほどいるし、絵理菜さんは最初に福井に惚れたほど面食いだし」
「はあ……エリナさんか」
駒野は顔をおおって、テーブルにひじをついた。
「あ、ごめん。マジにへこんだ?」
「いいや、違う。そんなことじゃなく、オレこのところ、悩んでることがあって。エリナさんに言いたくて言い出せないことなんだけど」
「何だ何だ」
「……オレたちって、付き合ってるのかなぁ、って……」
「えっ?! この場所、いまから、そういう世界観になるのか?!」
鷲崎は思わず、腹から声を出して、驚いていた。
「うわー、やめろーっ! そういう、ヤンマガに載ってるような、ちょっとエッチな青春ラブコメマンガの世界におれを引きずりこむのはやめてくれー」
高田などは、本気で嫌なのか、耳をかたくふさいですらいた。
「ちょっとお前ら、なんだよその反応。話だけでも聞いてくれよ。こないだいっしょに買い物に行ったときにさ、実は思いきって、言ってみたんだよ。一週間記念に何か買わね? って。それでエリナさんもいいねいいねっつって、買ったのがこの指輪なんだけど」
「あーっ! 言っちゃったー! みんなして必死で見えないふりして無視してたのに、言っちゃったよー! おかあさーん!」
駒野のかかげた左手の薬指の指輪は、高田を悶絶せしめるばかりか、ほかの二人にも、こうべを垂れさせ、けしてそちらの方向を見せさせぬという効果をもたらした。高田はなおもわめいた。
「おいっ、お前ら、この際ついでだからって、コイツの耳のふさぎかかってた穴のピアス、どれもどう見ても女物で、絵理菜さんのおさがりなのが丸わかりなのとか、いかにも指摘してほしそうにいつもつけてるのとか、指摘したヤツ負けだからなっ」
「お前、もう負けてるよ……」
「おい、いいから人の話を聞けよっ。でな、オレは付き合って一週間の記念ってつもりで言ったんだけど、エリナさんは、セックスしてから一週間って記念って受け取ってるかもって、あとで気づいて……。ほら……エリナさんって、わりと、現代っ子だからさ、割り切ってるっていうか……前も雑談してて、彼氏はセックスしてから決めるとか言ってて、つまりそういう新しい子なんだよ。オレとしては、そんな子に、どう接していいのかわかんない部分があって」
「女とどう接していいのかわかんないだ?」
鴨島は心底あきれた様子でいった。
「お前、何百年生きてるんだ? 何百人の女と口きいた? 付き合ったのは何人だ?」
「過去なんて関係ねえよ、たとえば、千九百年に男女交際するのと、その百年後に同じことするのはまったく攻略法が違うだろっ。オレだって五十年前だったらこんなに悩まなかったよ、女の子のほうがさ、たかが数回セックスしただけで彼氏ヅラされたくないなんて、絶対口にしない時代だ」
「ぶっぶー、駒野、五十年前はヒッピーブーム華やかなりし時代だ。フリーセックスって言葉が大ブームになったじゃないか。お前は五十年前もきっと同じこと言ったろうよ」
「嘘だね、フリーセックスブームは言葉だけがブームで、実体はともなってなかった。だって、オレ、恩恵にあずかんなかったもん。みんな口だけだったよ」
「ああ、どうでもいい。どうせ近くフラれるんだ。はっきり聞くなりなんなりしろ」
「……あのー、実は、もうひとつ悩んでることがあって」
「これ、もう火、止めちゃっていいんでない?」
「止めよ、止めよ」
「……そのー……実は深刻な悩みなんで、みなさんにもまじめにきいていただきたいんですけど」
「わかったよ。聞くよ。毒皿だ」
鷲崎が肩をひょいと上げた。
「……エリナさんがいかない」
「え?」
「エリナさんがいかない」
「どこに?」
「そうじゃない」
「しょうがないな」
鴨島はむっつりしたまま、指をポキポキ鳴らした。
「俺の出番だな。必殺仕事人が行くぞ」
「いや、そういうのはいいから。真面目に悩んでるんだよ。というのも話はさかのぼって」
「うん」
「はじめてセックスしたとき、エリナさんいかなかったんだよね。でそんとき、最初は緊張するからいかないけど、何回かやってるうちにリラックスしてきていけるとかおっしゃるんですよ」
「……なんか生々しいな……他人のこういうあれ」
鷲崎は食欲をなくしたのか、取り皿をちゃぶ台に置いた。
「なので、わりといままで、まあ会うたび、何回もやってるんですが」
「だけどいかないってわけか」
「そうです」
「なんで敬語なんだよ」
「お前、ウルトラ早いんじゃないの」
「そう思って、二回戦とかやったり、もしくは、会う前にあらかじめ抜いといて、長持ちするようにした! でも、成果なしなんだよ」
「お前、死んでも直接、伊藤さんに面と向かって、なんでいかないのかとか、訊ねるんじゃないぞ」
鴨島は言った。
「そう言った瞬間から、彼女はもう、演技しかしなくなる」
「……アドバイス、ありがとう。でも根本的な」
「あーっ、そんなの、あれだよ。加藤鷹先生の秘技伝授ビデオ見ろっ。はいっ解決っ」
「しかし、こんなマジな顔して悩むたあ、本当に真剣なんだな、伊藤さんのこと」
鴨島が、うれしげに。すると高田が、
「そうだよ、こいつマジだよ。エリナさんのために働きはじめたしね」
「え、マジ? 初耳。何系?」
「現場」
「ああ、まあ、お前はたいていそうだな」
「だって、エリナさんマジ、仕事きつそうなんだよ。いつもオレ言ってんの、やめりゃあいいじゃんって。でも、合法の仕事ってあんまり儲からないから、いますぐエリナさんを養えるわけじゃないし……。まあ人に言えないような汚れ仕事なら稼げるは稼げるけど、汚い金でエリナさんを食わすのもなんだし……」
駒野は途中から完全に自分の世界に入って、ぶつぶつと問わず語りをはじめ、しかもその内容は一同にとって衝撃的なものだった。三人はまたお互いに目配せした。もちろんだれもがあの絶叫を想起したのである。
「……まあコマ、適当にがんばれよ」
高田が、もはや力が抜けた状態で、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。
「いつまで続くか正直わかったもんじゃないしな。でも、いつまで続こうと、それは一瞬だし、おれたちの人生はまだまだ続く。あと一ヶ月、あと一年、あと五十年続こうが、一瞬にして過ぎ去っていく」
「だったら? 過ぎ去るから意味がないとでもいうのか?」
駒野はぎろりと高田をにらんだ。
「オレは信じてるよ。たとえ一瞬の出来事でも意味はあるんだ。あの子とオレが一ヶ月だけ続いても、百年続いても、オレにとっては何も変わらない」
「Jポップみたいだな。そうだ、そんな感じで行こうか」
鴨島が譜面の裏に、メモをとる。
「そういえば、福井は長生きの鳥を探して、そいつに自分より年上の知り合いを聞く方式で、最古の鳥にたどりつこうとしているらしいが」
と鷲崎。
「あらためてこんな話したことなかったけど、こん中でいちばん年上って、だれ?」
「たぶん、高田だろ」
「そうだと思うが、自分でよくわからん」
高田はアメリカ人のように肩をすくめた。
「だって、自分の年齢なんてさ、知ってるやつ、この中にいるか? いないだろ? 覚えてらんないよ。毎年変わるんだぜ。一年に一回変わるものを覚えてられるかよ」
「生まれた年とか、時代くらいは……」
「生まれた年ねえ。鳥として生まれた年はもちろんわからん、鳥だからな。人間になったときは……みんなそうだと思うが……半々のような状態があったはずだ。意識が、半分は鳥で、半分は人間のような……だから、人間としての誕生年も、はっきりしない。時代といわれても……たとえば、バスティーユ監獄襲撃したとき、おれはお調子者だから前のほうにいたけど、福井はベタオリ人生だからずっと後ろで様子見てた、って言えば、そうだった気がする。踊ってるハニワって、モデル、あれオレだから、って言えば、そのとおりな気がする。宇宙開闢の瞬間を見たって言えば、そんな気になる。あるいは」
唇を舌でしめらせて。
「……二〇〇一年のあの日、HALがデイジーデイジーを歌うのをナマで聞いたぜ、って言えば、それが真実になる気がするよ。要するに、時間も現実もぜんぶ、おれには不確かになってて、もうどうでもいいんだよ。思い出なんてすべて、あとからこしらえればいいんだ」
「またJポップっぽいな」
鴨島が律儀に書き留める。
「でもわかる気がする。俺は過去と未来の区別がつかなくなるよ。自分の横にいる若い女が突然老婆の顔になるんだ。美しく生きる女は老いさばらえてもなお美しく、醜い女もまた同じだ」
「まあ、そんなかんじで、それで納得がいってるのがおれ。納得がいかないのが福井、って感じなのかね。あーあ、世界最初の『鳥』なんて、普通もう死んでるんじゃないかな。おれは目の前で、たったいままで会話していた鳥が、吸い込まれるように電車に身を投げたのを見たことがあるし、もめ事で死人が出たことも、一度二度じゃないしね……」
高田はクールメンソールに火をつけた。
「福井か……。なあ、エリナさんってやっぱり、まだ、福井のこと好きなのかなぁ? どう思う?」
「うわっ、話が戻った。一回転した。ウロボロスの蛇のごとく」
「本人はなんて言ってるの?」
「昔の話って。でも、夢に福井が出てきたとかこないだ言ってて、オレ、ふーんとか言って流したけど、内心めっちゃ、『えええ……』ってなってた。……福井相手だったら、エリナさん、いくかなあ」
「また、バカなことを……」
と、鷲崎。
「いや、エリナさんがまだ福井のことほんとは好きで、やさしいからオレには隠しておいてるとしてだよ。オレより気持ちよくなれるんだったら、福井に頼みこめば、一回ぐらい抱いてもらえるんじゃないかなって」
「福井は、仲間の女を抱かないよ」
高田が、天井を見ながら言った。
「え? それって絶対に?」
「絶対にだ」
「ああ……例のなんか、女関係の事件か。詳細、オレ知らないけど。何年前?」
「五百年か四百年」
「頼む」
鷲崎がワンカップをぐいといった。
「思い出させるな。この話はこれで終わりだ」
高田がひじで鷲崎をつつき、耳打ちする。
「詳しくはあとでな」
「そう……じゃあ、こういうのは? オレはいったんエリナさんと別れる。まあつきあってっかもわかんないんだけど。その上で福井と一発っていうのは? オレの女じゃないからいいだろ?」
「あああああっ、もう我慢ならん」
鴨島が文字どおり頭をかきむしった。
「どいつもこいつもキチガイっ、キチガイっ、キチガイだらけだこの場所はっ。駒野っ、お前は手段と目的がグチャグチャになっとるっ。絵理菜さんの立場になって考えてみろっ。好きな男にはふられるわ、ようやくあきらめた男がせまってきて一発やったと思ったら去っていくわ、最悪じゃないか」
「あ……そういえば、そうだわ……」
「お前は色に狂いすぎて頭がおかしくなってる。冷静になれっ。少なくとも彼女には何に関してもしばらく余計なことは言わんほうがいいだろうなこの分では。当分は黙って加藤鷹先生と練習でもしてろっ」
「は、はい、わかりました」
鬼のような形相でまくしたてる鴨島に、駒野は思わずいずまいをただし、正座してしまう。彼は顔が整っているぶん、激昂すると、相応の凄味が出るのだった。
「ああ、あとな駒野」
彼は譜面を持って、勢いよく立ち上がった。
「はい」
「人間と鳥のあいだには、子供はできんっ。そのような例が観察された情報をわれわれの誰もが共有していない!!」
鴨島はサンダルをはいて、自分の部屋へ帰っていった。駒野はぽかんとしていた。
「……子供? なんの話だ、いきなり、あいつ」
ついに耐え切れず、天に向かって高田は吼えた、
「王様の耳はロバの耳ッ!!」
02
福井はウイスキーの水割りを頼み、ソファについた。
「ホストですか。なんでそんな、体に悪そうな仕事してるんですか」
鬼島は同じく席についてから、キャバクラ嬢に水割りを頼み、福井にニヤッと笑いかけた。スーツはしみひとつなく真っ白で、髪は黒いが、肩までのばしている。
「別に。面白そうだから。肝臓なんか、すぐ治るさ、だろ? でも、あれでなかなか興味深いよ。……お前は、最後に会ったときは、連歌師兼坊主だっけ? 信仰は捨てたのか?」
「はい。とうに」
キャメルをくわえると、女の子が火をつけてくれる。だが、そこにいないように福井は無関心だった。
「一五六七年はひどい年でした。一匹狼を気取っていた俺すら、仲間をたよって身を寄せ合って生きていかなくては、命の危険にさらされるような有様でした」
「ああ、思い出した、あの年以来か!」
鬼島はぱんと手を鳴らした。
「いや、こりゃ懐かしいな。それで? その後、『意味』は、何年探してる?」
「四百年です」
「なるほど」
鬼島もタバコをふかしだす。
「……古代エジプトでは、現世の肉体はカーと呼び、霊魂はバーと呼んだ。霊魂は鳥のかたちをしているという。ほかにも、この世とあの世の橋渡しを鳥がしているという神話は、世界各国に見られる。おれはそこに何か鍵があるような気がしてならない。あるいは……」
鬼島は続けた。
「禅宗ではこの世を物質界と非物質界に分ける。おれはそれもなぜだか、長年気になっている。何かそこに……」
「答えになっていません、鬼島さん」
福井はタバコをつまみとり、しかし、煙を吐き出さずにしゃべった。
「すべて推測の域を超えない。われわれはなぜ生まれたか? それはわかる。人間をうらやんだからだ。二本の足で大地を踏みたいと願ったからだ。だったら、この寿命は? なんのために生きながらえている? 俺が探しているのはその意味だ」
「まあ、まあ、熱くなるな、若造さん」
鬼島は水割りをひとくち飲んだ。
「人間はすぐに、無秩序のなかに秩序を見出し、勝手に意味をこしらえては、これが生きている意味だと舞い上がる。人間は弱い生き物だからだ。そしてきわめて短い寿命で死んでいく、あたかも一冊の本が完成するがごとく。死ぬことも、人間にとっては生きることの範疇だ。死ぬことによって人間の一生に意味が付与される。では、俺たちは?」
「なあ、こう考えたらどうだ? 必ずしも無限の寿命を持っているとはかぎらん。俺たちのなかでまだ一回も、天寿をまっとうしたヤツはいない。だが、あるとき、われらは寿命を迎えるのかも」
「いつですか」
「知らんな。単に時間の問題かもしれない。あるいは、意味を見つけたときかも。われらはあらかじめ意味なり使命なりをたずさえて生まれたわけじゃない、人間と同じように、あとから意味は発見するのでは?」
「あとから?」
福井は頭をかかえた。
「そんなことができるのか? 愛した者はみな死んでいくのに?」
「そうだ、お前ら、その力を利用して、市民に愛されるスーパーヒーローになったらどうだ? 『ウォッチメン』みたく、戦争を回避してやったりさ。観た? 『ウォッチメン』」
「もうだれも、そこまで強くありませんよ。俺も武術はなまっています。それに……」
福井も水割りを口にした。
「『誰がウォッチメンを見張るのか?』」
二人は声をたてて笑った。
「しかし、何か自分にできることを考えて、それを実行することは、悪くないと思うぜ」
「自分にできることですか。夜勤の警備員しか思いつきません」
彼らは長いこと夢中で議論し、水割りはほとんど飲まれず、氷が溶けて、薄く、透明になっていくだけだった。彼らにそれぞれついたキャバクラ嬢も、彼らの話がまったく見えず、またついていける気もせず、ぽかんとして、黙りこくるだけだった。
鬼島はキャバクラを出たとき、ううーんと背伸びをして、
「あと一軒くらい、行く?」
と、にっこりと笑った。
「きょう、オフですよね。休みの日にも飲むんですか」
「いやあ、これがさ、逆に、休みの日の酒がうまくなりーの、ならないのって」
「すみませんが遠慮します。鬼島さん、教えてほしいことがあります」
「なんなん」
「あなたより年かさの『鳥』を」
「ああ、例の始祖探しね。教えなーい」
「どうしてですか」
「えー? だって意味を感じないからだモン。じゃあ、福田くん、まったねー。またごひゃくねんご~!」
「いまは福井です」
ろくに酔っていないはずの鬼島は、アラレちゃんのように、腕をひろげて、キーン、と声をあげて、歓楽街の真ん中を飛び去っていった。福井は嘆息した。
「……あれで、日本の国鳥か」
03
「はあああ……きもちよかったぁ……」
ドサリと、駒野が絵理菜の隣にあおむけに倒れこむ。場所は、絵理菜の家のセミダブルベッド。長丁場だった。もちろん、絵理菜のために。彼は全身汗だくだったが、彼女のほうは、それほど汗はかいていない。いつものことだった。
「……いつも不思議なんだけど、意外と出てこないんだよね……」
絵理菜もいつものように、中に出された精液をティッシュでぬぐおうとする。
「あー? それは、絵理菜さんがよくしまるからだよ。入り口なんて、チンコ抜いたとたん、きゅーっとカメラの絞りみたいにしまっちゃってさあ」
「でも、どこに行ってるか、気になるよね。精液……どこに行ってるのかなぁ……」
自分で言って、絵理菜は自分で笑った。
そんな彼女を見て、駒野は、世界最大かわいいと思う。はじめて会ったときより、こういう関係になるまえより、絵理菜は、ずっとかわいくなった。もちろんひいき目だということはわかる。でも、自分の横で、こんなにかわいい女の子が裸で寝ていることが、駒野はいまでも信じられない。
だが、彼には負い目のようなものがあった。彼は自分がズルをしたように感じていた。絵理菜と再会したときのことだ。自分が女の立場になって考えてみよう。自分の危機に、はるばる遠くから駆けつけ、全身血だらけになって戦った男がいたら、誰だって、ぐっときてしまうのではなかろうか。あんな再会の仕方でなく、普通に、馬鹿面さげて、おみやげのひとつでも渡して帰ってきても、絵理菜は自分に唇を寄せたろうか?
そうだ、と言い切れなかった。
では、やはりあのとき、頑として再会すべきではなかったかというと、……いまが幸せすぎて、そんな道は考えるだけでもぞっとする。
「エリナさん……」
まだ息切れしながら、彼は言った。
「ん?」
「これ、正直に答えてほしいんだけど……」
「えっ。突然なに」
「あ、いーや、そう難しく考えないでほしいんだけど、ちょっと質問があって」
「はい」
「……オレって今後、どうなるべきだと思う?」
絵理菜は吹き出した。
「なんですかそれ。抽象的すぎて、わかんないです」
「やー、だからだから。エリナさんからの目で見て、オレはここをもっとこうするべきだ、ああするべきだとか、こうしてほしいとか要望とかがあったら、全部、正直に言ってほしいんですよ」
「駒野さんは、そのままで完璧ですよ」
絵理菜は、彼の厚い胸板に頬を寄せた。そこが汗でぬるぬるにもかかわらず。こういうところが、また、駒野を狂おしくさせる。
「いや、そんなことはないはずだ」
「いえ、本当に、特に何も」
「だって、絵理菜さんって、セックスでいってないですよね」
駒野は言ってしまってから、額をかかえた。
「やばっ、言っちゃった。鴨島に、ぜってー本人に言うなって言われてたのに」
「それは……」
絵理菜が、狼狽の色を見せる。
「いや、だから、それはたぶん全部オレが悪いんですよね? オレのせいなんですよね? だから、たとえば前戯を長くしてほしいとかここを責めてほしいとかそういうのをこの際すべて」
「駒野さん、ごめんなさい……」
「えっ、えっえっ何。ごめんなさいって何」
「わたし、ちょっと……その……ウソを」
「ウソ?!」
絵理菜はうつむいたまま、ハイ、と小さな声で答えた。
「ほんとは、挿入でいったこと、ないんですよね……」
「え?! そうなの?!」
「いっ、でもいや、ある統計によると日本人女性の七割はセックスでオーガズムを感じたことがないというデータもあって……」
「そうなんだ……なんで、ウソついたの」
「つまんない女だと思われたくなくて……なんか……最初のセックスではっきり、わたしいかないんですって言ったら、興ざめかなって思って……それでこう、とっさに作り話したんですけど、しばらくしたら忘れてくれるかなって思ったんですけど、覚えてたんですね」
「覚えてるよ!! オレは、オレは、もう、もうさあ、なんとか、エリナさんをいかそうと、いろいろと……」
「すみません……」
「いや、いいんだ、ないならないで。なあ、いかないってことはさ、ずっと気持ちいいってことだろ? 考えようによってはさ、それ、お得じゃん」
絵理菜は、思わず吹き出した。
「はあ……。大きな肩の荷が、下りたぁー……」
「ごめんなさい……本当にすいません……」
「いやいいんだよエリナさんは。エリナさんはもう……こんなにかわいいんだから、何やっても大丈夫!!」
駒野は身をひるがえして絵理菜をかき抱いた。
「駒野さん、おおげさ。……でも、ありがとうございます。好き……」
「ほんとに?」
「はい。……ウソつきでも、変わらないで、これからも付き合ってもらえる?」
駒野は、ぐーっと目を見開いた。
「……もちろんです」
キスをしようと唇を近づけると、絵理菜に、顔をぐっと手でおさえこまれる。
「うがいしてきてください」
絵理菜は、クンニしたあとのキスは、完全NGだった。自分の愛液の匂いがするのが、耐えられないのだという。
「はい」
駒野は素直に台所に立って、全裸のまま、念を入れて歯磨きをしてから、ベッドに戻り、絵理菜と熱いキスを交わした。
「絵理菜さん……オレ、きょうも泊まっていきたい気分だ」
「いいですよ。わたし、最初からそのつもりです」
「でも、ちょっと不都合があって」
「はい」
「きょう、ウチ、なんと、カニ鍋なんだよね……」
「ああ」
「いっしょに来る?」
「行きます」
というわけで、ひさびさに絵理菜もまじえての鍋となったが、しぜんと彼女と福井が隣合わせになりそうになったとき、駒野は黙って、しかし憮然と、その間に割って入った。絵理菜は駒野のつまらぬ嫉妬を、わりあい、心地よく感じている様子だった。
「福井。ちょっと白状すべきことがある」
「なんだ」
鷲崎は言いにくそうに、わざとそっぽを向いたりしたが、やがて決心のもと、口をひらいた。
「ついにやってしまった」
「何をだ」
「……モバゲーに課金」
「いくら」
「五百円……」
福井は黙って手を差し出した。鷲崎は財布から百円玉を五枚取り出して、その手に渡した。それでおしまいだった。
そういうわけで夜は更け、酒が入り、駒野はとてもじゃないが絵理菜を駅まで送れる状態ではなかった。役割を買って出たのが、『もの狂ひ』高田だった。しかも酒が入っている。駒野は抵抗したが、じゃあ誰が絵理菜さんを夜道に送っていくんだ、と高田は言った。だれか夜目がきくやつがいるとでも? いつものようにサングラスをかけたまま、カニ雑炊をたいらげたばかりの福井が、キャメルをぷかーっとふかした。駒野は、彼を見て、そして、あきらめた。二人きりなんて、冗談じゃなかった。
「気をつけて、しっかりつかまってね。おれ、いま完全何も見えてないから。街灯とか、コンビニの明かりとかあるとこ以外は」
ママチャリの後ろに乗った絵理菜に、高田は奇妙なほど機嫌がよく声をかける。
「は、はい」
「今はマスターしたけど、その前は、ぶつかりまくって、累計で二十メートルくらいふっとんでるから。遠慮しないで、もっとくっつきな」
「あ、いえ、手が、しっかりとつかまっているので大丈夫です」
恐怖心しか感じない絵理菜を乗せて、高田号は意気揚々と出発した。
「あの、高田さん」
「はいよ」
「世界最強の格闘技はムエタイって、本当ですか」
「いや~、それが、諸説あるんだな」
「あ、やっぱり」
自転車は意外と正確にまっすぐ走り、当たり前だが、信号などは見えているようで、きっちり守って進んでいる。
「駒野とかはフルコン(フルコンタクト空手)が好きみたいで、何かと肩持つけど、なんといっても、その場でいちばん強いのはあ」
「はい」
「ピストル持ってる人」
「はあ」
「ちなみに、鷲崎とか、福井が戦ってるとこ、見たことある?」
「えーと……福井さんが黒川をボコるとこを、見ようと思ったら、鷲崎さんがわたしが見ないように気をそらしたことならあります」
「ああほんと。見てないなら、あらぁ、見ないのが一番だよ。格闘技、興味あるの?」
「あ、はい。仕事で遅くなりがちなので、護身術と、ダイエットとかもかねて」
「らいじょうぶらいじょうぶ。護身術なんて身につけなくても、おれらがいたらさ、絵理菜さんになんか起こるわけないって。それよりポールダンス教室とかに通ってよ。ねえ、通ったほうがいい」
「高田さん、いま、らいじょうぶって発音しましたか? らいじょうぶって言う人は、おおむね、大丈夫じゃないですよね?」
「なんかアヤつけるやつは、こうだーっ」
「ひっ」
高田はわざと自転車を激しく蛇行させ、その勢いは絵理菜を振り落とさんばかりだった。彼女はしぜんと高田にぎゅっと体をつけてふんばった。
「おっ、いいね、そういうのを待っていた。絵理菜さんって、何カップ?」
「それは、駒野さんに聞いたほうが面白いんじゃないですか」
「あっははははは。どういう反応すっかな」
ともかく、自転車は駅につき、高田は帰っていったが、そのあとで、絵理菜は気がついた。
自分が自転車をこいで、後ろに高田を乗せれば、なんの不安もなかったのでは、と。
「仕事に行ってくる」
暖かくなったこともあり、Tシャツ一枚で特に何も羽織らず出ていった福井の背中を、駒野はすっかり酔ってあおむけに倒れた状態で見ていた。
「高田のヤツ、ありゃ、大丈夫だったかな……。でも、福井と二人きりよりは、正直マシだわ……」
「なんだ? お前、まだこだわってるのか。女々しいヤツ」
鴨島が福井の忘れていったキャメルを勝手に吸い出す。
「……仕方ないだろ。男のオレだって、アイツ、なんかカッコいいと思うもん。いわゆる正統派イケメンじゃないけどさ。オレが女でも、アイツと付き合いてーと思うんじゃないかな」
「げえ、だからお前ら、鷲崎にホモソーシャルとか言われるんだよ。気持ち悪っ。俺は女になったら絶対に俺と付き合う」
「で、自分で自分を刺すのか?」
「うるさいな。あんなことは過去千回もあった」
駒野が鴨島をからかったのは、この間、鴨島がある人妻にビール瓶を割ったもので背中を刺され、それは鴨島がセックスのあと寝ころびながら他の女とメールしていたことが遠因であり、病院沙汰になるわ治療代を払わないでトンズラせねばいけないわ、わりかし大変な事件であった。
「しかし、顔がどうだろうが、オレにもアイツより優れてる点があるはずなんだよ……。これは負けないって点がさ……。負けない……負けない……あっ、そうだ。オレ、料理がうまいっ。ほらオレたち付き合ってるから、付き合ってるからっ、合鍵なんてもらっててさあ! 合鍵! オレが仕事上がったら、エリナさんが帰ってくるまで、肉野菜炒めとかさ、晩メシ作って待っててあげると、エリナさん、すごい喜ぶんだよねえ~」
「忘れたか? 福井、調理師免許持ってるぞ」
「……うそ」
「バブルのときくらいかな。アイツ、資格とか免許マニアだった。深夜働けるクチを探してたからな。大型二種も取って、トラックに乗ったりしてたぞ。だから俺はアイツとケンカするのは避けてる。絶対トラックで突っ込んでくると思うから。
あとは、朝早い仕出し弁当の仕込みとか、高級フレンチの夜番のウェイターとかやってたみたいだ。最後は、一生ぶんのキャビア食ったから、とかイヤミなこと言って辞めてた。ああいうウェイターって、みんな客の食べ残し食うらしい」
「うわっ、何それ、リアルでおそ松くんのイヤミじゃん……。ミーはおフレンチのキャビア食べ飽きたザンスって……」
「なんだ、知らなかったのか。まあ奴は秘密主義だし、別室だとそんなもんか」
「だったらもう、勝てるもんは……うーん……ケンカ……かなぁ」
「だから言ってるだろ。向こうはトラックで突っ込んでくる」
「いやそういうのなしで、ガチタイマンだったらよお。……やっぱ自信ないな、全盛期のアイツ、見てるし……。まあ、ここは引き分けってことにしておいてやろう。あっ、あっあっあれがあった! 酒! アイツ、超酒弱い。中ジョッキ二杯で顔赤くなってるだろ。これは完全勝った」
「そうだな、奴がペース配分守ってチビチビ二杯空にするうちに、お前は浴びるようにガブガブガブガブ飲んで酔っ払ってチンコとか出して、なぜか俺とかワッシーとかが店員さんに謝ってる間に潰れて寝てるな。時間は同じくらいだ」
「あんな気が抜けたションベンみたいなビールチビチビ行くやつの気が知れない。それに、時間がどうとか問題じゃない。酒に強いオレのほうが男らしい! それが問題なんだ」
「お前ってさあ、本っ当に何も知らないんだな。こないだ伊藤さんが来たとき、人が出払ってたから俺が相手したんだが、そんな短時間のあいだでも、彼女が大学でフェミニズムの講義取ってたっていう情報を取得済みだぞ。お前、同じこと、彼女の前で言ったらどうだ」
「……殺されるね」
「で、ほかには? 勝ってるとこ」
二つに折った座布団を頬にしていた駒野は、ハッと天井を向いた。
「……チンコ。僅差だわ」
「ならなおさら膨張率の問題が重要になってくるが、知ってるのか? 膨張率」
「え、あ、そんな……そんなの知ってたら、それこそホモソーシャルのソーシャル抜きだよ……」
「じゃあ保留だな」
「ああっ、ダメだ、もう何もない。……もう、エリナさんを愛する、この心しか残ってない」
「言うと思った」
「おかしいな」
鷲崎が壁掛けカレンダーを眺めながら、首をひねった。
「福井のやつ、きょう、シフトじゃないぞ。アイツが勘違いするはず、ないんだが」
04
女はたまらず、歩調を速めた。だが、そんなことがなんの解決にもならないことは、わかりきっていたことだった。車もまた、女の歩く速さに合わせて、少しだけスピードを上げたからだ。
運転席の男は、ニヤニヤと女を眺めていた。女がおびえたようなしぐさを見せれば見せるほど、彼は深い満足感を得ていた。長い交際のなかで、女が、警察に相談する勇気もない気の小さい人間であることを、男は知り抜いていた。
そして、そんな弱い女のくせに、この自分に別れを告げたことが我慢ならなかった。何年もおれの女にしてやっていたのに、身のほど知らずにもほどがあった。
「あっ」
ドンッ。
意外なことに、思わず声をあげたのは、女のほうだった。男はびくっと飛び上がるだけで、声もでなかった。
ボンネットに、いきなり、もうひとり、男が飛び降りてきた。運転手は窓から顔を出して全体を見る。身長は高くないし、白いTシャツにジーンズと、服装に変わったところはない。ただ、登場が異様だった。ここは住宅街だ。屋根の上か、あるいはまさか、街灯の上からでも待ち受けていたかのように、彼は車の上に飛んできたのだ。
「行け。逃げろ」
謎の男は、女に指示した。女はとっさにそのとおりにしたが、道の途中で、ふりかえって、
「ありがとうございますっ!」
と叫び、ふたたび、家路へ走り抜けていった。
「……なんだ、コイツ」
運転席の男は、この状況のあまりの異常さにばかり気をとられて、不思議に思う余裕もなかった。
ボンネットの上の男が、夜であるのに、サングラスをかけていることに。
サングラスの男は、ほんの少しばかり、にやりと口のはしをゆがめて、笑った。
(了)
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