第4話 鳥類の逆襲

01

 その女はなにかにひどく怯えたような様子で、バーの扉をあけた。そして、不審げにじろじろと、マスターと高田を交互に観察した。背は低く、アラレちゃんみたいなメガネをかけていた。彼女はカウンターに座った。

「お決まりですか、アラレちゃん」

 高田はにっこり笑いかけた。彼女は高田を見上げ、ふるえる声で、

「あの、じゃあ、シャンディガフ」

「シャンディガフね」

 彼女はひとくち飲んで、そして、高田にたずねた。

「すみません。私は、望月と申しますが、ここに、高田さんという方はいらっしゃいますか」

「おぉ、おれだよ。へー、おれを目当てに来てくれたの? うれしいね。だれの紹介」

「あのう、大学の先輩です。伊藤先輩……」

「マジ? 伊藤って、絵理菜さん?」

「はい」

「うれしいな、絵理菜さんが宣伝してくれてるなんて。あの子ーはー……いまごろは社会人ホヤホヤかぁ。むかしは、あの子とアパート、おなじだったんだよ」

「はい。聞きました。それ以外のことも」

 望月と名乗った女は、緊張でかちかちといったていで、ごくんと喉を鳴らし、口をひらいた。

「……伊藤先輩、追い出しコンパのとき、言ったんです。むかし、隣に住んでた人たちが、何百歳も生きたって言ってたって……」

 高田は笑った。

「それって、比喩じゃないの? ほら、おれとキミがセックスするまで、どれくらいかかる? 何百年? とかさ、普通に言うじゃん?」

「違います。そんな調子じゃありませんでした」

「じゃあさ、時間の流れ方の話じゃないかな? 時間ってさ、一定の長さじゃなくて、伸縮自在だろ。一瞬が何百年にもなるし、逆に、何十年が一瞬に思えたりさ」

「違います! 何度も言いますけど、伊藤先輩は、そういうレベルの話をしてる様子じゃなかったんです」

「絵理菜さん、ああ見えて、口軽いのなぁ」

 高田はあごひげのあたりをさすった。癖だった。

「でも、口軽い女の子ってさ、なんかいいよね。なんか尻も軽そうで。すぐやらせてくれそうってイメージ。絵理菜さんは、やらしてくんなかったけど」

「高田さん! わ、わたし、ずばり、お聞きしていいですか」

「はい、どうぞ」

「わたしは、高田さんたちの正体が、柳田國男の唱えた山人ではないかと踏んでいるんです」

「あはははっ」

 笑いながら、高田はシェーカーに何種類かのリキュールをいれ、軽くステアした。

「違いますか? 違うなら、違う証拠を見せてください」

「おもしろい話だけど、柳田は後年になって山人の存在を否定してるよね」

「それは、山人論が天皇制と齟齬をきたすから、思想的に退却しただけで、山人の存在を否定する証拠を見つけたわけではないでしょう?」

「悪いけど、おれらは山人ではないよ。あなたを喜ばせてあげたいところだけど、悪いね。これ、おれのオリジナルカクテル。おごりだから、飲んでみて」

 グラスに入ったカクテルは、ヤクルトのような色をしていた。望月は素直に飲んだ。

「どう?」

「……ヤクルトっぽい味です」

「そう! おれ、ヤクルト好きだから、なんとかあの味を再現できないかっていろいろ工夫して、発明したの! 再現度高いでしょ?」

「……高田さんは本当にふつうの人間なんですか」

「そうだよ。山人でも妖怪でもない。ふつう、ふつう」

「じゃ、じゃあ、戸籍とかあるんですか」

「あはは、身分証明書の提示か。深夜のクラブみたいだ」

 彼は尻ポケットから財布を出し、運転免許証を出してみせた。

「ほら、これ、おれのだよ。金髪に染めたの最近だから、髪の色違うけど」

「……本当だ。ちゃんと、めんきょしょうだ……」

「だろ? うまくできてるだろ? おれの傑作」

 望月は目をひんむいた。

「冗談だよ」

「いえ、そうとは思えません」

「冗談だってー」

「高田さん、正直に言ってください。伊藤先輩には言ったんでしょ、何百歳って」

「おれは言ってないよ。仲間のだれかだ。ほら、望月さん、どんどん飲んで。ポン酒とかいけるくち? いいやつがちょうど入荷したんだよねえ」

 そういうわけで、望月は、高田の言われるがままに酒を飲んだが、そうとう弱いらしく、日本酒にひとくち口をつけたとたんに、がくっと首が落ちていた。

「望月さんはさあ、妖怪とかが好きなの」

「好きっていうか……」

 彼女は焦点のあわない目で言った。

「……信じてるっていうか」

「あはははは。いいね。そうだよ、妖怪いたほうが夢あるよね。ねえ、水木しげるとか、好き?」

「好きです」

「おれも。水木しげるの創作妖怪、いいよね。がしゃどくろとか、バックベアードとかさあ、超ドープだよね。ねえ、水木しげるの創作妖怪、言いっこしようよ。言えなくなったほうがイッキ」

「いえ、もう、あたまが、よく、まわりません……」

「ただし、おれが思うとこあるのはさ、水木は完全に、人間と自然とを対立するものとして描写してるんだ。たとえば、人間社会が繁栄して、田園が少なくなったら、妖怪の暮らす場所がなくなるとか、追いやられるとか、そういう思想ね。おれはそうは思わないんだ。妖怪って、人間の生み出したものだろ? 人間の思念がさ。だとすると、たとえ緑が少しもない、SFみたいな、ドームの中の都市で人間が暮らすようになったとしても、妖怪はその時代時代で姿を変えて、人間と共存するはずなんだよ。そういう意味でおれと思想が近いのは真倉翔」

「はあ」

「知ってる?」

「知りません」

「ええっ? 知らないの? 『地獄先生ぬ~べ~』の作者だよ」

「知りません……」

「読んだほうがいいよ。鬼のパンツの回とか、すげえエロいから」

「はあ」

「みんながパンツ一丁になっちゃうんだよ」

「高田さんは、結局、何者なんですか……」

「ふふっ、だから、ふつう者。ふつう、ふつう。じゃあ、なんて言ったら納得するの? 初代の天ちゃんが国をおさめてるとこ見たよとか、言えばいいの?」

「少なくとも、私にはそっちのほうが真実味がありそうに聞こえます。こうやって、高田さんって人間を見てたら」

「そうとう酔ってるね。大丈夫? 飲ませすぎちゃったかな? えーと、望月さんって下の名前、なに?」

「みゆきです」

「みゆきちゃんね。みゆきちゃんさあ、ビジュアル系とか興味ある? いや、なくても一回見に行ったほうがいいよ。友達のライブ、こんどあるんだ」

 彼はカウンターのすみっこに置かれたフライヤーを望月に差し出した。

「これ持ってって、割引になるから」

「い、いえ、私、ライブとかあんまり……」

「ほら、これ、このイケメンのギタリストが友達。名前、鴨島」

「いえ、その」

「彼はねえ、戦中の上海で裏社会、仕切ってたんだよね」

 望月は憑かれたように、さっとフライヤーを受け取った。

「望月さん、こんど来るとき連絡してもらえば、鴨島の体があいてたら呼ぶよ。こいつと話してみるのもおもしろいんじゃないかな?」

「高田さん」

「はい」

「高田さんは戦中は何をしていたのでしょうか」

「忘れたな。まあ、適当に……。ああ、自慢できることが一個ある。ゲーテのファウストってあるでしょ? ファウストって、ドイツ人でさ、実在したんだよ。錬金術師で。あいつはねえ、結構いいやつだったよ」

 望月さんは、だまって、日本酒のおちょこを、からにした。

「いやあ、きょうは話せて楽しかったな。みゆきちゃん、すごいおもしろい子だね。また来てよ。あ、ライブも来てね」

 そのしばし後、高田はべろんべろんになった望月を抱えて、タクシーに押し込み、ニコニコ笑顔で、手を振って見送った。

「いやー、春ですねえ」

 彼はカウンターに戻って、マスターに笑いかけた。マスターは苦笑いしていた。

「あんなにからかっていいのか? 純真そうな子だったじゃない」

「いやあ、でも少なくとも、彼女はまた来てくれそうじゃないですか。おれはそういうセンで話を進めたんですよ」

 彼は外国産の、金色をした趣味の悪いタバコをくわえ、火をつけた。

「それにしても、絵理菜さんが言いふらすたあねえ、まああの子、酒強いほうじゃなかったしなあ。マスター、最近、絵理菜さん見ました?」

「いや、見ないね。とんと来てない」

「まあ、社会人なって、忙しくなったんでしょうね」

 高田はふと思い出し笑いをした。

「駒野さえいなけりゃ、おれがやれてたなー、あの子」

「なに? だって、駒ちゃん、沖縄に引っ越したんじゃないの?」

「ええ、そうですよ。でも、しばらくはヤツもひきずってますでしょ? それ考えたらねえ」

「へえ、男気あるね。友情をとったか」

「そんなんじゃないすよ。バレたらマジでヤバいし。怖いですよ」

 天井の換気扇に向かって、煙を吐く。

「早く戻ってくればいいのになぁ。いつまでもいじけてねえでよ」


02

 新しいアパートでは、三人部屋になっていた。だから、布団は川の字になる。窓の光を避けて、いちばん玄関に近い布団で眠る福井の携帯電話が鳴る。

 正午をまわる時刻だった。いつものようにこの時間、福井は完全に就寝していた。しかし、電話の呼び出し音はかなりしつこかった。

「出ろよ」

 うっとうしげに布団をかぶりながら、高田が言った。

「俺が出るか?」

 福井のとなりの鷲崎が声をかけたが、福井は首を振って、目もあけず、手探りで携帯電話をとらえ、耳に押し当てた。

「はい」

「福井さんですか」

「どちらさまでしょうか」

 福井は、相手が名乗らないかぎり、自分も絶対に名乗らない。そうするようにしている。

「失礼しました。俺の名前は、黒川といって、わかりますか」

「黒川……」

「カラスですよ」

「ああ……」

 ようやく、福井の目がさめてくる。

「こないだ、俺にシメられたヤツか」

「今度は、こないだのようにはいかん」

「今度?」

「ああ。いま、もう一度、伊藤絵理菜さんに、こちらにおいでになってもらった」

 福井は深く嘆息した。

「何だ、そりゃ……」

「今回に限って、われわれの負けはない。わかっているのか、シロフクロウ、おまえは日本じゅうのカラスを敵に回したんだ」

「日本じゅうのカラスを集めたのか? たしかあの日も十人くらいはいた気がするが、全員、戦いもせず逃げていった腰抜けじゃないか」

「そういう意味ではない。本物のカラスだ。本物のカラスのすべてがお前たちを攻撃する」

「……なるほど、数の力で勝とうってことね」

「N区のごみ埋立地で、日没まで待つ。姿をあらわさなかったら、女の首をかっ切る」

「伊藤さんがそこにいる証拠は? 彼女に少し代わってくれ」

「その必要はない。彼女の画像を送る。ついては、メールアドレスを教えろ」

「このケータイ、プリペイドだから、メールアドレスはない。本契約しているのは……鴨島くらいだ。鴨島のアドレスでいいか」

「お前がそれでいいなら」

「メモの準備をしろ」

「大丈夫だ」

 彼は鴨島のメールアドレスを読み上げた。

 鷲崎も高田も、この常ならぬ雰囲気を察知し、すでに布団から起きて、電話からもれ聞こえる声に耳をすませている。

「よし。電話を切ったら、すぐここに送る。楽しみにしてろ。……そうそう、こっちも数で押すから、お前らもそうすることだ。シロフクロウだけじゃない、仲間全員で来い。いちどきに全滅させてやるから、面倒がない」

「まあ、どちらが全滅するかっていう話だな。切るぞ」

「ああ」

「おい、絵理菜さんがどうとかって言ってたよな?」

 高田が不安げな顔をつくる。

「ああ。こないだ、なめた真似したカラスの大将が、また彼女に手を出したらしい」

「はあ? なんだよ、そんな面倒な……」

 彼は頭を抱えた。

「ツタヤの準新作100円、きょうまでなのに……」

 このところ、鴨島が買ってくれたブルーレイ再生機に、夢中なのだった。

「彼女の画像を送ると言ってた。たぶんいま、鴨島の携帯電話に届いてる。そうそう、ヤツは全員で来いと言ってた。緊急招集だ。鴨島も連れてこないと」

「いったい、どんな勝機をもって、オレらに再戦を挑んできてるんだ?」

 鷲崎もあきれ顔だった。

「カラスだよ。ただのカラス。決闘の場所をヤツはごみ埋立地に選んでた。ホームタウンってとこだろ。おそらく、そこらのカラスを何千って単位で操って、俺たちを襲わせて殺すつもりなんだ」

 そのころ高田は鴨島の部屋に行った。部屋のドアノブに、どうどうと、DO NOT DISTURBと書かれた札が垂らしてあったが、かまわず、ドンドンと手荒にノックした。

「だいたい、なんで再戦なんてことになってるんだ」

 鴨島はジーンズ一枚だけはいて、むっつりとした顔で部屋にあらわれた。夢中で抱いていた女を置いてきているのだから、不機嫌も当然だった。

「前回、徹底的にシメたはずなんだろ? これはお前の責任だぞ、福井」

「ああ、徹底的にやったつもりだ。手出ししないって、膝をついて誓わせもしたよ」

「誓うとか、欧米かよ」

 高田も不満げな様子で、肩をすくめた。

「なんでおれたちの本当の怖さを思い知らせてやらないんだ? このまま中途半端に泳がせといたら、伊藤さん、かわいそうに、ピーチ姫みたく何度も何度も誘拐されるだけだぜ」

「どうせなら始末すればよかったんだ、面倒がないように」

 鴨島はタバコに火をつけた。

「いや、殺すのはまずいと判断した。それこそカラスたちと俺たちの全面戦争の引き金になる可能性がある。それに、理由はもうひとつあって……ああ、そうだ鴨島、メールを見せろ。伊藤さんの画像を送ったって言っていた」

 全員が鴨島のスマートフォンを覗き込んだ。たしかに、絵理菜の写真は届いていた。ただ、ベージュのブラジャーの上のあたりの肌に、

 CROW

 とナイフで文字を彫ったあとの写真で、顔が写っていなかった。

 見た四人が、四人とも、げんなりした。

「……ださっ……」

「クソダセー! 二流のシリアルキラーかよ。テッドバンディ様や、ジェフリーダーマー様を見習えやあ」

「伊藤さんて、けっこう、隠れ巨乳だったんだな」

 ぽつりと鷲崎が言った。

「おれは知ってた」

 と高田。

「オレも」

 と鴨島。

「しかしまあ、このブラジャーの色いいね。色気ないところが、逆に、男の目を意識してなくて、もえる? みたいな?」

「バカ言ってないで、まず最初は仲間集めだ。駒野はまだ沖縄か? 知ってるヤツいるか?」

「知らない。たぶんまだそっちにいるよ。帰ってきたら、きたって絶対言うやつだから」

「メールアドレス知ってるよな? 鴨島、とりあえずヤツにも連絡しろ。きょうじゅうに決着がつかん場合もあるから、呼び寄せておくに越したことはない」

「わかった」

「あと近場で役に立ちそうなのは……そういえば、ハクチョウの病院はわりと遠くないな」

「おお、ハクか、懐かしいな。大学病院だっけ?」

「いや、開業したって言ってたはずだ。電話番号、変わってないといいんだが。鷲崎、書いてくれ。090-XXXX-XXXX」

 鷲崎はサインペンで自分の手の甲に番号を書きとめた。

「ハクが来てくれれば心強いねえ。今回はケガ人が出るかもしれないし」

「ああ。昔みたいに、やたら血の気が多いとこは直っていてほしいが。ああ、スズメやムクドリも……近くといえないが、飛ばしてくれれば間に合う距離にいるはずだ。鷲崎、いいか? 090-XXXX-XXXX。090-XXXX-XXXX。090-XXXX-XXXX」

「あ、やべ」

 と鴨島。

「駒ちゃんにメールするとき、画像もいっしょに転送しちゃった」

「あらあら。おもしろくなってきちゃったじゃない」

 と高田。

「残念だわあ、あれ見た瞬間のあいつのツラ、見れねえの」

「090-XXXX-XXXX、090-XXXX-XXXX。うーん、仲間集めはこんなものか。鷲崎、全員に同じCメール、よろしく」

「しかし、よくもそうパッパと出てくるねえ。脅威の記憶力だわ」

「次は防御対策。まず、大量のカラスが一度に攻撃してくることを考えて、肌は極力見せない。一人一着、パーカーはあるか? 帽子があったらなおいい。かぶってからフードを上げるんだ。次に、サングラスか伊達メガネ、それからマスク」

「あ、伊達メガネなら持ってる。マスクも、春に花粉症対策でまとめ買いしたやつあるよ」

「完璧だ」

「オレもタレサンなら持ってる」

「サングラス、ない」

 と鷲崎。

「俺が予備のをもうひとつ持ってるから、それを使え。さて、そろそろ初夏だが、防御力を考えればなるべく厚着していったほうがいいな。各自、コートとかブルゾンとか、あるだけ着込んでくれ。防御の準備はこんなもんか……」

「それで? それで?」

 高田はランランと目を光らせた。

「次は攻撃の準備だよな。どうするんだ?」

「これから調達だ。……できれば、ワゴン車が欲しいな。高田」

「おお、となりのマンションの駐車場に行こうぜ。適当なのがあれば、ま、チャッチャと仕事しますよ」

「鴨島、いま、手持ちはいくらだ?」

「クレジットカードがある。オレ名義じゃないけど」

「いい答えだな、しびれるね。ここから一番近いホームセンターって、どこだっけ?」


03

 ワゴン車は、高田が運転した。

「鴨島は補給兼援護。高田は人質の捜索および解放にまわってくれるか」

「いいの? それって、おれが黒川とかいう大将と交渉する役でもあるんだろ?」

「交渉ごとは得意だろ? 俺が必要だったら呼んでくれ」

「そいじゃついでに、おれがそいつに、今度こそアヤつけられないように、ヤキ入れちゃってもいいってこと?」

「お前の裁量を信じてるよ」

「わー、泣ける言葉だね」

「カラスどもは俺と鷲崎が相手する。完全に持久戦だ。手持ちの武器が尽きるまで、人質を奪還するか……最悪でも、決着の持ち越しの交渉を済ませる」

「前は留守番だったのに、おれは今回、責任重大だな」

「大丈夫だ、黒川は絶対に近くにいる。俺たちの戦いを見れるぐらい近くにいるはずだ。奴は馬鹿だから、斥候を使うとか、そういう頭は働かん。伊藤さんもいっしょにいる。九割は確かだ」

「一割だったら?」

「……そのとき考える。投降するフリとか」

 指定されたごみ埋立地に、ワゴン車は急いだ。入り口に守衛がいたが、すでに眠らされていた。

 ごみの山、山、山。少しでも窓をあけたら、またはドアをあけたら、たとえマスクをつけていても、強烈な臭気に吐き気をおぼえるに違いなかった。そして、その山にたかる、大量のカラスたち……

 埋立地の中心へそろりそろりと移動すればするほど、青空は暗くなっていった。ごみに留まりきれないカラスたちが、空中を旋回しているのだ。もはや、空は、青よりも、ぶきみにうねうねと動く黒のほうが、面積が大きかった。バタバタとはばたく音が、テープを何重にも録音したように重なり、もはやそれは、地をゆるがす轟音といってよかった。

 そして……

 なにより一同の目を見張らせるものが、地上にあらわれた。

「……なんだありゃ」

「なんだありゃって」

「なんなんだよ、あれ」

「おれに聞かないでくださいよ」

「なんであいつがこんなとこにいるんだよ」

「なんでって、連絡したし……」

「たったさっきの話だろ! なんだよ! いつのまにか次元が歪んで、ここ、沖縄になっちゃったの?!」

 ワゴン車の前には、たったひとりで、気合いの咆哮を上げながら、襲いくるカラスと戦う、筋骨隆々の男がいた。男は、オレンジのモヒカンだった。

「うおおおおおおおおお!!」

 おそるべきことに、男は、自分に向かってくるカラスをそれぞれ片手でつかみ、一撃の握力のもとに鳥を殺しては捨てを繰り返していた。全身が汗だくで、動作を繰り返すたびに汗が飛び散っていた。もちろん、顔も真っ赤だった。

「……なんでもいいけど、なんであいつ、上半身裸なんだよ。おれらがこんなに厚着してんのに」

「知らんよ。直接聞けば」

 高田はほんの少しだけ窓をあけた、カラスが入ってこれないように。

「おーい! 駒野ーっ」

「おい、てめえら、おっせーんだよ、ザコがあっ!」

 駒野は咆え、その間も、カラスを握り殺す動作をやめない。

「あのさー、なんで上、ハダカなんだよ。おかげで傷だらけになってるじゃねえか」

「Tシャツ着てきたけど、ボロボロにされたんだよっ! それくらい察せよ!」

「いま、福井と鷲崎が援護に入る。おれは大将と絵理菜さんを捜す。安心しろ、あの子はすぐ保護できるし、大将もこれ以上ないほどシメる」

「そのときは呼んでくれ。オレもそいつをぶん殴りてえ」

「了解了解」

 窓を閉める。

「しかし、マジでなんでこんな早く到着するかな……あいつって確か、ハヤブサじゃあないよね? ってか、ハヤブサでも無理だろ」

「愛は音速を超える」

 と、大真面目に、鴨島。

「あー、だれかそういうようなこと、絶対言うと思ってたー。はいドボン。ダウトでーす」

「じゃあ、用意ドンでドアを開けるぞ。一瞬で閉めないとカラスが入ってくる。入ってきた場合は、鴨島、始末を頼む」

 福井がいよいよ、武器を手にして、ドアに手をかける。続く鷲崎の手にも、ホームセンターで買ったばかりの武器があった。

「おれも一瞬で車を出て、あとは元に戻って、このへんを巡回する。どうせ、近くのビルとかだ。それじゃあ……」

「ああ。健闘を祈る」

「おお、死ぬなよ、お前ら。健闘を祈る!」

「用意……ドン」

 福井と鷲崎が車を飛び出し、すぐにドアを閉めた。運転席の高田も同じだ。ただし、高田の場合は、すぐにヨダカの姿に変身し、空へと飛び立っていった。福井たちの場合は、瞬時に背中と背中を合わせ、武器をかまえる。その姿を見て、駒野が一瞬、ポカンとなる。

「……その手があったんだ……」

 埋立地に、二種類の音が鳴り響いた。ひとつは、鷲崎に襲いかかるカラスをことごとく焼き殺す、家庭用火炎放射器のもの。もうひとつは、同じく、福井を狙うカラスに、白い冷却剤が噴きかけられるときの、消火器のもの。

 炎と冷却剤、二つの武器のコントラストは見事だった。どちらも、カラスの力を奪うのに不足はなかった。

 もちろん、攻撃の間を縫うように二人の肩や頭に留まりくちばしでつつくものや、体を脚で裂くようにするどく滑空してくるものもいた。しかし、彼らの厚着の前に自分らの攻撃が役に立たないと思うと、とたんに退却するも、その背に火炎が炸裂して炭クズが風に舞うか、全身を重たい冷却剤まみれにされて、翼が役立たずになり、前も見えず、ぼとりとその場に落ちるだけだった。

 要するに、進むも地獄、逃げるも地獄。

 おまけに、燃料切れのときのために、火炎放射器にはガスボンベ、消火器はスペアをたんまりとホームセンターで買ってきてある。弾切れを起こしたら、鴨島が窓から投げてよこすという寸法だ。

 しかし、あまりその作戦の意味は、結果的に、なかった。二人の武器に恐れをなしたカラスたちが、とたんに怖気づき、彼らを囲みながらも、じりじりと後退していったのだ。

「おい、もう終わりか。まだたんまり残ってるぞ。死にたい奴からかかってこい!」

 鷲崎が咆えるが、その一喝が、よりいっそうカラスたちを怯えさせる。

「……はーあ。また、おいしいとこ、持ってかれた」

 駒野はどっかりとその場にあぐらをかき、拗ねたように言った。

「そうでもないぞ。まだ、王将は取ってない」

「高田のやつ、ひとりで大丈夫なのかよ。ってか、なんで高田?」

「ああ、いたいた、やっぱカンタンだ」

 高田の声に、窓際の黒川はびくっと飛び上がって、振り向いた。床には、下着姿の絵理菜が、手足を縛られ、気絶させられていた。

 埋立地を見下ろす廃ビルの、とある階だった。

「お前、お前は……」

「あ、初対面ですよね。おれ、高田です。前回は留守番だったんですが、きょうは絵理菜さんを迎えに来ました」

「高田……そうか、タカか」

「正確にはヨダカですけどね。まあ、いいですよ」

「近づくな」

 黒川は絵理菜を抱き起こし、手にしていた日本刀を喉につきつけた。

「なんですか? 近づいたら殺すんですか?」

 なおも、高田はニヤニヤと彼との距離を詰めた。

「本気だぞ。この女を殺す」

「殺したらどうっすかあ?」

 彼は歩み寄る。黒川は何もできない。

「しょせん、こないだまでアパートが同じだったってだけの人間ですよ。鳥類はともかく、人間にたいしておれらがどうして義理を抱くんですかぁ? 好きにすりゃあいいじゃないですか。あの、胸に彫った血文字だって、なまぬるいすよ。本当は、タトゥーを入れりゃあよかったんだ。おれならそうしますよ」

「……ぶ、ブラフだ。本当に殺されたら、困るに決まってる」

「だから、そう思うならやってみたらいいじゃないですか。もっとも、殺しちゃったら、あんたは何の交渉材料もなくなっちゃうがねえ」

 高田はついに、黒川と、鼻と鼻がぶつかる距離まで近づいた。そして、もぎとるように乱暴に、絵理菜を片手で奪った。

「さあ、教えてよ。なんでこんなことしちゃったの? 本気でオレたちに勝つ気でいたの? なんでも、力をたくわえて復讐するみたいなこと言ってたらしいけど、こんなに早くとは思わなかったよ。いったいなんで?」

「……オレにも面子ってもんがある」

 黒川は苦しげに声をしぼりだした。

「オレは同胞たちの力を使って、裏社会である程度の地位まで登りつめたんだ。フクロウごときにやられっぱなしじゃいられん……」

 高田の回し蹴りが正確に黒川の拳を打ち、彼は悲鳴をあげ、日本刀を取り落とした。

「裏社会ねえ。のしあがってくのも大変よ。器ってものがあんじゃないの? そりゃ、下っぱでも、組織の中でぬくぬく、擬似家族みたいに暮らしていくのもいいと思うよ。なんせ、とかく人間社会は生きにくい、おれらには特にね」

 高田は黒川の刀の先をつかって、まだぐったりと目を閉じている絵理菜のいましめを、ピンピンとはじくように切った。

「だから、いいと思うよ、それでも。まあ、おれらは違う道を選んでるってだけでさ。……喧嘩を売る相手だけ、間違わなければね。二回売って二回負けるとか、カッコ悪すぎでしょ?」

「……人望を集めたいんだ」

 黒川は腕を組み、あさっての方向を見て、いまいましげに言った。

「結婚したいって思ってる女がいる。つまり」

「あははは。へー。ははははは。人間」

「人間だ」

「マジ? それで、お前だけ永遠に若くいるのか? リアル『ハイランダー』じゃん。Who wants to live forever?」

「いいや。俺も彼女といっしょに、年相応の外見にしていく」

「泣かせる話ー。さて、ちょっと悪いけど、本当に泣かせちゃうかもしれないけど、いいかな?」

「なんだ」

 黒川は眉間にたてじわを寄せ、びくっと身構えた。

「いやなに、一発二発ぶん殴られてもらうだけだよ。いま、下にいる」

「シロフクロウか」

「違う」

「……イヌワシ?」

「のー」

 彼は床に絵理菜を横たえると、自分の着ていたダークブラウンのブルゾンを彼女にかけた。そして、窓を開けた。

「ほら。彼女が起きないうちに、こっから飛んでこう」

「おい、おい、それで、だれなんだ? 教えてくれ」

「かわいいオレンジちゃんだよ。ほら、飛べ!」

 高田は黒川の首根っこを掴み、軽々と窓の外に放り投げた。そして、自分の窓の桟に両足をかけると、

「ちょっと待っててね、ピーチ姫」

 と絵理菜に言葉を残してから、自分も飛び降りて、空中でヨダカになった。

 約束していた言葉通り、駒野は黒川の姿を見とめると、およそ体力の尽きかけているものの、渾身の一撃をカラスの王の横っつらに浴びさせた。黒川は、何メートルも吹っ飛んだ。

「こいつ、殺したほうがよくねえか?」

 すわった目で駒野は言った。

「福井がシメても反省の色なしだったんだろ? 今後もう手出ししてこないって保証は?」

「殺しはだめだ」

 と福井。

「そいつは、鳥のようで鳥でない。俺はこの目で見た。……そいつはヤタガラスだ。脚が三本あった」

「ヤタガラスぅ?」

「そう。つまり、人間の思念が生み出した妖怪だ。俺たちみたいに、鳥が元の姿じゃないんだよ。妖怪を殺すともっと面倒だ。最悪、妖怪たちとの抗争がはじまる危険がある」

「おお、あの有名な妖怪大戦争か」

「そういうことだ」

「……安心しろ。頼まれても、お前らには、もう、かかわらん……」

 黒川は血反吐をぺっぺっと吐き、ようやくふらふらと、ひざをついて立ち上がろうとしていた。口じゅうの歯が折れているのだろう、しゃべるのが非常に大変そうだった。

「オレにも、お前たちみたいな、信頼できる仲間がいれば、話は別だったかもしらんが……」

「うらやましいか?」

 鴨島が、車の窓から顔を出して、茶々を入れる。

「……ちょっと」

 やがて高田が、ブルゾンを着せた絵理菜をおぶさって、ビルから出てきた。

「撤収撤収。ほら、駒野も乗りな。絵理菜さんと感動の再会だぜ」

 駒野はちらりとだけ、気を失ったままの絵理菜に目を向けた。そして、周囲にとって、じつに、意外とも思える言葉を口にしたのだった。


04

「いやあ、なんか同窓会みたくなってきたなあ」

 だれかの嬉しげな声で、絵理菜はばちっと目をさました。

 部屋のすみに布団を敷かれて、その中で眠っていた。六畳一間は、人でぎゅうぎゅうだった。福井や鷲崎、高田といった見知った顔ばかりではない。知らない男たちもまじえて、彼らはトランプをしたり、それを覗き込みながら酒をあおったりしていた。

 起き上がろうとしたら、胸の乾いた傷がひきつれていたんだ。見覚えのないブルゾンを着ている。そのうち、絵理菜は、だんだん、自分の身に起こったことを思い出しはじめた。しぜんと、口から声がこぼれだした。

「あ……あ……ああ……あ」

「お、伊藤さんがお目覚めだ」

 と、トランプをやっていた鴨島が、うれしげに眉をあげる。

「あ、あのっ、わたし」

「心配しないで。もう片付けた。それに、もう二度と、あんなことはないから安心して」

 高田の言葉は絵理菜を少々ほっとさせたが、しかしまだ、恐怖と申し訳なさで、彼女はからだじゅう震えていた。

「も、も、申し訳ありません。何度もこんなに。あの。こんなことになって。わたしのせいで」

「大丈夫。伊藤さんは悪くないよ」

 と、福井はいくつかの札を切って言った。どうも、やっているのはポーカーらしかった。しかも、あぐらをかく各人の脇には、五千円札や千円札が重なっている。金を賭けているらしい。

「そうそう、伊藤さんが責任感じる必要、まったくないよ。結果的に何事もなく済んだんだしね。それにさ、こうやって昔の仲間も集まったし。こいつら、全員、伊藤さんを助けに来てくれたんだぜ」

 四人ほどの見慣れない男が、絵理菜に向かって手を振ったり、会釈したりする。

「そうそう、助けに来たって言えば、真っ先に到着したの、誰だかわかる?」

「誰ですか」

「駒野だよ」

「ええっ!!」

 絵理菜は口をふさいだ。

「でも確か、沖縄だか、南の島だかって……」

「そこはそう、鴨島、なんだっけ~? 沖縄の離島、か~ら~の~?」

「うるさい。愛は音速を超える。これでいいか」

「駒野さんは、いまどこにいるんですか」

「となりの部屋で休んでるよ。でもさ、いちおう言っとくことがある」

「はい」

「ヤツね、絵理菜さんに会いたくないって言ってる」

「ええええーーーーっ」

 絵理菜は布団を跳ね飛ばして飛び起きた。

「そ、それってやっぱり、わたしが性懲りもなく何度もラチられてるからですか? わたし、嫌われたんですか?! やだ、やですよ。わたし、駒野さんに嫌われたら生きていけない」

「おお~、うれしいこと言ってあげてるね、本人に伝えとくわ」

「えっ、や、ちょっ、ヤメテ、その、やめてください、ヤメテ」

「うそうそ。嫌われてなんかないよ。照れてるだけ。帰りの車もさ、乗ってけって言ったら、絵理菜さんが起きたら嫌だから、歩いて帰るとか言いだしちゃってんの。帰るたって、ここ、おれらの部屋であって、あいつの部屋じゃないんだけど。要するにさ、拗ねてんだよ。ちょっとめんどくさいかもしれないけど、会いに行ってくれる?」

「大丈夫でしょうか? 会いたくないって言ってるのに、わたしが行っても」

「だから、それは照れてんだよ。いいトシしたおっさんがよー。世話焼けるよな。でもさ、行ってやったらさ、ぶすぶすしてるかもしれないけど、ぜってえ、心の中では超喜ぶから」

 絵理菜は立ち上がった。お尻まですっぽり隠れるブルゾンを見下ろす。

「これ、借りたままでいいですか」

「いいよ。部屋は右隣ね。107。靴は……ああ、このスリッパで行けばいいよ」

 というわけで、絵理菜はスリッパでアパートの廊下に出て、緊張のせいでどくんどくんと激しい心臓の鼓動を感じながら、あのなつかしい合図を、呼び鈴を鳴らさずドアをノックする合図をした。返事はなかった。一大決心のもと、彼女は勝手にノブをまわし、部屋に入っていった。

 ふだんは鴨島が使っている部屋なのだろう、壁にエレキギターが立てかけられ、ブーツが何足も並んでいる。その部屋の真ん中で、彼は、片腕で片腕に包帯を巻こうと、格闘していた。上半身裸で、ジーンズだけはいていた。駒野はボディビルダーみたいに、かたく筋肉がついていた。

「あ、わたし、それやります」

 絵理菜は駆け寄って、駒野の手から包帯を取ろうと、彼の手に触れた。彼は邪魔くさそうにそれを振りほどいた。

「平気だよ。自分でできる」

 駒野は、けして絵理菜と目を合わせようとしなかった。

 周囲に、応急手当セットの中身と思われる、包帯だのバンドエイドだのガーゼだのが、転がっていた。

「駒野さん……」

「礼なら福井や高田に言いなよ。オレは何もしてない。戦力の足しにもならなかった」

「でもわたしは、駒野さんが来てくれたことが、なによりうれしい」

 駒野の動きが止まった。

「ほかのだれより……」

「エリナさんが惚れてたのは福井だろ? 今だから言うけど、バレバレだったぜ。だれでも一目見りゃわかった」

「駒野さん、どうしてわたしを見ないんですか」

「どうしてって、別に……意味なんかない」

「背中にも、傷がいっぱいある。消毒しましたか?」

「手が届きにくいから、ざっとだけ……」

「じゃあ、わたしがします。アルコールは、これですよね」

 絵理菜は綿にアルコールをしみこませ、駒野の背中の、カラスにつけられた無数の傷あとを、順番に拭いていった。ときおり、しみる痛みでだろう、駒野が、いてて、とか、くう、とか、声をあげた。

 いっしょにザコ寝したことなど、何度もある。

 そのときに、何度も見たはずだ、駒野の背中なんか。なのに、どうしてか、いまだけは、いままで見たこともないほど、背中は大きく、大きく見えた。絵理菜はふと、消毒の手を止めて、その背中に、おそるおそる抱きついた。

「あんまり、近づかないでほしい」

 にべもなく、駒野。

「なんで?」

「……汗くさいから」

「わたし……駒野さんの、汗のにおい好きです。……好きです」

 ふと、彼女はわっと泣き出しそうになってしまう。

「駒野さん」

 嗚咽を押し殺しながら、絵理菜は呼びかけた。

「……ん」

「その……沖縄は……いいところでしたか」

「ああ……」

 駒野はけだるげに言った。

「そうだな。はっきり言って、楽園だよ。天国だな。住むのには完璧だったよ。ただ……」

「はい」

「なんでもない」

「なんですか」

「なんでもない」

「教えてください」

「なんでもねえったら」

「教えてくれるまで、動きません」

「わかったわかった。言うから、離れてくれ」

 絵理菜は彼にしがみつくのをやめ、彼の隣に、脚をくずして座った。

「その……だからさ。完璧だけど……」

 一瞬だけ、絵理菜を見て、また目を伏せる。

「……エリナさんがいないことだけ」

 絵理菜は、ひざ立ちになった。そうしてはじめて、背の高い駒野の座高を、少しだけ追い越すことができる。

 彼女は駒野の二つの手をとり、自分の背中に持っていった。駒野は、ぼんやりと絵理菜を見上げていた。こんどは、ちゃんと、絵理菜の目を見ている。

 二人は見つめあうことをやめない。絵理菜が近づく。駒野も近づく。絵理菜が顔を寄せる。駒野も寄せる。鼻と鼻とが、瞬間、触れて、二人はいったん、びくっとして離れるが、また、すぐ。

 絵理菜が目を閉じて、くちびるを開く。

 重なる。シルエットが、ひとつになる。

 臆病な小動物のように、駒野の舌の動きは控えめだった。絵理菜も、近年にないほど緊張していて、どうしても遠慮がちになった。

「……エリナさん」

「はい」

「あの……」

「はい」

「おっぱい、触ってもいいですか」

「あ。はい。どうぞ」

 駒野は、ブルゾンごしに、絵理菜の乳房の上に両手を置いた。指が震えていた。

「……エリナさん」

「はい」

「脱がしていいですか」

「えっ」

 駒野は許可を待たずにブルゾンのジッパーを下げだす。絵理菜は、とっさに、胸を隠した。それは乳房をというより、その上の部分だった。

「こ、駒野さん。あのー、パンツ見せるとかにしませんか」

「大丈夫」

 駒野は彼女を見上げた。

「全部、知ってる」

 彼は絵理菜の手をよけさせ、ブルゾンの前をあけた。なおも絵理菜は隠した、あの傷あとを。みっともなくナイフで彫られた、あの赤い四文字を。

 駒野はもういちど、絵理菜の手首をとり、そっと腕の位置を下げさせた。そして、傷あとに顔を近づけた。

「あ」

 駒野の舌が、正確に、絵理菜の傷をなぞっていっている。絵理菜の膝ががくがくになった。あごは上がり、まぶたは重たくなり、一点の感触すべてに神経が集中する、意識もせずに。

 埋まっていく、絵理菜の空白が。

 背筋のぞくぞくと、下腹部への甘いしびれで、彼女は死んでしまいそうだった。死ぬまぎわに、われに戻った。

「駒野さん」

 彼女は駒野の顔を上げさせた。彼の顔は傷だらけで、ところどころある大きな傷には絆創膏が、向きもばらばらに乱雑に貼られている。

 絵理菜は彼の目のすぐ横の、小さな傷に舌をつけた。ほかにも、目についたものには、すべてぺろりと舐めあげた。顔が終わったら、次は首、肩、鎖骨……

「待って、エリナさん、もう……」

「なに?」

「ちょっと、勘弁して……」

「どうしたの」

「どうしたのってよ……」

 彼は怒ったように唇をとがらせた。

「それ、続けられるとさ」

「うん」

「……たぶん、すぐ、いっちゃう」

「あっははははっ」

 絵理菜は、背を曲げて笑う。駒野は照れ笑いしながら、彼女のブルゾンを後ろに落とした。どちらからともなく抱き合う、最初はそっと。次はきつく。激しく。

「……駒野さん」

「ん」

「お風呂、入ってきていいですか」

「いーや」

「え、なんでですか。すごく、汗とか……」

「エリナさんの匂いが好きだから」



05

「あっ絵理菜さんが笑った。もうそろそろ来るぞ」

 壁にコップをつけ、底に耳を押し当てた高田が、昂奮ぎみに、しかし極力、声をおさえて言った。

「しかし、本当にヤツにそんな度胸があるのか? さっきまで逃げ回ってたばかりじゃないか」

 同じく、コップをつけている鴨島。

「大丈夫だよ。だってさ、もう今しかないだろ、こりゃ。こんな絶妙のタイミングでカラスが襲ってきてくれたんだよ。コマにしてみりゃジャックポットか、裏ドラたんまり乗ったみたいなタナボタだろ」

「俺はそう思わないな。この状況は駒野の力が作った。ここまで飛ばしてくるのにも相当消耗したはずなのに、たったひとりで戦ってた、血まみれになるまでな。絵理菜さんがヤツに惚れるとしたら、それはジャックポットでも裏ドラでも、タナボタでもなんでもない」

 またも同じく、耳をあてながら、鷲崎は、静かに、だが熱く反論した。

「ま、それは言えてるね。だけどそれと、あいつが絵理菜さんを押し倒すかどうかは別問題だけど。まあ、できなかったとしても、絵理菜さんの側から誘うだろうが」

「伊藤さんて、そんなキャラだったのか? もっと、純なほうだと……」

 そのほかのメンバーは、あいかわらず、賭けポーカーにいそしんでいる。

「いやぁ、間違いないだろ。感動の再会だ。うーん、こういうときだけは壁の薄いアパートっていいなって思うねぇ」

「あのさ、お前らもしかして、オレのときも、こうやって盗み聞きしてるの?」

「はーあ? 何そのうぬぼれ。聞きたくもないのに聞かされてるよ。てーか、むしろ、お前の女は音量下げろやっ。毎日毎日アンアンうるせえんだよ。そもそもさぁ、本当に感じてたらあんな大声出すか? むしろ声どころじゃなくて、もっと静かになるんじゃない?」

 鴨島はむっとしたように、

「そこは、お前との技量とセンスの差だ」

「あっ、ダメ、駒野さん、ダメですっ……」

 畳の上に横たえられた絵理菜は、口ではそう言っていても、抵抗らしきものを見せなかった。力が入らなかったのだ。

「おい、伊藤さんダメだって」

 と鷲崎。

「来るな。女のダメは、イエスって意味だ」

 鴨島がわずかに微笑んだ。

「なんだよ。さっき、オレのときは、好きだって言ったじゃないか、匂い」

「で、でも男と女じゃ違いますよ。違うじゃないですか!」

「違わないよ。違わない。平等平等」

「やだ、やだ」

「どうせ、ちょっとしたら二人とも、またぐっしょり汗かくだろ」

「あ」

 絵理菜は、口で口を塞がれる。

 駒野が背中に手をさしいれてくる。彼女は弓なりになって、彼がブラジャーのホックを外しやすいようにする。

 駒野は、絵理菜の横に、ブラジャーを置いた。儀式でもしているような、丁寧なしぐさだった。絵理菜の乳房は、横たわっているせいで正円に近いかたちになって、盛り上がっていた。駒野が両手で遠慮がちにつかんで、頬を寄せる。というよりも、耳をつけて、心音を聞いている。目を閉じる。

 不精ひげの痛いちくちくまでが、絵理菜には、立派な前戯の一種だった。足が震える。いつになく、感じやすくなっている。

「あのさ」

「はい」

「本当にオレでいいの? さっきも言ったけど、好きだったの、福井なんだろ?」

「そんな、いまさらそんなこと言わないでください! 過去の話ですよ! 福井さんたちも、駒野さんがいっちゃってからすぐ、行き先も告げないで、どこかに引っ越しちゃったんですから。どこかって、まあ、ここなんですけど」

「そう。んで、ひさびさに再会して、ドキッとしなかった?」

「…………正直、ちょっとは……でも、こうしたいと思うのは、駒野さんです」

「……ホントに?」

「ホントにです!」

「そう……じゃあ……まず布団とか、敷く?」

「いえ……わたしは、このままでいいです。なんか……いまは、なんていうか、少しだけでも、離れたくないっていうか……」

「ホントかなあ……」

 駒野は、酔っているように、すわった目だった。おそらくまだ、自分に降ってわいた僥倖に頭がついていっていないのだった。そして、ため息まじりに。

「絵理菜さんは、優しいからさ」

「ああっ……」

 彼女は高く悲鳴をあげた。駒野は急に耳を舐め、ふちをなぞり、要するに愛撫してきた。

「来た……」

 鷲崎が、茫然と言った。

「マジか……」

「なっ、おれの言ったとおりだろ」

 と、声をひそめて、高田。

「まあ、今回は相当体張ってたとはいえ、あんなむっさいおっさんでも、若くてかわいい子、落とせるもんなんだな……」

「アメリカンドリームだよね」

 と高田。

「コマドリンドリームだろ」

 と鴨島。ほかの二人が、吹き出しそうになったのをこらえて、ぶぶっ、という、変な音が出る。そこに、ポーカーに興じていた福井がふと振り返って、

「人のセックスを笑うな」

 と言ったもんだから、三人はもっと悶絶した。

「あ、あっ、そこ、だめっ!」

 絵理菜のひときわ高い嬌声に、三人は笑うのをやめてサッとコップをつけた。

「エリナさんのここ、いい匂い」

「だめだめだめだめだったらっ!!」

 駒野は絵理菜の、ぴったり閉じられた腋の下に鼻を押し当てて、まぶたを下ろして堪能していた。

「何? 何がダメなの?」

 と高田。

「たぶん、前戯なしでぶちこもうとしてるか、それかクンニちゃん」

 と鴨島。

「おお、なるほど……」

「オレ、ここ好きなんだよ。オレに抱かれる女はみんな、すごく抵抗するけど、観念してもらってる」

「……そうなんですか?」

 絵理菜は、うっすら涙目になってすらいた。

「うん。だから、力抜いて」

 彼女は駒野と真正面から見つめあった。彼の目は熱に浮かされたようだった。絵理菜がいとしくてたまらないといった様子だった。そしてこの、顔と上体を覆う、生傷の数々……。彼はすべてを耐えた、誰のために? だめだ。今夜ばかりは、何をされても、この人に逆らえる気がしない。何をされても、受け入れてしまう……

 わかっていた。そんな気分になることを、絵理菜ははっきりと予感していた。この部屋に入って、ひとめ、彼の後ろ姿を見たときから。

「……はい」

 絵理菜の片手首が、頭の上に釘付けにされた。駒野は顔を腋の下にうずめる。

「あ、あーっ。あーっ、あーっ」

「伊藤さん、声でかいな……」

 鷲崎が唾を飲む。

「すごい、いい匂いするよ。今までの女のなかで、五本の指に入る」

「えっ。そ、それは、な、何百年の歴史の中でですか」

「そうだけど、言ったじゃん、オレ、モテるほうじゃないからさ。だから、絶対数で言ったら、普通なんじゃないかな」

 でもそんなこと言ったって、具体的に、それは何人だろう、と絵理菜が疑問に思ったのもつかのま、それどころじゃなくなった。駒野は絵理菜のそこに舌の先をそっとつけて撫でまわしはじめ、彼のイメージとうってかわって、その動きは繊細だった。

「あっ、あっ。やだ。やだやだ、あーっ」

「これはたぶん、クンニちゃんのやまだかつてないセックスの線だな」

「あのさあ、女の子って意外とクンニ、あんま好きじゃなくない? なんか、やるって言っても、いいからとか断られること多いんだよ。なんか、『悪いから』って言って」

「俺も、フェラしてくれるって言っても、いいからって断ってる」

 と鷲崎。

「はっ?! 何何、なんつった?! なんで?!」

「いや、だって、悪いから」

「何が?!」

「だって、女は、しゃぶったからって気持ちよくなるわけじゃないだろ」

「いやそうですけど」

「ああ……最高……」

 駒野は、ぐったりと、再び彼女の胸の谷間に顔を置いた。

「駒野さん、変態……」

「でも、けっこう反応してたじゃないですか。声も、なんか、よさそうだった」

 絵理菜は、もともと顔じゅうがかっかと火照っていたが、なお汗をかいた。

「それは……そうですけど、なんか、同時に、恥ずかしすぎて……」

「あー……ねえ、エリナさん」

「え、あ、はい」

「なんかさぁ……ひさびさすぎて、やり方、忘れてる……セックスの……」

 絵理菜は吹き出した。

「いつぐらいぶりですか。第一次世界大戦?」

「さすがにそこまでは遡んないけど」

「なんだったら、わたしが上になりますか」

「えっ? 騎乗位ってこと?」

「そうじゃなくて、駒野さんが横になって、マグロになってもらってるあいだに、わたしがいろいろこう」

 駒野は飛び起きた。

「はぁっ?! ダメだよそんなの。エリナさん側が奉仕するなんて。なに、いつもそんな、風俗嬢みたいなことやってんすか?!」

 絵理菜の体がびくっと跳ねた。

「いつもじゃないですよ、でもたまに」

「ダメダメダメ、一切不必要ですよ。エリナさんみたいな美人が、男に尽くす必要性、なし!! エリナさんは、男にかしづかれる側の人間なんですから!!」

 鴨島、

「なんか喧嘩してる」

 鷲崎、

「喧嘩っていうか、一方的に駒野が怒ってんな。男に尽くす必要性なしだって」

「あいつ、変なとこで古い人間だよな」

「……駒野さんって、わりと、考えが古いんですね」

「古いも新しいもねえよ」

「でも、じゃあ、これから、どうします」

「……うー……んー」

 とたんに駒野は、威勢を失って、高校生みたいな表情に戻る。

「……とりあえず、パンツ……脱がせても……」

「あ、はい」

 絵理菜の下着をおろすとき、駒野は彼女の足首を持つかたちになる。絵理菜の小ぶりで白い足の先を見つめると、彼は、足の指にも強く唇をつけ、キスをしたのだった。

「へあっ!!」

「オレ、ここも好き」

「……へあって何かな」

 鴨島は眉を寄せる。

「ウルトラマン……?」

 高田も、けげんな表情になる。

「あれ、エリナさん」

「はい」

「なんかわりと、もう」

「はっ」

 絵理菜は自分の股に手をやり、その後、驚愕の表情になった。

「気づかなかったんですか」

「気づきませんでした……」

「わりと、もう」

「わりと、もう、……ですね」

「……でも、一応、なめたりします?」

「えっ。いいです。ていうか、なんで敬語なんですか」

「いや、なんか自然に。観音様に畏れ多くて」

「……そういう、おじさんみたいなこと言いださないでください」

「あっ、いま、おっさん扱いした? まあ、事実なんだけどさ。もー決めた。罰」

「えっ、ちょっ、あ、そこだめ、そこだめ、お風呂、お風呂がっ、あーーーっ」

 駒野が舌先をあちらこちらに走らせたり、舌だけで剥いて中身をもてあそんだり、あるいは、溢れ出る分泌液を、じゅっ、ずずっ、と音を立ててすすり飲むあいだ、絵理菜はずっと、助けを求めるように叫びっぱなしだった。しかし、その音色は、たしかに、抗しがたき官能の色彩に淡く染まっていた。

「……エリナさんは、体位、いちばん好きなの何ですか」

「……正常位」

「あ、オレ、バック……。意見、分かれたな。じゃあ、最初後ろからやって、フィニッシュは正面になるの、どうすかね」

「いいと思います。あの、しゃぶったりとかはどうですか」

「あっ、いや、それはいい」

「え、なんでですか」

「……なんか、悪いし。……あと、そんなにじっと見んなよ」

「すみません」

 駒野が下をおろして全裸になったあと、絵理菜は、かなりの羞恥とともに、おずおずと、四つんばいになった。羞恥心は薄い女だと自分で思っていたから、こんな自分が新鮮でもあり、いとしくなったりもする。そう、新鮮、すべての感覚が新鮮だった。そこそこモテる絵理菜にとって、もはやルーティンワークにも近かったセックスとは、なにもかもがまるで違う。そして、駒野に感謝する。彼でなければ、こうはならなかった。こんな、泣きたいくらいの高揚を、感動を、そして悦楽を、手にはできなかった、彼が相手でなければ。

 二人は最初しばらく、絵理菜の中の向きにとまどい、進入角度をいろいろ変えてみたりと、試行錯誤した。しかし、はたして正解にたどりつき、駒野のペニスが、ずぶずぶと肉をかきわけ、彼女に埋まっていき、いちど、尻に腰を叩きつけるようにすると、やっと、奥を突くことができたのだった。

 そのあとは、お決まりの動きと、お決まりの甘い叫び。

「おおお……やってる、やってる」

 と高田。鷲崎、

「うん……やってる……」

 鴨島、

「おい、声が大きい」

「すげえな。ふふふっ、駒野の野郎……この後、絵理菜さんをおれに寝取られちゃって、おれのテクニックの虜になるのを、いまはまだ、彼は知るよしもなかったのだった……」

「そんな筋書きなの?」

「いや、そんなこたないけど、そう考えたほうがコーフンするからっていうか、あーっ、てめえら、さっきから大の大人がからあげクンひとつでうるせえっ! 黙って賭けろ!」

 高田がいっとき、コップから耳を離し、後ろのポーカー組に怒声を浴びせた。

 つまりはこんないきさつだった。昔の仲間のうちいまは小椋という名前の男が、ローソンのアルバイトをしているのだが、店長が無能のきわみであり、揚げる前のからあげクンの大きなひとふくろをまるまるギッてもバレなかった、という話から始まって、だれかが、からあげクンの「レギュラー」の存在の意味がわからないし、買う人間の意味もわからない、なぜならば同価格でホットやチーズ等の商品が売っているのに、なぜわざわざ、「何もなし」の商品を買うのか、それは「無」に金を出しているのと同じなのではないか、と問題提起をしたのだ。

 これをもって、一同はからあげクン・レギュラー擁護派と排斥派に分かれた。からあげクンのレギュラーというのは、チーズ味などとおなじく、レギュラー味という一種の味であり、そういう意味でレギュラーとチーズその他は差別されるものではなく、同価格で売られているのはなんら矛盾しない、と主張したのは福井だった。それに白戸という、少し前に外科を開業した男が舌鋒するどく反論した、それは詭弁だ! ドーナツの値段にはドーナツの穴のぶんまで含まれてると言うようなもんだ! ついでにお前、ポーカーやるときにサングラスかけたままとか、人をなめてるだろっ、なめくさってるっ、などと、彼は五百年前と変わらず血の気が多かった。

「はあ、なんかこうやって聞いてたら、ムラムラしてきたなあ……なあ、鴨島、金あるんだろ? 今から一本抜きに行かねえ? おれ、割引チラシあるんだよね」

 高田は財布を探って、四つに折りたたまれたチラシを二人に見せた。

「ここ、前一回行っただけだけどなかなかだったよ。なー、行こうぜ。ほらこんなかの女の子さ、いっせーので指さそうよ。カブったらタイマンで、どっちかが降参するまで殴り合い!」

「指もささないし、行かない。お前のそういうホモソーシャル的言動が嫌いだから」

 鷲崎はコップに耳をつけたまま、憮然と言った。

「はー? よりにもよってワッシーにホモソーシャル言われるなんて不本意ですねえ。じゃあさあ、お前と福井のベッタリぶりは何? 何ソーシャル? むしろ、ホモソーシャルのソーシャル抜きぃ?」

「こ、駒野さん、あのぅ」

 息もたえだえに、絵理菜が言った。

「な、なんで、すぐ、途中で止まるんでしょうか……」

「いや……単純に、なんかもう、やばいから」

 彼はふたたび、汗だくになっていた。額の汗が、ぽたぽたと絵理菜の背中に垂れ、そのたびに彼女はぴくん、ぴくんとかわいらしくわなないた。

「……そうじゃないかと思ってました。ああっ!」

 いきなり激しい律動を再開されて、彼女は壁をふるわすような大声を出してしまった。

「や、やだ……おっきな声、出しちゃった」

「いいじゃん。隣、福井がいるぜ。きっと聞こえてる」

「や、こ、駒野さんっ、だから、福井さんのことは、もう……」

「本当に? 名前出したとき、ちょっと中が、キュッてなった」

「それは、そうじゃなくて……、普通に、人に声聞かれるのは、恥ずかしいからですよ」

「……ごめん。オレも、しつこいよな」

「いえ……」

「ずっと、ひっかかってたからさ……」

「あの、駒野さん……向かい合わせになりません? そしたら、顔も見れるし、キスとか、いろいろできるし」

 二人はそうして、もういちどつながった。絵理菜は駒野の背中に手をまわし、ぎゅっと力強くしがみついた。

「好き……」

 駒野は深く嘆息した。

「まだ、信じられない……」

「じゃあ、信じられるようになるまで、離れない」

「本当にオレでいいんすか」

「いいも何も、もう入ってるじゃないですか」

「ホントだ……」

「あ、ゴムつけるの、忘れてる」

「……ホントだ」

「ごめんなさい」

「なんでエリナさんが謝るの」

「よし、買い出し行く。ビール、一ダースで足りるかな」

 と、福井が立ち上がった。

「アサヒな、アサヒ」

 と鴨島。

「他は?」

「ビーフジャーキー」

「俺、カルパスほしい」

「ジャイアントコーン」

「あったら、カツ丼」

「アサヒ一ダースとビーフジャーキーとカルパスとジャイアントコーンとカツ丼」

 福井は復唱した。

「あっ、おれアルフォート食べたい。あとのりしお味」

「鏡月いる? 鏡月、入れとこうぜ」

「ハーゲンダッツのバニラ。あとブラックサンダー。あとワンカップあったら完璧かな」

「おれ、焼きプリンとプリッツとたけのこの里とー、セックスと嘘とビデオテープと部屋とYシャツと私」

 これは高田。

「人として終わりは?」

「え、もう人として終わる?」

「いや、すぐじゃないけど明け方くらいに終わるんじゃないかと」

 人として終わりというのは一種の符牒で、たとえば「大五郎」といった、いわゆる甲類焼酎をさす。まったくうまくはなく、ただ酔うためだけの酒であり、学生時分ならともかく大の大人がこんなのを頼りはじめたら人として終わってる、という意味で、だれかが人として終わりと名づけて、現在にいたるのだった。

「アサヒ一ダースとビーフジャーキーとカルパスとジャイアントコーンとカツ丼とアルフォートとのりしお味と鏡月とハーゲンダッツバニラ味とブラックサンダーとワンカップと焼きプリンとプリッツとたけのこの里とセックスと嘘とビデオテープと部屋とYシャツと私と人として終わり」

 福井は鴨島にクレジットカードを借りて、深夜のコンビニに繰り出していった。

「……いつも思うけど、なんだよあの記憶力」

「むかし、一緒に忍者をやっていたときも、よく驚かされた」

 と鷲崎。

「何ページもある諜報に一回だけ目を通して、すぐに破り捨ててた。そのくせ、たずねられたら内容を一字一句、全部暗唱してみせてた」

「これで言動がおかしかったらアスペルガーなんだが、別に普通ってとこが腹立つよな」

 高田がもらいタバコをして、セブンスターに火をつけた。

「あ、あの……いいですよ、もう」

「いいの? ほんとに?」

「はい、いいです。来てください」

「エリナさん、すいません。ほんと。ああ。すいません」

 駒野は、はあーっと大きな息を吐き、その後も、ぜいぜい言いながら、絵理菜の横にあおむけに横たわった。まるで闘いを終えた戦士のように、汗でびっしょりで、ぐったりしていた。

 絵理菜は近くにあったティッシュで股間をおさえながら、そんな駒野を、軽く睨んだ。

「中に出すとか、聞いてないし……」

「ん? あー、オレ、いつもこうだよ。子どもできないもん。人間とはさ」

「あっ。ああ……、そうか。なるほど」

「ていうか、ごめん、オレだけ……」

「いえ、えーと、大丈夫です。わたしも、かなり、そのー、かなりっていうか、びっくりするほどよかったです」

「マジぃ? マジで? あー……よかった、それは……」

「アハハハ」

「よし決めた。オレは布団を敷く」

 全裸のままで、駒野はそうして、二人は布団に入った。

「……ヤニ入れたいけど、吸う元気もない……」

 駒野は、絵理菜を横抱きにして、胸の中に彼女の小さな頭を迎え入れていた。

「そんなにですか。お疲れ様です」

「うん。しかも、こんなヘロヘロになっといて、エリナさんをイカせられなかったのが情けないよ」

「え、そんなこと、こだわってんですか」

「そんなことじゃないだろ」

「いや、でも、わたしもともと、初めての相手とかだと、緊張して集中できなくて、いきにくいんで、普通です。何回かやってるうちに、だんだん、リラックスできて、いけるようになるんです」

「そうなんだ……。なんか、女の子もいろいろだな……」

「だから、何回もすればいいんですよ」

「……何回もさせてくれるんですか」

 駒野が、突然、ものすごく真剣な目でたずねてくるから、絵理菜は笑ってしまいそうになる。

「えっ、何、何笑ってんすか。からかったんですか? この、おっさんの純情を……」

「違いますよ」

 絵理菜は彼の頬に唇をつけた。

「もう言ったじゃないですか」

「なんて」

「好きって」

「……そうだっけ」

「はい。ただ、駒野さんからは何も聞いてないですけど」

「オレか……オレはなぁ……」

 彼の顔が、とたんにまた、みごとに真っ赤になる。

「……いま、は、無理……。なんか、やってる最中とか、酔ったときとか、テンション上がったときに、勢いでなら、言えると思うけど」

「あっはははは。それでいいですよ。もう、わかってますから」

「あ、わかった」

 と鴨島が、とつぜんつぶやいた。

「何だよ」

「逆に考えよう。からあげクンのチーズ味の、チーズの部分が、無料なんだ」

「よし」

 鷲崎が言った。

「じゃ、今からローソン行って、その無料のチーズの部分だけ、もらってこい」


06

 残念ながら、隣の部屋は空いていなかった。だから、ひとつとんだ部屋を彼らは新しく借りて、ふたたび、高田と駒野の二人部屋ということにすることと相成った。

 絵理菜は、自分のアパートに帰るのに、いささか難儀した。スマートフォンを置いてきてあるから、地図や乗り換えが見れない。到着したばかりの駒野も、このアパートがどこの町のどこにあるのか、よく見当がついていない。けっきょく、鴨島が自分のスマートフォンから見て、駅までの地図を書いてくれた。乗り換えなしで一本で帰れることも教えてくれた。

 朝、大多数がつぶれてザコ寝している、タコ部屋みたいな空間で、鴨島は一睡もしていないのに、ひとり平静だった。本人に聞いたら、

「夜に強いから」

 と言っていた。そして自分の部屋に帰っていた。絵理菜はいまのいままで、自分と駒野が素っ裸で蛇のようにからみあって、お互いの近くにただただ行こうと、肌を押しつけあっていた布団を、鴨島が使うのかと思うと、なんだかすごく申し訳なく、恥ずかしかった。

 送るよとも、何も言わずに、駒野がついてきた。彼らしかった。

「意外と、そんなに遠くに越してなかったんですね」

 と道すがら、絵理菜は言った。

「そうだな」

 彼女はふと、なんとなく、ならんで歩く駒野の手を取ってみた。彼は、一見、無反応だった。

「いつからだったんですか?」

 と、絵理菜は聞いてみた。

「いつからか……」

 彼は片手でマルメンライトを一本出して、火をつけた。

「なんの因果か解明したヤツぁいない。でもとにかく、オレたちは無限の時間を生きている。生きることに飽きて、絶望して、首を吊った鳥もいた。……墜落したんだ」

 初夏のここちよい風が、ふーっと吹き出された煙を、宙にかき消していく。

「……でも、時間が無限にあっても、けしてかなわないものも、取り戻せないものも、あってさ。それで、苦い思いをするときもある。はじめて見たとき……」

 駒野は、絵理菜は見ずに言った。

「はじめて会った瞬間、悲しかった。いくら時間を持っていようが、オレは、こんなかわいい女の子と、手もつなげないままなんだろうなって。そんなしけた、クズみたいな人生、無限に、ムダに生きるんだろうなって」

 絵理菜は、なんと言っていいのかわからなかった。ただ、握った手に、力をこめた。

「絵理菜さん。絵理菜さんの、福井への気持ちは、はっきり言って、最初からかなわないことが決まってた。だから、オレも同じだって思ってたから、マジになっちゃダメだって、思えば思うほど……」

 絵理菜は駒野の逞しい二の腕に、ぴとっと頭をつけた。

「駒野さん」

「うん」

「……電車の中で寝ちゃったら、起こしてください」

「わかった」



 うららかな日曜の午後に、絵理菜は自室で、パジャマ代わりのTシャツ姿で、目をさました。

 外ではちゅんちゅん、ちゅんちゅんと、スズメたちがさかんに鳴いていた。うわさ話でも交換するかのように。

 タオルケットの中で、絵理菜は寝返りも打たず、宙を見ていた。何もかもが、夢だったような朝だった。



「おっ、また来てくれたのみゆきちゃん。ああ、きょうは伊藤先輩もいっしょじゃん」

 望月は若干恐縮しながら、絵理菜は機嫌よくカウンターの席についた。

「このあいだはすみません。つぶれちゃって、お世話になって……」

「なになに。普通普通。あやまることないって。シャンディガフ?」

「いえ、高田さん特製のやつをいただきます」

「ああ、ヤクルトね」

「わたしもそれ」

「きょう、鴨島がいなくてごめんね」

「あ、いえ……」

「ライブ? それとも、女?」

「女」

 高田は二人に、例のオリジナルカクテルを出した。

「鴨島さんとははどれくらい、付き合いが長いんですか」

 望月が、おずおずと切り出した。

「んー? どれくらいだっけな。でもかなりの腐れ縁だ。友達っていうより、おれがあいつの保護者みたいな感じに近い。金の管理とか、全部やってあげてるしね。でも、おれはひとつだけ、あいつに頭上がんないとこがあって、」

「はい」

「むかしおれ、べろんべろんに酔った勢いでロシアンルーレットしようとしたけど、使おうとした拳銃がオートマチックでさ」

 絵理菜が吹き出した。

「やめろって声あげながら、とびかかって手首を上にそらしてくれて、でまあ、バキューンて天井に穴あいてさ。そんなわけで、命の恩人なんだよ。だから最終的には頭が上がらんとこがあるな。まあ、そんな体験はいろいろあるから、わりとお互い様なんだけど」

 望月は、圧倒されて、声も出せなかった。

「そういやさ、みゆきちゃんて彼氏いるの」

「え、え、いません」

「へーえ。でもなんか、年上好みって顔してるね。絵理菜さんは?」

 高田は何もかもわかっているという顔で、ニヤリと笑って、絵理菜を横目で見た。

「絵理菜さんは、年上と付き合うとしたら、何歳上くらいまでが限度っすかねー?」

「えー、わかんない。五百歳くらいかな」

 二人は顔を見合わせてゲラゲラ笑った。望月だけが、ポカンと彼女らを見つめていた。



(了)

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