第3話 鳥類の隣人

01

 伊藤絵理菜は、シャープペンシルで頭を掻いてばかりだった。季節はもう十一月。目の前には真っ白いレポートパッド。せめておおまかな概略だけでもと思ったが、かれこれ数時間、何もおもいうかばないままだった。この時期になって、卒論のテーマすら決まっていないというのは、はっきり言って、相当まずい事態だった。

 単位も全部とった。運よく内定ももらった。なのに、卒論ができなくて留年でもしたら、あまりにバカバカしすぎる。

 絵理菜は何度も書架とデスクの前を往復していた。書架から目についた本をいくつか取り出してパラパラ読み、またデスクに戻ってうんうん唸って頭を掻く。これを数セットか、あるいは数十セットも。

 彼女は疲れ果ててベッドにごろんと転がった。携帯電話で時刻を見ると、十一時の、三十分前くらい。いつもより少し早めだが、どのみち、きょうはもうどうにもならないだろうから、寝ようか。そうだ、寝るしかない、と思った瞬間、先ほどから聞こえていた、壁のむこうの話し声や笑い声が、気にさわりはじめた。

 こんなことは、はじめてだ。大学に入ったと同時に入居したが、おとなりさんはいつも静かだった。最近はだれも入っていなかったはずだ。

 ドッ、と沸くような笑い声が、断続的に起こる。耳をすませて話し声を聞くと、女のそれはなく、男たちだけの集まりのようだった。

 また、ドッと笑いがおこる。イライラしてきた。最近の絵理菜は、異様に他人に関して不寛容になっていた。それもこれも、レポートパッドにひと文字も書けていないからだ。一年中、生理前の状態のようだった。彼女はしばしば瞬間的に、手のつけられない猛獣のようになった。そして、時間帯などを考慮すれば、いわゆる、あの名高い『壁ドン』行為をやってもいいのではないかと思った。

 それでも理性と臆病が彼女の胸をドキドキさせたが、けっきょく、ストレスを晴らす絶好の機会を、絵理菜は逃すことができなかった。

 ドンッ!! と一回、拳を壁に思いきりたたきつける。痛かった。隣の部屋のどんちゃん騒ぎが、いっとき、水を打ったようにしんとなった。

 だがしかし、これでやむだろうかと思った瞬間、むこうからも、同じように、ドン!! と、返事がかえってきた。

 絵理菜は、ますます逆上した。こんどは痛くないように、足で二回、ドンッ、ドンッ、と叩いてやった。すると、相手もやはり、ドン、ドン、と二回返してきた。

「モールス信号かってのっ!」

 彼女はすっかりバカバカしくなって、布団をかぶって寝ることにした。次に騒がれたら、大人の対応として、素直に管理会社に電話をいれよう、と誓って。



02

 次の日の昼間、彼女はベッドに寝転がって、借りてきたDVDを見ていた。遊んでいるのではない。卒論のテーマ作りへの足がかりが、どこかに隠されているかもしれないからだ、というのが、エクスキューズだった。

 それにしても、ベッドに寝たままテレビ画面を見れる構成のインテリアにしたのは、よかったようで、まずかったのかもしれない。その気になれば、限りなくだらけられる。

 ピロポロピロ、と呼び鈴が鳴った。無視する。宅配便が到着する予定はない。訪問販売か、宗教だ。ところが、少し間をあいて、ピロポロピロは、もう一回来た。二回呼び鈴を鳴らすのは宅配便だけだ。酔っぱらったとき、アマゾンで何か買っただろうか? 彼女は布団から出て、部屋着にしているコーデュロイのズボン(むかし、彼氏から借りパクした)をはき、シャチハタを手に、玄関をあけた。

 絵理菜はひとめで絶句した。かなり長身の男で、しかも、オレンジ色のモヒカンだった。顔つきもいかつく、無精ひげに覆われている。ふわふわのファーつきジャケット。彼女は直感した、おとなりさんだ。昨日の復讐をしにきたのだ。

 殺される!!

 しかしモヒカンは、彼女を見ると、とたんに背を丸くし、持っていた菓子折りを差し出すと、

「あのー、ごあいさつが遅れましてすみません。きのう、越してきた駒野と申します」

 申し訳なさそうに笑いかける顔は、さっきパッと見たときよりずっと人なつっこそうだった。絵理菜は茫然としたまま菓子折りを反射的に受け取った。

 くりまんじゅうだった。

 やばい。くりまんじゅう、けっこう好きだ。

「あの、昨日の夜、騒いじゃって、ご迷惑かけましたよね?」

「え、えっ、あー、いやあ」

 彼女はいまさら、自分の行為がなんて幼稚だったのかと思い、身が小さくなる思いだった。

「すいません。引越し祝いで、つい盛り上がっちゃって。おとなりに、こんなかわいらしい方がいらっしゃるなんて、思ってなくて」

「あ、いえ、その、もういいんです。私も大人げなかったんで。すみません。ダメですよね。いい年なのに」

「学生さんですか」

「はい。あ、伊藤と申します。その、始めはあんなでしたけど、これから、よろしくお願いします」

「そっか、学生さんか。何、勉強してるんですか」

「私は文学部で、いちおう専攻は、コンテンツ文化学ってことになってます」

「コンテンツ文化?」

 よほど意味がわからなかったのか、駒野はすっとんきょうな大声を出した。

「あ、ハイ……あのですね、つまり、小説とか漫画とか、映画とか、歴史の変遷を研究したり、作家とか作品とかを分析したり……まあ、その、ひらたくいえば、評論みたいなことを論文にしたりしてます」

「そうかぁー。伊藤さんは、評論家のタマゴかぁー!」

 やっと会得がいった駒野は、なぜだか、まるでわがことのように目じりを下げた。そして絵理菜は、なんとかのタマゴって表現、古いなあ、と思っていた。彼はいくつなのだろうか。聞きそびれてしまった。同年代のようにも思えるし、二十も年上のようにも見える。

「何年生?」

「四年です」

「じゃあ、もうすぐ卒業だな。あとひといきがんばってくださいよ」

「ええ、それなんですけど……」

 卒論ができていない話を世間話がわりにしようとしたが、キキーッと車が停まる音がして、駒野はそちらを向いた。

「おっ。ありゃ福井だな。伊藤さん、こっちこっち。紹介する」

 二人は、二階の廊下から、手すりに手をついて、いましがた到着したばかりの軽自動車に目を向けた。運転席から、サングラスをかけ、白いジャケットにジーンズという姿の男が出てきた。髪はオールバックにしている。

「あの車はいただきものだな。アイツ、やっぱりやり手だ。本当にやくざみたいになってきてやがる」

「やくざって?」

 彼女はドキッとした。

「いやむかし、ヤツのことをそう評した女の子がいたらしいのよ。でも大丈夫、本物じゃないよ。あの車は、よそのヤツらの喧嘩の仲裁をしたときに、お礼にもらったんだろう。どんな仲裁の仕方だったか目に見えるようだけどな」

 話が見えなくて、ますます絵理菜は恐ろしく、混乱した。

 彼はタバコをくわえて火をつけ、ふかしながら階段を上がってきた。

「免許証はたぶん高田の偽造かね。あいつはむかしっから手先が器用だから。高田ってのは、オレのルームメイト。伊藤さんの二軒先だよ」

「二軒先? おとなりじゃないんですか?」

 そのとき、絵理菜の隣の部屋のドアに立った福井とかいう男が、興味深げに、彼女と駒野を交互に見た。

 身長は、こうして見ると、意外と小さい。百六十五から、最高でも百六十八のあいだくらいだろう。サングラスは光を通さず、真っ暗で、目もとは見えない。それでも、絵理菜は彼が相当ととのった顔をしていることが、どういうわけだかわかって、どきまぎした。

「よう、お疲れさん。この子、伊藤さん。おまえのお隣さんだよ。仲良くな」

「どうも……」

 彼は軽くぺこんと頭を下げて、部屋に入っていった。

「ワリいね、別に伊藤さんが気に入らないわけじゃないのよ。あいつ、夜型でね。昼間は眠いから、いつもあんな感じ。今度、夜に会ったらいいよ、普通だから」

「あの……」

「はい」

「そんなにたくさんで、いっきに引っ越してきたんですか? ……お仕事仲間かなにかですか?」

 親類だというなら理解できる。だけど、苗字はばらばらだ。また、いちばんはじめに感じた恐怖がぶりかえした。やくざじゃないと彼は言ったが、それ以上に得体の知れない、不気味な人々のように思えた。

「うーん……仕事仲間ってのも違うんだけど」

 彼はひげの生えたあごをさすった。

「まあ、家族みたいなもんかな。遠い親戚が集まってるみたいな感じ」

「……そうですか」

 絵理菜はいまいち納得しがたかった。が、深入りするのも、なにか怖くて、それ以上何も言えなかった。

「あ、そうだ。福井も二人で住んでるんです。せっかくだから紹介しますよ」

 彼は福井の部屋のドアを開けて、手招きした。

 中の様子を覗き込む。家具がほとんどない。冷蔵庫と、壁に立てかけられた折りたたみ式の小さな丸テーブルぐらいだ。床に敷かれた布団の中で、福井はとっくに眠りこけていた。そして、むかって左の貧相な台所で、駒野と同じかそれ以上の大男が、洗い物をしていた。彼はモヒカンでなく、スキンヘッドだった。まさに大入道といった体だった。振り向いて絵理菜を見つめる目が鋭かった。

「伊藤さん、あれ、鷲崎っていいます。ワッシー、このお嬢さん、お隣さんだよ。昨日、迷惑かけただろ」

 鷲崎という男はいったん洗い物の手をとめ、タオルで手を拭き、つかつかと絵理菜の前に歩いていった。絶対に、百九十センチはある。そばにくると、異様な迫力だった。しかし、

「昨晩は、大変失礼しました」

 と、この大入道は、深々と頭を下げたのだった。

「あっ、そ、そんな。いえいえいえいえいえ。こちらこそ、あんなことして。申し訳ないです」

「これからもよろしくお願いします」

「はい、もち、もちろんこちらこそ」

「いいヤツだろ」

 福井・鷲崎の部屋のドアを閉めたとたん、駒野は言った。

「オレがきのう、あの壁ドンのあと、ご近所づきあいくらいしておくべきだって言い出したとき、いちばん先に賛成してくれたんだよ」

「はあ……」

「見た目、あんなだけど、気は優しくて力持ちっていうの? オレたちのうちでいちばん働き者かもな。おっと、たまたまオレの部屋にいま高田がいる。どうせだから、紹介したいんだけど、いい?」

「あっ、もちろんです」

「言っとくけど、ヤツは相当の変人だからな。何見ても何言われても、ビックリしないで。話半分くらいで流して」

 事前にそう言われておいて本当によかった。覚悟なしにドアを開けられていたら、ギャッと声をあげるところだった。

 高田は、ヨガマットの上で、足首を首のうしろにまわす、非常な軟体運動をしていた。しながら、彼の前に置かれた、さまざまな色のビーズが入ったコップからひとつぶひとつぶを取り出して、ブレスレットと思しきものを作っていた。そして、やはり家具らしきものはないに等しかった。

「こんにちは。アナタがきのうの、あのお隣さんだね」

 と、彼はまるで舞台演劇のセリフのように話しかけ、にっこり笑った。

「伊藤さんだよ」

 と、駒野。

「伊藤さん、よろしくね。おれ、高田です。サーカスでピエロやってるんですよ。だからこんなふうに鍛えなくちゃいけないんすよ、体を柔らかくしておかないとね。オレたちはサーカスの一座だから、こうして集団で引っ越してきたってわけです」

「ウソはやめろ」

 駒野は頭を抱えていた。

「親戚の集まりだって説明済み」

「ああー、ゴメンゴメン。からかっただけだよ。本当は、ピエロは前職。いまは、バーテンと、占い師のかけもち。これは、占いに来た客に売る商品」

 よく見ると、コップの中に入っている無数のビーズは、ビーズではなく、穴のあいた天然石のようだった。パワーストーンというやつか。

「でもいまだに、前職のキネヅカで、酢のイッキ飲みは得意だよ。飲み屋でこれやると、チョーうけるんだよね。ああ、伊藤さん、いい顔してるね。顔にくっきり、いい前兆がでてる」

「いい前兆」

「そう」

 高田はミステリアスに笑んだ。落ち着いてまじめに見てみると、そう悪い顔でもなく、むしろ、外国人のように彫りが深くて、けっこうないい男だ。

「これから何をやっても、ぜんぶうまくいくよ」

 絵理菜は何も言い返せなかった。彼女は、こんな適当で抽象的な言葉に、少しだけだが、感動してしまっていた。これこそが、彼女がいま、もっともかけてほしい言葉のひとつだったのかもしれない。占い師をやっているという言葉は、ウソではなさそうだ。

「よし、こんなことなら別にいらんもんかもしれないけど、ご近所のよしみってことで、ひとつあげよう。おいで」

 彼はいましがた作りおえたばかりの、みどり色の石を使ったブレスレットを、靴を脱いであがってきた絵理菜の手首をつけてあげた。器用だという手先が一瞬、絵理菜に触れる。たしかに、長くて、男にしてはきれいで、きっちりと爪は短く切られていた。

「これは、何にきく石ですか」

「全体的に」

「ぜんたいてきに……」

「うん。まあ、まんべんなくきくよ。しいて言えば、魔よけかな。悪いことから身を守ってくれる。大切にしてくれるとうれしいな。ああ、悪いことで思い出したよ。鴨島にはもう会ったか」

「いや、まだだ」

 と駒野。

「おお、ギリセーフか。警告なしにあいつに会うもんじゃないからな。鴨島はおれたちの中で唯一のひとり部屋で、この隣」

 彼はむかって左を親指で指した。

「つまり、伊藤さんの三軒先だよ」

 と駒野が補足した。

「あいつは天性のタラシなんだよ。イケメンだけど、それだけじゃなくて、相手の求めてるものを無意識に提供する天才なんだよ。おかげで、おれたちは家賃を払えるってわけだ。どこに行っても、いつになっても、ヤツはすぐパトロンが何人もつく。表向きはバンドマンなんだけどね。ギター弾いてるよ。それだけでも持てるんだけど、おれがバーの客とか占いの客を、それとなく鴨島に回したりするわけ。自我が弱くて、依存症タイプの女で、金だけは持ってるようなのが最高。すぐにその女の金がおれたちに回ってくるって寸法よ」

「は、はああ……」

「つまりね、おれが言いたかったのは、鴨島がどんなにイイ男でも、あいつにだけは惚れるなってことだよ。あいつを追いかけまわすくらいなら、おれにしたほうがいい。おれは金は取らないからね」

「おい、もうそのへんでいいだろ。この子はまだ大学生なんだから、そんな変な話、聞かすなよな」

「えー? だって、お前、この子が万が一、鴨島にやられちゃってもいいのかよ。ご近所さんから搾取はヤバいでしょ」

「伊藤さん、変なもの見せてすいませんでした。もう行きましょう」

「あのう」

 彼女は駒野に腕を引かれて玄関を出る直前に振り返った。

「……お酢をイッキ飲みするときの、コツってなんですか」

「んー」

 彼は腕を組んで考え込んだ。そして、彼女をいたずらめかして見上げて、ニッと笑って言った。

「できるだけ早く飲み込むことかな」

「……どうも、失礼しました」

 駒野と絵理菜は、再び、初冬の寒い外気のなかに放り出された。駒野はちょっと迷った様子で、

「さっきの鴨島ってやつも、見てく?」

 絵理菜もどう返事していいのかわからなかったが、けっきょく、

「はい」

「よし。女とやってるかもしれないから、そっと開けるべ」

 絵理菜はこのとき、どうして鴨島だけがひとり部屋なのかを理解した。

 そういうわけで、駒野と二人、玄関のドアのすきまから、そーっと中を覗いてみる。セックス中ではなかった。お布団の中で、男女二人が、くうくうと寝息をたてて眠っている。

 幸いにして、鴨島の顔は、玄関からでもよく見える位置にあった。たしかに、色白で、非人間的なほどきれいな顔だった。目をあけたら、きっともっと、はっと立ち尽くすほど、美しいのだろう。そして、髪の毛が長い。さすがギタリストと思った。絵理菜はなんとなく、ギターは髪が長いものという先入観がある。

 二人は、そっと戸を閉じた。

「まあ、さっき高田も言ったが、あいつにだけは恋するのはやめたほうがいいよ。あいつにとって、女っていうのは、生きる手段だからさ」

「はい、あの、大丈夫です」

「よかった。ってことでぇ、一応、オレたちの仲間はこれで全部。戻ろうか」

 絵理菜の部屋の玄関に戻ったとき、彼はたずねてきた。

「いっぺんに覚えられた?」

「はい」

「本当? じゃ、お隣さんは?」

「小さくて、サングラスをかけているのが福井さんで、大きいほうが鷲崎さん。その隣が、高田さん。天性のタラシなのは、鴨島さん」

「当たってる、すごいね。で、オレは?」

「駒野さんです」

「すげえな、オレが伊藤さんの立場なら無理だわ。頭、いいんだね。頭いい子、好きだわ」

 駒野ははしゃいだ。絵理菜は、なにも特別な意味がないとわかっていても、ちょっとドキッとしたし、うれしかった。

「じゃあ、オレはこのへんで退散します。用事あったら、呼び鈴じゃなくて、ノックしてください。そしたら、伊藤さんだってわかるから」

「はい」

「オレも、オレだってわかるように、ノックにしていい?」

「はい」

「ありがとう。お時間いただいて、どうもね」

 最初はただただ恐ろしかったこの男と、いまは別れがたく感じているのが、驚きだった。彼は気持ちのよい男だ。そして、どんなに深く彼を知っても、それは変わらないだろうと思った。

「あの……」

「ん?」

 廊下に出かけた駒野が振り返る。

「その……モヒカン、いつからしてるんですか」

「ああ、これね」

 と、彼は天高く立ったオレンジ色に手をやった。

「生まれつき」

 ドアが閉まった。

 と思ったら、また開いた。

「伊藤さん」

 驚いた。

「なんですか」

「伊藤さんの下の名前、なんですか」

「絵理菜です」

「エリナさんか。わかりました。じゃ、また」

 ひとりきりになって座椅子に座っても、絵理菜はぼんやりし、依然として、くりまんじゅうの箱を胸に抱えたまま、いま何が起こっているのかを整理しようとした。新しい隣人たちは、あまりにも謎が多い、と感じた。

 そのうちに彼女ははっとしてくりまんじゅうに気づく。

 食べよう。

 お気に入りのそば茶をいれながら、彼女は、いまさらのように発見した。くりまんじゅうをいっしょに食べよう、と言って、駒野をひきとめて、一緒にお茶を飲めばよかったのだ。そうしたら、もっと一緒にすごせたし、もっといろんな話が聞けたはずだ。

 アド・リブに弱い。お茶といっしょにいただくくりまんじゅうは、自分の欠点の味がした。それでもなお、おいしかった。


03

 その夜は、何も考えられなかった。ただひたすら、彼を待っていた。

 最後に会ったのは、一週間前だ。何度も約束をすっぽかされての、やっとの邂逅だった。月並みだが、熱く求め合った。だけども、当初、絵理菜に抱いていた彼の情熱は、すっかり冷めているのが、目に見えてあきらかだった。隠しもしなかった。最初はむこうが夢中だったのに、それなのに……。

 付き合ってはいない。同じゼミの、ただの友達なのだから、恋人ヅラしてメールするのが抵抗があった。メールしてはじめて、何かでっちあげられた理由で来れなくなったことを説明されるのもいやだった。

 来る約束の時間から、三十分もたって、何もなしだった。

 ノックの音がした。待ち人じゃない。駒野だ。

「こんばんは、昼はどうも」

 駒野はニコニコしていたが、絵理菜は疲れ果てていた。

「あのさ、実はきのう、となりで鍋やってたんだ。って、言ったっけ?」

「いえ……」

「きょうも鍋パーティーやろうと思うからさ。迷惑かけたぶん、タダメシとタダ酒、ふるまおうかと思って。来るかな?」

「いえ、すみませんけど、人を待っているので」

「あ、そっか……友達?」

「はい」

「そう。じゃあ、よかったら友達といっしょでもいいから、気が向いたら、いつでも来て。遅くなっても、雑炊くらいは食えるだろうし」

「はい」

「それじゃ……」

 彼女はベッドに横たわり、何もせず、何も見ず、目を覆った。だいじょうぶだ、と絵理菜は思った。わたしの興味の対象はすぐ変わる。いまのつらさは、すぐに過去になる。これは過去にすぎない。一瞬一瞬が、流星のように、過ぎさったできごとになっていく。

 絵理菜は、もう三十分だけ待った。そして、彼女はモッズコートを着込み、部屋を出ていき、隣の部屋のドアを叩いた。

「おー、エリナさんが来てくれた。なっ、だから言ったろ?」

 迎え入れてくれた駒野がうれしそうで、絵理菜も少しうれしくなった。絵理菜の待っていた人物は来なかったが、駒野にとってはそうでなくなったわけだ。それが、なんとなく、救いになった。

 絵理菜はキムチ鍋をかこむ輪の中に入れられた。両隣は、駒野と福井だった。奇妙なことに、夜で、しかも室内でも、福井はサングラスをはずしていなかった。

「それで、なんの話だっけ」

「鴨島のこんどのハヤニエの話」

「ああそうだ。女子大生だっけ?」

「そう」

 起きている鴨島を見るのははじめてだった。たしかに、芸能人かモデルのように目鼻立ちがととのっていた。白人の美少年みたいだ。胸のあたりまで伸ばした髪の毛は、絵理菜のショートボブよりも、よっぽどサラサラだった。

「あ。あの鴨島さんはじめまして。伊藤と申します」

「ああ。どうもはじめまして。鴨島です」

 特に表情を変えず、豆腐を食べながら彼は答えた。ポーカーフェイスといったところだが、たしかに、そんなところまでがかっこいいと女に思わせるものがある。彼は他の人が持っていない、特別な何かを持っているのだ。

「ねえ、その大学生、どこの大学」

「K大だって」

「ふーん。エリナさんは?」

「私はY大です」

「なんだ、もしいっしょで、知り合いとかだったら面白いかなって思ったのに」

 高田は完全に他人ごととして笑っていた。

「話聞いてると、けっこうなお嬢様なんだ。仕送り、相当もらってるらしい。少しずつ抜いてって、最終的には半分くらいがこっちの手に渡るようにする」

 と、鴨島は、恐ろしい内容を、淡々と話すのだった。

「そういえば、エリナさんさあ、友達待ってたんだよね?」

「ああ、それですけど、来なかったですね」

「なんだ、すっぽかしか」

「そうですね。一時間待って、来なくて、まあ……常習犯なんで」

「なんだよそれ。人として終わってんな。約束やぶって平気な顔なんて」

「ぶん殴ってやればいいじゃないですか」

 ふと、無口な福井が、口をひらいた。みんながゲラゲラ笑った。絵理菜は、なんとなく、彼がそういうことを言う人物ではないと思い込んでいたから、びっくりして、口をつぐんでしまった。

 キムチ鍋をつつき、ビールや焼酎を傾けながらも、絵理菜はなんとなく福井が気になって、ちらちらと様子をうかがっていた。すると、あるとき、彼はサングラスを取り、まぶたを閉じて、じっくり味わうように日本酒を傾け、そして、またもとどおりに、目を隠した。

 一瞬かいま見えた福井のふたつの白目は、泣きはらした子どものように、真っ赤に腫れていた。そして、それが、なぜだかこのうえなく色っぽく、絵理菜には感じられた。目は一重まぶたの切れ長で、目じりが肌へとそっと消えていくラインが、きれいだった。予想していたとおり、どちらかというと女顔の、なかなかの美男。鼓動が早まる。

「あの」

「はい」

 サングラスが絵理菜を見る。

「失礼じゃなかったら、なんで、それをかけてるのか、聞いてもいいですか」

「ああ」

 彼はサングラスをとって、赤い目でそれを見つめた。

「光に弱いんです。日光アレルギーみたいで。しばらく症状が出てなかったから、油断して裸眼でいたら、ぶり返しちゃって」

「あ、そ、そんなご事情があったんですね。すみません。無神経に」

 福井に対してだけは、絵理菜は、なぜだか緊張した。小さくて色が白く、腕も身体も細いこの男には、謎めいた威圧感があった。この中でいちばん美形と思われる鴨島としゃべるときよりよほど胸が苦しくなり、舌がもつれた。

「いえ。失礼なのは俺でしょう。人としゃべるときにこんなものかけて」

「そんな、そんな、そんな、いえいえいえいえいえいえ」

 絵理菜は、片思い中の中学生みたいに、挙動不審だった。福井は小鉢の豚肉を咀嚼しはじめた。会話は終了というわけだ。絵理菜は、なんだか恥ずかしくてたまらず、自分もバクバクと小鉢のなかの具を頬張った。

「そういえば、伊藤さんって大学、なに学部ですか」

 と、高田。

「あ、ひょ、ひょっと待ってください。くちにものがはいってるので」

「なに、口にもの入れたまましゃべる方法、知らないの?」

 駒野のほっぺが、ぷくーっとふくらんだ。

「こうやってさ、歯の外側に、食いもんを一時退避すればいいんだよ。そしたら舌が使えるから、しゃべれる」

「どうも、ありがとうございます……」

 駒野がしゃべっているうちに、彼女はとっくにすべて嚥下していた。

「その、私は、文学部です」

「へえー。文学少女か。それでこんなかわいいんだから、モテるでしょ」

 高田は、ニヤニヤと、梅酒のビンをそのままラッパ飲みした。

「……普通……かな。でも、さっきも言ったけど、なんか、ふられたっぽいし……」

「さっきって? なに? あ、友達って男?」

「はい。最初はむこうがぞっこんで、聞いてるこっちが恥ずかしいセリフとか、いっぱい言ってくれたんですけど、いっしょにいるうちに、たぶん、私のいやなところとか、見えてきて、なんか、あきらかにもう冷めてる……」

「いいよ、すぐできるよ、次。美人の文系少女なんてさ、まあ、世界は自分のものとくらい思ったっていいよ」

 そう、みんながみんな、かわいいからすぐ男ができると言う。でも、男なら誰でもいいというわけじゃない。さっきの男友達も、潔癖なところと、女を支配したがるところがあって、そこがいやだった。道が分かれて当然だと思う。

 もう、こうして会うのはやめよう。隣人のおかげで、絵理菜はやっと決意がついた。

「はい。世界は私のものです!!」

 彼女は身を乗り出して高田の手から梅酒をとりあげ、彼のまねをして、ぐい、ぐい、ぐいとラッパ飲みした。

「おーっ、伊藤さんさすがだね。飲み干しちゃって。まだまだあるよ、焼酎も、ウイスキーも」

 ところが、彼女は酒に強いわけではなかった。極端に弱くもないが。酒に強い女にあこがれがある。酒に強いと、それだけで、強い女みたいに思える。どうどうと世間と対峙し、人の世の中を胸を張って渡り歩けるような、そんな女。

 結果として、絵理菜はつぶれかけた状態で、壁によりかかって、目をつむっていた。目の裏がぐるぐるとまわっていた。

「出勤時間だ」

 福井の声で、一瞬、目がひらく。彼はブルゾンを着て、部屋を出ていった。その小さくて大きい背中が、酔っ払った絵理菜の目に、せつなさとともに焼きついた。どうしてだろう。目を閉じる。

「ふくちゃん、仕事見つかったの? 何?」

「深夜勤の警備員」

 この低く重い声は、鷲崎だろう。

「ふーん……。伊藤さん、寝ちゃったかな」

 高田が水を向けてきたが、絵理菜は、全身がアルコールでじゃぶじゃぶで、もう返事をする気力もなかった。

「なー、おっぱいとか揉んだら、バレねえと思う?」

 絵理菜の意識がちょっとだけ現世に戻った。揉みたければ、揉んでほしいと思う。あの男はもうわたしの部屋に来ない。そして、彼女はアルコールが入ると、下半身がじんと疼くタイプの女だった。欲しい。さっきから、正直言って、ずっと。揉んだところを取り押さえて、なんだかんだ丸め込んで、責任とってもらってセックスに持ち込められたら、最高だ。

 五人! 出勤していった福井も含めて、五人もの男が、絵理菜の前に突然あらわれた。だれひとりとしてモノにできないで終わったら、みじめすぎる。世界はわたしのものなのに。ただし、鴨島は除外しとこう。だったら、福井は? この男たちのなかで、いちばん、奇妙に近づきがたい雰囲気を持っている白い小男。あの男が、いつか、わたしを腕に抱く日が来るとでもいうのか?

「バカっ。なにいってんだ。エリナさんはまだ二十二だよ、子どもみたいなもんだろ」

「大学生なら、もうさんざん飲み会で鍛えられてるだろ。人間の女の子っていうのはさ、こうやって酔いつぶれたところをいたずらされながら、成長していくもんなんだよ」

「スケベ心にあれこれ理窟つけてるだけじゃねえか。オレが見張ってるうちは無理だ」

 足をなげだして目を閉じている絵理菜の上に、何かがかけられた。タオルケットだ。たぶん、駒野だろう。うれしかった。そして、絵理菜は本当に眠りに落ちた。

 ……次に気がついたときは、お布団の中の、すみっこだった。すみっこだから、はじがめくれて、十一月の寒い室温に、身がさらされていた。ほとんど無意識に布団をひっぱって、暖をとると同時に、彼女は気がついた。二つの布団がぴったり重なっていて、順番に、絵理菜、駒野、高田の順番で眠っていることを。

 朝だった。

 二人とも、ガーガーと高いびきをかいている。ふつか酔いで頭が痛い。それでも、どうにかこうにか、絵理菜を布団にまぜてくれたのが駒野だということはわかった。

 彼女は、背をむいて眠る駒野に抱きついて、さらに暖をとった。彼は気づかず、まだいびきを続けていた。彼の目が覚めたらお礼を言いたいが、無理に起こすこともできず、困ったなと思った。絵理菜は完全に目が覚めたから、すぐにでも、部屋に帰りたいところなのだが。

 猛烈に喉がかわいていたが、寒くて動けそうにない。駒野の背中はあったかかった。オレンジのモヒカンが、角度をうしなって、しんなりと枕のうえにバラけているのが、おかしかった。

 彼女は決然と台所に立って、水道水をごくごく飲み、いったん部屋に帰って、メモ用紙を探した。そして、そこに、


 ありがとうございました


 と書いて、駒野の枕元に置いた。

 そして帰ろうとして玄関をあけた瞬間、福井に遭遇した。

 心臓が止まるかと思った。彼は絵理菜の肩のむこうを見やった。

「……なんで、俺の部屋で奴らが寝てるの? 鷲崎は?」

「い、いえその、わかんないです。わたし、潰れてたんで。でもたぶん、部屋を交換したんじゃないでしょうか」

「ああ、伊藤さんを布団に入れるためか。……いい用心棒じゃないか」

 彼は眉ひとつ動かさず言って、玄関のドアを閉めた。用心棒とは、もちろん、駒野のことだ。絵理菜はとなりの自分の部屋に帰りながら、福井という男が、案外冗談を飛ばすのが好きだということを、まるで世界の秘密でも手に入れたように、高鳴る胸をおさえてかみしめていた。



04

 いつものように、ゴミの袋の山の上に自分のをのっけて、ふたたびカラス避けネットをしっかりとかけたとき、絵理奈は不思議なことに気がついた。

 きょうは、燃えるゴミの日だった。なのに、ゴミステーションが荒らされていない。いつもは、人間のはらわたがえぐり出されたように、つつかれた中身がとっちらかっているのに。

 絵理菜は、ふと振り返って、空を見上げた。電信柱の電線のうえに、十羽ほどもカラスが留まっていた。どうして? なぜ、手を出さないのだろう。ほかのゴミステーションでたらふく食べて、腹を休めているところなのだろうか?

 キョロキョロとあたりをうかがっていたカラスが、一羽、もう一羽と、絵理菜に目をとめ、一心に見つめはじめた。カラスが人間を見つめる? そんなことがあるのか? 見ているのは、ゴミのほうでは?

 カア、とカラスが鳴いた。

 彼女は逃げるようにして階段を駆け上がり、二階の自分の部屋の前から、ふたたびカラスを観察した。そして……やはり、彼らは、もはや彼ら全員が、絵理菜をじっと見つめ、さらに、つぎつぎと仲間たちが加わり、絵理菜に視線を向けるのであった。

 絵理菜は恐怖を感じ、自分のではなく、二軒となりのドアに、気がついたら飛び込んでいた。引っ越してきた一団が、だれもかれもみなおよそ鍵というものをかけない人間たちというのは、この一週間でもうわかっていた。

 駒野は、布団に横になり、日本酒とつまみを目の前に置いて、おそらく海外ドラマか何かを見ていた。もうできあがっているらしく、絵理菜の突然の来訪に、とくに驚きもせず、

「あー、エリナさん、いまちょうどいいとこ、いっしょに見よ」

 などと、手を振るのだった。

「すみません、それどころじゃないんです」

 彼女は息を切らし、痛む胸をかきにぎって、震える声で駒野に告げた。

「カラスが見てたんです。わたしを」

「カラスぅ?」

「はい。変なんです。ゴミも荒らさないで。電線にとまって、何羽も、二十羽くらいも、みんなでわたしを見てたんです」

「警戒してたんだろ。カラスはヒナを育ててるときには神経過敏になるっていうし。ほら、酒があるよ。こっち来なよ」

 ヒナ? いまは十一月だというのに?

 絵理菜は不可解だったが、駒野に、こんなにも堂々と、なんでもないことのように言われると、たしかに、神経質だったのは自分のほうだったのかもしれないと思えてくる。彼女は誘いに乗り、布団のはじっこにすわり、日本酒をわけてもらった。

「昼から飲む酒、サイコー」

 と駒野はとろんととろけた目で言った。

「サイコー」

 絵理菜も真似し、ぐいぐい呑み、しまいには、またも駒野の布団にもぐり込んで、いっしょに海外ドラマを見た。ドラマは、とくになんでもないような内容だった。それよりも、間近で見る駒野の顔のほうが彼女には興味深かった。耳に、いくつも穴があいていた。

「ピアス、つけてたんですか?」

「ん? あー、一時期、凝ってたな。でも、引っ越しのとき、全部置いてっちゃった」

「置いてきたんですか? ピアスなんて、小物なのに」

「夜逃げだったんだよ」

 駒野はニヤーと笑った。その目つきは、明らかに彼女をからかっている。

「本当ですか」

「うそうそ。本当は、友達がいてさ、全部あげちまったんだよ。本当は、ここと、」

 彼は、小鼻と、両眉の終わりあたりを順に指さした。

「ここと、ここにも開けてたんだ。だからさ、昔は、あだ名で、カッケーとかサンカッケーとかいわれてた」

「三角形?」

「全部、線で結ぶとさ、逆三角形になるじゃん。だから」

「ああ」

「でももう、全部ふさがっちゃった。舌にも開けてたんだけど、それもふさがった」

「駒野さんは、パンクスとかそういう人だったんですか」

「オレ? だれでもないよ。かっこいいからしてただけ」

「でも、ピアス痛いのに、そんなに」

「最初だけだろ。そろそろ、耳もふさがりそうだな」

「わたしのピアス、あげましょうか。つけなくなったやつ」

「いいね。今度持ってきてよ」

 絵理菜は背中に駒野の体温を感じながら寝落ちしたが、彼のほうは指一本さわってこなかった。

 鍋パーティーは恒例となり、おおよそ三日から四日に一回、福井・鷲崎部屋で開催されるはこびとなっていた。食材調達・下準備係は、いつも鷲崎だった。

 ある夜、彼女はトマト鍋をよそってもらうとき、ふと思い出して、口に出してみた。

「なんか、最近、気づいたんですけど、おかしいんですよ。カラスが、ゴミステーション、荒らさなくなったんです」

 そのとき、全員の会話と動作が、ピタリと止まった。そして、一瞬後には、またもとどおりになった。

「思い出してみたら、ちょうど、駒野さんたちがここに越してきた日ぐらいからなんです。だから、だいたい、二週間前……」

「だれか、袋ン中に毒でも盛ったんだろ」

 高田がちゃかした。

「正直に言えよ。こんなかのだれだ」

「てめえが一番怪しいよ」

「それだけじゃないんです。ここに寄りつかなくなったってわけじゃなくて、来るには来るんです、電線に止まったりしてて。でも、エサはほったらかしで、わたしのこと、じっと見てたんです!」

「害鳥も見とれる伊藤さんの美しさか」

 と口をひらいたのは、なんと鷲崎だった。ふだんはまったく無口の男がたまに何か言うと、妙に迫力があり、気おされるようなものがあって、絵理菜は、黙ってしまった。

 心のなかで、でも、でも、と言いつづける。本当になんでもない? 毒を盛った? それだけの話なのか? そうならどうしてさっき、一瞬だけ、空気が殺気立って、凍りつき、そして全員でしめしあわせたかのように、あわてて普通のふりを装ったのか?

 絵理菜はきょうはあまり飲まず、ほろ酔い程度で帰宅した。すると、彼女の部屋の前の手すりに、突然、音を立てて翼をはためかせ、滑空してきたカラスが一羽留まった。

 彼女は、言葉もなかった。信じられない話だった。

 鳥はあのときと同じように彼女を見つめていた。金縛りにあっている絵理菜と、長いあいだ。お互いにお互いを、観察するかのように。

 やがて、緊張の糸が切れた。

「わ、わーーーーーーーーーーー」

 彼女は福井・鷲崎の部屋に逃げ帰った。ドアが勢いよく壁にぶつかった。五人が、いっせいに絵理菜を見た。

「か、カラスが、カラスが、」

「どうした? 蹴られたか?」

「こっち寄ってきて、至近距離で、目が合った」

「よしよし、伊藤さん、上がって上がって。ここの世界はヒッチコックじゃないよ。飲め飲め」

「でも、本当に変なんです! 変でしょ、カラスが人間に近づいて、」

「動物の異常行動は珍しくないよ。ちょっと前だってさ、空からオタマジャクシが降ってきたりだの、イギリスでミツバチが大量に消えたりだのあったろ。まあ、また大地震でも来るんじゃない?」

 高田が、木を鼻でくくったように、一蹴した。

 そういうわけで、けっきょくきょうもまた、飲まされて、壁にもたれてぐったりすることとなり、全部がうやむやで終わった。

 よっこいしょっと両肩の下に腕を入れられ、ひきずられて、例によって、布団に入る。

「あのさ、なんでお前がいつもまんなかなの」

「なんでってなんでだよ。いいじゃん」

「たまにはおれがまんなかでもいいだろ」

「ダメ。絶対、エリナさんが危険」

「なんだよ。おれは紳士だよ。寝てる女の子のおっぱい揉もうなんて考えたりしてねえよ」

「黙って寝ろよ、猛禽類」

「なんだよ、態度でけえぞスズメ目」

 絵理菜は半分眠りに落ちかけている状態で会話を聞いていた。男二人が自分を取りあっている光景に立ち会えるなんて、生きているうちに起こるはずがないと思っていた。おまけに、これはふだんは福井が使っている枕だから、彼がいつも漂わせている香りつきのヘアワックスの匂いまで、肺いっぱいに吸い込めた。天国か、それでなければ奇跡が起きている。大地震の前兆かもしれない。


05

 十二月に入った。入ってしまった。レポートパッドは真っ白。おまけに、外ではこの冬いちばんの大雪が降っているというのに、ツタヤのレンタルDVDの返却期限は、きょうだった。

 出るしかないから、出る。でも、帰りは、どこかで少し長めに過ごして、雪がやむのを待ってもいいだろう。それこそ、卒論のテーマは、本屋をうろうろして、店内に併設されているカフェにでも入って、ココアでも飲んでぼんやりしていれば、何かいいのが浮かぶかもしれない。そうだ、閉じこもってばかりいるから突破口が見えないのだ。外に出るべきだ。

 絵理菜は、バッグに筆記用具とレポートパッド、そしてレンタルDVDを入れた。だるまさんみたいに真ん丸くなるまで厚着したあと、傘をもって家を出た。

 雪だけではなく横殴りの風も容赦なく絵理菜を攻撃した。傘をかたむけて持って、ななめに降りつける雪を防がなくてはいけなかった。

 DVDを返して、本屋に行く。読みたい本はいくつもある。だが、雪と強風で疲れきった体は、がっつり立ち読みするまでの気力を残していなかったし、かといって、かたっぱしから買う金もない。何冊か、パラパラと立ち読みする。小説、ノンフィクション、岩波文庫、新書をいくつか。

 カフェに入って、冷たいココアを飲む。屋内に入ったら、すっかりあたたまってしまったから、逆に冷たい飲み物がほしくなった。そして、彼女はレポートパッドをひらき、机の上に置いた。

 すっかり暗くなった夜道、依然として降りやまない雪のなかで、絵理菜は憤然と帰りを急いでいた。外に出ればいい考えが思いつくなんて、たんなる幻想だった。十二月! 年末に入ろうとしているのに、わたしのきょうやったことといえば、DVDの返却と、アイスココアを飲むことだけだ。

 アパートの前まで帰りつくと、思いがけないものが、彼女を待っていた。ゆきだるまだった。彼女の腰の高さぐらいまである、立派なものだった。……絵理菜が雪道に苦しみ、卒論執筆にもだえていたころ、お調子者のだれかが、たのしげにこれを作ったのだ。

 例のあれが、また、めらめらと絵理菜のなかで燃えはじめた。そう、不寛容である。ふざけるな、こうやって人が痛めつけられているというのに、自分だけはたのしく遊びやがって。

「たあっ!」

 絵理菜のミドルキックが、ゆきだるまの顔面に直撃した。そのまま何度も食らわせると、跡形もなくめちゃくちゃに散った。胴体にもそうした。最後はぐりぐりと上から足で踏みつけた。

 その夜の鍋パーティーでは、いつも無表情の鷲崎が、目に見えて肩を落としていた。鍋を沸かし、食材を切り、投入しているあいだも、何度も何度もちいさなため息をついていた。

「鷲崎、恋か」

 鴨島がからかうと、鷲崎は特大のため息をついて、言った。

「一日かけて作ったゆきだるまが、粉々になってた……」

 ……絵理菜は、墓場まで秘密を持っていこうと思った。


06

「あのー……。エリナさんって、温泉とか好きだったりする人だったりしますか」

 駒野は、なぜか申し訳なさそうに、絵理菜の部屋の玄関ドアを支え持っていた。

 絵理菜は至福の昼寝のまっさいちゅうだった。例の秘密の合図であるノック音で目をさました。

 着ているのは、パジャマ代わりにしているユニクロのボーダータンクトップと、パンツだけだった。まだ半分夢ごこちで、ぼーっとしながらドアを開けたら、駒野は彼女のファッションを見て、ちょっと困ったようだった。困りながらも、しっかり、下半身に目がいっていた。

「温泉ですか」

 絵理菜はおうむ返しに言った。別にいまさら、パンツの一枚二枚、だれに見られたって恥ずかしくない。絵理菜が高一のときつきあった男は、事後に絵理菜がマッパダカでシーツの上に横たわっている写メを、友達という友達じゅうに送信していた。そしてその結果、頼まれたら全裸でだって公道を歩いて平気、という精神が絵理菜のうちに形成されるにいたったのだった。

「それがな、赤……じゃなかった、鴨島がな、鴨島の女が、招待してくれることになっちゃったんだよ」

「女って、K大の」

「いや、それは別。別のおばさん」

「別のおばさん……」

「ほらさ、言ったじゃん。あっというまに何人もできるんだって」

「どうして、鴨島さんのパトロンが、わたしたちを温泉に連れてってくれるんですか」

「いやもちろん、最初は二人きりで行こうって話だったらしいよ。でもそこがさあ、鴨島の魔法の使いどころってやつだよ。鴨島と女で一部屋、そのほか、鴨島の友達たちで一部屋、予約させたらしい。意味わかんねえだろ? ラブラブ旅行に相手の友達も連れてってやるなんて。でも本当にもう予約してるらしいよ」

「えーと、鴨島さん以外、みんなで一部屋ですか」

「うん。とりあえず、全員スケジュールはなんとかなった。だから、もし絵理菜さんが来るんなら、五人で寝るってことになる。まあ、ほら、ふだんからオレたちとザコ寝してるし、絵理菜さんならいっしょでも気にしないかなあって」

 絵理菜は言葉に詰まった。別に、男の集団にまじって寝泊りすることは、彼の言うように、ちっともなんとも思わない。着替えはどうせ、脱衣場でするんだし。そうでなくて、彼女の脳裏にあったのは、サングラスをかけた福井の顔だった。

 福井とひとばん、同じ部屋で眠る。もしかしたら、となり同士になるかもしれない。

「あ、ゴメン。やっぱ気にする? するよね。ゴメン、神経なかったわ。オレも最初は、よかったらエリナさんの分、部屋代出そうかと思ったけど、な、わかるでしょ、オレ、ひっくり返されてブンブン振られても一円も金落ちてこねえからさ。ああ、そうだ、みんなに頼んで分割にしてもらうって手があるな」

「そ、そんな、そこまでしてくれなくていいです」

「そう? あ、いちばんいいこと思いついたよ。福井に頼んだらいい。オレから頼むよ。あいつ、すげえ情に厚いから、絶対断ったりしないよ。マジ、友達のためなら命張るようなヤツなんだよ。これ、比喩じゃないから」

 自分の思い浮かべている人物の名前が唐突に出てきて、絵理菜は急に心拍数が上がるのを感じた。ほんとうに福井が自分のために何かしてくれるとしたら、それは、一度きり唇を合わせるのと匹敵するくらいに、甘美な思い出になるだろう。だが、それはそうだが、とてもじゃないが!

「ほんっとにいいです! 五人部屋でいいです」

「そう? それならいいんだけど。本当にいいの?」

「はい。だってわたしなんて、ふだんから、女扱いされてないじゃないですか。だから」

 駒野は困ったように後ろ頭を掻いた。そして、いまでも絵理菜のパンツを眺めたまま、

「……そんなことないと思うけど」

「そんなことないですよ」

「エリナさんは女性ですよ。オレは少なくとも、女性扱いしてますし、他のやつらだってそうですよ」

 彼女はたまらず、語気を強めた。

「それが本当だとしても、この会話の流れだったら、女じゃないってことにしなきゃ、なんか、変に意識しちゃうじゃないですか!」

「あ、ああー」

 駒野はきょろきょろと目を動かしながら、何度もうなづいた。

「そう。そうそうそう。絵理菜さんは女じゃないです。女じゃないから男といっしょの部屋でも平気です」

「はい、そんな感じでお願いします」

「わかりました! じゃあ、今度の土曜、一泊です。昼に迎えにきます! それじゃ、失礼します!」

 絵理菜の一喝が効いたのか、彼は敬語を最後までやめず、妙に腰の低い姿勢で、ドアを閉め、帰っていった。

 絵理菜は、ベッドに座って、ぼんやりした。

 突然の僥倖が、まだ、あまり理解できなかった。

 一泊の温泉旅行。しかも、紅一点で、四人の男に囲まれてる。

 ……エロビデオみたいなこと、起こっても、許すかも……。

 許すっていうか、むしろ、積極的に、起こらないかなぁ……起こったら、お、おもしろいなぁ……って、思っている自分がいる。

 わたしの浴衣姿が、みんなに見られるんだ……あ! ていうか、福井さんの浴衣が見れる!!

 どうしてだ? どうして私は、福井さんのこととなると、いつもこうなんだろう。彼のことを知るたび喜びに体が震える。きょうはまた彼のことを知った。情に厚い。命をかけるほど。どうして? ほとんど何も知らなくて、目すら、たまにサングラスをはずす瞬間しか見たことがなくて、知っていることといったら……警備員をやっていて、案外冗談が好きで、ときに毒舌で、喧嘩の仲裁のお礼に、車がもらえるようなことを、やってのける人。

 絵理菜はベッドに再び入った。彼はさすがに眠るときにはサングラスをとるだろう。寝顔を見れるかもしれない。布団がとなり同士になるかもしれない! 彼の浴衣がはだけて、顔や首元とおなじ白い胸が見れるかもしれない! ああ、ちょっと待った!! 逆に、こちらの、寝がえりをうつたびに乱れる浴衣のすきまからのぞく肌を、彼に目撃されるかもしれない!!

 全部が全部、とろけるような妄想だった。しかし、彼女の下腹部をいちばん熱くしたのは、ほかの全員がぐっすり眠りこけたあと、福井が唐突に、この何週間ものあいだ、ずっとおくびにも出さず秘めていた欲望を見せる、という筋書きだった。

 彼女は自分の口をうしろからそっとふさぐ、福井のぞっとするほど冷たい手の感触と温度すら、ありありと想像できた。静まりかえったまっくらの客室で、淡白そうな女顔をした福井の、その仮面の下に圧殺していた欲情が猛威をふるい、彼女の動きを押し封じ、乱暴に支配し、そして、そのなかで爆ぜるのを。

 福井の熱い、硬いものに貫かれて、絵理菜の空白はあまさず埋め尽くされ、彼女は完全になってしまう。満たされぬことも、足りないことも何もない、完全な存在に。それと同時に、無に向かって自我が落ちていく、熱したチョコレートが溶けて垂れてるように、自分というものがなくなっていく。わたしは完全であると同時に無になるのだ。

 後ろから力強く、小刻みに腰を揺らされて、口をふさがれた隙間から荒い吐息が洩れないわけがない。彼女は不自然に部屋が静寂していることに気づく。悟られている、彼らはみんなわかっているのだ……息をひそめて、二人のセックスを見守っているのだ、ひとりのこらず。そのうちのひとりが絵理菜に這いより、福井の手をどけ、彼女の口にペニスをねじこんだのを皮切りに……

 絵理菜の手は下着のなかにあった。ばかげた妄想とそれに付随する行為が終わったら、彼女は、さっき駒野がやってきて告げたことがけっきょく白昼夢でなかったことを祈りながら、もういちど昼寝へと落ちていった。

 夕方おそくに彼女は目覚めたが、当然、駒野の来訪は、たんなるいい夢だったのではないのか、すっかり疑心暗鬼にとりつかれていた。

 男に囲まれて、タダで温泉。あんなにいい話が、本当にあるものだろうか。

 だからといって、うっかり確認して、一笑に付されたら、それはそれで落ち込む。淫夢まがいを現実と混同したわけだから、相当の恥だし、ショックも大きい。

 ……しかし、その週の土曜の昼、本当に迎えはやってきた。

 すでに軽自動車の、運転席に福井が、助手席に鷲崎が乗っていた。駒野が彼女を連れて下に行くと、車の横に、高田がニヤニヤしながら腕を組んで立っていた。

「きょうくらいは、まんなかでいいだろ?」

 と、彼は言った。駒野は絵理菜を振り返った。彼女は、

「はい」

 とだけ、返事した。なにしろ、魂が抜けかかっていた。

 後部座席の窓から外を眺める。しだいに山深く、葉の抜けきった枯れ木をかきわけて車は進む。

 すべてがウソで、彼女は騙されていて、山奥でバラされコンクリート詰めにされる末路をたどっても、文句は言えないな、と絵理菜は思った。第一に、うますぎる話に食いついた自分がバカだから。第二に、とてもいい夢を見せてくれたのだから、思い残すことはないから。

 別働、つまりどこかのマダムの車で、鴨島は先に旅館についていた。しかもすでに先にひとっ風呂あびて上がったあとのようで、絵理菜たちの部屋に浴衣姿で顔を出した。その貫禄は、さすがバンドマンといった着こなしだった。彼がまず真っ先に告げた言葉は、こうだった。

「この旅館、卓球がない」

「マジで?!」

 高田と駒野の声がそろった。三人は顔を突き合わせて、何度も、ありえん、ありえんと口々に言いつのった。

「賭け卓球、しようと思ってたのに」

「そうだよ。暗黒卓球武術会しねえで何が温泉だよ」

「何を賭けるんですか」

 と、彼女はたずねた。高田はニヤリと笑った。

「聖杯」

「はあ」

「英語で言うと、ホーリーグレイル」

「はあ」

「聖杯を手にする者は、なんでも手にすることができるんだよ」

「なあ、卓球ないならなに武術会にする?」

「こういうとこ、たいていすげえ古いゲーセンとかあるだろ、それで何かしようよ」

「ああ……そう、たいてい、機種が相当古いやつなんだよな。セガのバーチャロンみたいな」

「よし、じゃあトーナメント形式でみんなでバーチャロン武術会、けってい」

「バーチャロンがあるとは言ってないだろ」

 温泉の入り口、男湯と女湯が分かれる場所で、高田が、

「赤江のやつ、なんで混浴がある温泉にしなかったんだよ」

「鴨島だよ」

「ああ、そう鴨島」

「あいつの部屋には、個室露天があるらしい」

 と鷲崎が語調を変えず言った。高田、

「はあっ? 何それ。おれたちも個室露天がいい」

 鷲崎、

「連れてってもらえただけ、ありがたく思えよ」

「あーあ、まったく、アイツのダメなところはそういうところなんだよ。昔っからさあ。ごひゃくまんねんくらい前からそうだ」

 高田はぷりぷりと怒りながら、のれんをくぐって脱衣場に入っていった。

「……じゃあ、マッサージチェアのところで落ち合いましょう」

 絵理菜はなんとなく空気がむずがゆくなって、さっさと自分ものれんの向こうに行った。

 それで?

 泉質? 効能? 広さ? 内装、外装? そんなことを聞いてなんになる? だって、絵理菜の心には、ひとつのことしかなかった。彼女は虫の浮く露天風呂で膝をかかえて、この壁をへだてたとなりで、福井が裸で湯に浸かっている事実に煩悶していた。突然、どうしてだか涙が出てきた。彼について考え出すと、すぐに、「どうして」だらけになる。どうしてわたしは確信しているのだろう。わたしはそこそこかわいらしくて、男がいなくて困ったということはないし、男をうまく落とす方法も知っている。

 なのに、どうして、あの人とだけは絶対に、心と心がふれあうことはないと、どうして確信しているのだろう。わたしの言葉が、指が、まなざしが、彼に届こうとした瞬間、わたしの二本の足が立つ大地が音をたてて崩れ出すだろう、と。彼が情に厚いというのは疑わない。だが、わたしだけではなく、きっと、すべての女性にそうなのだ、福井は、すべての女性に平等に、心優しくて残酷なのだ。

 こんなときに、悪い癖が出る。突発的なデプレッション。生理前だったろうか。絵理菜は生理のきた日にちを、メモもせず、カレンダーにもしるしをつけず、記憶もしない。大学の女友達に言ったら、信じられないと言われた。むかしは男が代わりに携帯電話のカレンダーに印をつけてくれていたが、別れてしまった。

 絵理菜は涙を出るだけ出しつくすことにした。いつもみたいに、突然に人前ではらはらと涙をこぼしはじめて、連れをびっくりさせるような真似は、あの五人、いまは四人の前では、絶対にしたくなかった。わざと、演技するみたいに、おおげさに嗚咽をあげると、不思議とよけいに涙が出る。この調子だ。全部しぼりださなくては。しぼりだして、顔を上げたときは、ニッコリ笑顔で、ピエロのメイクは完璧。

 マッサージチェアに身をゆだねて、弛緩しきった表情筋で目を閉じている高田に近づいたとき、彼はパチッとまぶたを開け、真剣な面持ちで言った。

「伊藤さん! 悪い知らせ!」

「バーチャロンがなかったんですか」

「うん、って、えっ?! えええええーーー!! なんでわかったの?!」


07

 晩ごはんのレストランで、掘りごたつのななめむかいに座った福井を、絵理菜はまともに見ることができなかった。浴衣にサングラスをかけて飯を食べる福井の姿はかなり奇妙であるはずで、それゆえに神秘性が増してたまらない光景なのだと思う。

 絵理菜は小学校のころの自分を思い出していた。バレンタインデーに、チョコレートをこっそり持ってきたはいいものの、けっきょく渡せなくて、帰り道に肩を落として歩きながら、自分で食った思い出だ。

「絵理菜さん、カボチャ食べる? カボチャ。天ぷら」

「あ、はい、食べます」

 風呂から上がっても相変わらずピンとモヒカンを立てた駒野が、カボチャの天ぷらを絵理菜の皿にうつした。

「オレ、カボチャだけはずっと食べられないんだよね。あの甘ったるいのがダメなんだよ。絵理菜さんはカボチャ好き?」

「あっ、大好きです」

「あー、じゃあおれもあげよう」

 と、こんどは高田が天ぷらを絵理菜によこした。

「じゃあ、オレも」

 驚いたことに、鷲崎も。

 最後に残った福井も、少しだけ考えてから、同じことをした。こうして、絵理菜本人のも入れて五人分のカボチャの天ぷらが、彼女の前に集結した。

 ……彼女は、黙々と天ぷらを食べた。最後にとっておいた、福井の箸で渡された天ぷらを口にしたときは、不思議な気分だった。彼女はなんとか福井をちらっと見た。前の合わせはどちらかというとゆるめで、脂肪のない、細い体から、鎖骨がくっきりと浮き上がっていた。彼がビールを傾けると、ごくりと喉仏が上下した。

「あーっ」

 絵理菜は頭を抱えてうなった。すでに酒が入っていた。

「どうした、エリナさん。しそ焼酎飲みますか」

「飲みます」

「ポン酒飲みますか」

 これは高田。

「飲みます」

 というわけで、絵理菜は飲みまくったが、さすがにきょうはつぶれるほどのひどい飲み方はしなかった。福井たちと同じ部屋で眠るという体験はしっかりと記憶しておくべきだと思った。今夜はたぶん、これからの人生で、思い出すたびに力づけられる類のものになると強く予感した。イケメンたちと紅一点でひとつの部屋に寝る。もしかしたら、これが絵理菜の人生の絶頂の瞬間となるかもしれないのだ。

 部屋に戻ると布団が敷かれていたが、それは、入り口からみて、カタカナのコの字を九十度倒したような、つまり、「凹」のようなかたちをつくるように配置されていた。

 問題は、大きな問題は、だれがどこに寝るかだった。

「どうする?」

 高田が言った。だれもがなんとなく戸惑って、一瞬、まごついた。機先を制したのは当の高田だった。

「おれは、入り口にいちばん近いとこにする。だからここだ」

 彼は下段中央のかけ布団を剥がした。

「昔っから決めてあるんだよ。火事とか地震とか起こったら、ドアに近いほうがまっさきに逃げられるだろ?」

「強盗が入ってきたらどうするんだ?」

 笑いもせず茶化しながら、福井は上段右の布団をとった。ドキッとした。彼はサングラスを外して枕の横に起き、布団を頭からかぶった。

「昼間起きてたから、眠くてしょうがない。もう寝るよ」

「……わたしはここにします」

 絵理菜は一泊にふさわしい、大きくはないボストンバッグを、離れてはいるが福井のとなり、つまり上段左の布団のそばに移動させた。とれた。福井のとなりが、とれた。

「おれも寝る」

 鷲崎が、福井の下の布団をとり、同じように横になった。

「なんだよお前ら、コドモかよ、ハヤネすぎんだろ。これからゲーセンで勝負だろ」

「しょうがねえよ。鷲崎は福井のそばにいたほうがいい」

 と高田が神妙に言った。絵理菜には意味がわからなかった。

「よし、じゃあオレと高田でタイマンだ。絵理菜さんも来るよな」

「えっ? えー、えーあー」

「なんだったら、見てるだけでいいから。なっ。こういうのは、女の子がひとりいるだけで場が華やぐんだよ」

 絵理菜はぼんやりとしているうちに駒野と高田にゲームコーナーに連れられていき、気がついたら、ひと昔まえのレースゲームで対戦している二人の姿を見た。酔った頭の絵理菜はいちどに複数のことを考えられない。福井の、となりが、とれた。この三語だけが、頭のまわりをクルクルまわっていた。

「賞品は伊藤さんのおっぱい揉む権利だ!!」

 高田が、ぐるんぐるんと激しくハンドルを回していた。

「ちょっ、てめ、冗談でもそういうこと言うなよ!! ひくだろ、エリナさんがよお」

「何を言われようが、おれは勝ったら伊藤さんのおっぱいは絶対揉むからな」

「ぶっ殺すぞてめえ!!」

「っだょ、揉みたくねえのかよ、ねえとは言わせねえぞ」

「お前は昔っからいつもそうだ!!」

 駒野が叫んだ。

「昔っからいつもいつも……」

 駒野の車が、コースから外れ、思いっきり壁に叩きつけられる。

「いつもいつも、心理戦に持ち込もうとすんだよ!!」

 三本勝負で、けっきょくは高田が勝ったが、彼はおっぱいのことを忘れたか、故意になかったことにしたのか、

「売店で酒買って、部屋で飲もうぜ」

 と言った。絵理菜は、「だぜ」とか、マンガみたいな語尾でしゃべる人って、たまにいるなあ、とボーッと思いながらついていって、彼らが日本酒などを選ぶのを見ていた。

 福井は部屋の照明がまぶしいのか、前腕を両目につけたり、頭まですっぽり布団をかぶったりしていた。なかなか寝つけないようで、寝返りが多かった。

 今夜、わたしと彼とのあいだに、何かが起こる確率は? 絵理菜は思った。わたしの心が彼の心にふれあい、よりそいあうことは? わたしは彼に届くだろうか。なんでもいい、どんなかたちでもいい、なんでも、わたしの何かが、彼に。

 届かないだろう。

 部屋のカーテンと、そして少しだけ窓をあけて、駒野はタバコを吸っていた。絵理菜は彼の真似をするように壁によりかかって、

「一本、ください」

 と、頼んだ。外を眺めていた駒野の目が彼女にうつされ、まん丸になる。

「エリナさんて吸うの」

「月に一本とか……二本とか。もらいタバコで」

「マルメンライトだけど、いいすか」

「はい」

 彼女は一本わけてもらったあと、ライターも貸してもらって、火をつけた。吸うときはいつも男につけてもらう。だけど、駒野にそんなことをさせる気には、なぜだかならなかった。

「鴨島はいまごろ、お楽しみかな」

「そうですね」

「オレ、モテる男の気持ち、永久にわかんねえわ」

 二人はそれ以外に会話もなく、ただ、ゆっくりと煙をくゆらした。

 絵理菜はこんな時間が好きで、沈黙をただ楽しんでいたが、駒野はちょっと気まずいようなそぶりで、鼻を掻いたり、おおげさにふうーっと大きく、窓の外にむかって煙を吐いていたりした。

 そのうちに予期しないことが起こった。むくっと起きだしてきた福井が、

「眠れん」

 と言って、サングラスをかけ、やはり窓際に立った。浴衣のどこからか魔法のように取り出したソフトボックスの、上部をとんとんと叩いてタバコを浮かせ、くわえると、駒野に手を差し出した。彼はすぐさま福井にライターを渡した。福井は、タバコに手をそえ、そして、クセなのか首をかしげて、火をつけ、ライターを返した。

 駒野はテーブルの上の灰皿でタバコを消し、自分の布団、つまり絵理菜のすぐ下にある布団に戻って、売店の酒をあおり、寝そべりながらテレビを見ている高田と何かしゃべっていた。

 困ったのは、絵理菜だった。福井のタバコはキャメルだった。

 絵理菜は急にせかせかとタバコを短くしはじめ、なんとか、できるだけ早くここから逃げ出そうとした。福井は窓の外ばかりを見ていて、ときたまサングラスを上にあげて、もっとよく見ようとした。それがまた胸が詰まった。めったに見れない福井の目は、いつも物憂げで、白目が赤く、涙が浮いているせいかテラテラと光っていた。もし、この瞳で見つめられたら、わたしは……。わたしは、きっと、……。

 彼女はまだ残りも多いマルメンライトをもみ消して、自分の布団に駆け込んで横たわった。浴衣で寝るなんて、いつぐらいぶりだろう? ブラジャーはつけてない。朝、寝乱れて裸も同然になった自分を福井が目撃してくれるだけで、それだけで満足すぎるほどに、自分は満足してしまうだろう。

 そういうことで、消灯とあいなった。

 少しずつ、いびきが聞こえ出す。この面子はいびき持ちが多い。トップ争いは、駒野と鷲崎がいい勝負で、次に高田も意外とでかい。筋肉の上に若干の脂肪のついた体つきの鷲崎のいびきはたまに、グゴッという音とともに呼吸もろとも止まり、十秒ほどしてから、またガグッという音がして、息を吹き返す。あれ、死んだ? と思ってびっくりしたのは、雑魚寝するようになって最初のころだけだ。すぐに慣れた。しかし、生きているものと思い込んで無視しているが、本当に死んでいたなら、ちょっとおもしろいな、と絵理菜はいつも思っている。

 福井すらようやく寝息をたてはじめたのに、眠れない。

 絵理菜は闇に慣れた目で、福井の安らかな寝顔を見た。白いまぶたが、発光しているように暗がりに浮き上がっていた。胸が苦しかった。

 絵理菜は、窓のそばに立った。

 一服でもしたい気分だった。駒野の枕元のマルメンライトからこっそり一本拝借するのは簡単だろうが、そんな気になれなかった。

 熱いお茶にしよう。背の低い棚のうえに電気ポットがぼんやり浮かび上がっているが、よく見えないので、明かりを入れたくて、カーテンをさっとあけた。

 絵理菜は、叫びだしそうになった。

 窓に面した電線に、びっしりと、すきまもないほどカラスが留まって、絵理菜を見つめているという衝撃的な光景が、街灯によって照らされていた。一羽のこらず、すべてのカラスが同じだった。

「あ……ああ……」

 とたんに絵理菜はありありと想像できた。いますぐにでも、彼らがいっせいに旅館の窓ガラスにたかるように飛びかかってきて、次々にくちばしで窓を力強くつつきはじめ、ガラスを壊し、絵理菜に襲いかかるのを。まるでだれかに思考を注入でもされたかのように、脈絡もなく、そんな妄想が、一瞬にして、強く、絵理菜を支配した。

「あ、あ、あーーーーーーっ」

 カーテンを閉じることも、逃げることもできず、立ちつくしたまま、絵理菜が叫んだ。何人かが起きたようで、いびきの音が減る。

 風のように速かったのは、福井だった。彼は窓の外をちらりと見ただけで、カーテンをさっと閉めると、

「たいしたことじゃない。何が怖い?」

 と、彼女を見ないで言った。

「エリナさん、大丈夫ですか」

 駒野が、そっと絵理菜の肩に手をおいた。彼女は立っていられなくて、駒野の方向に体重をあずけてしまう。ほとんど、腰が抜けていた。

「だって、鳥が、鳥が、」

 絵理菜は訴えた。

「あんな数が、いっせいに、こんな時間に……カラスって……カラスは夜は、ねぐらに帰るんでしょう?」

「前にも言ったじゃないすか。動物の異常行動が世界各地で発生してるって。めずらしくないよ」

 駒野は、絵理菜の布団に彼女をやさしく導いた。

「たまたま変なもん見ただけですよ。もう寝たほうがいいっすよ。寝つけないなら、高田が導眠剤持ってるから、あげましょうか? あいつ、横流しで稼いでるんで」

「い、いえ、けっこうです」

 そういうわけで、絵理菜は半ば押し込まれるように布団に戻された。だが、彼らの言葉はとうてい信じられなかった。

 いま、なにかが起こっている。絵理菜か、もしくは、彼らのまわりで。なにかが進行しつつある。それだけは確信できる。

 あたりまえだが、眠れるわけがなかった。しかし、しばらく経ったあと、駒野が声をひそめて、

「エリナさん、もう寝たかな」

 と言ったのだった。

「エリナさん?」

 彼女はとっさに、眠っているふりをした。そうしたほうがいいと、勘が言っていた。

「……やっかいなことになったよな。ヤツら、自分たちがこの国の支配者だってツラしてやがる」

 駒野はひとりごとのように言った。

「しばらく、離脱するか」

 と、福井。

「お前がか?」

「ああ。ヤツらの狙いははじめから俺だ」

「なに言ってんだ、いま単独行動はいちばん危険だ。……お前が気にすると思って黙ってたんだが、情報が回ってきた。シマフクロウが北海道でやられたらしい。そいつは一匹狼で、いつも一人で行動していた」

「知ってる。そいつは元の姿に戻っていた。だからやられたんだ。どんなに強くても、数の力じゃ勝てん。俺は人間でいる。そうしてる限り、むこうが人間だったとしても、百人でかかってきても勝てる」

「自信満々だな。オレらも腕がなまってるとこだろ」

「俺はいつでも鍛えてる。とにかく、カラスは単に天敵のフクロウを見境なしに襲ってるだけだ。俺が雲隠れするか、ナシをつけてくるかすれば、事は収まるだろう」

「お前、ほんとにそんなふうに思ってるのか? 体は鍛えてても、頭のキレは昔ほどじゃないな。ヤツらはもう標的を変えてる。ずっと前から、エリナさんを狙ってるじゃないか。オレたちに手を出しても勝てないからだ。知ってるか、前に一度、もうヤツらのうちのひとりが、エリナさんを挑発した」

「覚えてるよ。だから言ったんだ。近所づきあいなんてしないほうがいいって。ただの人間を巻き込むのが、いちばん、面倒くさいことになる」

「そうか、そうだよな。で、あの子を巻き込むだけ巻き込んで、自分ひとりだけ消えようっていうのか」

「だから、近所づきあいには反対したと言ってる」

「お前をひとりにしないのも大切だが、エリナさんもヤツらの手から守らないといけない。いつ、どこで、ヤツらがエリナさんに手出しするかわからない。昼間、目が見える間なら、オレが彼女を監視してもいい。エリナさんの部屋の、窓のあたりに木がある」

 木? 絵理菜は不思議に思った。たしかに細い街路樹はある。だが、木登りできそうな太い枝などは、記憶が正しければ、なかったはずだ。小鳥が留まれるような、細長い枝ならあるが。

「元に戻るのか? やめておいたほうがいい。さっき言ったばかりだろ。シマフクロウは元に戻ったから簡単に殺された。お前が元に戻った瞬間、ヤツらはいっせいにたかってきて、お前を生きたまま、内臓まで食い尽くすよ。これが高田や鷲崎なら、多少話は違うかもしれないが」

「小鳥で悪かったな。わかったよ、このままでいる。だから、エリナさんのためにも、お前はオレたちから離れるな。五人だったら、街じゅうのカラスを相手にしても勝てるかもしれん。だが、お前が抜けてしまったら話はわからん」

 福井は少し黙り、ふたたび口をひらいた。

「仕方ない。お前の言うとおりにする。ヤツらが、俺がカラスを捕食する気はないとわかるまで、いままでどおりにいるよ」

「ああ。エリナさんもそうすると喜ぶ」

「喜ばせたくてとどまるんじゃないさ」

「知ってるよ。知ってるけどよ」

 それきり、会話はとだえた。

 絵理菜は、何ひとつ、話が見えなかった。ただ、すべての言葉が、盗み聞きには向いていないものだとは痛感していた。これらはたぶん、彼女が聞くべき会話ではなかった。絵理菜が彼らの話を聞いていたと知られたら、人のよい連中である彼らも、もしかしたら、絵理菜の無事をおびやかすような何かをしてくるような気がしてならなかった。

 カラスの天敵は、フクロウ……。

 福井の言葉が、脳裏によみがえる。カラスはもう見た。だけど、フクロウは?

 フクロウなんて、どこにいる?



08

 玄関まで送られて、部屋まで帰りついても、絵理奈はまだ、ボワーとしていた。

 きょうまでのできごとは、現実だったのか、夢だったのか、いまだに漠然としている。この身に起こった一泊旅行は、楽しいよりも、もはや美しく、まるでそれこそ、絵理奈が研究している、小説や映画などのフィクションの文化に迷い込み、青春のひとときを過ごしてきたようだった。

 ただし、あまりに現実感がないため、この思い出を、大きなペロペロキャンディを少しずつなめてはビニール袋に戻すように、くりかえしくりかえし味わってうっとりし、郷愁にふけるという段階になるまでは、もっと時間がかかるように思われた。

 かからなかった。

 昼じゅう彼女はベッドの中にいて、ただひたすらに悶々と寝返りをうった。サングラスに浴衣というアンバランスな姿の福井が、何度も何度も、絵理奈を振り向く映像をまぶたの裏に見た。それは実際に見た光景かもしれないし、妄想かもしれない。もうわからなくなってしまった。深夜に駒野と福井の交わしていたひそひそ話は細かいところがよく聞き取れなかったが、それでも二人がともに絵理奈の身を案じていることはわかった。なんと甘美! 駒野の分けてくれたタバコの味。二人きりで吸いはじめたら、急に居心地悪そうになった駒野の様子を、彼女はつぶさに見ていた。いつまでも見ていたかった。

 現実だ。温泉旅行は、現実だった。

 そして、それ以外に、絵理奈が立ち向かうべき現実は、ほかにあった。

 もちろん、卒論である。この時期に入ったら、一日も、一時間も、無駄にしてはならないはずだった。そこにきて、温泉旅行である。

 やってしまった。そして、帰ってきたらきたらで、陶酔郷のなかでうたたねして、気づいたら夜になっていたが、それでも思い出に頭のてっぺんまでひたりつづけずにいられない。

 あまりに直視しがたい現実を前に、絵理奈は、もうどうすることも、何も考えることもできず、気がついたら、思いきり叫んでいた。

「ウギャッペーーーーーーーーーーー!!」

 少し、すっきりする。だが、それは一時的なものに過ぎないし、なんの意味もない。

 どんどんどん、と、かなり強めに、ドアがノックされた。絵理奈は飛び上がった。

 駒野かと思ったが、鷲崎だった。

「何かありましたか」

 彼は心配そうに彼女と、部屋のなかの様子に目をやった。

「すっ、すいません。違うんです。違うんです。あの、ちょっと。こう、個人的な事情で、にんともかんともいかなくなって」

「にんともかんとも?」

「はい、それでちょっと、すっきりしようと、叫んだだけ……大変、失礼しました……」

「いや、何事もないなら大丈夫なんだ。……伊藤さん、いま隣で麻雀やってるんだが、来ますか? ルール、わかりますか?」

「わかりますけど……」

 そういわれてみれば、さきほどから、牌をまぜるジャラジャラという音が聞こえてきていた。

「あの、でも、わたし実は、いま、卒論が追い込みで」

 見栄をはった。追い込みどころじゃない。一行も書けてない。

「そっか。いや、無理強いするわけじゃないからいいんだ。……だけど、最近、怖がってるものがあるんだろ?」

「えっ。は?」

「特に名は秘すが、なるべく伊藤さんがそばにいて、目の届く場所にいたら、お互いに安心だと言っているヤツがいる。どうだろう。もう怖くない?」

「……カラスですか」

「うん」

「……そういうことなら、おじゃまします。あの、ルールがわかってるだけで、実際にはぜんぜん打てないから、観戦で」

「もちろん大丈夫だよ」

 ロングパーカーを羽織って外に出たとき、鷲崎と絵理奈の両方ともが面食らった。隣室のドアの前で、迎えにくるように、福井が立っていた。

「福井!」

 鷲崎は声を荒らげた。

「お前は絶対に引っ込んでろと言ったじゃないか。なぜ飛び出した」

「お前、いつから俺にそんな口を叩けるようになった」

 鷲崎は、ぐっと息を飲み込んだ。

「伊藤さんは無事なのか」

「ああ。まったく何もないよ」

「あ、す、すいません、誤解をあたえて」

「観戦希望だそうだ。帰ろう。……それから、仲たがいはよそう」

「意見の統一ができていないのが問題だ。またあらためて話し合おう」

 ドアを開けた瞬間に、むっとしたタバコのいがいがした匂いを一身に浴びる。卓のメンバーは、福井が抜けて麻雀が中断しているのに退屈して、壁によりかかったり、タバコを吸ったりして、いかにも時間をもてあましている姿を見せていた。

「よう、エリナさん、なんにもなかったみたいだな」

「あのう、もうほんとうに、申し訳ありませんでした……」

 たった一度のウギャッペで、こんなにも多数に心配をかけるとは思っていなかった。絵理奈は心底から反省した。

「なに? 伊藤さんも打てるの?」

「いえ、私は観戦に来ました」

「ルールは東南戦でアリアリ。レートはテンピン。シャミセン、口ジャミ、アガリ批判は罰金100円をプール」

 卓に戻った福井は、スヌーピーのかわいらしい貯金箱を彼女に見せた。ほかのメンツは、高田、駒野、鴨島。

「イカサマが判明したら、切り刻んで、次の燃えるゴミの日に出す」

 福井は真顔だった。

「あながちギャグでもないぜ、これ。おれ、ピエロの前は手品師やっててさ。昔、明け方のみんなモーローとしてるときに、いまだと思って、ツバメ返しやろうとしたら、すぐバレて、ボッコボコにされたし、その後一ヶ月くらい、人間扱いされなかったよ」

「手品っていえばさぁ、オレさっき、コンビニで焼きそば買ったんだけど」

 と駒野。

「あっためてもらうじゃん。そんとき、店員がさ、ハシ入れないまま、焼きそばいれてて、あっこいつハシ忘れてるって思って、『ハシ入れてください』って言ったら、入ってますよって言われて」

「はあ」

「そしたら本当に入ってんの。もう信じられない。たぶん、ほんのちょっとだけ目を離した隙に、光速でサッと入れたんだとは思うんだけど、手品見たみたいで謎でさぁ~。そもそも実は、そんなに目を離してた記憶もないんだよ。なんであの袋に、ハシ、入ってたのかなあ?」

「ああ、要するに、ソープに行ったら、泡姫がいつのまにかコンドーム着けてくれてる的な、手品芸……」

 と、鴨島。

「そう! そういう手品! あれさ、わかんないよな! なんか、いつのまにか着いてるよな!」

「悪いが、麻雀をやっているときに、手品の話をするのは、政治的に不適切だと思わないか」

 と、福井がにこりともせず言った。

「まあ、確かに」

「おい、それまだ飲んでるビールだよ。灰皿にすんなよ」

「あ、わりぃ」

「わりぃじゃねーよ。半分くらい残ってるよ。どうしてくれんのよ」

 だれかがアガると福井が手牌を覗き込み、即座に点数を計算してノートにプラスマイナスを記録した。半荘が終わったときも同じで、ノートを見て一瞬で、だれがだれにいくら払うのかを指示し、まるでテレビに出てくる天才算数少年だった。そして、五千円札や、千円札や、百円玉が飛び交う。

 麻雀のスタイルも、しばらく眺めていたら、なんとなく把握できた。福井は勝負にならないと判断したらオリるのが早く、守りも堅牢だが、鴨島は強気に攻めるタイプで、そして駒野は輪にかけて超攻撃型だった。だが、テンパるとかならずタバコに火をつけるからばればれで、ダマテンの意味がなかった。高田は完全に遊びに来ていて、テンパってるわけでも、イーシャンテンでもなしで、必要もないのにやたらカンして戦況をかき乱したり、意味もなく裸単騎にしてみたりして、一同の笑いを買った。性格が出る。

 そして、知らない一面も見れる。流局もまぢかというときに、駒野はもう切れるアンパイが手元になく、長考に入った。観戦の鷲崎が小さな砂時計をひっくり返した。そして、苦渋の決断で、ドラを切ったとたん、トイメンの福井がパタリと手牌をあけた。

「……普通、それで待つかよ」

 駒野以外でも、一同はみな、茫然と彼の牌をのぞきこんだ。福井の口もとに、わずかだけ、笑みの色彩があった。そんなこともあった。

「仕事に行く時間だ」

 鴨島が抜け、鷲崎と交代した。

「仕事って、どっち? カネになるほう? ならんほう?」

 と、黒いコートを着込み、バットマンのキャップをかぶる鴨島に、高田が声にかける。絵理奈でも、「カネにならんほう」はバンドで、もう一方は女性に関係するほうだとわかった。そして、そういえば、バットマンの正体のブルース・ウェインも、プレイボーイという設定だったなと思い出した。まあ、あっちはヒモで食ってる男じゃないが。

「なるほう」

 鴨島が言ったとたんに、

「鴨島様、ありがとうございます! あなた様のおかげでメシが食えております!!」

「鴨島様、ありがとうございます! 鴨島様! 鴨島様は素晴らしいお方です!」

 と、駒野と高田がはやしたてはじめた。

「鴨島様、いってらっしゃいませ」

 なんと、福井も無表情でおどける。

「いつもお世話になります、鴨島様」

 鷲崎まで。

「お前ら、うるさい」

 鴨島は一蹴して、長髪の上からマフラーを巻き、夜気のなかに消えていった。

 そうすると、絵理奈もなんだか、尻がむずむずしてきた。観戦はとても楽しかったし、夜が深まるにつれて、夜型人間の福井の活躍を見ることができるのだろうなという予感はあったが、何せ、こちらは、まるで借金取りに日々ひったてられているように、卒論、という言葉に追いかけ回されている。

「そろそろ、失礼します」

 日付がかわらないうちに、絵理奈は退散した。そして、レポートパッドと筆記用具を持って、歩いていける距離にある、24時間営業のマクドナルドに向かった。

 コーヒーだけを頼み、そして、また、レポートパッドを前に、腕を組んでうなったり、スマートフォンをいじくったりする。

 今日の誓い。とりあえず、どんなおおまかでもいい。何か、おおまかな方向性か、カテゴリだけでも決めよう。決めるまで、外に出ない。コーヒーがおかわり自由だから、何杯でも飲む。飲むがいい。

 彼女のとなりに男がすわった。最初はとくに気にしていなかった。が、彼はなにか、絵理奈をやたら、ちらちら見てきた。

 まるで葬式帰りといったような、喪服のような、黒いネクタイに黒いスーツといういでだち。髪の毛も黒いが、長めに垂らしてあるので、なんだか歌舞伎町のホストみたいなヤツだった。

 ナンパしてくるのかな、と思っていたら、意外と、声をかけてこない。イヤフォンで音楽を聴きながら、ときたま、コーヒーをすすっている。

 何度も目が合い、お互いにそらす、ということがくりかえされたのち、あるとき、相手は、ついに、目をそらすのをやめた。

 つまり、絵理奈をじっと見つめ、二人は、見つめあうかっこうになった。

 にせホストの目はきれいだった。きらきら光って見えるほどだった。髪の色が気になった。それは人間の自然な黒髪というより、黒で染めたような、人工的にすら見える色で、つまり、黒髪というには黒すぎた。

 絵理奈は、なんだか不吉なものを感じ取った。彼女は誓いをやぶった。マクドナルドをあとにして、駅の方向へ進む。少し飲みたい気分になっていた。行きつけの、客の少ない、静かな暗いバーに行く。高田が出勤日だったら、何回かそうしたように、彼のつとめているバーに行っていたが、きょうはそうじゃない。

 てっとり早く酔いたい。アーリータイムズをダブルで注文した。

 そのとき、信じがたいことが起きた。彼女はバーの端っこの止まり木イスに座っていたが、その隣を、いきなり、さっきの男が座ったのだ。

 あとをつけられていた。恐怖がさっと彼女を支配した。

「よかった。やっと思い出せた」

 黒ずくめの男は、はじめて、ニッコリと笑った。すぐに人の心に侵入できるような、人なつこい笑みだった。

「あなたは、Y大の子だよね」

「なんで知ってるんですか」

 絵理奈は、震えそうになるのを、なんとかこらえていた。

「僕、OBだから。新観コンパか、追いコンで、たぶんお互いに会ってるよ。覚えてないかな? 僕の顔。ええと、名前が思い出せないな」

「伊藤です」

「そう、そんなような名前だった。僕は、黒川」

 黒川? 彼女は笑ってしまいそうになる。黒ずくめの男がこんな名前を名乗るなんて、まるでギャグだ。

「いやぁ、スッキリした。ふだんこんな美人さんの顔を忘れるはずないから、余計にムキになって、思い出そうとして、こんなとこまで来ちゃったよ。ごめんね、びっくりしたよね?」

「は、はい。それなりに」

「じゃ、お詫び。今夜はぜんぶ僕が持つ。なんでも好きなの飲んで」

「は、え、そんな」

「後輩でしょ? OBのよしみだよ。でも、それを抜きにしても、たぶん、同じこと言ってたと思うけど」

 き、来た……。やっぱり、ナンパだ……。

 正直、顔のいい男によくしてもらって、うれしくないはずがない。

 ただ、なんとなく、この男に気を許してはいけないような、警戒感がおさまらなかった。どこがどう、というのではない。彼の体から、なにか、悪い知らせ、そのものの気配が発されていた。

 彼は、いま何年生なのかとか、住まいはどこなのかとか、意味のない質問をいくつかしてきた。絵理奈は彼に対する不信感からくる恐怖を飲酒でごまかした、それがまずいことだと知っていても。

 千鳥足でトイレに立ち、もうろうと手を洗っていると、いきなり後ろから、黒川が入ってきた。

「ぴゃっ!」

 というような声をだして、彼女は振り返った。黒川はにこにこしていた。

「ごめん、酔ってたみたいだから、心配になって」

「は、は、だいじょうぶれす」

「伊藤さん、伊藤さんはネコマタって知ってるかな?」

「……はい?」

「ネコマタっていう妖怪。聞いたことない?」

 わけがわからない。

 危険だ。この男は、やばい。絵理奈は、酔いからではなく、足を震わせていた。黒ずくめの、どこかおかしな、突然現れた男。黒……黒……黒といえば……

「わ、わかります。ゲームで見ました。『真・女神……」

「ネコマタっていうのは、猫が信じられないほど長生きした結果、妖力を持って、人間の姿になった妖怪なんだよね」

 彼が絵理奈の肩を持った。絵理奈は、悲鳴もあげられなかった。

「でもおかしいよね。ネコマタはあるのに、イヌマタって聞いたことないよね。ほかの動物でもおかしくないのに、どうしてネコだけなのかな? ひょっとして、ネコだけって思ってるのは人間だけで、ほんとは存在するんじゃないかな、イヌマタも」

 黒川の端正な顔が、ゆっくりと近づいてくる。

「いるんじゃないかな? イヌマタも、キツネマタも、サルマタも……トリマタも」

 彼は絵理奈に唇をつけ、舌で無理やり口をこじあけた。どういうわけなのか自分でもさっぱりわからないが、絵理奈は反射的に、舌を絡めかえしていた。戦慄するほどの官能が、彼女の背筋をゆっくりと、ゆっくりと歩き、のぼっていき、ついに、脳に達する。

 そして、目の前が、黒に染まった。



09

 目をあけたとき、絵理菜はまだ黒の中にいた。彼女は絶叫しそうになった。自分は永遠に闇のなかに閉じ込められたのかと錯覚した。すぐに誤りに気づく。触覚によって、彼女は自分が下着だけを着けて、ベッドの上に、タオルケットをかけて転がされていることを発見した。

 闇は完全な闇でない。カーテンの下からわずかに街の灯りがもれている。すぐに起きて、カーテンをひらき、部屋の様子をたしかめる。棚がいくつかあって、雑然と何かの箱や、服、布が詰まっている。服のたくさんかかったクローゼットもある。舞台の衣装部屋のようだと思った。

 それにしても、わたしの服はどこへいった?

 唯一のドアを、絵理菜は戦々恐々と、少しだけ開けて、のぞいてみた。

 部屋は明るく、絵理菜のワンルームより少しばかり広い。しかし、異様な風景だった。羅紗を張ったテーブルがいくつもあって、そろって黒い背広を着た男たちが、トランプを手にして、ポーカーか何かしていた。手元には、チップの山。

「ああ、起きたの、伊藤さん」

 彼らのなかから、黒川が唐突に姿をあらわし、彼女に近づいてきた。そう、トランプをやっている連中は、みなそろって、黒川のそとみとそっくりそのまま、同じだった。

 地下カジノ……。うわさは聞いたことがある。ともだちがバイト情報誌で、カフェのホールスタッフ募集というのに応募したら、そこはカフェではなく、カジノだったという怖い出来事が、すこし前にあった。

「あ、あの、わたしの服は」

「あれ? 覚えてないの? 絵理菜さん、帰り、にわか雨のなかでぶったおれちゃったんだよ。すごく酔ってた」

 まったく覚えがない。しかし、覚えがないというのはよくあることだから、強く反論もできない。

「服、すごく濡れちゃったから、いま乾かしてるとこ。乾くまで、横になってたほうがいいよ。具合悪いでしょう? 倒れるまで飲んだんだから」

 たしかに、すでにふつか酔いがはじまっていて、頭がガンガンする。だが、記憶の欠落を、奇妙なほど感じない。覚えている……。

 覚えている。この男は、わたしの口に舌を入れてきた。そうしたら、魔法のように、わたしは気をうしなって……

「い、いえ、すぐに帰ります」

 閉めきられたカーテンのレールに、彼女の服がハンガーにかかって、干されてある。彼女は下着姿のまま、そこに向かおうとした。黒川が、すばやく彼女の前に立ちはだかり、それを制した。

「ゆっくりしていたほうがいい。もう終電も行っちゃったから、どうせ帰られないよ」

「その、適当にタクシーとか、拾います」

「そう? ここ、伊藤さんの家からすごく遠いから、お金払えないと思うよ」

 ゾクッとした。

「……なんでわたしの家の住所、知っているんですか」

 彼女は無意識のうちに、自分の右手首に手をやっていた。ない。はじめて高田と会ったとき、彼が魔よけだと言ってくれた、みどり色の数珠。その魔よけという言葉が気になって、なんとなく、いつもつけるようにしていた。なのに。

「わたしのブレスレットはどこですか。教えてください」

「これ?」

 黒川はポケットから、まさしく絵理菜が探していたものを取りだした。

「それです。返してください」

「ふーん、これ、けっこうよくできてるけど、手作り? 糸はどれくらい強いんだろう」

「あ……!」

 彼は数珠を両手で引っ張った。そして、あっけなく、小さな天然石たちが、はじけるように辺りにちらばった。

 そのとき、絵理菜ははじめて、彼の仮面の裏に隠された純粋な悪意を、一条の光もささない闇を、はっきりと感じ取った。

「……わたし、あの、帰ります」

「おとなしくここにいたほうがいいよ。たぶん、もうすぐお迎えがくると思うから」

「お迎え……」

「そう。どうかな? もう、見当、ついてるんじゃないかな」

 黒川は終始にこにこしていた。

 絵理菜は、わけがわからなかった。しかし、わけがわからないなりに、パズルのピースが、ぱたりぱたりと填まっていく。

『ヤツらの狙いは、俺だ』

 温泉旅館、暗闇のなかで彼は言った。絵理菜は真に理解した。彼らは最初から……絵理菜を威嚇しつづけたときから、ずっと、彼女が目的なのではなかった。

 自分は、エサだった。彼らの目的をおびきよせるための。

「……福井さんですか」

「そうか。あのシロフクロウの名は、いまは福井か」

「シロフクロウ……?」

 そのとき、アパートの玄関ドアが、足で蹴るように、だんっ、だんっ、だんっ、と、激しく叩かれた。アパートじゅうに揺れが走ったのではないかと思うほどの、力強さだった。

「うわさをすれば影」

 黒川がニッと唇のはしをつりあげた。彼は玄関をあけた。

 意外だった。あらわれたのは、福井じゃなかった。

「鷲崎さん!」

「伊藤さん、無事ですか」

 彼女は下着姿のまま飛び出した。前述したとおり、彼女には裸や薄着を見られることについての羞恥心がもともとないし、もしあったとしても、いまこの状況では、そうせずにはいられなかったろう。

 鷲崎は彼女を守るように、黒川と絵理菜の間に立った。

「お前はフクロウじゃないな」

 黒川の表情が、はじめて、険しいものになった。

「要求は、フクロウを出せというものだったはずだったが、字が読めなかったのか?」

「シロフクロウが出るまでもない。こんな無益な争いはやめよう。オレたちはみんな、人間に溶け込んだ、人間らしい生活だけを望んでいる。うちのシロフクロウはむやみに戻ったりしない。人間の姿で人間の食事をするほうが好きだ」

「いいや、信じられん! 北海道のシマフクロウは、シマフクロウの姿に戻り、同胞を捕食した! ほんとうの鳥なら話はわかる、自然界は弱肉強食だ。だが、ヤツはわれらと同じ、人間の姿を持っていながらそうした! われわれをなめるな。われわれのシマは、日本全土だ。脅威は摘み取る。日本じゅうのフクロウを根絶やしにする」

「全面戦争か?」

 鷲崎は眉をひそめた。

「やめておいたほうがいい。オレたちの世界じゃ、お前らカラスはしょせん、新参者だ。オレたちには古い仲間がたくさんいる。全員でかかってきても勝てるかな」

「いま、日本じゅうにカラスが何万羽いると思ってる?」

 黒川は笑った。

「われわれはひとりが全員で、全員がひとりだ。お前にはわかりもしないだろう。われわれすべてが感じたんだ。生きたまま食い殺される無念と恨みを」

 トランプに興じていた他の十人ばかりの黒スーツたちも、いつのまにか手をとめ、立ち上がり、鷲崎を睨みつけていた。だが、彼は平然としていた。

「繰り返すが、無益な殺し合いは避けたい。オレたちは本来、数少ない仲間なはずだ。そのシマフクロウが何を考えていたのかは知らん。だが、オレたちは人間らしく、助け合って生きていくべきだ。ほかの鳥たちがみなそうしてるように」

「話にならん!」

 黒川は……いや、と絵理菜は思った。カラスだ。この人は、カラスなのだ。人のかたちをしたカラスは、鬼の形相で一喝した。

「フクロウを出してこないのなら、まずお前を殺す。そうか、お前はワシだな。イヌワシを従順に飼いならしているシロフクロウがいると聞いたことがある。お前を殺せば、フクロウは必ず出てくるだろう!」

 そのとき、ドアが開いた。

 福井だった。かっちりと体に合ったグレイのスーツを着込み、顔にはいつものサングラスをかけて。

 絵理菜は、声をあげそうになった。驚いていたし、鷲崎によれば、ここに彼が出てくるのはまずいらしい。しかし、心底からの安堵を感じたことを、否定はできない。

「福井、なぜ来た」

 鷲崎がするどく言葉を投げつけた。

「簡単だ。アシがいるだろ?」

「アシだと」

 と黒川は茫然と繰り返した。

「こんな雑魚どもらは鷲崎ひとりで全員片付けられる。だが、帰りはどうするつもりだったんだ、お前。終電はとっくにない。タクシー代がもったいない。だから、迎えに来ただけだ。伊藤さん、ケガはないか」

「は、はい、見てのとおり、なんとか」

「言ってくれる!」

 黒川は吼えた。

「そうか、お前がシロフクロウか。てっきりあの髪の長いほうか、バーテンのほうかと思っていた。われらは苦労して、こんなチビを追い回していたのか」

「鷲崎、彼は和平交渉についてはなんて言ってた?」

「全面否定だ」

「そうか……」

 黒川は福井の前に立ち、こう言った。

「なんなら、いまからでも始めようか。話が早くていい」

 そのとき、福井の全身から、殺気とも何ともつかない、異様な気配が一瞬にしてたちのぼるのを、絵理菜は『見た』。彼女は息を飲んだ。そして、鷲崎が彼女の肩を持って、窓を指差した。

「カーテンだ、絵理菜さん。そのカーテンを見て」

 えっと声を出すひまもなく、反射的にカーテンを見たが、ぴくりとも波打ちもしない。カーテンがどうしたというのだろう? じっと見ている瞬間、左側で、ぼぐっ、という鈍い音がした。

 福井は少しも、髪の毛一本も乱れていないまま、たださっきと同じように、だらりと両腕を下げていた。姿勢にも表情にも、何も変化はなかった。

 しかし黒川は彼の足元でもんどり打っていた。倒れこんで体を丸め、主に腹のあたりをおさえて激しく痙攣していた、かと思うと、おえっと声をあげて、吐瀉物をカーペットにぶちまけた。

 絵理菜は震え上がった。いったい、何があったというのか?

「何発入れた」

 と鷲崎が聞いた。

「五発」

「三発までしか見えなかった」

「たるんでるな」

 震える絵理菜の肩を、鷲崎が抱き、そっとささやいた。

「世の中には知らないほうがいいものや、見ないほうがいいものもある。それくらいはわかるね?」

 そんなこと言われたって、と彼女は思った。もう見てしまっている、信じられない光景を。

「さあ、カラスは全員がひとりで、ひとりが全員なんだろう? だったら、いまコイツが感じている痛みと恐怖も、同じように感じているはずだ」

 鷲崎が声を張り上げた。

「まとめてかかってくるか? ひとりずつがいいか? どっちでも、オレたちには同じだよ」

 カラスたちは明らかに、福井の、理解を超えた戦闘能力におびえていた。そして、ひとりがカーテンと、窓をあけて、そこから身をのりだして飛び出したかと思うと、全員がつぎつぎにその真似をした。絵理菜は最初ひやりとした、ここは明らかに、二階以上にある部屋だから。だけど、すぐわかった。平気なのだ。彼らは、カラスだから。

「さあ、大将。いますぐ誓え」

 福井は黒川の髪の毛をわしづかみにし、無理やりひざ立ちにさせた。

「そうだ、ひざをついて誓うんだ。フクロウ狩りは二度としないと、おまえの神に誓え」

「……誓わなければ、どうする」

 黒川はまだ咳き込みながらも、せいいっぱい強がった。

「死なない程度に痛めつづける。朝まで」

「わ、……わかった……誓う……フクロウには手を出さない。ほかのどのカラスたちにも、それを許さない」

「おまえの神に誓え」

「……八百万の神に誓う」

 福井は彼の頭を床に叩きつけるようにして解放した。そして、下着姿の絵理菜に近づいてきた。

「なんと謝ったらいいのかわからない。巻き込んでしまったのは、すべて俺のせいだ」

「そ、そんな、そんな!」

 彼女は首を振った。

「わたしがボンヤリしてて、罠にハマったのが、わるいんです。福井さんのせいじゃないです」

「頼みがある。今夜、見たことや聞いたことは、なかったことにしてくれるか?」

 その言葉を聞いた瞬間、絵理菜は胸が詰まった。

 どうして? また、「どうして?」がやってくる。忘れられるわけがなかった。まるで物語のお姫様のように悪者にさらわれて、そして、ほかでもない、福井が救出にきてくれたのだ。こんな甘美な思い出など、もう二度とできるはずもなかった。なのに、彼は忘れろという。

「さっきも鷲崎が言ったろう。知らなくていいこと、見なくていいことが、世の中にはある」

「……そんな……でも、わたしは……わたしは……福井さん……」

 そのとき、ゲッ、ゲッ、ゲッ、と、カラスの鳴き声を数倍不気味に、まがまがしくしたような音が、倒れている黒川から発された。

「いいだろう。いまは停戦にしてやる。だが、必ず、力をつけて敵を討つ」

「伊藤さん、見ちゃいけない」

 福井がとっさに、絵理菜の肩を腕に抱き、自分の胸のあたりに顔を押しつけた。だが、彼女はすでに見てしまっていた。黒川の、黒色がぼんやりと巨大化していって、人の大きさにもなるカラスとなり……そして、その脚が、三本もあったのを。

 そして、こんな非常事態で、信じられないものをいくつも見せられたあとだというのに、絵理菜は、下着姿の自分が福井の腕にあり、彼の体温を感じているという事実に、体の芯までとろけそうな陶酔と昂奮を感じずにいられなかった。

 バサバサという翼のはばたく音が聞こえ、それは窓の方角に消えていった。

「何も見なかった。そうだな?」

 いままでかつてなかったほど近づいている、福井の顔。

 絵理菜はなにも答えられなかった。完全に放心していた。

「エリナさん、大丈夫か?」

 はじめて下の名前で呼ばれただけでも、絵理菜はオーガズムに達してしまいそうだったのに、それにくわえて、ああ! 福井はサングラスを上げ、なににも隔てられていない瞳で、絵理菜を見つめた。例の、白目の充血した、切れ長の目が、はじめて、絵理菜と見つめあったのだ。

 嗚咽がこみあげ、彼女はいまにも泣きだしそうだった。彼女は腹の底から叫びたかった。

 お願いします。いますぐ、わたしを抱いてください。

 だが、それは絶対に発されることのない言葉だった。まるでテレパシストのように、福井の瞳は、瞳であるだけで、雄弁だった。絵理菜は、わかりきってしまった。彼にとって、すべては絶対的に平等だった、男も、女も、たったいま、自分の腕が抱きとめている、下着姿の妙齢の女の子も。だれも特別視しない。特別扱いしない。すべて彼にとって同じだった、ただひとりを除いては。

 絵理菜は涙を流しだし、あわてて自分でぬぐった。

「ごめんなさい」

「謝ることない。怖い思いをさせたのは俺だ」

 違う、と言いたかったが、言えなかった。

「帰ろう。鷲崎、服を取ってやれ」

 絵理菜が、(ちっとも濡れてなんかいなかった)服を着ると、三人はアパートを降りて、福井の車に寄った。フロントガラスには二つの穴があき、バンパーやドアなど、全体的に手ひどく暴行が加えられていた。

「こんなの、運転してきたのか?」

「違う。カラスどもの最後の抵抗だろ。おい、そっちはひらくか?」

 福井は、運転席のドアが変形してひらかないことに格闘していた。鷲崎もしばらく力いっぱい引いていたが、やっとひらいた。

「よし。そっちから乗り込む。伊藤さんも、後ろに乗って」

「は、はい」

 エンジンなんかつくのだろうかと思ったが、ついた。そして、三人はボロボロの車で、帰路につくことになった。走り出してすぐ、福井は携帯電話を操作して、耳につけた。

「もしもし。ああ、伊藤さんは無事だ。かすり傷のひとつもない」

 絵理菜は、ぴんときた。なんとなく、電話の相手がわかる気がした。

「そっちはどうだ? ……そうか。こっちも、まあまあ穏便におさまったほうだ。少なくとも、今すぐ全面戦争が起こることもない。まあ、あったとして、だいたい二百年くらい先だろう。伊藤さんはおびえてる。そこで待っててくれるか」

 福井は電話を切った。

「駒野だ」

 絵理菜の勘は、あたっていた。

「俺たちが留守にしている間、伊藤さんの部屋が荒らされる危険があった。だから、留守番を頼んだんだ。彼は役目を果たしたよ。まだ部屋にいるけど、驚かないで、ねぎらってやってほしい」

「は、はい、それは、言われなくても」

「よかった。……腹が減ったな。買ってくか」

 二十四時間営業の吉野家の前に、彼は車を停め、財布を鷲崎に渡した。

「四つ」

 ほどなくして、鷲崎は、牛丼四つの袋を下げて、戻ってくる。

 彼女は四という数字の内訳が不思議だったが、無事アパートに帰りつき、二人が絵理菜を部屋の前まで送ったときにわかった。福井は牛丼を二つだけ取り出し、残った袋を差し出すと、

「駒野といっしょに食べて」

 と、言って、自分の部屋へ消えていった。

 絵理菜の部屋は、電気がついていた。駒野が、長身を丸めるようにして、太ももにひじをつき、ベッドに座って、待っていた。

「駒野さん……」

「よっ。ケガはなかったそうだな。不幸中の幸いだ」

 彼は絵理菜に笑いかけたが、どこか、さびしげだった。

「あ、あの……どうやって入っ……鍵はどうしたんですか」

「ん? ヒント、高田」

「ああ……わかりました」

「福井のヤツ、かっこよかったろ?」

 彼女は駒野のとなりに座った。なんと返事していいのかわからなかった。

「白馬に乗った王子様が助けに来てくれたんだ。最高の思い出だろ」

「そんな……」

「最初はオレが行くっつったんだ。でも、鷲崎がさ……。むかしっから、斬り込み隊長役はあいつって、なんとなくだけど、認識が共通しててさ。それに、福井のこととなると、もし衝突したとき、ヤツは実力の何倍も出せるだろうし……。それで鷲崎が最初に乗り込んで、あとから、福井が知って、飛び出してったんだ」

「わたしの部屋を守ってくれたって、聞きました」

 絵理菜は言った。

「ありがとうございます。感謝してます」

「でも、ヒーローはオレじゃなかった」

 彼はポケットからタバコを取り出したが、少しそれを見つめて、また戻した。

「もう終わったことだ。でも、まだ思ってる。……ヒーローになりたかったな」

 駒野はまっすぐ前を向いていて、彼女を見ずに言った。絵理菜はそんな彼から目を離せなかった。駒野の気持ちが痛いほどわかって、また涙が込み上げてきた。

「……駒野さん。わたし、きょう、わかりました。……福井さんには、たったひとり、心に決めた女性が、いるんですね」

「そうだ」

 彼は否定もしなかった。

「あの人の目を見た瞬間、わかったんです。わたしは……わたしは……行き場がないって」

「うん。オレと同じだ」

「わたしたち、気持ちの行き場がない同士なんですね」

 絵理菜は疲れきってしまって、駒野の肩に頭をあずけた。

「誘惑すんなよ」

「あ……そんなつもりは」

「まだ、二十二だろ。いい男がいくらでも見つかるよ。福井なんか、ザコだ、ザコ」

 絵理菜は笑った。

「もっと年をとったら、オレみたいな男のよさもわかるようになるだろうよ。外はともかく、中身の男前ぶりで言ったら、はっきり言って、ヤツにも負けてない」

 まるで自分に言い聞かせるようにして、駒野はニカッと笑った。

「しかしさ、さっきみたいに麻雀してると、感じるね、人間には、ヒキの強さ弱さってのが存在するとしか思えなくなんだよ。あーあ。なんで福井ばっかりモテて、オレはてんでダメなのかね。麻雀でも同じなんだよ。オレはいつも、ヒキが悪いんだ」

「……牛丼、買ってきたんですけど、食べましょうか」

「おう。食うか」

「わたし、吉野家食べるのはじめてです」

「マジ? 入ったことない?」

「ないです」

「まあ、女の子はそんなもんか。こんぐらいのメシだったら、いくらでも連れてってやるよ」

「ほんとですか」

「とかまあ、偉そうに言ってるけど、元をただせば、鴨島の金っていうか、鴨島の女の金なんですけど」

「あははは」

「オレも仕事さがそうかなぁって思うんだけど、鴨島様からのこづかいで十分食えてるからなあ。ふくちゃんとか、高田とか、ちゃんと働いててえらいよな。つうか、よく働くわ」

「きっと、働くのが好きなんですね」

「そうとしか思えない」

 などと雑談しながら、二人は牛丼にがっついた。絵理菜は空腹だったが、駒野もそうだったらしい。あっというまにたいらげた。

 腹がくちくなると、どっと眠気がおそってきた。絵理菜は就寝するむねを駒野に告げると、彼は腰をあげ、玄関で靴を履いた。

「あーあ。帰りたくねえな」

 ひとりごとめかして、駒野はつぶやいた。

 絵理菜は黙っていた。たったひとことふたこと、言葉を投げかけ、彼に抱かれるのは簡単なことだった。だけど、それは、駒野がほんとうに望んでいることではない、と彼女にはわかるような気がした。

 彼女の胸は、声をあげそうなほど痛んでいた、駒野がほんとうに望んでいるものを、自分は差し出せないということに。ちょうど福井が、絵理菜に何も与えられなかったように。

 二人は、二人ともが、迷子の大人だった。なんでも願いのかなう聖杯を二人は手にすることができず、そんなものはこの世にもとからなかった。

 だけど、駒野は痛々しく、ニヤッと笑って、おやすみを言って、帰っていった。

 絵理菜がやっと寝つけたあとも、彼女は、じつにさまざまな夢を見た。



10

 次の日はよく晴れた。冬の晴れの日は好きだった。

 駒野は、昼すぎ、彼女の部屋のドアに、例のノックで合図した。

「駒野さん、どうしたんですか」

「いやあ。あいさつにと思って」

「あいさつ?」

「……オレ、もう少し南のほうに引っ越そうと思ってさ」

 声も出なかった。彼は、あくまで明るかった。

「いや、なんかさ、もう、カラスだなんだのことがイヤになっちまってさ。カラスのいないところに行こうと思うんだ。奄美大島とか、カラスがいないしさ……」

「でも、そんな、急に……いつ行くんですか」

「今からだよ」

「今から!」

「ああ。エリナさんにあいさつしたら、すぐ行く」

 彼は、真剣だった。

 オレンジ色のモヒカンが、冬の陽に照らされて、なんとも言えずきれいだった。

「エリナさんのことは、関係ないからさ。気にしないで」

 駒野はつとめてほがらかに言った。絵理菜は彼の、嘘のつけない性格が猛烈にいとしくなった。関係ない、と言った彼の口ぶりは、その言葉がただのごまかしでしかないことを、雄弁に物語っていた。

 どうしていいのか、わからない。

「……ほかの人たちは、ここのままなんですか? それとも、またみんないっしょに?」

「いや、オレひとりだ。もともと、オレはここの連中には新顔なんだ。いっしょに行動するようになったのは……ありゃ、第一次世界大戦がはじまるかはじまらないかってころだから……えーと、百年もたってないんじゃないかな。福井と鷲崎がたぶん、五百年くらいいっしょで……鴨島と高田もそれくらいか。だから、オレひとり抜けても、別になんともないし、気が向いたらまた混ぜてもらえばいいだけだ。……やめろよ、旅に出るときにそんな顔。決意がにぶるだろ」

 絵理菜はこみあげる嗚咽を我慢できなかった。彼女は気がついたら、彼の背中に腕をまわしていた。彼はごく長身だから、おなかのあたりに顔があたる。

「困ったな」

 駒野は苦笑いした。

「今生の別れってわけでもないし。落ち着いたら、ハガキでも送るよ。な? きっと、また、会えるさ。……オレたちはさ、きっと、出会ったことに意味があったんだよ。いまはわかんなくても、いつかわかるよ。あ……わりぃ、なんかオレ、Jポップの歌詞みたいなこと、言っちゃった?」

「駒野さんには、わたしの気持ちなんてわからないんです」

 絵理菜は涙をだらだらと流していたが、そうとわからないように顔を伏せ、鼻水をすする音もたてなかった。だが、声を出してしまったら、まるわかりだ。

 彼は決意をけしてひるがえさないだろう。わかっていた。それでも、大切なもののすべてが指のあいだをすりぬけていくような感覚に耐えられなかった。

「駒野さんには、二十二年しか生きてない人間の気持ちなんて、わからないんです。百年生きてる人には、わたしの気持ちはわかりません」

「そんなことねえよ」

 駒野はマルメンライトをとりだして、一本、口にくわえた。

「ほんとだぜ、オレだって二十二歳のころがあったんだ。……変わんねえよ。二十二歳のころから、何百年たっても、二十二歳のままだ」

 彼は絵理菜の肩をゆすり、ついに我慢できず泣きじゃくりはじめた彼女を、幼児をあやすように、とんとんと背中を叩きつづけた。

「またな。絶対、また会えるさ」

 そして、彼は笑顔で、去っていってしまった。

 絵理菜は自分のデスクで、しばらく放心していた。何も考えられなかった。駒野はもういない。お下がりのピアスもあげそこなったまま。涙も、出しつくした。

 だが、突然、思いついて、彼女はレポートパッドを開き、

『物語内に登場する鳥類の役割について』

 と、書きつけた。卒論のテーマは、これでいこうと思った。

 絵理菜はその後、いちど吉野家に牛丼を食べに行ったが、食べているうちに涙をはらはらと流しはじめてしまったので、客や店員に不審がられた。

 駒野に去られたあの『鳥』たちは、しばらく絵理菜と同じアパートにとどまっていたようだ。ゴミ出しや、出かけるときや帰るときに、すれ違うときがたまにあった。だが、鍋の誘いの回数は格段に減った。だが、それで、どうやらしぜんと、ひとり、またひとりと、アパートを退去していっていることがわかった。鳥の羽根が生え変わり、抜け落ちていくように。そして、気がついたら、ひとりもいなくなっていた。

 忘れたころに、差出人のない絵はがきが届いた。裏面は美しいコマドリをとらえた写真になっていた。絵理菜には、だれがこれを送ってきたのか、わかるような気がした。




(了)

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