Ⅵ:虚空の夜

 黒い。


 黒い。


 空が黒い。


 空が、黒い。


「違う! 私じゃない! 私はファイナじゃないの!」

 声が聞こえる。馴染みのある、あの声が。

「私はフィーネよ! だから私は違うの!」

 たくさんの灰色マント、円を描くように立つ鉄仮面。その中心に、私の大切な友達。

「助けて、誰か……!」

 友達の悲痛な叫びが聞こえても、助けを求める声が聞こえても、私は動けなくて、隠れているしかできなくて……。

「お願い、もう、嫌だ……助けてよ、ファイナ……」

 彼女の目が、隠れて見ていた私と重なる。私はその悲壮の眼差しに突き動かされて、彼女に渡されたマッチを擦った。

 そして私は、《鉄靴テッカ》の群の中に、オイルにまみれた友達に投げて……。


 ――その燃えるような悲鳴は、思い出すのもはばかれるくらい異様なものだった。


 熱い、熱い。

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 嫌だ、死にたくない。

 それらの言葉を燃やし尽くし、やがて人間とは思えない叫びへと変わっていく。騒然とする《鉄靴》たち。呆然とする私。


 空が、赤い。


 空が赤い。


 赤い。


 赤い。


 そして、石畳を打つ鉄の音。走る私。

 動く鉄の群。喉を焼く呼吸。

 伸ばされる手。避ける私。

 転んで、見上げて、異常なほど早い心臓の音。

 私は、私は……。


 ◇◆◇◆


 今まで意識したことがなかった。この町は、とても走りにくいだなんて……。

 石畳は私の足に情けをかけてくれず、私の体力はみるみるうちに失われていった。歩き慣れたはずのこの道も、知らない路地裏も、何気に気に入っていた町並みも、友達と行ったあのお店も、行きたかったあのお店も、今は夜の闇と霧のベールに隠されていて、まるで大きな迷路に迷い込んでしまったかのようだ。いくら行っても出口が見えない。どこまで行っても石畳は続く。どこまでも、どこまでも……。

 でも、私は止まるわけにはいかなかった。すぐ近く、石畳を打ち鳴らす鉄の音。足並みの揃った、まるで軍隊のような足音は、私の最期を知らせる鐘の音だ。だから、私は止まるわけにはいかなかった。なんとしても、生き延びなければならない。友達を助けられなかった私に生きる価値なんてないのだろうけど、それでも易々死んで良いわけでもなかった。死にたくない。こんな最悪な死に方は嫌だ。まだ、生きていきたい……そんな気持ちを、生きられなかった友達の分生きるのが私の背負うべき贖罪だと取り繕う。本当は生に醜くすがっているだけだ。

 ――呼吸が荒いなんてものではない。心臓は張り裂けそうなほど鼓動し、肺は酸欠を訴え、細い喉が必死に酸素を吸い込んでいる。喉は焼き切れるかのように痛く、そして足も激痛と疲労で悲鳴を上げ、体力も限界を優に超えている。もはや、身体は生きたい一心で動いていたのだった。

 どれだけ走ればいいのだろう。どれだけ走れば、この悪夢は覚めるのだろう。どこまでも続く霧の世界で、姿の見えない狩人たちが歌う鉄の打ち音に恐怖しながら、夜の冷気と身体の熱気に困惑しながら、私はどこまで走ればいいのだろう。人を導くと言われた星すら見えないこの大都市の夜空を、今更見上げても、何も見えない。

「助けて……」

 涙がこぼれる。今夜は泣いてばかりだと思う。だけど、私に助けを求める資格なんてない。私は、私は……。

「――っ」

 スカートの裾に足が引っ張られ、前のめりになって転んだ。この格好はなんて動きにくいのだろう。汗のせいで布が張り付いて、足が余計に動かない。長いスカートはもうやめよう。

 そんな変な決心をしながら身体を起こした。だけど既に疲労が限界を超えていた私の身体は、生まれたてのように力が入らない。もう、私には立つことすら不可能だった。

 ――こんなところで、こんなときに、私は死んでしまうのだろうか。どうせ死ぬなら綺麗な世界のまま死にたかったのに、どうして醜く崩れ爛れた世界を目の当たりにしてから死ななければならないのだろうか。おかげで、私は未練しか残らない。小さな幸せを失った罪を背負い、無常なまでの理不尽な世界に絶望し、それでもまだ私を責め立てるというのか。

 足音が近付いてくる。すぐそこに、鉄が迫っている。鉄の仮面が、この蒸気の町ロンドンに蔓延る都市伝説鉄靴が、もうすぐ私を捕まえる。

 嫌だ……。

 生きたい……。

「大丈夫かっ?」

「っ!」

 突然現れた人影に、私は身体を強ばらせる。《鉄靴》の音が聞こえる夜に外に出るような人間はいない。だけど、その人は……その男性は、機巧細工の鉄のブーツを履いていなかった。そう、何か駆動する仕掛けがあしらわれていた鉄のブーツだ。歯車と回転軸があった気がする。でもその男性は、ブーツこそ履いていれど、革製の汚れたものだった。そして何より目を引くのは、片手に握られた長銃である。

「立つんだ。早くこっちへ!」

 男性は私に手を差しのばしたけど、唖然としている私と近付いてくる鉄の足音に焦って、私を引っ張り上げて抱え込み、物影に隠れた。私の目の前、男性の胸元でドッグタグが鈍い音を立てる。

「声を出すなよ? 鳥は奪ったから空からは見付けられないが、それでも奴らは《鉄靴》だ。簡単には逃がさねぇだろうよ」

 男性に抱えられたまま様子を窺うと、程なくして《鉄靴》が現れる。しかししばらく周りを見渡すと、どこかに行ってしまう。またしばらく様子見していたけど、やがて男性は私を抱きしめた状態から解放し、私を見下ろした。

「いいか、とりあえず俺の家に避難させるから、今から言う通りに道を進んで逃げるんだ。そうすればなんとかなる」

 男性は言う。ここからどう行くのか、途中にある目標物や、錆猫という錆びた猫型スチムロイド、男性の家は青いアパルトメントの3階。男性は家の鍵を渡そうと、首に提げているドッグタグと一緒にぶら下がっている鍵を取り外そうとするが、なかなか外れないことに舌打ちして、タグも鍵も一緒のまま私の首に掛けた。私は戸惑いのあまり、訊ねる。

「あの、どうして、私なんかを……あなたは、いったい……」

「俺は奴ら《鉄靴》を追っている。そしたらたまたま追われているお前に出くわして、そしてたまたま助けようと思った。ま、いわゆる気まぐれってやつだ。それに……」

 何か小声で呟いたようだったけど、私には聞こえない。私は男性の合図に反応して身体に鞭を打ち、男性と一旦別れることにした。


 邪魔をする霧をかき分けて、這い上る不安を押しのけて、私は石畳を踏む。走る。走る。ひたすら、男性に言われた道を行く。首に掛けた焦げタグと鍵が胸元で鈍い音を立てて揺れている。冷たい夜風と、熱い蒸気が混ざった生暖かな霧。空は相変わらず黒く、だけどなぜか、妙にいつもと違って見えた。空だけじゃない。私を取り巻くこのロンドンが、別の世界に見える。私の親しんだ世界が、新しくなった。そんな気がしたのだ。

「ロンドンって、こんなだったっけ……」

 つい、足を止めて見上げてみると、いつの間にか《鉄靴》の鳴らす足音は聞こえなくなっていて、いつもの夜が戻っていた。胸元で、また鈍い音が鳴る。

「やぁこげたぐ。きょうはきりがすごいね」

「っ!?」

 近くから声がして、反射的に身構える。良く目を凝らして見てみると、そこにいるのは猫のスチムロイドだった。しかし、近付いて話しかけてみると、どうも反応が悪いというか、決まったことしか話さないようだ。スチムメイルについて詳しくない私には、これが壊れているのか分からない。私はそこを通り過ぎて、その先のアパルトメント、男性の言っていた部屋に辿り着き、鍵を開けてお邪魔するのだった。


 ――それからいくら待っても、彼は帰ってこなかった。

 夜が明けても、通りを人々が歩き出しても、町でお店が開く時間になっても、彼は帰ってこなかった。昼も過ぎ、ずっと縮こまっていた私は疲労が運ぶ睡魔に抗うのでいっぱいだった。

 そのとき、突然響いた電話のベル音。私の身体は車に跳ねられたかのように反応して立ち上がる。

「……」

 もしかしたら彼かもしれない。もしかしたら違うかもしれない。私は少しの苦悩を挟んで、躊躇いがちに受話器を取った。すると聞こえてきたのは、知らない男性の声だった。相手は彼と思って心配をかけてくる。彼では、なかった……。

『……君は、誰だい?』

「え……」

『女性だと思うが……さっきから聞こえているのだけど、もしかして泣いているのかい?』

 その言葉にハッとなって鏡を見た。そこには、大粒の涙を流す私の姿があった。泣いていることに気付いた私の声はいつの間にか震えていて、電話の相手に事情を説明した。相手の男性は温かい声で、私に話しかけてくる。それが余計に涙を誘う。男性はアインスさんと言うようだ。バーを経営しているようで、話が聞きたいので来てくれと、その位置を教えてくれた。

 私が重くなった身体を引きずりその場所へ向かうと、出迎えたのは片腕がスチムメイルの中年男性。彼がアインスさんらしい。アインスさんの優しいエスコートに助けられ、私は少しずつ、自分のなかでも整理をしながら事の経緯を語る。

「ふむ……なるほど、それなら辻褄が合うな……」

「つじつま?」

「実はね、昨晩に起きた二つの事件……つまり君が関わった二つの事件は、タイムズでも取り上げられているんだ」

 ただ……とアインスさん。出して来た新聞を読み、そのときになって知った。二つの事件が、個別の物として扱われていることを。『女学生焼殺事件』と『虚空の夜』という二つの事件が存在していることを。そして私は、もう二度と、前の生活に戻れないのだということを……。

 私はアインスさんと相談し、自首することにした。事の経緯を説明して、警察側で保護してもらう。それが一番いい。しかし、彼と出会ったことに関しては伏す。アインスさんに聞いたところ、彼は人を殺す仕事をしていたらしい。それを聞いて驚いたけど、彼へのせめてもの恩返しだ。私は彼に関して黙秘することにした。

 そんなとき、お店の扉が開き、誰かが入ってきた。私がハッとして振り向くと、現れたのは、

「おっと、失礼」

 またしても彼ではなかった。でも、私は弾かれるように立ち上がる。その人が私を見て後ろに隠した物に、私は見覚えがあったのだ。

「あの、その銃……まさか……」

「おや、これは困った。レディに見せるような代物じゃなかったのだが……というか、すぐに隠したのに良く分かったね、レディ」

「ヴァーツ卿。この子は……俺の友人に世話になった子らしい。そして友人を訪ねたところ、昨晩から連絡が付かなくてね。その銃は、もしかしたら友人の銃かもしれない。何か情報があるなら、教えて欲しい」

 アインスさんに言われて仕方なそうにため息を吐いた男性はヴァーツ卿というようだ。ヴァーツ卿の持っていた銃は、まさしくあの人の長銃だった。新たな繁栄の象徴として計画されている、第二タワーブリッジの建設現場で発見したらしい。

「どうしても、彼に会いたいです……私、わたし……」

「……可憐だ……あ、いや、引き続き、こちらで捜索しよう」

 ヴァーツ卿が何か取り繕っている。そしてまるで舞台劇でもやっているかのような動きで軽やかにハンカチを出してきた。

「さあ、涙をふいて、顔を上げてくれ、麗しきレディ。君の笑顔は、きっと美しいはずだ……! この私に任せてくれたまえっ。そのアインス君の友人を、必ずや、見つけ出してあげようではないか!」

「え、その……ありがとう、ございます……?」

「私はエルディット・グライア・ヴァーツ。しがないの伯爵さ。宜しければ、君の名前を教えていただけないだろうかっ」

 高そうなスーツを着ていると思ったけど、やはり貴族だったようだ。片膝を着き私の手を取り……そんな対応は私にもったいない。

 ――私は、名前を言おうとして、机の上の新聞に目が行った。そして、一瞬考えた後、私の口から出て来た言葉はアインスさんを驚かせるのだった。

「……ごめんなさい、秘密です。私……私も、彼を捜したいんです。彼は言ってました。『《鉄靴》を追っている』と……。私も《鉄靴》を追いたいと思います。それがきっと、彼を見付けることに繋がる。そんな気がするんです」

「ふむ……そういうことなら、この私も《鉄靴》について調べよう。連絡先は訊いて宜しいかな?」

「それも……秘密です。その、アインスさんに言っていただければと……」

 ヴァーツ卿はキョトンとしてアインスさんと見合っている。アインスさんがシッシッと払うと、ヴァーツ卿は私の手の甲に口を付け、キリッと立ち上がりスーツを正した。

「素晴らしい……貴女のような女性は初めてだ。ますます頑張らなくてはっ。ではアインス君、僕はこれから《鉄靴》を捕まえてくる!」

「仕事行け仕事! あと情報の報奨金も持って行け!」

「ではその金で彼女に一級ホテルのスウィートルームを与えてくれたまえ。ではまた!」

 颯爽と踵を返して出て行くヴァーツ卿。なぜホテルなのか良く分からないけど、これから協力してくれることは分かった。

「あいつはあれで気の利く奴でね。君にゆっくり休めと言いたいらしい。その顔を見れば誰でも言いたくなるさ。……で、君も《鉄靴》を捜す、というのはどういうことかな?」

「……ごめんなさい。私、まだ自首できません。やっぱり、彼に直接、お礼を言いたいんです。だから、もし、《鉄靴》のせいで、私を逃がしたせいで帰って来られないのだとしたら……今度は私が助けたい。それに《鉄靴》について、どうしても知りたいことがあるんです。つまり、その……」

 アインスさんは静かに聞いてくれる。まるで驚いた感じもなく、ただ聞いている。

「行方不明になった彼の代わりに《鉄靴》を追います。そしてそのためにも、力が欲しい。彼のような、《鉄靴》を追っていける力が。……だから、私……!」

「君にはお勧めできない世界だよ。この世界は、」

「分かってます。もう、後には退けないんです。この世界がどれだけ汚かったとしても、それを知って嘆いたとしても、もう……もう、私は戻れないところにいるんです。立ち止まるのは、もう嫌です。逃げたくない……逃げたくないんです」

 カウンターに置かれた彼の長銃。その身体を撫でて、私は強く頷く。その決意を見定めるかのように、私の胸元で焦げタグが鈍い音を立てるのだった。

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焦げタグの狙撃手と歯車の妖精 時刻碧羅 @hekira

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