32 「アニメという言葉の語源を知っているか?」
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「そうですか。そういうことですか……」
幸一は今回の事情を説明すると、高瀬は少し苦笑していた。
「すみません……」
「まあ、ちゃんと収録できるのであれば問題は無いですけど……」
高瀬の経験上、色んなアフレコスタジオを知っている。
十人以上入れる様な所から漫画喫茶の個室のような所と、アフレコスタジオは場所によっては様々である。だが、まさか学校で行うというのは初めてであった。
「それは安心してください。この子たちもプロの卵のようなものですから、確実に仕事をしてくれますよ」
谷垣が口添えをした。
「それは期待しますが、あちらの子たちは?」
収録作業を行うメンバー以外に、部屋の隅っこで数人の生徒たちが見守っていた。
「あちらは声優の卵たちです。プロの演技を見て貰おうと見学させています。もちろん、伊吹さんの邪魔にならないように、静かに待機させていますので、どうか見学を許してもらえないでしょうか?」
高瀬は一息吐き、伊吹を手招きで呼び寄せた。
「そういう訳みたいだけど、どうする、まどかちゃん?」
「私なら大丈夫ですよ」
「本当?」
「はい。それに、なんか励みになるというか、ヘタな演技は出来ないから気合が入ります」
「そう。まどかちゃんがそう言うなら良いわ。あ、まどかちゃん。私、あと一時間したらここを出て、青木くんの付き添いに行かないといけないから、後は大丈夫よね?」
「はい、いつも通りに頑張りますよ」
マネージャーが収録最後まで同席するのは、伊吹クラスでは滅多にない。収録の途中での退出はよくあることだったので、一人残されても不安は特に無かった。
進行役を担当する生徒が時間を確認し、伊吹に声を掛けてくる。
「あ、あの。時間になりました。え、えーと、伊吹まどかさん。ブースの方にお願いします」
「あ、はい」
ぎこちない応対にも促されるまま伊吹がブースの方に向かう途中、幸一が呼び止めた。
これを最後に伊吹が声優の仕事を辞めると知っているのは、恐らく幸一だけだろう。だから変に神妙な感情が湧き上がっていた。それが表情にも浮かんでいたのか、
「あ、高野さん。大丈夫です。シッカリと演じてきますから」
伊吹は優しく微笑み。幸一の不安を打ち消した。そして、録音ブースへと進んでいくと、打って変わって真剣な顔つきになっていった。
脚本……A4用紙に印刷したものをクリップで留めたものであり、既に紙の端が擦れてボロボロになっていた。何度も読み込んだ証だ。それを大切に抱え、伊吹は録音ブースの扉を開けて中に入っていった。
アフレコスタジオ……所謂、録音スタジオは、各種録音機材などが配置されているコントロール・ルーム。
そして、防音ガラスの奥にはマイクなどの集音機器がある録音ブースと呼ばれる部屋などで構成されている。
ブースに入った伊吹は、譜面台のようなスタンドに脚本を。そして、伊河市のオリジナルキャラクターのイラストが描かれた紙を置いた。
それを幸一たちはコントロール・ルームから防音ガラス越しで覗う。
「それでは、目の前のランプが点灯したら、喋り始めてください。点灯が消えましたら、録音はストップしますので、次の台詞の準備を行なってください。あ、それと、まずマイクのテストを行いますので、何か語りかけてください」
「はーい。テステス、これはマイクのテストです」
伊吹は言われた通りに、お決まりのテスト口上台詞を述べると、伊吹の声がコントロール・ルームに響く。どうやら正常に機能しているようだ。
ディレクターを担当する生徒が伊吹に伝えながら、ミキシングなどのマシーンを扱うメンバーにも指示を出していく。
「えーと、最初にテストボイスを録ります。た、高野さん」
学生の呼びかけに幸一が反応する。
「はい、なんですか?」
「これから、伊吹さんにテストボイスを行なって貰います」
「テストボイス? さっきのテステス、じゃないの?」
「えっと、声のイメージの確認みたいなものです。テストボイスで、このキャラクターの声が、その声で良いのかの判断をしてください」
「ああ、なるほど。はい、わかりました。宜しくお願いします」
続いて学生は、伊吹にもその事を伝え、
「はい、わかりました」
慣れたように返事が返ってきた。
やがて準備の方が整い、ブースの中にあるランプが点灯した。伊吹はそれを見て、小さく深呼吸を行う。
どんな声で演じるかを考えて……いや、感じていた。
キャラクターのイラストを見た時から、伊吹の中ですんなりと声のイメージが出来ていた。
その後、伊河市に訪れて、自分の声に似ている幸一の妹(美幸)の声を聴いて、どんな声で演じれば良いかを掴んだ気がした。
キャラクターの名前を知った時、自分が出すべき声がハッキリと解った。
伊吹は眼を見開き、マイクに向かってその気持ちを吐き出すように言葉を発した。
『初めまして! 私の名前は伊河美湯と言います。伊河市のことについて、もっと知って貰うために、これからアナタに伊河市の素敵な場所についてご案内いたしますね!
え、私のことを知りたいですか? え~と……そうですね。案内ついでなら、教えてあげても良いですよ! それじゃ、伊河市巡りに行きましょうか!』
その声が聴こえた瞬間――
幸一の瞳には、伊吹でもなく、ましてや美幸でもなく。伊河市のキャラクター美湯が、そこに居た。
隣にいた志郎が、小さな声で語りかける。
「なぁ、高野。なんて言うか、その。伊吹さんの声、美湯にピッタリだな」
黙って相槌を打つ幸一。それしか出来なかった。ただ黙って、伊吹から紡がれる言葉に耳を傾けていたかった。
しかし、現実に呼び戻すかのように、ディレクターの生徒が呼びかけてくる。
「あ、あの……高野さん」
「……うん? え、あ、なに?」
「先ほどの伊吹さんの声は、如何でしたでしょうか?」
「え、それは……大丈夫です。問題は全く無いですので、この調子で続けていってください」
「はい、解りました」
学生は、幸一が言ったことを伝えた。すると、ブースに居る伊吹は幸一の方を向き、ニッコリと微笑んだ。
『解りました。ありがとうございます』
先ほどの美湯の声では無く、伊吹の声だった。
伊吹は、次の台詞を言う準備を整え、マイクに向かう。学生たちも次の録音の準備を始め、さっきと同じように収録作業を続けていった。
次々に語られる美湯の台詞。
伊吹の声は、美幸の声に似ている。
だが、今聴こえる声は、美幸の声ではなく、美湯の声だと認識していた。
特に、今回の事に深く携わってきた幸一と志郎は感慨深く、その感動を味わっていた。
その二人だけでは無く、他の者たちにも同じような感動を与えているようだった。
「伊吹まどかさんって、初めて聴くけど、良い声だよね」
「なんか、伊吹さんがキャラクターに見えてきちゃった」
「普段の声とは、全然、声が違うんだね」
見学に来ていた声優科の生徒たちが小声で感想を口にしていた。
「なあ。伊吹まどかって、知っていたか?」
「知っていたけど……。確か、前の深夜アニメでちょこっとモブとかで出ていたみたいだけど。でも伊吹まどかと言えば、あっちの方が有名じゃないのか?」
「あっち?」
次第に生徒たちの雑談の声が大きくなっていくのに対して、谷垣が注意を促す。
「コラッ! 静かにしなさい! うるさいと退出して貰いますよ」
生徒一同黙りこみ、再び伊吹の方を注視するのであった。
「すみません。高野さん」
谷垣は小声で幸一に謝罪すると、ブースの中にいる伊吹を見ながら語りかけた。
「しかし、ハマリ役って、やつですかね」
「ハマリ役?」
「ええ。まるで運命で決まっているかのように、キャラクターに声に合った役を演じることです。孫悟空やドラえもんみたいに、声を聴いただけで、そのキャラクターを思い浮かべるように、伊吹さんがあの美湯というキャラクターに合った声だと言うことですね」
「そうですね……。確かに、そうだと思います」
幸一は、伊吹を見つめる。確かに、そこに居るのは伊吹まどかである。だが―――
『伊河市内には伊河八湯と呼ばれる八つの代表的な温泉があります。古いものは平安時代まで遡る歴史を持つ温泉もあるんですよ』
ひと度伊吹が、美湯の台詞を述べると、伊吹が美湯に見えたのである。
幸一は、改めて……いや、初めて声優という職業の凄さを実感していた。
声の収録作業は、思いの外長時間にも及ぶ。ただ声を録るだけなのだが、一台詞ずつ録っていき、その数は膨大である。志郎曰く、
「アニメとかもかなりの時間は掛かるし、ゲームとかの収録は台詞量が半端じゃないから、数日とか掛かるのもあるしな。今回の美湯の台詞量は、大まかに四十分ぐらいだから、四時間以上は掛かるかな」
台詞量が多い他に、人間はミスする生き物である。プロである伊吹も、たまに言い間違いをしてしまい、収録のやり直しが発生したりした。
また適度に休憩を取り、伊吹は喉のケアを行ったりする。
そしてスタッフは勉強中の学生である。不慣れな所もあり、些細なミスが有ったりして作業が中断することもあり、スムーズとは行かなかった。それでも収録の終わりが見えてきている。
途中、マネージャーの高瀬や見学していた生徒たちは帰ったりしていたが、当事者である幸一と志郎たちは飽きることなく、伊吹の様子を見守っていた。
「残りの台詞は、あと三つか……」
志郎が独り言のように呟き、続けて幸一に話しかけた。
「なあ、高野。どうだ、初めての声の収録現場は?」
「……何というか、凄いんだな。伊吹さんが美湯の声で喋る度に、そこに美湯が居るという感じがして……。まるで、美湯の命を吹き込んでいるような」
「命を吹き込んでいる……。なるほどな、確かにそうだな。そうだ、高野。アニメという言葉の語源を知っているか?」
なぜ、そんな事を訊いてくるのか少し疑問に思いつつ、幸一は答える。
「いや……。紙芝居とかパラパラマンガとか?」
「うーん、全然違うね。アニメの正式名称は、アニメーション。で、アニメーションを訳すと生気や活気という意味なんだが、その語源はラテン語の“アニマ”からなんだよ」
「アニマ?」
「そう。そして、アニマは“命”や魂という意味らしいんだ」
「命……」
「ただの絵に過ぎないものを、何枚もの絵を描いて、こうやって声を入れることによって、まるで生きているかのように動き始める……。本当に一つの命を生み出しているみたいだよな」
「そうか、命か……」
幸一は自分が感じていたモノの正体に、なんとなく解った気がした。今回の件で初めて、何もない所から形あるものを創っている。所謂、クリエイティブというものに携わっているのだ。
「俺もアニメの制作進行で、たまにアフレコ現場に行ったりするけど、そういうのを感じたいというのもあるかも知れないな。新しい命を生み出しているという実感を。
だから俺は、給料が安くても仕事がキツクても、この仕事をやり続けて行きたいと思っているんだよ……。たぶん、ここにいる学生も、そんな気持ちだと思うぜ」
辺りを見渡す幸一。生徒たちは開始当初の時と同様に気を抜くことは無く集中して作業を続ける。勿論、伊吹も。いつしか、最後の台詞を述べようとしていた。
『あ~あ~、もうお別れですかね。ちょっと寂しいです。でも、また気楽に来てくださいね。いつまでも、貴方のお越しをお待ちしてますから! それじゃ、バイバーイ』
最初と変わらない美湯の声が響く。そして伊吹は、静かにまぶたを閉じた。
「はい、OKです! これで、全部の収録が完了しました。お疲れ様です」
ディレクターを勤める生徒が終わりを宣言すると、誰かが拍手を始め、周りに伝播していき、幸一たちも拍手をした。
「ひとまず、お疲れ」
志郎が労いの言葉を掛け、幸一に手を差し出しすと幸一は志郎の手を握り返した。
ブースから伊吹が出てくると一際拍手が大きくなる。幸一と志郎は共に伊吹の元へ歩み寄った。すかさず幸一が話しかける。
「伊吹さん、お疲れ様です」
「はい、ありがとうございます」
伊吹の瞳に涙を浮かべながら、幸一に訊ねた。
「どうでしたか?」
「ええ、非常に満足出来るものでした。伊吹さん、ありがとうございました」
幸一は伊吹の手を取り、深々と頭を下げた。
こうしてアフレコ収録は無事に終わったのだった。
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