其の参

義実よしみはこの五年もの間、特に軟禁されていた二年間に沢山の事を考えさせられた。


その中でも【死望者】である義実は〔命〕について考える事に、一番多くの時間を割いたのである。


この世界では何故〔自殺〕は否定されるのか。


また、それ以前に〔死〕すら否定的に考えられてもいる。


何故、生きる事だけが正しいとされるのか。


自分の様に死を望む者に生きる事を強いる事は、生きる事を望む者に死を強いる事と変わらない様に思う。


そう、例え生きる事であっても死を望んでいる人に、それを強いてしまえば殺人と同じじゃないのか。


要するに、生と死は表裏一体であるはずなのに、一方的に死だけを悪く見る、その様なものの見方に疑問を感じたりもする。


〔生〕と〔死〕は同等に尊ばれるべきものなのではないだろうか。


勿論、これは真理の部分の話であって、哲学的な話にもなるであろう。


現実の人間社会はそうもいかない事がある事は理解する。


死を望んでいる人間であろうと簡単に切り捨てる訳にはいかない。


例え建前であったとしても詭弁であったとしても、全ての人を救おうとしなければならないのが社会というものなのだろう。


そういう意味で、人間社会において〔自殺〕は否定されるべきではあるのかもしれない。


しかし否定されるべきであるからこそ、肯定する事も必要だと義実は思っていた。


矛盾するのかもしれないが、この世界は特定の者達だけの世界ではない。


一方が存在すれば、必然的に反対側も存在する事になり、その中間のものも当然に出て来るであろう。


それら全てが肯定されるべきだと思う。


あらゆる矛盾があっていいのだ。


いや、元々、この世界は、あらゆる矛盾を孕んでもいるのだろう。


それなのに人間は自分の都合で善悪を決め付けて、悪の方を一方的に排除してしまおうとする。


矛盾を受け入れようとしないのだ。


あくまでも白黒をはっきりさせて〔正義〕を主張する。


そして立場を違えた〔正義〕がぶつかり合う。


何故、違いを認めようとしない。


何故、矛盾を受け入れようとしない。


違いがあるからこそ、世界はこんなにも豊かなのではないだろうか。


矛盾があるからこそ、我々は苦しみながらも前へと進む事が出来るのではないだろうか。


違いを認める事がこの世界が持つ多様性の素晴らしさを享受する事に繋がって、矛盾を受け入れる事で人間一人一人、そして社会全体の成長を促す事も出来るのではないか。


その様な感じ方をしている義実にとって、現代社会は〔生〕の尊さだけが強調されて、〔死〕の尊さが蔑ろにされている部分があり、それが人類を憎しみの連鎖で縛り付けてしまっている様に感じてもいた。


そして義実もまた、そんな憎しみの連鎖に縛られている。


憎しみの連鎖から抜け出せないでいるのだ。


自分の事をいじめてきた奴等。


父親。


自分自身。


何もかも。


どうしても憎まずにはいられない。


そして〔何もかも〕の所で疑問にぶつかる。


いつもの事であった。


その疑問にぶつかる事で、義実は自分が死を望んでいる事に気付かされる。


これも、いつもの事であった。


そして周囲を見回すと〔死〕が否定されてばかりいる。


死を望んでいる義実には、それがとても苦しかった。


自分自身の存在そのものを否定されている様にも感じるからだ。


〔死〕を否定されてしまう世界に自分の居場所は無い様に思う。


〔死〕を望んでしまう自分はこの世界に相応しく無い。


相応しく無い世界にいるから苦しまなければならず、その苦しみに耐えられないので死にたくなる。


恐らく、このような苦しみ方をしている方は、自分の他にも相当数いるのではないだろうか。


義実はそんな風に思っていた。


実際に毎日の様に多くの方々が自らの命を断っている。


その中の何割かは、その様な苦しみに耐え切れずに自らの命を断たなければならなくなるのかもしれない。


確かに〔常識〕という社会通念において〔死〕は否定されて然るべきではあるのだろう。


しかし余りにも、その様な〔常識〕に捉われる事で、柔軟性を無くして〔常識〕から外れたものを排除してしまう様な、そんな価値観の構築と強要がなされていて、それに耐え切れなくなる者も出てくるのではなかろうか。


そして、その様な事は大人よりも寧ろ、人間として未熟である子供達により影響がある様に思ったりする。


死を求める〔心情〕と死を遠ざける〔常識〕との板挟みにあい、にっちもさっちもいかなくなって、結果的に死を選択せざるを得なくなる。


そういう子供達も少なくはない様に思う。


義実自身も大人になる前に【死望者】になれていたら、すでに死ぬ事が出来ていたのかもしれない。


そんな風に思ったりもする。


しかし現実の義実は未だ死ぬ事も出来ずに【死望者】のまま生き続けていた。


そして悩み続け、苦しみ続けてもいる。


だから思うのだ。


否定されるべきだからこそ、肯定もされるべきだと。


また人間社会は〔常識〕という価値観を共有しながらも〔常識〕から外れた者を許容する事も、一方では大切になってくる様に思う。


しかし現実は一方的な〔常識〕の押し付けが為されている様に感じる。


〔常識〕という枠の中に収まる事を強要しているのではなかろうか。


許容すべきなのに強要してしまっているのだ。


そう考えると苦笑も禁じ得ないが、当然に苦笑している場合でもない。


そして、その様な強要が社会に閉塞感を生み出して、結果的に犯罪やいじめを助長していたりもするのではなかろうか。


義実はいじめを受けてきた一人として、その様に感じたりもするのだった。


勿論、義実からすれば、いじめは許す事は出来ない。


しかし、その許容を否定してしまう憎しみが、いじめを助長しているのかもしれないのだ。


そして助長されたいじめが新たな憎しみを生み出す。


正にこれこそ憎しみの連鎖なのではなかろうか。


そんな憎しみの連鎖から抜け出せずにいる自分が許せなくもなった。


だから余計に死にたくなったりもする。


死ぬ事以外に自分が、この憎しみの連鎖から解き放たれる方法を思い付く事が出来ない。


いくら考えても絶望にしか辿り着かないのだ。


やっぱり死にたくなる。


どうして生きなければならないのだろう。


〔生きたい〕と思う事が当然である事は否定しない。


だからと言って〔死にたい〕と思う事が否定される謂われはない様に思う。


〔生きたい〕人間が居るのだから、〔死にたい〕人間も居ていいじゃないか。


皆が皆、同じである必要は何処にもないだろう。


確かに〔生きたい〕人間は普通であるのかもしれない。


そして〔死にたい〕人間は異常なのだろう。


しかし異常であろうとも現実に〔死にたい〕人間は存在していて、それは〔生きたい〕人間が存在する理由と同様だと思う。


それなのに何故?


〔死にたい〕人間だけが否定される。


解らない。


納得出来ない。


そして〔生きたい〕人間が生きようとする事が当然である様に、〔死にたい〕人間が死のうとする事も、ある意味、当然である様にも思う。


そして、その結果、死んでしまう事になったとしても、それこそ仕方がない事の様に思うのだ。


しかし現実は〔死にたい〕と思う事が否定されてしまう。


〔死にたい〕と声を上げる事すら、憚らなければならない様な空気がある。


そんな中で〔死にたい〕と思ってしまう人は自己否定をするしかなくなってしまうのかもしれない。


周囲から否定され、自らも否定しなければならなくなる。


そのような者が〔死〕を望む様になってしまう。


【死望者】になってしまうのではなかろうか。


そして義実もまた自己を肯定出来なくなって【死望者】になったのだった。


そんな自分が死ぬ為の行動をするのは当然であろう。


それは普通に求めるものを得る為の行動にしか過ぎない様に思う。


他の者達と何も変わらない。


それなのに、何故?


〔死〕を求める事だけが否定されてしまう。


人の死は悲しいから。


本当にそうなのだろうか。


義実はそこにも大きな疑問を感じていた。


義実は思う。


【死望者】の一人として。


自分が死んだ時に誰かに悲しんで貰いたいか。


義実はそうは思わなかった。


別に悲しんで貰ったからって、どうにもなるもんでもない。


ただ、それは義実が死を望んでいるから、なのだろうか。


考えてみる。


自分がもし生きる事に希望を持てていたら、自分が死んだ時に悲しんで貰いたいか。


それでも、やっぱり悲しんで貰いたくない様に思う。


勿論、実際にそうなれたら、違ってくるのかもしれない。


しかし想像の範囲では、やはり悲しんで貰いたいとは思えなかった。


それよりも、いつまでも悲しんでなんかいないで、早く元気になって貰いたいと思うんじゃなかろうか。


正直、義実には、そう思える相手はいなかった。


義実は家族、特に父親に対しては憎しみも強いので、余り大切に思う対象にはならない様に思う。


だから、あくまでも想像の範囲になってしまうが、本当に大切に思える相手には悲しんで貰うよりも、元気になって貰いたいと思う様に思ったりするのだ。


そして、そう考えると残された者の悲しみというものは、ある意味、身勝手なものの様にも思えるのである。


勿論、残された者が、自分自身の心の中を整理する為に悲しむ事は必要ではあるのだろう。


そして、それについては否定するつもりもない。


しかし、その一方で身勝手な悲しみもある様に思うのだ。


その残された者達の身勝手な悲しみが余計な憎しみを生み出してはいないか。


義実は思う。


『罪を憎んで人を憎まず』


本当に素晴らしい言葉だと。


義実自身、憎しみに捉われてもいる。


しかし、だからこそ許せる様になりたいとも思う。


もし許す事が出来たら、憎しみの連鎖から抜け出せるんじゃなかろうか。


そう。


許す事。


それが生きる事でもある様に思う。


そして許す事が出来ない自分は〔死〕に付き纏われる。


ある意味、当然である様にも思う。


そんな義実だからこそ、誰かを許したい。


自分を許したいと思うのだ。


そして、それが出来る様であれば、生きる事に希望を抱く事も出来るのかもしれない。


しかし現実の義実にそれは出来なかった。


だから絶望し【死望者】になったのだ。


そして【死望者】になった義実が思う。


【死望者】になった義実が感じる。


何故?


どうして?


〔生〕とは一体。


〔死〕とは一体。


現代社会は〔命〕を誤解しているんじゃなかろうか。


それとも誤解しているのは自分の方なのだろうか。


判らない。


でも、思う。


そして、感じる。


〔命〕の尊さを。


〔命〕の儚さを。


そう。


〔命〕は尊いだけではない。


〔命〕は儚くもあるのだ。


尊いからこそ儚くて、儚いからこそ尊い。


だから人は精一杯に生きなければならない。


自分はどうだろう。


精一杯に生きてきた。


精一杯に生きてきた結果【死望者】になったのだ。


寧ろ義実には手を抜いたりする余裕は無かった。


義実に出来る事は精一杯にやる事だけである。


それでも失敗を繰り返し、傷付いて傷付いて【死望者】になったのだ。


もう、これ以上はどうしようもなかった。


自分は間違っているのかもしれない。


例え間違っていても、自分は〔死〕を望んでいる。


それだけは何も変わらない。


変わらない以上、例え今日もまた失敗したとしても、いずれまた繰り返すだけの事だと思う。


そう。


変わらない以上【死望者】である以上、自分は死のうとするしかない。


〔死〕という結果が得られるまで、死のうとするしかないのだ。


そう。


その結果を得る為に、わざわざ〔此処〕まで来たのだから。


そして〔此処〕まで来た自分が思う。


〔此処〕まで来て感じる。


自分のこの〔死にたい〕気持ちは〔生きたい〕事の裏返しなのではないだろうか。


〔生きたい〕から〔死にたい〕のである。


そう考えると〔死にたい〕と思う事は〔生きたい〕と思う事と同じなのだ。


義実にとっては死を求める事自体が、生きる事になってしまっているのかもしれない。


だから生きている限り、死を求めてしまうのだろう。


そして〔死〕という結果を求めてしまう事が【死望者】というものでもあるのだ。


そう。


義実は今もまだ間違いなく【死望者】であったのだ。

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