参章
死望者
其の壱
風が強く吹いている。
雨も強く降っている。
崖下の海の波もまるで崖に襲い掛かる様に、激しく、ぶつかって来ていた。
台風が来ているのである。
そんな中で一人の男が崖の上に立っていた。
名は
年齢は二十八歳。
飛び降り自殺をする為に〔此処〕へと、やって来たのだ。
〔此処〕とは何処なのか。
詳しく明かす事は出来ないが、普段であれば少ないながらも観光客の数人くらいは居るのかもしれない。
だからこそ義実は〔今日〕を選んだのだ。
単に夜中でも人目につく可能性は少ないが〔今日〕の様な日の方が、確実に人目につかずに〔此処〕へと辿り着ける。
そんな風に義実は考えていたのだ。
そして義実の考えた通り〔此処〕へ来るまでに、義実が人を見掛ける事は一切、無かった。
だから義実が人目についた可能性も、限り無く少ないはずである。
また〔今日〕のような日の方が自分の最期には相応しい。
そういう思いも義実にはあった。
そうして近くの駐車場で車を止めて〔此処〕まで歩いて来たのだ。
そして義実は今、強風に煽られながら、崖の上に立っているのである。
「ふふ」
義実は一人で小さく苦笑った。
これから飛び降りようとしている男が、風に煽られて崖下に落ちるのを必死で堪えているのである。
義実はそんな自分が少し憐れんで見えた。
そして堪えるのを止めて、風に煽られるままに崖下へと落ちてみるのも悪くはない。
もし、そうなった場合は自殺ではなく、事故死になるのだろうか。
義実はふと、そんな事を思った。
そして、すぐに、それを打ち消す。
実家の自室に遺書を置いてきてあるからだ。
自分で飛び降りようとも、風に煽られて落ちようとも、状況からして自殺という事になるであろう。
それにしても、いざ、これから飛び降りようと思うと、怖くて怖くて仕方がない。
勿論、死ぬ事自体も怖いのだが〔此処〕の高さが、とてつもなく怖く感じるのである。
義実は高所恐怖症ではない。
普段であれば、何の問題もないだろう。
しかし、これから飛び降りようと思うと、この高さが、とても恐ろしく感じるのだ。
そして高所恐怖症の人は落ちる事を考えてしまうから、高所において恐怖を感じるのかもしれない。
義実はふと、そんな事を思った。
「ふふ」
そして義実は再び一人で小さく苦笑った。
これから死のうというのに、つまらない事を考えるものだ。
そんな事よりも今、自分が感じている恐怖をなんとかしなければならない。
いつまでも、こうして崖の上で突っ立っていても仕方がないのだ。
しかし、どうしても飛び降りる事が出来なかった。
これだけの強風の中、立っているだけでも正直しんどい。
そこで義実は一旦、気を落ち着かせようと思った。
そして義実は立つのを止めて、崖の上に大の字で横になる。
そして目を瞑って思い巡らす。
二週間程前に職場を解雇された。
雇用する側からしたら当然であろう。
自分がどれだけ周囲に迷惑を掛けてきた事か。
義実は一生懸命に働いた。
しかし度々とんでもないチョンボを犯してしまう。
その度に周囲に尻拭いをさせてしまっていた。
最初は優しく接してくれていた方からも、失敗を重ねていくにつれて、次第に冷たくあしらわれる様になり、義実は職場で孤立していく。
義実は本当に必死に働いた。
恐らく、それは周囲にも伝わってはいる。
だから失敗しても、その失敗を責められる事は余り無かった。
最初は怒られたりもするが、失敗を繰り返す内に、次第に義実からは距離をおく様になっていく。
義実と関わる事で義実が何か失敗した際、自分がその失敗の尻拭いをしなければならなくなる事を避けようとするのである。
義実を厄介者扱いして、その厄介者を押し付け合う様に、誰も義実とは関わろうとはしなくなる。
周囲の者達だって、自分の仕事があるのだ。
わざわざ積極的に誰かのフォローをする程、ゆとりがある訳でもない。
それでも慣れない内は仕方がない事だと、誰かが誰かのフォローをする。
それは何処の職場でも当て嵌まる事だろう。
しかし、いつまでも、そういう訳にはいかない。
その内に見放されて、孤立してしまう。
それは決して周囲の者達が悪い訳ではない。
何度も同じ様な失敗を繰り返す義実自身に問題があると、義実自身もその事は判っていた。
それでも、どうしても何かしら大事な事を失念してしまって、同じ様な失敗を繰り返してしまう。
義実にはもう、どうする事も出来なかった。
そして、その様な事はその職場に限った事では無かったのだ。
これまで義実は幾つもの職を転々としてきたのだが、その度に失敗を繰り返し職場で孤立して、挙げ句の果てに解雇されてきたのである。
恐らく義実は何かしらの障害を抱えていると思われるが、義実自身、その事には何の知識も自覚も無かった。
障害ではなく、自身の不注意や能力の欠如に因るものと考えていた。
そして、それらも含めた上で、自らの不運を嘆く以外に無かったのである。
そして更に遡ると、学生時代もろくな事は無かった。
小学生の時には〔義実〕という名前の所為で、男のくせに女の子みたいだと揶揄われ続けて、それもあってか良好な人間関係を築けずに、中学生以降もいじめを受けたりして沢山、傷付いてもきたのだ。
また、そんな中でも一度だけ、異性に恋心を抱いたのだが、その想いを伝えても受け止めては貰えず、それどころか、その事を晒されて学校中の笑い者になったりもした。
そして学力の方も全くと言っていい程に出来が悪く、運動や芸術的な才能も全く感じられなかったので、大学に進学する事も出来ずに、何の資格も技術も無いまま半ば無理矢理、社会に放り出されたのである。
今、思い返してみても、義実の過去には本当に何一ついい思い出が無かった。
そう考えると、此処まで生きてこれた事が不思議に思えるくらいである。
実際に義実は過去に二度、自殺を試みた。
一度目は睡眠剤を大量に服薬したのだが、幾らもしない内に殆どを吐き出してしまい、そのまま病院に搬送されて胃洗浄を受ける事になる。
結局、死ぬどころか、それまで経験した事も無い様な、苦痛を味わっただけだった。
二度目は首を吊ったのだが、途中でロープが切れて、死にきれなかったのだ。
その時に気を失ったまま落下したが、気が付くと左の足首と左手の薬指を骨折していた。
本当に散々な結果ばかりである。
更にそれら、義実が自殺を試みたという事実は、父親に揉み消されてしまった。
勿論、それは世間体という意味で、義実も理解出来ない事ではない。
しかし親子の信頼関係という部分で、義実は裏切られた様に感じていた。
教育関係の仕事もしている父親にとって、自分の息子が自殺を試みた、なんていう事実は隠したくもなるだろう。
恐らく自分が父親の立場に立ったら、同じ事をする様に義実は思った。
だから決して周囲に事実を伝えて欲しかった訳ではない。
義実にとっても、そんな事を周囲にわざわざ知られたくはなかった。
しかし、その一方で、その様な事実を隠される事自体が、義実自身の存在を否定された様にも感じたのだ。
では、一体、どうして欲しかったのか。
義実にも、それが全然、分からなかった。
ただ一つ言えるのは、それ以前から父親に対する信頼関係は揺らいでいたが、それにより決定的にはなったのだ。
母親とは中学生の時に死別している。
癌だった。
大腸癌が色んな所に転移してて、手遅れだった。
二つ上に兄が一人いる。
兄は義実と違って優秀だった。
運動や芸術的な才能は義実と大差ない感じだが、各教科の成績は頗る良かったのだ。
父親はそんな兄を可愛がった。
そして義実はそんな兄とよく比較されたのである。
兄とは特別に仲が悪かった訳でもないが、良かった訳でも無かった。
比較されればされる程に、兄との距離が開いていく様に感じる。
それは兄も同様だったであろう。
だから悪くもなく、良くもなかったのである。
そして義実にとっては、そんな兄の存在そのものが、日に日に苦痛にもなっていった。
そんな義実にとって、母親が元気な内は、まだ救いもあったが、母親と死別して以降は本当に、地獄の様な日々が続く。
学校では毎日いじめを受けていた。
暴力によるいじめは殆ど無かったが、言葉によるいじめは元より、何よりも所有物の破壊、強奪、盗難が酷かったのだ。
更には強請集りである。
時には義実から強奪、盗難した物を売り付けられたりもする。
義実の家は元々、裕福な家庭であり、父親の収入も高かった。
だから少額であれば、毎日、義実が無心しても、何も言わずに与えてはくれる。
例え少額でなかったとしても、所有物の破損や紛失等の明確な理由があれば、買い与えてもくれた。
しかし義実が本当に望んでいたのは、そんな事では無い。
父親に助けを求めていたのだ。
そして父親であれば、その様な義実がいじめを受けている事は容易に想像出来たはずであった。
しかし義実の父親はそれを承知の上で、見て見ぬ振りをし、金銭での解決を図ったのである。
少なくとも義実はその様に受け取った。
今、思えば、きちんと言葉にして助けを求めていたら、父親はどうしたのだろうか。
そんな事を思ったりもするが、当時の義実は何でも金銭で解決しようとする父親に不信を募らせるだけだった。
そして義実もまた金銭での解決を図ったのだ。
とは言え、いじめを受けている当時の義実には、そんな事に気付くゆとりもなく、ただ一日を無事に過ごす事が精一杯だったのである。
その事に気付いたのは社会に出てからだった。
幾つかの職を経て、その職場でも孤立を深めていたある日、突然にその事に気付いたのだ。
義実が暴力を受けなかったのは、義実が従順だったからであり、従順だったから、いじめを助長していたのかもしれなかった。
義実は暴力を恐れる余り知らず知らずの内に、自分自身をいじめる相手に売り渡していたのだ。
自分もまた父親と同じ様に、金銭での解決をしてしまっていたと気付いた。
義実のいじめという現実に対して、見て見ぬ振りをした、父親と自分が同じであったと気付いたのである。
たまらなく、悔しかった。
たまらなく、苦しかった。
たまらなく、辛かった。
たまらなく、空しかった。
たまらなく、寂しかった。
父親に続いて、自分自身にも裏切られた様に感じた。
蛙の子は蛙とは、よく言ったものだ。
父親と自分との血の繋がりに、言い知れぬ嫌悪感を感じた。
そして、許せなくなったのだ。
自分の事をいじめてきた奴等。
父親。
自分自身。
何もかも。
この時、義実は初めて【死望者】になったのだった。
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