挿話拾陸/遊びたがる男

その男は一際大きかった。


額から左頬にかけての大きな刀傷が目立っている。


黒谷天竜くろたにてんりゅうであった。


天竜は姿を現すなり、岡田おかだ以蔵いぞうと名乗る男に向かって、悪戯っぽく言い放つ。


「俺も弱虫なんだよな。だから俺の相手もしてくれよ」


以蔵を名乗った男は少し驚いた様だが、慌てずに、ゆっくりと体を半身にして、天竜に対しても注意を向けた。


天竜の言葉を聞いた虎三郎こさぶろうが天竜に言う。


「此処は僕に任せて下さい。そいつは兄の敵なのかもしれません」


「いや、そいつは違うぜ」


虎次郎こじろうの敵の正体を知る天竜は虎三郎の言葉を否定した。


虎三郎が天竜に訊き返す。


「そうなんですか!?」


「ついでに言うなら、岡田以蔵ってのも嘘だろうぜ」


続いて天竜は目の前にいる男の正体についても否定的な考えを示した。


以蔵を名乗った男は黙ったまま、二人のやり取りを用心しながら見ている。


「何故、嘘だと判るのでしょうか!?」


虎三郎は素朴な疑問を天竜にぶつけた。


尤もらしい理由を天竜が述べる。


「岡田以蔵と云えば人斬りとまで呼ばれる男だが、その男には、そこまでの器を感じない」


「天竜さんが、そうおっしゃるのであれば、そうなのかもしれませんね」


虎三郎は天竜の言葉に納得した様だ。


今度は天竜が身勝手な事を言い出す。


「まあ、本物かどうかは、どうでもいいんだよ。ちょっと体が鈍ってしまっててよ」


「なるほど」


そう言いながら虎三郎は苦笑した。


そして天竜が虎三郎に恩着せがましい事を言う。


「だからよぅ、敵をくれてやる代わりに、こいつは俺が頂くぜ」


「分かりました」


虎三郎は天竜の言葉を素直に聞き入れて、以蔵と名乗る男から少し距離を取った。


天竜が以蔵と名乗る男に向かって楽しそうに言う。


「という訳だ。続きは俺と遊んでくれよ」


そして天竜は右手で無造作に刀を抜く。


以蔵と名乗った男は虎三郎にも注意を払いながら、天竜と向き合う形へ向きを変えた。


今度は両手で刀を握って構える。


表情には、もう笑みは無かった。


天竜が以蔵と名乗る男を挑発する。


「どうした!?掛かって来ねぇのかい?」


以蔵と名乗った男は無言で天竜を睨んでいる。


虎三郎と相対していた時の余裕は微塵も感じられなくなっていた。


天竜は再び以蔵と名乗る男を挑発する。


「まさか、お前の方が小便を漏らしているんじゃねぇだろうな!?」


以蔵と名乗った男は微動だにせずに、ずっと天竜を睨んだままだった。


もう、これ以上は無いという様な程の緊張感に包まれている様である。


「なんだよ。その程度なのかよ。もう少しは楽しませてくれると思ったんだけどなぁ」


天竜は以蔵と名乗る男に睨まれたまま残念がった。


以蔵と名乗った男とは対照的に、緊張感は全くと言っていい程に感じられない。


一方、以蔵と名乗った男はまるで人形の様に微動だにせずに、ただ、天竜を睨み続けている。


「仕方がねぇな。そっちが来れねぇなら、こっちから行かせて貰うぜ!」


そう言いながら天竜は以蔵と名乗る男へ一直線に斬り掛かって行った。


以蔵と名乗った男は両手で握った刀で天竜の刀を受ける。


勝負は一瞬で片が付いた。


以蔵と名乗った男の刀は折られて、そのまま首を撥ねられたのだ。


頭部が地面に転がり、体は地面に倒れ込む。


首の切断面から血が流れ出て、血溜まりを拡げていく。


地面に折れた刀の切っ先が刺さっていた。

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