挿話拾/不覚を取った男
ちょうど一年程前の事であった。
もう幾らもしない内に夏を迎える、そんなある日の事である。
すでに日は沈んでいたが、酔って火照った体には夜風が心地好いくらいである。
少しだけ欠けた月が夜空から源太郎を見下ろしていた。
知人達はまだ宴会をしている事だろう。
源太郎は武道を歩む者として、日々の鍛練を欠かす訳にはいかなかった。
だから一人で宴会を早々に切り上げてきたのである。
子供達はすでに日課の鍛練を済ませている事だろう。
先に済ませておく様に申し付けておいたからだ。
後は源太郎自身の鍛練を済ませるだけである。
これから自宅の道場に帰って、日課の鍛練をするつもりでいた。
しかしまだ酔いが醒めずにいる。
少し酒を飲み過ぎた様だった。
これまで、こんなにも酔いが回った事は無い。
夜風に当たれば、すぐにでも酔いは醒めると思っていたが、歳の所為もあるのか、まだ完全には、酔いから醒める事は出来ていなかった。
少し不覚を取ったかな、と自省しながら歩を進めて行く。
すると左手に持った提灯の灯りの先に人影が現れる。
この時代に夜道で他人と出くわす事は滅多に無い。
余程の事が無い限り、わざわざ夜道を歩く物好きは、そうそう居ないのだ。
だから源太郎は一応の用心をする。
今、京の町は尊皇攘夷で揺れていた。
しかし源太郎は政治的な活動をしている訳ではなかった。
単なる剣術道場の道場主にしか過ぎない。
自分の息子達を含め、門下生を何人も新撰組へ送り出してはいるが、政争に巻き込まれる事は考え難い立場ではあった。
それでも一応の用心はしながら歩を進めて行く。
相手の顔を確認して、吃驚すると共に安堵する。
「
源太郎の方から虎士郎に声を掛けた。
虎士郎からの返事は無い。
「私に何か用件があるのか?」
源太郎が虎士郎に再び問う。
虎士郎は源太郎の問いには構わずに、刀を抜いて源太郎に斬り掛かる。
源太郎は何の抵抗も出来ないまま、虎士郎の刀に喉を貫かれた。
完全に油断だった。
まさか自分の息子に襲われるとは思いも寄らなかっただろう。
更に酒に酔っていた事が本当の不覚だった。
酔ってさえいなければ斬られる前に、虎士郎の狂気を察知する事が出来たのかもしれなかった。
曲がりなりにも隠岐流剣術を極めた源太郎なのだ。
その源太郎が酒による不覚と身内に対する油断が重なる事で、呆気なく葬られてしまう。
それも実の息子の一人に。
誰に知られる事も無く、一つの悲劇が此処で演じられていた。
虎士郎は源太郎の喉から刀を引き抜くと、刀を空で一振りして、刀に付いた血を振り払い、ゆっくりと刀を鞘に収める。
同時に源太郎の体は地面に倒れ込んでいた。
傷口から血が流れ出て、地面に血溜まりが拡がっていく。
すでに源太郎は絶命していた。
そして虎士郎は何事も無かったかの様に、その場から立ち去って行く。
その場には源太郎の屍だけが残された。
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