ルールを知らない男

城島 大

第1話


 

 オレが小学校の三年だか四年だかの頃の話だ。

 あの頃はいつも放課後に『終わりの会』という時間が設けられていた。

 田中君が金魚の世話をしなかったとか、斉藤君が給食当番をすっぽかしたとか、まあ大抵は他人の揚げ足取りに使われる時間だ。

 先生という絶対君主のいる時間なら、クラスの人気者だろうと暴君だろうと、平然と断罪できる画期的な時間だった。

 そんなある日の『終わりの会』で、ひょんなことから決まった『一日一回挨拶しようキャンペーン』というものがあった。

 本当に些細なきっかけだ。

 正義面した委員長が、挨拶を返さない人が多すぎると、影で裏金を受け取りまくってる政治家みたいな論調を展開し、ザ・性善説を貫く先生から「その通り」と賛同を得たことで始まった馬鹿げたキャンペーンだ。

一体何をキャンペーンしているのか、当時のオレにはまったくもって意味が分からなかった。もちろん、今でも分かっていない。

 しかし小学生の時分というのはなかなかに素直なもので。そしてキャンペーンという言葉も好きで。みんなけっこうノリノリで挨拶をするようになった。

 ある日、その『終わりの会』で議題が挙げられた。

 このオレ、久城鉄夫がきちんと目を見て挨拶を返さないと指摘されたのだ。

 みんなは口々にこう言った。

「ルールなんだから守りなさいよ」

「みんなで決めたルールでしょ」

 確かにオレは、この誰が得をするのか分からないキャンペーンに多少なりとも不満はあった。しかし、別に輪を乱してまでそれに抵抗するつもりなどなかった。

 面倒だとは思いつつも、挨拶されれば返すようにはしていたのだ。

 きちんと目を見て挨拶をしなければならないというルールを、オレは知らなかっただけなのだ。

「駄目じゃないか、テツ。どうでもよさそうなルールでも、きちんと守らないと社会に適応できない大人になるぞ」

 先生の言葉に、みんながそうだそうだと頷いている。

「いや、オレ別にルールを破るつもりなんて──」

「ほら! そうやって言い訳して! 悪いことしたらごめんなさいでしょ! “しゃかいにてきおう”できないよ!?」

「そうじゃなくて──」

「テツ。今は子供だから、ごめんなさいしたらみんな許してくれるんだ。これが大人になったらどうなると思う? ルールを守らなければ犯罪者になるんだぞ」

 いや、それは言い過ぎだろ。

「そうだ! “てきおう”しろ!」

「いや、だから──」

「“てきおう”だぞ!」

「じゃなくて──」


「「「て・き・おう! て・き・おう!」」」


 むずむずする。

 息が荒くなり、手が震え、身体の奥底がじんわりと熱くなる。

 クラス全員のコーラスが、オレをどんどん追い詰めていく。

 とうとうオレは、自分の中で膨れ上がった大きな何かを吐き出すために、息を吸った。


「うるせええええ!!!」

 そう叫んで飛び起きたオレの目に映ったのは、見知ったアパートの一室だった。

 木造建築で、狼が息を拭くだけでばらばらになりそうなボロアパート。一歩歩くごとに悲鳴をあげる欠陥住宅だ。

 オレは茫然として、めざまし時計のアラーム音を全身に浴び続けていた。

 ふと横を見ると、疎らな茶色の毛で覆われたダックスフンドが、顎を床につけて眠そうな瞳をこちらに向けている。

 ようやく我に返ったオレは、ため息をついて時計のアラームを止めた。



ルールを知らない男



「ホントにねぇ。困るんだよねぇ」

「はあ。すんません」

 いつものように、オレは大家に頭を下げる。

 大家の足元には、オレが昨日出したはずのゴミ袋が置いてあった。

「いいかい? よぉく、この張り紙を見てね? 『燃えるゴミは、火曜日と木曜日』って書いてあるじゃない。なんで分かんないかなぁ、まったく」

 人を嘗め回すような、正当な理由がなくとも張り倒したくなる口調にも、オレは頭を下げることしかできなかった。

 こんな奴に頭を垂れるのは悔しいが、今は家賃も滞っている状態だ。

 実はその張り紙が去年のもので、今年は燃えるゴミを月曜日に出すのが正しいんだなんて言えば、こいつの口から出るのは臭い息だけじゃなく、飛沫まで加わることになるだろう。

「それとさぁ」

 そう言って、大家は身体をくの字に曲げてオレの部屋を覗いた。

 まるでタイミングを計ったように、あの馬鹿犬がてててと廊下を過ぎっていく。

「ここ、犬買うの禁止なんだけど?」

「はあ。実は、親戚に旅行に行くからと無理やり渡されまして……」

 嘘だ。

 オレに親戚なんていない。

 あいつはたまたま公園で拾ったならず者だ。

「それならしばらくは大目に見るけど、早く返してよ? 僕さぁ、犬って嫌いなんだよね」

 ようやく大家は踵を返し、オレはほっと息をつく。

 しかし、まるでそれを予期していたかのように、ぐるりと大家はこちらを向いた。

「分かってる? ルールを破ってごめんなさいで済むのは、子供の頃までなんだよ」


 大家が帰り、オレはため息交じりにドアを閉める。

 見ると、馬鹿犬がオレを見上げて尻尾を振っていた。

「……よう。お前、嫌われてるらしいぞ」

 まるで抗議でもするように、小さな前足でオレの足を一かきすると、そのまま奥へと駆けて行く。

 どこぞで一人遊びでも始めるのかと思いきや、丸い瞳をキラキラさせてこちらを振り向き、ハッハと舌を出してきた。

 こいつは馬鹿のくせに、餌を催促することだけは抜群にうまいのだ。

「……あーもう、わかったよ。ちょっと待て」

 そう言うと、こいつはまるで人間の言葉が分かるかのように、嬉しそうな声でアン! と吠えた。

 こいつに名前はない。

 馬鹿犬は馬鹿犬だ。

 そもそも、好きで世話しているわけでもないのだ。ただ単に成り行きで拾うことになり、その場の流れで日銭の少ないこのオレが、何の対価も払わないこいつのために餌をやることになった。

 本当に馬鹿げた話だ。

 こいつのことを話そうとすると、馬鹿という単語が最低四つは出てくる羽目になる。だからというわけではないが、こいつの名前はやはり馬鹿犬というのが相応しいのだ。

 オレが古ぼけたお椀にドッグフードを盛り付けてやると、馬鹿犬は待ってましたと言わんばかりに駆け寄って来た。

 すうと息を吸い、オレは言った。

「待て」

 馬鹿犬はむしゃむしゃと飯を食べ始める。

 ……やはり馬鹿犬は、どこまでいっても馬鹿犬だ。

 自分の馬鹿さ加減も分かっていないこいつは、餌を綺麗に食べ終えると、食事を与えてくれた飼い主になけなしの感謝を示すためか、こちらを向いてぺろりと舌なめずりしてみせた。


◇◇◇


「久城さん。まだあの犬の世話してるんスか?」

 青のツナギに付着した土に気をつけながらコンビニ弁当を食べていたオレに、後輩の大木が言った。

 その声が少し聞き取りづらかったのは、土木工事で使うドリルの音を長時間聞き続けていたからだ。

 いつか難聴になったら、ちゃんと社会保険が降りるのだろうか。

 ここのブラック企業じみた労働条件を見ていると、時々心配になる。

「うるせーな。関係ねーだろ」

「関係ありますよ。一応、オレも一緒に見つけたんスから」

 あの馬鹿犬を拾ったのは今日とは真逆。オレ達土木業者から体力をがんがん削り取るような太陽も、形(なり)を潜めていた日だった。

 ざーざー降る雨がオレ達のやる気まで洗い流していた、そんな日だ。

 傘を持って来なかったという大木のせいで、何が嬉しいのか後輩と相合傘を強要されていた仕事の帰り。

 人通りも一切なく、何の遊具も置いてないただただ広いだけの公園に、そいつはいた。

 今時、もう見飽きてしまったテンプレートな光景だ。

 段ボールの中に申し訳程度に毛布が入れられ、その上を戸惑うようにうろうろする子犬。段ボールには、『大切に育ててください』なんて無責任な言葉が書かれてある。

「ひえ~。捨て犬なんて初めて見ましたよ。どうします?」

 こいつはいつもそうだ。

 なにかっていうと面倒なことがあると、どうします? と言ってオレに全てを押し付けてくる。

「……ほっとけよ。どうせ誰かが拾うだろ」

 そう言って、オレは即座に踵を返す。

「クゥーン」

 はっとした。

 恐る恐る後ろを見ると、そいつは段ボールに足をかけ、こっちをつぶらな目で見つめてやがった。

 こいつ……! 誰に媚を売ればいいか分かってやがる……!

「かわいそうっスよぉ。拾ってやりましょうよぅ。あ、オレのアパート犬禁止なんで無理っスけど」

 てめえは黙ってろ!


 ──と、いうようなことがあったのだ。

 まあ、オレもガキの頃、両親に捨てられて施設に放り込まれた経験があるから、何とはなしに自分の境遇と重ね合わせていたのかもしれないが。

「それでですね。ちょっと調べたんすよ」

「はあ? 何をだよ」

「いえね。なんでも捨て犬を拾う時は、きちんと届けを出さないといけないらしいんです」

 オレは思わず箸を止めた。

「……はあ? そんなの初耳だぞ」

「なんかけっこう厳しいみたいなんスよ。狂犬病とか、そういうのをちゃんと管理できるか政府が確認するんですって。別に徴収するわけじゃないみたいなんスけど、見せ金として数百万単位の金がいるとか──」

「百──! あるわけねえだろ、んなもん!」

「ですよねぇ。でもそれがないと、殺処分とかになっちゃうらしいんスよ」

 ふと、オレは思い出した。

 昨日、あいつの姿を大家に見られた。

 ちょっと調べればオレに親戚がいないことくらいすぐに分かるだろう。当然、オレがそんな貯金を持っていないこともだ。なにせ、家賃でさえ満足に払えていないのだから。

 ……まあ、大丈夫だろ。さすがにそんな一朝一夕で処分されることはないはずだ。

 何とはなしに視線を彷徨わせていると、向かいにある家電量販店のショーウィンドに並んでいるテレビが目に入った。

 ちょうどニュースが放送されているようで、びしっとしたスーツを着た男が手元の原稿を読み上げている。

『最近になって導入された『捨て犬保全法』が、今日実働されました。突然の摘発に市民は動揺を隠せないようです。混乱を避けるため、政府は東京都△△市●●町内から摘発を始めると公表しており──』

 オレの真横で鎮座する道路標識が、太陽の光でキラリと光った。

 まるで自分の存在意義をアピールするように、『東京都△△市●●町』と書かれたプレートを見せつけてくる。

 ……知らねえ知らねえ。オレは何も聞いちゃいない。

 そうさ。何も聞いちゃいないんだ。

 ふと、前を歩く女子高生二人の声が聞こえてきた。

「そういえば、さっき見たよ。ほら、『捨て犬保全法』で犬が回収されてるとこ」

「ええ? マジ?」

「マジマジ。役人って見ただけですぐわかるのね。でかでかと『捨て犬保全委員会』って書いたワゴンがあってさ。駕籠に入った犬をその車に乗せてたの。かわいそうだったなぁ。もう一つ駕籠が見えたから、たぶんあともう一匹連れていかれるんじゃないかな。なんか無線で話してて、次は○○丁目に行くってさ」

 ウチのアパートも、その住所だったよな。

 ……いや、ないない。

 今日たまたま妙なルールを知って、たまたまオレの前を横切る女子高生が処分現場を目撃していて、たまたまその下手人が馬鹿犬を処分するなんて、そんな偶然あってたまるか。

 どうせこの女子高生が何かと見間違えたとか、そんなオチに決まってる。

 だいたい、今アパートに帰ったとしても間に合うわけがない。

 オレにできることなんて何もないんだ。

 そんなことにいちいち煩わされるより、目の前にある仕事をきちんと熟(こな)す事の方が重要だ。

 日銭が稼げなくなったら、文字通りオレは路頭に迷うことになる。

 うん。オレの考え方は間違っていない。

 間違っていないはずだ。

「おい! 休憩終わったぞ!! さっさと来い!!」

 遠くから、監督の怒声が聞こえてきた。

「やべっ! 早く行きましょう。監督鬼だからなぁ。仕事サボると減給なんて話じゃ……って、久城さん!? どうしたんスか!」

 気付けば、オレは監督とは正反対の方向に走っていた。

「忘れもん!」

「別に持って来るものなんてありませんよー!」

 オレは振り返らずに、その場を走り去った。


◇◇◇


 オレは急いだ。

 それはもう、かなりのスピードだったと思う。こんなに急いだのは、ガキの頃、いつも親身になってくれた施設長が交通事故に遭った日以来じゃないだろうか。

 ふと前を見ると、いつも通る道に交通整理の警備員が立っていた。

「すみません。今日はここで工事がある予定ですので、道を回っていただけますか?」

 オレは警備員の後ろを覗いた。

 トラックなど、いくつかの器具が置かれているものの、作業員はいないようだ。

「工事してねえじゃねえか。ウチの居候の一大事なんだ。通してくれ」

「すみませんねぇ。そういうルールですので」

「いやだから! そのルールはアレだろ!? 工事中に人が通ると危ないっていうやつだろ!? 今工事してねえんだからいいじゃねえか! 居候の命が掛かってるんだよ!」

 警備員は、へらへらしながら言った。

「ルールですから」

 ぶちりと、オレの脳内の血管が一本切れた……ような気がした。

「あ、ちょっと困ります!」

 オレは警備員の制止を無視して、その道に足を踏み入れた。

「うるせえ! そんなに通したくなきゃ令状の一つでも持って来い!」

 一喝すると、うるさかった警備員もしゅんと声を落とす。

 オレはこのままその道を走り抜けた。


◇◇◇


 ようやくアパートが見えてきた。

 ほっと息をついたのもつかの間、オレは思わずはっとした。

 ワゴンが走り去る姿が見えたのだ。

 そのワゴンは突き当たりを曲がって見えなくなる。

 通りすがりの女子高生が話していた『捨て犬保全委員会』という文字は見えなかったが……。

 オレは急いで自分の部屋がある三階まで駆け上がり、勢いよく玄関のドアを開けた。

 しんとしている。

 誰かがいる気配など微塵もない。

 オレは、思わずそこで立ち尽くしていた。

 ふと、そこでようやく、小さな音がしていることに気付く。

 しばらくそこに突っ立っていると、その小さな音が徐々に大きくなり、てててと床を小走りしながらあの馬鹿犬が姿を現した。

「……はぁ。ったくよぉ」

 オレは思わずその場にへたり込んだ。

 馬鹿犬は、遊んでもらえると勘違いしたのか、しっぽを振りながらこっちにすり寄って来る。

 本当に、人の気も知らないで。

 馬鹿犬は気楽なものだ。

 

 ピンポーン

 

 その時、突然部屋のチャイムが鳴った。

 オレは馬鹿犬の方を見る。

 こいつは何も分かっていないらしく、きょとんと首を傾げている。

「……ま、いいや。居留守しよ」

 ピンポーン

 オレはチャイムを無視して馬鹿犬をひょいと掴むと、そのまま居間へと移動する。

 ピンポーン

 訪問者は等間隔にチャイムを鳴らし続ける。

 それでもオレは無視して、居間に馬鹿犬を置いた。

 椅子に座り、一息つく。

 ピンポーン

 仕事現場から走りっぱなしで、さすがに疲れてしまった。

 そこでふと、自分が仕事をほったらかして来たことを思い出した。

「……ああ、嫌なこと思い出しちまった」

 あの監督のことだ。

 平謝りしたところで許してはくれないだろう。

 ピンポーン

「……」

 ピンポーン

 ピンポ──

「うるせえな! 誰だよこんな真昼間に!」

 オレは玄関のドアを勢いよく開けながら叫んだ。

 しかし次の瞬間、ドアの前にいた訪問者を見て唖然とする。

 真っ黒のスーツにサングラス。ボマードで固めたオールバックの黒髪。

 世間的におっさんと呼ばれる年齢のこのオレが、会話したこともない通りすがりの女子高生に、初めて共感した瞬間だった。

 役人は、見たらすぐに分かる。

「久城鉄夫さんですか?」

「え、っと……はあ。そうですけど」

 まるで機械のような正確さで、その役人は腕時計を確認した。

「犯罪管理課は1400(ヒトヨンマルマル)時、あなたをルール違約人危惧と認定しましたので、その報告に参りました」

「……は?」

 突然訳の分からない言葉を浴びせられて、オレは文字通り困惑した。

 犯罪管理……?

 ルール違約人……?

 なんだそれは。何かのドラマで流行ってる言葉なのか?

「我々はこの日本から犯罪というものを根絶するために作られた組織です。我々は一般市民が犯罪予備行為……つまり一般的に法律と呼ばれる規範よりも低い位置にある“ルール”を破っていないか、常に監視しております。その“ルール”を一定以上破った人間は犯罪者予備軍と見做され、我々から罰則を与えられることになります」

「ちょ、ちょっと待て。オレ、そんな話初めて聞いたんだけど?」

「日本に住んでいる以上、知ろうと知るまいと全員が適応される法律です。世間一般で言う常識というものです」

 え? 常識なの?

 しかしそう言われれば、どうにも反論しづらい。

 ウチにはテレビなんて置いていないし、パソコンの類もない。つまりここ何年も、世間でいう一般常識を培う機会がなかったのだ。

「……まぁ、そういう法律があることは、分かった。で、さっき言ってたルール違約人危惧ってのは?」

「先程、“ルール”を一定以上破った人間を犯罪者予備軍と見做す、と言いましたが、ルール違約人危惧は犯罪者予備軍の一歩手前ということです」

 まったく淀みなく、突っかえることもない説明を前に、オレは、何度も練習したんだろうなぁ、くらいのどうでもいい感想しか思い浮かばなかった。

「国民はそれぞれ一定のポイントを持った状態で生まれます。そして何かルール違反を犯す毎にポイントが減点されていき、それがゼロになれば犯罪者予備軍となります。一度犯罪者予備軍になれば、その後の行動は著しく制限され、本来ならポイントを減点されるだけで済むルール違反を冒せば、その場で罰則が与えられます」

「……はあ」

「あなたは先程、警備員の制止を無視して歩行禁止の道を通りましたね」

 オレは思い出した。

 確かにこのアパートへ向かう途中、工事中だと抜かす警備員を一喝した。

「歩行禁止の道を歩く行為は、十ポイントの減点になります。この減点で、あなたはルール違約人危惧となりました」

 ……まぁ、確かにルール違反かどうかと言われればルール違反だろう。

 しかし、こちらにも事情があったのだ。

 それに、工事なんてしてなかったし。

 しかしそういった不平不満にこの役人が聞く耳を持たないことは、その威圧的な態度からも明らかだった。

「……ちなみに、そのルール違反ってのは他にどんなものがあるんだよ」

「例を挙げると、誰もいない赤信号を渡ると一ポイント。七十センチ以上の高さの家具を部屋に置く場合、何らかの形で固定させていなければ三ポイント減点です」

 役人は、オレに見せつけるように、くいとサングラスをあげた。

「ちなみに。五秒以上のラグでチャイムを鳴らしていた客人に対し暴言を吐くのは、四ポイント減点です」

 知るか。

 しかし聞けば聞くほど、このルールってやつはほとんど難癖に近い。

 こんなことで犯罪者予備軍だと呼ばれるのはどうにも納得しづらいものがあるが、この一切表情を変えない役人を見れば、そのような文句は言うだけ無駄というものなのだろう。

「……ったく。なんでこう、役人ってやつは頭が固いのかね」

「ルールはルールです。決められたことを守れない人間は、社会に適応できないと判断されます」

 ぴくりと、指が震えた。


『て・き・おう! て・き・おう!』


 あの忌々しい悪夢が、まさかこんなところで襲ってこようとは。

「それでは、その犬をこちらにお渡しください」

 気付けば、あの馬鹿犬が居間からひょっこり顔を出してこちらを窺っていた。

「……こいつをどうする気だよ」

「殺処分にします」

 役人は冷酷に言い放った。

「あなたに捨て犬を保護するだけの資金がないことはこちらの調べで分かっています。元飼い主との間に合法的な譲渡行為が行われていない以上、『捨て犬保全法』が適応されます。段ボールに書かれた一言のみでは、譲渡行為は成立しません。条件を達成できていない以上、こちらのルールに従っていただきます」

「……嫌だと言ったら?」

「あなたは先程の三ポイント減点で、ボーダーラインぎりぎりまで持ち点が減っております。犯罪者予備軍になれば最悪矯正所送りとなり、そこで五年は拘束され、犯罪に走る可能性のある思想は全て矯正されます」

 矯正。

 その言葉に、民主国家とは思えない強制力を感じ、オレはごくりと息を飲んだ。

「それでは、その犬をお渡しください。国の保護の元で生活している以上、最低限の義務は果たしていただきます」


『社会に適応できなくなるぞ』

 

 こんな時にも、浮かぶのはガキの頃の嫌な思い出だ。

『ルールなんだから守りなさいよ』


 むずむずする。


『どうでもよさそうなルールでも、きちんと守らないと社会に適応できない大人になるぞ』



 息が荒くなり、手が震え、身体の奥底がじんわりと暑くなる。


『ほら! そうやって言い訳して! 悪いことしたらごめんなさいでしょ!』


グラス全員のコーラスが、オレをどんどん追い詰めていく。




『大人になれば、ごめんなさいで済まなくなるんだぞ』




「うるせえええ!!!」

 気付けば、オレはその役人を思い切りぶん殴っていた。

 殴られた勢いで向かいの壁に激突し、そのままずるずると倒れ込む。

 完全にもの言わず気絶してしまった役人を見て、自分でやったことながら、オレは思わず茫然としていた。

「……役人をぶん殴るって、……ルール違反になるかな?」

 思わず馬鹿犬に聞くと、こいつは頷くようにその場に座り込んだ。

「ルール違反者だ!!」

 突然叫び声が聞こえた。

 大家だ。

 騒ぎを聞きつけ、様子を見に来たのだ。

 大家はホイッスルを取り出すと、勢いよくそれを吹いた。


 ピイイイイ!!!


 ホイッスルの劈くような鋭い音が辺りに響く。

 突然の大家の行動に訳が分からず茫然としていた時だった。

 アパートの住民達の扉が、一斉に開いた。

 三メートル以内にいるだけでシップの臭いが香るじじい。何の仕事をしているのかも分からない華美なおばさん。顔を合わせただけでリストラされたと分かる中年の男。

 様々な下宿人達が、機械のように歪な動きでこちらを向く。

 オレはごくりと息を飲んだ。

「ま、まあ待て。話を聞けよ。これは別にルール違反をしたわけじゃなくてな……」

 彼らの顔色は変わらない。

 オレは、にこりと堅い笑みをみせた。

 その瞬間、踵を返して自分の部屋の中へと逃げ込んだ。

 その動きに呼応するように、全員が部屋の中へとなだれ込んでくる。

 オレはきょとんとしている馬鹿犬を掬い取るように抱えると、ベランダに出て下へと飛び降りた。

 駐輪場の天井に飛び乗り、そこから二メートルはある地上へとダイブする。

 足が着地した瞬間、急激な負荷が掛かるも、地面に手をつき何とか持ち堪えた。

「いっつつつ。……へっ。土木工事で鍛えた足腰舐めんなよ」

 見たところ、ここを飛び降りられる奴はいない。

 あいつらが階段を使ってこっちにやって来るまで、そこそこの時間を稼げたということだ。

 その間にどうにか身を隠して──


 ドスン!


 そんな音がして、オレは足を止めた。

 ゆっくりと、音のした方へ顔を向ける。

 立っているだけでぼきりと折れてしまいそうな身体をしたじじいが、オレのベランダから直接地面へ降り立ったのだ。

「……ええ!?」

 ギギギと音をたてるように、じじいはこっちを向いた。

 その瞬間、ドスン、ドスンと何度も音がし、じじいの周辺におばさんやリストラ男が着陸する。

 オレは迷うことなく踵を返し、全速力で逃走した。

 奴らは足の痺れもまるでないのか、まったくの無表情で追いかけてくる。

 恐ろしいことに、足の速さも相当なものだ。

「なんなんだこいつら! 生まれはサイバーダウン社ってか!?」

 体力には自信のあったこのオレも、一切走力が衰えない追手達には歯が立たない。

 少し余裕のあった差も、ぐんぐんと詰め寄られる。

 このままじゃやべえ!

 しかし、なりふり構わず走ることしか、この状況を打破する方法は思いつかなかった。

 目の前に見える横断歩道。あれを渡り切った辺りで追いつかれてしまう!

 オレはまるで人生の終わりを経験するかのような走馬灯を味わった。

 オレの人生はいつから狂った?

 両親に捨てられて施設に預けられた時か?

 小学校のあの終わりの会か?

 それともこの馬鹿犬を拾った時?

 いや……世界のルールを知ろうとしなかった時か。

 オレは横断歩道を渡ったところで、諦めて足を止めた。

 もういい。

 これ以上逃げたところで結果は一緒だ。

 拘束でも矯正でも、何でも受けてやる。

 そんな投げっぱちな気持ちで後ろを向いた時、オレは唖然とした。

 先程まで必死に追いかけてきていたアパートの住民達が、全員止まっているのだ。

 訳が分からない。

 まるで機械人形のように疲れも知らずに足を動かしていたというのに。

 オレはふと何かを感じ、右上に鎮座する信号を見た。

「……赤信号」

 信号は、赤色の光源を歩行者に向けて放っていた。

 奴らはその信号をじっと見つめるばかりで、横断歩道を渡ろうとしない。

 車が通る気配もないのに、だ。


『誰もいない赤信号を渡れば一ポイント減点です』


 役人の言葉を思い出し、オレは乾いた笑い声をあげた。

 まったく、妙なところで律儀な奴らだ。

「アン!」

 馬鹿犬の声にはっとさせられ、オレは慌ててその場を離れた。


◇◇◇


 しかし、これからどうしようか。

 役人をぶん殴ったことはすぐにでも知られることになるだろう。

 おそらくその行為は、四、五回矯正所送りにされても釣りがくるほどのルール違反だ。

 というか、ぶっちゃけ普通に犯罪行為だ。

「あのアパートには帰れねえし、当面の金もねえ。おまけに犯罪者予備軍で追われる身ときたか」

 思わず苦笑する。

 ふと気づくと、抱えたままだった馬鹿犬が、何の悩みもなさそうな目で遊んでほしそうにこちらを見つめていた。

 この時ほど、自分も犬に生まれてきたら良かったと思ったことはない。

「……ったく。ほら、勝手に遊んでろ」

 オレが馬鹿犬を降ろした時だった。

「あ!」

 突然声がして、思わずそちらに目を向ける。

 談笑していた二人の主婦が、こちらを見て固まっていた。

 一体なんだ?

 さすがに、この短時間で指名手配され、顔写真をばら撒かれたとは思えないが。

「……あのー、どうかしました?」

 ひそひそと話し始める二人を見かねて、オレは声をかけた。

 主婦の一人が、じっとオレを見つめ、おずおずと言った。

「……リード」

「は?」


「「リードをしないで犬を散歩させるのは、ルール違反です」」

 

 オレは硬直した。

 二人の主婦はホイッスルを取り出すと、一斉にそれを鳴らした。


 ピイイイイイイ!!!


 途端、近くの家の玄関が一斉に開き、エプロンをつけた主婦や太ったニートが全速力で走って来た。

「うわわわわ!」

 オレは大慌てで馬鹿犬を抱き上げて逃走した。

 逃げながら、オレの脳裏に過去の記憶が過ぎる。


『犯罪者予備軍になれば、その場で罰則が与えられます』


 妙だなとは思った。

 二十四時間監視しているわけでもあるまいに、オレがルール違反したら、一体誰がその場で罰則を与えるのだと。

 それはつまり──

 オレは後ろを振り返る。

 そこには、逃走中にオレがすれ違った老若男女全員がいた。

「こういうことかよおお!!!」

 犯罪者予備軍になれば、その場にいる人間全員が監視人となるのだ。

「あ! 通学路を時速12キロ以上のスピードで走るのはルール違反です!」

「うるせえ知るかああ!」

 背後でホイッスルの音が聞こえるのも無視して、オレは走り続けた。


◇◇◇


 オレはそのアパートのチャイムを連打した。

 役人は五秒以上のラグがどうとか言っていたが、もはやここまでくればとことんルールを破ってやろうという反骨精神が芽生えたのだ。

 奴らの言う犯罪者予備軍達の心境は、みんなこんな感じなのだろう。

「あーもうなんスか! さっき仕事が終わったばかり……って、なんだ。久城さんスか」

「訪問客を罵声で歓迎すると三ポイント減点だぞ」

 ……いや、これは五秒以上のラグでチャイムを鳴らしてた奴相手だったらか?

 まあいいや。

「とにかく、邪魔するぞ」

「えぇ? なんかあったんスか? てか、監督めちゃくちゃ怒ってたんスよ!? もうあいつはクビだって……あれ? この犬ってあれですか。あの時拾った犬っスか?」

 オレは質問の一切合財を無視して中に入った。

 若い奴らしく散らかってるのかと思えば、意外と綺麗に整頓されてやがる。

 オレは勝手に座布団を引っ張り出すと、どっかとそこに座った。

「勝手に寛がないでくださいよ~」

「堅いこと言うな。ずっと走りっ放しで疲れてんだよ」

 オレは大木に事の顛末を話した。

 家に役人が来たこと。

 犯罪者予備軍になりかけていたこと。

 流れでその役人をぶん殴り、ここまで逃げてきたこと。

 大木は全てを聞き終えて、ぽかんとしていた。

「……なんつうか、そのルールなんちゃらってのもそうっスけど、なにより久城さんの行動力に驚きですよ」

「……言うな」

 馬鹿犬は、人の気も知らないで、ごそごそとゴミ箱を漁っている。

「で、わざわざ僕に何の用ですか? まさかずっと匿ってくれなんて言いませんよね」

「そうしてくれるなら最高なんだが、そこまで期待はしてねえよ。ただちょっと車を貸して欲しくてな」

「えぇ~?」

 大木は露骨に嫌そうな顔をした。

「この前話してたろ。無理して新車買ったってよ」

「言いましたよ。新車をね、新車を。分かります? こんな逃走劇に使って欲しいものじゃないんですよ」

「傷はつけねえよ」

「本当ですか~?」

 大木は信じられないとでも言うように眉をひそめた。

「オレはな」

「当たり前なこと言わないでください!」

 しばらくの間押し問答が続き、どうやらオレに曲げる気がないらしいことが分かると、大木は面倒そうに頭を掻いた。

「……ていうか、車で逃げてどうするんスか? 相手は国っスよ」

「ここまできたら、どっかの裏社会で戸籍でも買うしかねえだろ。身を隠すにせよ何にせよ、この町にはいられねえ。それに『捨て犬保全法』が適応された場所じゃ、苦労して戸籍変えてもすぐ犯罪者予備軍にされちまうからな」

 『捨て犬保全法』は、まだこの町にしか適応されていない。

 つまりこの町から脱出することができれば、少なくとも馬鹿犬は処分対象から外されることになる。

 この町を契機に広がるとされている『捨て犬保全法』だが、今回の騒動を見て市民の反発が起こり、法律自体が撤廃されることだってないとは言えない。

 どちらにせよ、この町からの脱出はオレ達が生きていくうえで最低限突破しなければならない関門だった。

「その犬を捨てるってのも、僕はアリだと思うんですけどね」

 自分が呼ばれたと思ったのか、ん? と馬鹿犬がこちらに振り向いた。

「……もののついでだ。どうせこいつを拾って来たのも成り行きだしな。流れに身を任せるよ」

 大木はそれを聞いて、盛大にため息をついた。

「久城さんって、前から馬鹿だと思ってたけど、想像以上に馬鹿だったんですね」

 オレはむっとした。

 馬鹿犬をさんざ馬鹿呼ばわりしているオレだが、誰かに馬鹿と言われるのは無論のこと嫌いなのだ。

「……しょうがないなぁ。貸しですよ、貸し」

 仕方ないと言わんばかりの、未練たらたらな了承だった。

「悪いな。あと、貸しついでに金もくれ」

「あんた無心してる自覚ないでしょ!」

 大木はすっくと立ち上がった。

「お茶でも飲みます? 喉かわいてるでしょ」

「お前にしちゃ気が利くな」

 大木がキッチンに入って行く。

 オレはほっと息をつくと、脱力して、あお向けに倒れ込んだ。

 今後の展開に、なんとか希望を見出し始めている自分がいる。

 解決すべき問題はまだまだ多いが、当面の目的ができただけでも、心にゆとりが生まれるというものだ。

 手持無沙汰にごろごろしていると、アンと小さな声が聞こえて、馬鹿犬の方を見た。

 馬鹿犬の後ろにある本棚はご丁寧に固定金具で止められており、その横にある机の脚は柱とベルトで繋がれていた。

 オレは目を細めた。

 馬鹿犬にしては、なかなかいい仕事だ。

 しばらくすると、大木がコップを二つ持って戻って来た。

「どうぞ」

 そう言って置かれたコップには、なみなみとお茶が注がれている。

 見た目は何の変哲もない。

 大木はのんびりと自分のコップを口に運んでいる。

 オレはじっとそれを見つめていた。


「どうかしました?」

「……さっき言い忘れてたが、実は奴らの共通点を一つ見つけてな」

 大木は思わず笑った。

「なんスか、奴らって。まるで人間の格好した宇宙人を相手してるみたいですね」

 オレからすれば同じようなものだ。

「奴らはオレを犯罪者予備軍だと本気で信じてやがる。言うなれば、社会不適合者ってわけだ。奴らからすれば、オレは足りないところだらけの人間ってわけさ。だが、不適合者にできて奴らにできないことが一つだけある」

 大木は黙って聞いている。

「奴らは、“ルール”を破れない。犯罪者予備軍を追ってる最中だろうと、車も通ってない赤信号を渡れないくらいにな」

 オレは苦笑する。

 あのシュールな絵面は、一生忘れることができないだろう。

「この“ルール”ってのが曲者(くせもの)で、オレの感覚からすりゃ本当にどうでもいいことが多くてな。たとえば……」

 オレは、大木の目をじっと見つめた。

「高さのある家具はどこかに固定しとかなきゃならない、とかな」

 沈黙が辺りを支配する。

 表情の変わらない大木の顔を、オレは一瞬も目を離さずに観察している。

 大木はにこりと笑った。

「それはよかった。今役人が入って来ても、オレは減点されないってわけだ」

「そういうことだ。……それともう一つ。この馬鹿犬を助けた時のことだけどな」

「あ~、あの日は天気悪くて大変でしたね~」

 大木は両手を床につき、あくまでもリラックスしている姿勢を崩さない。

「こいつを見つけたあの公園。遊具も何もない、本当に誰が得するのかわかんねえ公園だったよな」

「ああ、そんな感じでしたね~」

「監視カメラなんて、どこにも仕掛けられねえよな」

「そうかもしれませんね~」

「……なんであの役人は、馬鹿犬が捨ててあった段ボールに一言添えられてあったことを知ってたんだろうな」

 ギロリと、オレは大木を睨んだ。

「チクりやがったな」

 大木はしばらく笑顔を向けていたが、やがて大きくため息をついた。

「先輩って、馬鹿のくせに勘は良いんスよね~」

「てめえ、役人か」

 何でもないように、大木は頷いた。

「そうっスよ。オレは犯罪管理課の中にある試験係の人間でしてね。人にいくつかのノルマを与えて、そこで“ルール”違反するかどうかを見るのが仕事なんです」

 道理で、何でもかんでもオレに押し付けてくるわけだ。

「“ルール”違反する人間を減らそうって奴らが、わざと違反させてるんじゃ世話ねえな」

「それは仕方ない。予算は有限なんです。迅速に、かつ効率的に、国民を導かなければならないんです。試練に合格し、僕ら試験官のお眼鏡に適った国民は、そこで監視を解除されるってわけです。そうやって篩(ふるい)に掛けていく方法が一番効率的なんですよ」

「役人って奴は、どいつもこいつもクソ野郎ばっかだな」

 オレは吐き捨てるように言った。

「大義のためです」

「ルールを知らねえ奴はどうする」

「無知は罪ってやつですよ」

 オレは起き上ろうとした。

「おっと。ヤボな真似はしないでください」

 そう言って奴が取り出したのは、黒光りする拳銃だった。

 オレは焦った。

 いつから日本は、銃刀法違反が適応されなくなったんだ!?

「犯罪管理課の人間は、その仕事の範囲内で銃の使用が認められてるんですよ」

「……それも、オレの知らねえルールってわけか」

 大木はせせら笑った。

「恨むなら、馬鹿だった自分を恨むんですね」

 いざとなったら、このひょろい野郎をぶん殴って逃げる気でいたが、こうなっては難しい。

 万事休すか。

 そう思った時だった。

「いって!!」

 突然大木が叫び声をあげた。

 大木の脛に、馬鹿犬が思い切り噛みついたのだ。

「……この、馬鹿犬!!」

 馬鹿犬に銃口が向けられる。

 それはつまり、オレが銃の射線上から外れたということでもあった。

「こいつが馬鹿犬なのは同意見だ」

 大木が気付いた時にはもう遅い。

 オレは一気に奴の懐に飛び込んで、銃身を掴んだ。

「く……そがぁ!」

 大木は空いた手で拳を作り、オレの顔へと放つ。

 オレは、ぱしりとそれを片手で受け止めた。

「あぁ~ん? なんだそのへたれたパンチは」

 少し力をいれて握っただけで、大木は苦悶の表情を浮かべた。

 既に大木がオレに抵抗する術はない。苦痛の顔が、徐々に恐怖に歪んでいく。

 オレはそれを見て、にかっと笑ってみせた。

「恨むなら、頭ばっかでかくして身体鍛えなかった自分を恨むんだな」

 ゴインと、鐘と鐘がぶつかるような音がこだました。

 オレの頭突きをまともに受けた大木は、そのままふらふらと後退し、ばたりと倒れ込んだ。



 大木の財布の中身を見て、オレは思わず舌打ちした。

「役人の癖にシケてやがんな」

 それでもないよりはマシだと自分に言い聞かせ、その財布を懐に仕舞う。

 それに、お目当てのものはちゃんと見つかった。

 こいつの持つ車のキーだ。

「これで足は確保できたな」

 そうとなれば、こんな部屋に長居は無用だ。

 大木の身体を適当にふん縛って、オレはアパートの外に出た。

 奴の車がどれなのか、見当はすぐについた。

 なにせ、ここはアパートの癖にガレージ付きという大層シャレた貸家で、二階にある部屋の下に車を収納できるようになっているのだ。

「同じ職場の後輩のくせして、ウチとは比べものにならねえ良物件だな」

 まあ、本来はそれ以上に比べものにならない給金をあいつはもらっていたのだろうが。

 早速オレがガレージを開けようとした時、ふとアパートの前で言い争いをしている親子が目についた。

「何度も言わせるんじゃありません! 挨拶する時は相手の目をきちんと見ないとだめでしょ!」

 母親に叱られているガキは、泣きそうな顔で俯いていた。

「だって、ボク知らなかったし──」

「だっても何もありません! 悪いことをしたらまず謝るのが普通でしょう!? まったく、どうしてこんな子に育ったのかしら」

 文句を言いながら、母親はくどくどとガキを責めたてる。

 ガキは俯いたままで何も言わない。

 身体を震わせ、拳を作りながら。

 オレは、奴の心の奥底で何かが溜まって行くのを、何とはなしに感じ取っていた。

「クゥ~ン」

 馬鹿犬が、何かを訴えるようにオレを見つめてくる。

「……あぁ~もう! 分かったよ。止めりゃあいいんだろ、止めりゃあ!」

 オレは苛立ち混じりに、くるりと踵を返した。

 ずんずんと、ガキを叱りつけている母親に近づいて行く。

 今オレの胸に秘められているのは怒りの感情だった。

 理不尽な説教を聞かされているガキに同情したからではない。耳を塞ぎたくなる甲高い母親の声にイライラしていたからではない。こんな不毛なことに時間を取られてしまうからでもない。

 オレなりに人生を生きて来て、オレなりに得た価値観を、今まで誰にもぶつけられなかったことへの怒りだ。

 今までの不当な扱いで蓄積されたストレスを誰かにぶつけてやりたいと、ずっと思っていたのだ。

「いいこと? ルールは守らなくてはならないの。ルールを破ったら犯罪者になって、一生後悔することに──」

 母親の声がにわかに止まる。

 オレが至近距離で、圧力をかけるように立っていることに気付いたのだ。

「な、何か?」

 ガキが唖然としているのもお構いなしに、オレはすうと大きく息を吸った。

「ルール、ルール、ルール! うっせえんだよてめえらは!! こっちはあくせく働いた金でちゃんと税金払ってんだ! 好きに生きて何が悪い!!」

 オレはそれだけ言うと、くるりと踵を返した。

「な、と、突然目の前で大声を出すなんて失礼だわ! あ、あなたね。それはれっきとしたルール違反ですよ!」

 ガミガミと文句が後ろから聞こえてくるが、ホイッスルの音は一切しない。

 おそらく、ルールには抵触していなかったということだろう。

 ふん、ざまあみろだ。

 結局この母親は、オレが怖かったのか文句を言うだけで一切詰め寄って来ることはなかった。

 

 ガレージを開けると、白い外国車のステーションワゴンがオレを出迎えてくれた。

 まるで新車のように傷一つなく、外車らしい気品に溢れている。

「くそったれ。こんな良い車持ってやがったのか。没収だな」

 一頻り眺めまわし、早速乗り込もうとした時だった。

「あれ?」

 このアパートの住民らしき男が、じっとこちらを見つめている。

 オレは何でもないように近くにあったホースを持ち、鼻歌混じりに蛇口を回して洗車を始めた。

「それ、大木さんの車だよね?」

「ああ、はい。そうですよ。実は洗車を頼まれましてね~」

 オレの演技は完璧だった。

 口笛を吹く余裕。一切の淀みない返答。

 わざとらしくない程度の微笑。

 唯一誤算があったとすれば──

「人の車をガレージで洗車する時は、管理人である私に許可を得てもらうルールなんだけどね」

 オレがルールというものに置いて、途方もなく無知であったことだ。

 オレはホースの先を指で摘み、水を男の目に向けて放った。

「目が~!!」

「よし、乗れ!」

 車の扉を開けると、馬鹿犬がぴょんと運転席に飛び乗り、そこから助手席へと移動する。

 オレも運転席に乗り込むと、即座にキーを差し込みエンジンをいれた。

 外国車の軽快なエンジン音が響く。

 どんどんと管理人が扉を叩くも、それを無視してオレは車を発進させる。

 ホイッスルの音が後ろから聞こえるのも構わず、車はアパートから走り去った。


◇◇◇


 車の運転は順調だった。

 追手を早々に撒(ま)くことに成功し、今は普通の乗用車に混じって運転できている。

 オレは車を持っていないが、普通自動車の免許だけは昔に取得していた。

 車を買う経済的余裕が今後生まれるとは思えなかったが、食い扶持の幅を広げるためにと、無理をして取っておいたのだ。

 まさかこんなところで役に立つとは思わなかったが。

「しかしまぁ、ひとまずこれで安心だ」

 ●●町から□□町へ車を導く標識が現れる。

 もう少しで、この町からもおさらばだ。

 しかしオレは、そんな簡単にこの町から出ることはできないだろうと、心のどこかで思っていた。

 そう。

 オレにはまだ、決着をつけなければならない人間がいる。

 何年もの間、ずっと心にわだかまりを残してきた、因縁の相手が。

 その時だ。

 突然、車に衝撃が走った。

 横から何かがぶつかったのだ。

 衝撃がした方を見て、愕然とする。

 まるで運転席を押しつぶさんとするように、ワンボックスのライトバンがぶつかってきたのだ。

「なっ、んだってんだ!」

 オレはバンの方へ無理やりハンドルをきって押し返した。

 その時、ドア越しに相手の運転手の顔が目に入った。

 オレは、そこにいた人間を見て、思わず叫んだ。


「大家あああ!!」


 そこにいたのは、長年家賃とネチネチした罵りでオレの心を削り続けた諸悪の根源、オレが住んでいたアパートの大家だった。

「久城ぅ! 私がいる限り、逃げ切ることはできんぞ!」

「くそ! 車にぶつかるのはルール違反じゃねえのかよ!」

「お前は既に犯罪者予備軍を逸脱したA級犯罪者だ! 凶悪犯を拘束するためなら多少の違反は反故にされるルールだ!」

「都合の良いルールだな!」

 しかしまずい。

 ただのステーションワゴンと図体の大きいライトバンでは、そもそもの馬力が違う。

 押し合い勝負で勝てるとは思えない。

 事実、オレの車はめいいっぱいハンドルを切っているというのに、既に押され始めていた。

 相手の車が一旦離れ、再び体当たり。

 その衝撃で、オレの身体は一瞬宙に浮いた。

「くそったれ!」

 思わず罵声が口から飛び出る。

 しかし、そんなことを言っている暇さえないことにすぐ気付いた。

 車道の中央に配置されたグリーンスペースが目の前に迫っていたのだ。

 芝生に覆われたそのど真ん中には、ご丁寧に樹木が植えられてある。

 都市部に緑を増やすために設けられた画期的なスペースも、今のオレにとっては邪魔でしかない。

 このままでは樹木と激突してしまう。

 どれだけ力を入れてハンドルを切っても、バンを押し返すだけの力はない。

「フハハハ! こうなるのも、全ては張り紙通り生ゴミを火曜と水曜に出さなかったお前の責任だ!」

「それ去年の張り紙なんだよ!」

 オレの切実な叫びだった。

 しかし、その理不尽に対する怒りとは裏腹に、オレの思考はクールだった。

 樹木に激突する瞬間、先程まで相手を押し出すように切っていたハンドルを、一気に逆に回す。

 一瞬の内にコースチェンジ。

 本来オレの車線上にあったグリーンスペースが、瞬時に大家のそれへと変わる。

 大家は声を出す暇もなく、樹木にぶつかった。

 隣で盛大な音と共にひしゃげているバンを横目に、オレの車も急な操作に耐え切れずにスリップする。

 タイヤと道路が擦れる甲高い音が響き渡るも、なんとか停車することができた。

「ハハハハ!!! ざまあみろ!!」

 オレは豪快に中指を突き立ててみせた。

 この時ばかりは、自分が悪人になった気分だ。

 

 動悸が収まらない。

 人生で初めて経験したカーチェイスで、神経が高ぶっているのだろう。

 オレは深呼吸し、今やるべきことを考える。

 大家の車は大破したが、どうやら奴に怪我はないらしく、なんとか車からはい出ようともがいている姿が見える。

 逃げ果せるには今しかチャンスはないだろう。

 オレは再びエンジンをかけようとした。

「……あれ?」

 うんともすんとも言わない。

 先程のカーチェイスで、どこかがイカれてしまったらしい。

「……まずいな」

 これだけの騒動だ。

 すぐに警察もやって来る。

 のこのこと歩いていたら、即座に捕まってしまうだろう。

 ……悠長にはしていられない。

 オレは馬鹿犬を抱きかかえ、車から降りようとした。


 ふとその時、窓をコンコンとノックする音が聞こえ、振り向いた。

 そこにはガキが一人立っていた。

 どこかで見たことがある。

 そうだ。

 アパートから脱出した後、母親にルールを守れと叱られていた、あのガキだ。

 オレは車から出た。


「なんて汚らしいルール違反者なの! やっぱり追って来て正解だった。きっとあなたは何かすると思ったわ!」

 途端、ずいと顔を寄せて来た母親に甲高い声で捲し立てられ、オレは唖然とする。

 ガミガミとよく分からないことを喋り散らす母親を止めるように、ガキは大破した車の方を見た。

「ああ! 大変だわ! 早く助けないと!!」

 当事者でもないのに一番忙しそうなその母親は、なんとか車から抜け出そうとしている大家を救出するために駆けだした。

 どうやらあの女に密かに尾行されていて、オレが安心していたところに大家をぶつけられたようだ。

 そのガキは、ちょいちょいとオレの裾を引っ張ると、少し先に路上駐車してある車を指差した。

「……いや、オレ映画みてえに電線ショートさせてエンジンつけるなんて芸当できないから」

 ガキはポケットを弄ると、今度は車のキーを出した。

「……それ、もしかして」

 先程の車を指差すと、ガキはこくんと頷いた。

 拾った……とは考えにくい。おそらく、あれは親の車なのだろう。

 オレを尾行する際に使っていた車。

 オレはぽりぽりと頬を掻き、それを受け取った。

「……おい馬鹿犬。さっきあのババアが喋り散らしてる時にオレがこっそり拝借した車のキーだ。これでさっさと乗り込むぞ」

 馬鹿犬は、アン! と嬉しそうに鳴いた。

 車に乗り込む。

 キーを差し込み、無事エンジンを吹かすことに成功した。

 ガソリンもほぼ満タン。これならかなり遠くまで逃げることができるだろう。

 オレは車の側で突っ立っているガキをちらと見て、窓を開けた。

「あー……、一つ、おっさんから若いお前に忠告だ」

 オレはそのガキを指差して、言った。

「ルールは守れ。いいな?」

 ガキが茫然としてこちらを見ている間に、オレは窓を閉め、車を発進させた。

 母親が途中で気付き、大慌てでこちらに走って来るのがバックミラーから見える。

 オレはエンジンを吹かし続け、そのままこの忌々しい町から脱出した。


◇◇◇


 社会にはルールがある。

 いかに馬鹿らしいと思えるルールでも、ルールはルールだ。

 それを破れば、ペナルティを与えられる。

 オレはオレの選択に後悔はしていない。

 小学校の三年だか四年だかの時に感じた理不尽と、今も戦っている最中だ。


『次のニュースです。今日をもって、捨て犬保全法が全国で適用されることとなりました。市民の方々は、くれぐれも捨て犬を拾うことのないようにご注意ください。なお、ルール違反者として指名手配された久城鉄夫は未だ逃走中で、現在も犯罪管理課が行方を追っており──』



 そこは地平線までくっきりと見える、本当に何もない荒野だった。

 唯一伸びている車道のバス亭で立っていると、のろのろとバスがやって来た。

 オレはサングラスをかけ直し、手に持っていた駕籠を確認する。

 駕籠についたのぞき穴から、馬鹿犬がちょこんと顔を覗かせている。

 ようやくバスがオレの前で停車し、前扉が開く。

 オレはバスに乗り、駕籠を下に降ろすと、スタンションポールに背を預けた。

 ぷしゅうと音がしてバスの扉は閉まり、再びのろのろと走り始める。

 オレはようやく一息ついた。

「お客さん」

 突然、運転手に声をかけられる。

「……なんだよ。小型犬との同乗は駕籠に入れた状態ならオーケィのはずだろ」

「バスが発進している間、座席に座っていないのならつり革かスタンションポールを掴んでおかないと、ルール違反です」

「……」

「……」


 ピイイイイイ!!!


 窓を叩き割り、オレと馬鹿犬は外へと飛び出した。

 ホイッスルの音を背に、オレ達は走り出す。

「おい馬鹿犬! こうなりゃヤケだ! 行けるところまで突っ走るぞ!!」

 地平線の彼方まで何もない。

 この先どうなるのか、何の保証もない。

「アン!」

 それでも、その馬鹿犬の嬉しそうな声に、オレも思わず笑っていた。


Fin



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ルールを知らない男 城島 大 @joo

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