第二話

 イタルヤの中心から車で十分ほど行ったところに、それはあった。


 薄い香色をしたモルタル壁に覆われた、二階建ての一軒家。

 建物と同程度の敷地面積があるらしい裏庭には樹齢百を越える栗の木と松が叢立むらだっていて、溶け残った雪は芽生えようとする下草を押さえ込む。

 未だ冷え切った白の中にあって尚青々している松葉は鬱蒼とし木洩れ日などは殆どなく、住宅街のただ一角でありながらさながら深い森のようだ。


 そこには以前老夫婦が住まっていたのだけれども、庭も含めて手に余るからと売りに出された物件だった。

 今は内地から事業の為に移り住んで来たという三十代の青年の持ち物となっている。

 言わずもがな、今回のことで命を落とした内の一人、孝重きょうえだ。

 孝重きょうえが越してきたのは三年ほどは前のことだけれども、志高くあったと噂の――現時点ではあくまでも噂の域でしかない――氏は、最低限寝に帰るくらいで周辺の住民達との付き合いなどは限りなく零に近かったらしい。




「窓を閉め切っていても分かるくらいの、男の悲鳴とも怒号ともつかない叫び声が聞こえたと通報がありました」


 周辺住民からの通報を受け初めに現場へ辿り着いた邏卒らそつの一人である矢途やずは、そこで言葉を切るとちらと二人の男達の表情を窺った。

 何故自分はここにいるのかと、苛立ちにも似た感情が腹の底でごぽりと音を立てる。

 三遺体を発見してすぐ、には最早邏卒の出る幕はないと同僚達と共に現場を離された。

 にも関わらずその日の夜には上官から、明日は朝一で現場である孝重きょうえ宅へ向かいその場の指揮に従うようにと指示があったのだ。

  組織の中に生きる矢途やずに、それを拒絶することなど出来るはずもない。


 一階居間で待ち受けていたのは黒いダスターコートの厳めしい四十過ぎの男と、それよりも若い、黒い着物を羽織った無表情で線の細い――ダスターコートの男の隣に立っているからそう見えるだけか分からないけれども――男だ。

 矢途やずは彼らが誰であるのか言葉を交わす前には――特に黒い着物を羽織る男について――分からなかったけれども、名乗られれば納得しないわけにはいかなかった。

 だからこそ面白くない心持ちをおさえ、不承不承ふしょうぶしょうていにならないよう、状況を改めて確認したいという申し出に従い、事の頭から説明しているところである。


 は、それと判明した時点で邏卒から専門の隊へと引き継がれる。

 矢途やず個人の感情でいうならば一度舞い込だ報せからすぐに手を引かなければならないのはかなり座りが悪いけれども、だからと言って自らや同じ邏卒の者達にこれを解決する能力も伝手つても知識もない事は、頭にそう自信がある訳でもない矢途やずにも重々理解の及ぶところだった。

 それでも目の前に佇む男達に嫉妬混じりの感情を向けてしまうのは、矢途やずが始めてこの引き継ぎ作業を請け負っているからだ。


 件の専門の隊――特殊犯捜査隊詛兇班そきょうはんは文字通り特殊犯罪を捜査する隊にあって、更に詛呪そじゅによる兇行のみを取り扱う部署だ。

 この国にあって詛呪の類いは珍しくもないけれども、それが全て真実人をのろい殺すまでに至るかといえばそうでもない。

 気分が酷く落ち込むだとか、原因は良く分からないまま体調を崩すだとか――勿論、心根が弱い者ならばそれだけで酷く辛いものであって、間接的にでも死に繋がる可能性があることは否定出来ないのだけれども――その程度が精々だ。


 しかし全てでないという事実の裏を返せば、詛いによる殺人は確かに存在するということへの裏付けでもある。


 詛呪は往々にして、忌まれるものだ。

 けれどもこの国に生まれた者ならば、はらに宿るよりずっと前から魂に深く刻まれた己が欠片でもある。

 表と裏、光と影、決して切り離せないそれ。


 ――けれども詛呪は、とどのつまり、手段でしかない。


 矢途やずは以前そういわれたことがあった。

 果たして誰の言葉だったのか、とんと思い出すことが出来ない。

 どうにも言葉自体のインパクトが強過ぎたのだ。


 ――出刃で魚を捌くのか、それとも人を刺し殺すのか、そんなものは使い手次第であって包丁に意思があるわけではない。それは詛呪も同じなのだ。


 邏卒になってすぐの訓示であったろうか。

 それとももっとずっと前のことだったろうか。

 しかし、いつ誰から聞いた言葉だろうが今は関係ないことだと、矢途やずは一度瞑目して記憶を探るのをやめた。


 詛兇班を率いるのは目の前に立つ黒いダスターコートの男――頼劾らいがいで、外つ国とドンパチやり合っていた頃などは率いた一個隊で相手方の隊を幾つも壊滅させたと聞いたことがあった。

 頼劾らいがい自身には詛呪に関する特別な才はない。

 けれどもその程度――そも、外つ国の者共はうにわずかなすらも失っている、らしい――ハンデでも何でもなく、そして、率いる隊には強い力を持った者もいた。


 頼劾らいがいから数歩下がったところで佇む、書生のような服に真っ赤な曼珠沙華が描かれた黒い着物を羽織るその男のことは、矢途やずは人伝にだけれども聞いたことがあった。

 絵師であり、詛い屋でもある男だと。

 しかし実際にこうしてまみえるのは初めてだった。


 随分と整った顔をした男だと思う。

 それと同時に、否、そうであるからこそ、露も動かない能面のような相貌そうぼうが酷く恐ろしいものに見えた。

 この感情は、丹精に研ぎ上げられた刀への畏怖に似ている。

 触れるのは恐ろしい。

 下手に扱えば怪我では済まないし、命を奪う為に造られた物だと理解しているから。

 そして何より、それを頭では理解していながらも、魅入られてしまいそうで、恐ろしい。


 矢途やずは手元の帳面へと視線を落とした。

 どうしても、頼劾らいがいの後ろに立つ男をじっと見ているのが恐ろしかった。

 目玉の裏側に、赤が、焼け付いている。


「その悲鳴がどの家から聞こえた物なのか分からないと言うので、到着後応援を呼ぶことも含めて、突入までに少なくとも三十分はかかりました。戸も窓も全て施錠されており勝手口を破って邏卒数人で突入しましたが、台所から廊下に出た時点では荒らされたような形跡もなく物音一つしませんでした」


 かさついた指で帳面の角をいじる。

 すぐに詛兇班へ引き継がれたこともあって、帳面にこの事件について何かが書かれているわけではない。

 ただ、指先でも動かしていなければ落ち着かなかった。


 部屋の外では詛兇班の者達が動いているというのに、無言で先を促す男達のせいか居間だけが嫌に静かだ。

 二重になった硝子越しの鬱蒼とした庭では、チョッ、チョッ、と何かの鳥が鳴いている。

 はてこれはと考えたところで結局、その名前にまで辿り着くことはなかった。

 嫉妬と畏怖のようなもの、それから事件と鳥の名前で滅茶苦茶に散らかっている矢途やずの脳味噌は、一向に答えを導き出してはくれない。

 そも、鳥の名前などは今はどうでもよく、昨日の朝に出会した情景を思い返すことに専念しなければならないのだ。

 一度報告はしたけれども、その時より鮮明に頭蓋の中から映像を引きずり出す。



 孝重宅へ入ったのは自分の他に邏卒は二人。

 その他に一人が外で近所の住民の対処にあたった。

 建物の内部は静かで近所の住民も比較的大人しく、聞こえるのは自分達が小さく交わす合図だけ。

 寝る為だけに帰ってくるような男の一人暮らしだと聞いていたけれども、家具だとかそういう類の物は思いの外様々と置かれていた。


「順に扉という扉を開けて回りましたが、何も変わった様子はありません。一階の全てを確認し終えた後に階段を上がり二階へ移動したところ、閉め切られたドアの隙間から赤が……見えました」


 ――あの赤を、何と表現すべきだろう。どこかに似た色はないか。


 矢途やずの前に立つ男二人が微かに目を細めたところを、帳面に視線を落としている本人が気付くことはなかった。

 唇をひと舐めして、そうしてまた話し出す。


「一瞬、血に見えましたが……血というには、鮮やか、過ぎ……て……」


 余りにも唐突に、吐き気がした。


 何が原因かと考える間もなく、顔を上げて目を瞬いた瞬間、全て、全て、頼劾らいがいも、詛い屋も、自身の手も何もかもが、赤く染まる。


 ひゅっと喉が鳴って、けれどもその先が続かなかった。

 喘ぐように幾ら唇を戦慄かせてみても、空気が気管を下りていかない。


 混乱しているのか――矢途やずが心でそう自嘲してみても、赤は視界を埋めていき思考を奪おうとする。


矢途やずさん」


 不意に、矢途やずの耳に低く静かな声が届いた。

 答える余裕もなくその場へとくずおれたけれども、声は変わらないトーンでもう一度静かに矢途やずを呼んだ。


 その声だけが混濁する意識の中で確固たる形を成していく。

 小学生の時にやったミョウバン結晶作りを、早回しで見ているようだと意識の端で矢途やずは思った。

 何もないように見える水溶液から欠片が生まれ、欠片から大きな結晶になる。

 小学生だった矢途やずには理屈などさっぱり分からず、けれども結晶は着実に育っていた。


 ――結晶は、どんなものだったろう。透明な、透明なものだったように思う。けれども、もしかしたら赤かったかも知れない。赤い赤い、赤くて赤い、赤――


矢途やずさん、目を開けなさい」


 その声と同時に、制服越しに手らしき物が肩に置かれたのを、矢途やずは感じた。

 布越しであるからか、暖かくも、冷たくもない。

 ただ重量だけを持ったそれに少しだけ頭が冷えたような心持ちになって、そこで漸く、ああ自分は目を閉じていたのかと思う。


「目を開けて、私の目を見なさい。それは、貴方への詛いではない。引き摺られてはいけません」


 ――目を開けろと言うのだから、自分は目を閉じているのだ。


 矢途やずは赤の中、そう自身へと言い聞かせた。


 これは詛いだ。

 この赤は詛いだ。

 けれども自分へ向けた詛いではない。

 ならば見ている必要などはない。


 目に見えて変化があったのか、矢途やずには分からない。

 それでも空気の固まりが気管を勢い良く下って肺胞一つ一つへ解けていったのだから、詛いは矢途やずを取り込むことを諦めたのだろう。


「そう、良い子だ」


 矢途やずの目の前には、詛い屋がいた。

 モノクル越しの焦げ茶色は、そちらだけがほんのわずかだけ薄いように見える。

 昼前の陽で逆光になっているせいで、それが正しいかは分からない。

 ただ、赤を塗り潰す黒だけは良く分かった。


「今、何が見えますか」

「……く……黒、が……アナタの、髪、だ……」

「宜しい。そのまま目を開けておいで」


 子供に言い聞かせるような声だ――矢途やずは初め、そう思った。

 そしてすぐ、詛いに関して自らは子供同然であることにも思い至る。

 けれども今はそんなことを考えている余裕はない。

 気を抜けば、今にもあの赤のただ中へ引き戻されてしまうような気がするのだ。


 あの赤は詛いなのだから、十中八九、飲み込まれたなら命を落とすこととなるだろう。


 相変わらず庭ではチョッ、チョッ、と鳥が鳴いている。

 矢途やずすがるように黒を見つめて、じわじわと視界の端から迫ってくる赤に気付かないふりをした。


「あの、鳥」


 手を取られた。

 触れたのは人の温もりではなく布で、相手が――詛い屋が手袋をしているということに矢途やずは今更ながらに気付く。

 手のひらに筆か何かが走らされ、つるりとした感触が動くたび、滲んだ赤が引いていくような気がする。


「何という、鳥でしょう」


 掠れた声で呟いた矢途やずに、詛い屋の男は短く『さあ』と呟いた。

 矢途やずは、少しだけ残念に思う。

 別にどうしても名前を知りたいわけではなかったのだけれども。


 とん、と筆が手のひらに点を打った。


「ライコウ殿は知っていますか」

「一体何だ急に。俺に分かるのは鷹くらいだ」

「貴方らしい答えだ」


 男達が言葉を交わしている。

 結局鳥の名は分からないらしかったけれども、ああそうかと、矢途やずはそう思っただけだった。


「少しだけ、休みなさい。もう心配はない」

「は……」


 詛い屋の声に、脳味噌が霞がかっていく。

 ソファに座らされたことだけは、分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る