第二話
イタルヤの中心から車で十分ほど行ったところに、それはあった。
薄い香色をしたモルタル壁に覆われた、二階建ての一軒家。
建物と同程度の敷地面積があるらしい裏庭には樹齢百を越える栗の木と松が
未だ冷え切った白の中にあって尚青々している松葉は鬱蒼とし木洩れ日などは殆どなく、住宅街のただ一角でありながらさながら深い森のようだ。
そこには以前老夫婦が住まっていたのだけれども、庭も含めて手に余るからと売りに出された物件だった。
今は内地から事業の為に移り住んで来たという三十代の青年の持ち物となっている。
言わずもがな、今回のことで命を落とした内の一人、
「窓を閉め切っていても分かるくらいの、男の悲鳴とも怒号ともつかない叫び声が聞こえたと通報がありました」
周辺住民からの通報を受け初めに現場へ辿り着いた
何故自分はここにいるのかと、苛立ちにも似た感情が腹の底でごぽりと音を立てる。
三遺体を発見してすぐ、これには最早邏卒の出る幕はないと同僚達と共に現場を離された。
にも関わらずその日の夜には上官から、明日は朝一で現場である
組織の中に生きる
一階居間で待ち受けていたのは黒いダスターコートの厳めしい四十過ぎの男と、それよりも若い、黒い着物を羽織った無表情で線の細い――ダスターコートの男の隣に立っているからそう見えるだけか分からないけれども――男だ。
だからこそ面白くない心持ちを
今回のような事件は、それと判明した時点で邏卒から専門の隊へと引き継がれる。
それでも目の前に佇む男達に嫉妬混じりの感情を向けてしまうのは、
件の専門の隊――特殊犯捜査隊
この国にあって詛呪の類いは珍しくもないけれども、それが全て真実人を
気分が酷く落ち込むだとか、原因は良く分からないまま体調を崩すだとか――勿論、心根が弱い者ならばそれだけで酷く辛いものであって、間接的にでも死に繋がる可能性があることは否定出来ないのだけれども――その程度が精々だ。
しかし全てでないという事実の裏を返せば、詛いによる殺人は確かに存在するということへの裏付けでもある。
詛呪は往々にして、忌まれるものだ。
けれどもこの国に生まれた者ならば、
表と裏、光と影、決して切り離せないそれ。
――けれども詛呪は、とどのつまり、手段でしかない。
果たして誰の言葉だったのか、とんと思い出すことが出来ない。
どうにも言葉自体のインパクトが強過ぎたのだ。
――出刃で魚を捌くのか、それとも人を刺し殺すのか、そんなものは使い手次第であって包丁に意思があるわけではない。それは詛呪も同じなのだ。
邏卒になってすぐの訓示であったろうか。
それとももっとずっと前のことだったろうか。
しかし、いつ誰から聞いた言葉だろうが今は関係ないことだと、
詛兇班を率いるのは目の前に立つ黒いダスターコートの男――
けれどもその程度――そも、外つ国の者共は
絵師であり、詛い屋でもある男だと。
しかし実際にこうして
随分と整った顔をした男だと思う。
それと同時に、否、そうであるからこそ、露も動かない能面のような
この感情は、丹精に研ぎ上げられた刀への畏怖に似ている。
触れるのは恐ろしい。
下手に扱えば怪我では済まないし、命を奪う為に造られた物だと理解しているから。
そして何より、それを頭では理解していながらも、魅入られてしまいそうで、恐ろしい。
どうしても、
目玉の裏側に、赤が、焼け付いている。
「その悲鳴がどの家から聞こえた物なのか分からないと言うので、到着後応援を呼ぶことも含めて、突入までに少なくとも三十分はかかりました。戸も窓も全て施錠されており勝手口を破って邏卒数人で突入しましたが、台所から廊下に出た時点では荒らされたような形跡もなく物音一つしませんでした」
かさついた指で帳面の角を
すぐに詛兇班へ引き継がれたこともあって、帳面にこの事件について何かが書かれているわけではない。
ただ、指先でも動かしていなければ落ち着かなかった。
部屋の外では詛兇班の者達が動いているというのに、無言で先を促す男達のせいか居間だけが嫌に静かだ。
二重になった硝子越しの鬱蒼とした庭では、チョッ、チョッ、と何かの鳥が鳴いている。
はてこれはと考えたところで結局、その名前にまで辿り着くことはなかった。
嫉妬と畏怖のようなもの、それから事件と鳥の名前で滅茶苦茶に散らかっている
そも、鳥の名前などは今はどうでもよく、昨日の朝に出会した情景を思い返すことに専念しなければならないのだ。
一度報告はしたけれども、その時より鮮明に頭蓋の中から映像を引きずり出す。
孝重宅へ入ったのは自分の他に邏卒は二人。
その他に一人が外で近所の住民の対処にあたった。
建物の内部は静かで近所の住民も比較的大人しく、聞こえるのは自分達が小さく交わす合図だけ。
寝る為だけに帰ってくるような男の一人暮らしだと聞いていたけれども、家具だとかそういう類の物は思いの外様々と置かれていた。
「順に扉という扉を開けて回りましたが、何も変わった様子はありません。一階の全てを確認し終えた後に階段を上がり二階へ移動したところ、閉め切られたドアの隙間から赤が……見えました」
――あの赤を、何と表現すべきだろう。どこかに似た色はないか。
唇をひと舐めして、そうしてまた話し出す。
「一瞬、血に見えましたが……血というには、鮮やか、過ぎ……て……」
余りにも唐突に、吐き気がした。
何が原因かと考える間もなく、顔を上げて目を瞬いた瞬間、全て、全て、
ひゅっと喉が鳴って、けれどもその先が続かなかった。
喘ぐように幾ら唇を戦慄かせてみても、空気が気管を下りていかない。
混乱しているのか――
「
不意に、
答える余裕もなくその場へとくずおれたけれども、声は変わらないトーンでもう一度静かに
その声だけが混濁する意識の中で確固たる形を成していく。
小学生の時にやったミョウバン結晶作りを、早回しで見ているようだと意識の端で
何もないように見える水溶液から欠片が生まれ、欠片から大きな結晶になる。
小学生だった
――結晶は、どんなものだったろう。透明な、透明なものだったように思う。けれども、もしかしたら赤かったかも知れない。赤い赤い、赤くて赤い、赤――
「
その声と同時に、制服越しに手らしき物が肩に置かれたのを、
布越しであるからか、暖かくも、冷たくもない。
ただ重量だけを持ったそれに少しだけ頭が冷えたような心持ちになって、そこで漸く、ああ自分は目を閉じていたのかと思う。
「目を開けて、私の目を見なさい。それは、貴方への詛いではない。引き摺られてはいけません」
――目を開けろと言うのだから、自分は目を閉じているのだ。
これは詛いだ。
この赤は詛いだ。
けれども自分へ向けた詛いではない。
ならば見ている必要などはない。
目に見えて変化があったのか、
それでも空気の固まりが気管を勢い良く下って肺胞一つ一つへ解けていったのだから、詛いは
「そう、良い子だ」
モノクル越しの焦げ茶色は、そちらだけがほんのわずかだけ薄いように見える。
昼前の陽で逆光になっているせいで、それが正しいかは分からない。
ただ、赤を塗り潰す黒だけは良く分かった。
「今、何が見えますか」
「……く……黒、が……アナタの、髪、だ……」
「宜しい。そのまま目を開けておいで」
子供に言い聞かせるような声だ――
そしてすぐ、詛いに関して自らは子供同然であることにも思い至る。
けれども今はそんなことを考えている余裕はない。
気を抜けば、今にもあの赤のただ中へ引き戻されてしまうような気がするのだ。
あの赤は詛いなのだから、十中八九、飲み込まれたなら命を落とすこととなるだろう。
相変わらず庭ではチョッ、チョッ、と鳥が鳴いている。
「あの、鳥」
手を取られた。
触れたのは人の温もりではなく布で、相手が――詛い屋が手袋をしているということに
手のひらに筆か何かが走らされ、つるりとした感触が動くたび、滲んだ赤が引いていくような気がする。
「何という、鳥でしょう」
掠れた声で呟いた
別にどうしても名前を知りたいわけではなかったのだけれども。
とん、と筆が手のひらに点を打った。
「ライコウ殿は知っていますか」
「一体何だ急に。俺に分かるのは鷹くらいだ」
「貴方らしい答えだ」
男達が言葉を交わしている。
結局鳥の名は分からないらしかったけれども、ああそうかと、
「少しだけ、休みなさい。もう心配はない」
「は……」
詛い屋の声に、脳味噌が霞がかっていく。
ソファに座らされたことだけは、分かった。
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