第一話

 ゼロイチ管区トバリ中央区イタルヤ――トバリの中心街であるのナガツを『昼の街』と表現するならば、南へ隣接するイタルヤは『夜の街』と呼ぶべきだろう。

 日が暮れてから目を覚ますそこでは、欲望が建物の影から、路地裏から、そこかしこから手ぐすね引いて人々を待ち受ける。

 しなだれかかる女の媚びを売る吐息混じりの声と、獲物に襲い掛かる瞬間を待ち侘びる禿鷹のような鋭さでもって周囲を威嚇する男の眼光――それらが混ざり合い複雑な色を作るのがこのイタルヤなのだ。


 その中通りから東へ少し行ったところにある横丁へ入って、中程まで進むと南の方面へと伸びた道がある。

 道と言っても店の脇、どう見ても店の裏口にしか繋がっていないように見える人一人が漸く通れるような暗がりを行かなければならないのだから、通い慣れた人間か、余程の物好きでなければそも気付くことは難しい。

 建物の脇を通り過ぎれば道は広くなり二人は並ぶ事が出来るが、近辺を住処としながらそこを知らない者もいる程だった。

 そして如何せんその道は支えを求める朝顔の蔓のように折れ曲がっていて、どうにも様々な感覚を狂わせる。


 左手にある建物の窓を合わせて九つ数え、それを背にして立った時に正面から右へ一歩ずれたところにあるアルミニウムの色をしたドアを潜った先の道へ進み、入り込んだ袋小路の行き止まり、漸く辿り着くのがその店――『ヨゴト画房』であった。


 一見すれば何の変哲もない、土塀に囲まれた平屋の家屋でしかない。

 表札の類はなくただ玄関先に吊られた一条の兵児帯がはためいていて、それがあって漸く、ここはよもや住宅ではないのかも分からないと思わせる程度だ。

 玄関の戸を引いた先には土間があり、左右にはまた引き戸がある。

 左の戸の脇に掛かるのが『ヨゴト画房』と彫られた木看板で、初めて訪れた人間はここで漸く、自らが正しく目的地へ進んでいたことを知るのだ。



 黒いダスターコートを羽織った男が平屋の戸を潜ったのは三月も半ばを過ぎた頃で、そして、幾月かに一度ある恒例行事ともいえる出来事であった。

 その眉間には深く皺が刻まれており、こめかみから頬骨辺りまで走る傷痕も相まって厳つい顔を余計に厳つくさせている。

 薄いダスターコートとはいえ、その上からも筋骨隆々とした如何にも武人であるといった風体がうかがえ、どちらかといえば細身な画房の主とは印象が大分異なる。

 けれども迷いなく――更に言うならば遠慮もなく――画房への戸を引き先の階段を下りる姿は、主と既知であることを物語っていた。




 国の一番北へ位置するゼロイチ管区は、三月とはいえまだ肌寒い。

 下り階段の末にあった戸を引いた先の半地下になったその画房はしかし、ほんのりと温もりを帯びていた。

 甘さと苦さが混在する独特の空気に、ダスターコートの男はむっつりと唇を引き結ぶ。

 何度店を訪れてもどうにもこのにおいには慣れないと、足を運ぶ度に思っていた。

 人に嫌悪感を持たせるようなにおいではないけれども、だからといって好きとは言えない。

 それとこれとは別の話だ。


「おい、俺だ」


 ダスターコートの男は、和ろうそくの火だけがちろちろと揺れる店内の、誰も居ないカウンターの前に立つなりそう声を上げた。

 こうしてわざわざ声を掛けずとも、店主である男もそれが養っている少女も男の存在に気付いているのだろうけれども、さすがに何も言わずに先へ上がり込むことはしない。

 それは決してダスターコートの男がなけなしの慎み深さでもって遠慮しているのではなく、店主のに巻き込まれない為であった。

 たとい邪魔をするつもりが無くとも、それに遭遇すればろくな目に合わないことをよくよく承知しているのだ。


 程なくして、カウンター奥の襖が開く。

 そこから顔を覗かせるのは店主ではなく、白い少女だ。

 ある時から店主が養うようになった子供で、名前はシューニャという。

 尤もそれはこの店の中だけで使われる仮の名――というより、あくまでも肩書きのようなもの――であって本当の名は別にある。

 けれども、仕事中は絶対に仮の名しか使わないと言うになっていた。


「どうぞ」

「ああ、邪魔をする」


 無表情に言うシューニャに頷いてカウンターを回り込んだ男は、黒い半長靴はんちょうかを脱いで階段を一歩で上がる。

 このカウンターを抜けたのが客であれば部屋を更に進んだ先の階段を下りることになるのだが、男は一度たりともそこへ繋がる襖を自らの意志でもって潜ったことがない。

 けれども、何が行われる場所であるのかは良く知っていた。


 決して合法とは呼べないそれはしかし、違法であるとも言えず、店主にしてみれば生活の糧であるそれは、ダスターコートの男にしてみれば仕事を円滑に進める為の手段でもある。


 ――いわば、このイタルヤに、否、国に於いての必要悪。


 イタルヤという場所にすっかり即していると心の中で自らをも嘲りながらも、男は正面の襖を一瞥いちべつするだけに留めて、シューニャが開いた右手の襖の先へと進んだ。


 数歩先を歩くシューニャの兵児帯が揺れている。

 手燭のわずかな明かりに浮かび上がるそれはひらひらと闇へ誘う蝶のようだ。

 ならばこれは毒蝶だと、男は思った。

 もしくは店主が撒いた餌か。

 どちらでも構わない。

 これがこれの務めを果たすのなら何だって。

 そも、この店にただ美しいだけの物などはないのだ。




「今回は早かったな」


 男が通された部屋で、幾つもの火に照らされながら店主は何の感慨もなく――挨拶一つなく――開口一番そう発した。

 一瞥すらくれるわけでもなく、視線は落とされたままだ。

 練色ねりいろ毛氈もうせんが十畳ほどあるその部屋のただ中に敷かれ、載せられた和紙に迷うことなく筆を走らせる。


 女だ。


 モデルになっているのは一体誰なのか、想像程度ならば出来はしても正確には分からなかった。

 いつもそうだ。

 店主が描くそれは、顔がない。

 ただ一ついえるとするならば、描かれるのはこの店を訪れた客であり、いつか、何らかの形で、男も顔を合わせることになるという事実だけだ。


「いつだ」

「この頭だな」


 ダスターコートの男の問いに間髪入れず答えた店主は、ようやっと筆を止めた。

 膝を着いたシューニャの方を見ることもなく筆を渡せば、少女は迷いなく――しかし、国宝でも手入れするかのような慎重さで――それを片付けていく。

 随分と手慣れた物だと、男は思った。

 店主が引き取ったばかりの頃の少女などは、筆が一体何をする物なのかすら分からないようなな状態であったのに。


「女一人か」


 店主の問いに、男は少女から視線を外す。


 ――ただ一人で済めば良かったが。


 男の思考にそんな字面が浮かび上がった。

 亡骸なきがらを勘定して痛ましさを計るなど――喉の奥に何か苦い物が込み上げるような心地がして、開き掛けた唇をむっつりと引き結ぶ。

 そうしてから、おもむろにまた口を開いた。


いや


 モノクルの奥で切れ長の三白眼がゆっくりと瞬かれる。


「死んだのは、三人だ」


 一拍置いてから、そうですか、と店主が呟いた。




 店主の作業場である部屋の向かいの六畳間が、常からの男達の密談場所だった。

 密談といっても側には白い少女が控えているし、そも、この画房を訪れる人間自体がそう多くないのだから部屋自体に例えば何か盗聴を防ぐような加工がしてあるだとか、そんなことはない。

 少女が供する茶を置いておく為にはあつらえ向きな卓がその部屋にあったから、ただそれだけの理由だ。

 そしてその部屋には、他とは違い外つ国風の室内灯が天井からぶら下がっていて、他より幾らも明るかった。

 何をするにも――互いの機微を計るにも――都合が良い。

 他に調度品の類はない。

 構造にしても部屋の一辺は廊下に面し白い襖で閉じられていて、他は全て壁だ。

 床の間一つないそこはひどく殺風景だけれども、少女が自分の意思でもって動くようになってからは、時たま花が飾られていることもあった。

 だからと言って、殺風景さは然して緩和されていなかったが。


 男達は向かい合うように卓を挟んでいる。

 少女は下座にいる店主の向かって左側の、部屋の隅にじっと黙して座している。

 男は座布団に胡座あぐらをかき、店主は片膝を立てそれに肘をついていた。

 二人の前にあるのは手びねりなのか均一な輪郭でない黒地に白い釉薬ゆうやくがかかったカップで、中には珈琲が揺らめいている。

 そこかしこ内つ国のものばかりがあるからと言って、店主は何もつ国を嫌っているわけではない。

 そも、嫌っていたらば白い少女を手元に置いたりはしなかったろう。

 とにかく、店主の気性には基本的に内つ国のものが合っていた。

 珈琲は、外つ国から入ってきた物の中で、店主が珍しく気に入ったものの一つであった。


 ダスターコートを乱雑に丸めて置いた男は、何も入れないままの珈琲を一口飲み下す。

 男にしてみればこの珈琲という飲み物は好きでも嫌いでもなく、更にいえば興味も無かったが、下手な喫茶へ入るよりも幾らも旨いと思っていた。

 凝り性な店主だ。

 まともに淹れられるようになるまで少女は何度も練習させられたのだろうと、簡単に想像がつく。


 そんな頭の中を読んだ訳ではないだろうが、店主の三白眼が男へと向けられた。

 遊びに来たわけではないはずだと言わんばかりのそれに、男は相変わらず眉間に皺を寄せたまま軽く瞑目めいもくしてから、胸ポケットから手のひらに収まる大きさの帳面を取り出した。


 筆不精というほどではないけれども、かといって忠実まめな方でもない。

 必然的に長く使うこととなるそれの表紙は角金具がついているけれども、それの端から折れてしまった跡がある。

 男はそれを気にするはずもなく、中程から帳面を開いた。

 そこにを走り書きしてあるのだ。


潔生ゆきみ二十七、潔生ゆきみと交際関係にあった孝重きょうえ三十一、そしてまだ身元が分かっていないが十を越えるか越えないかくらいの年嵩としかさだろう少年……その三人だ」


 男が読み上げたそれに、店主はゆっくりと目を瞬いてから息を吐いた。

 決して大袈裟なものでなく通常の呼吸がわずかに深くなった程度ではあったけれども、三人分の生きる音以外に、他の音源がないそこでは嫌に大きく響く。


「『赤』で間違いはないか」


 ――赤。


 男の脳裏に、その光景が蘇る。

 部屋の中程で眠るかのように仰向けになっている女。

 逃げようとしたのか、単にそんな体勢になっただけなのか、窓に片手を伸ばしうつ伏せに倒れる男。

 ドアの前で急に糸を切られた操り人形のようにくずおれた少年。

 そして――部屋中にぶちまけられた、赤。


「ああ、鮮やかな、燃えるようなそれだ」


 目蓋まぶたをしっかと閉じても、その裏でちかちかと明滅めいめつを繰り返す。

 いつだってそうだ。

 網膜の上に作り上げられた反対色の虚像ではなく脳内に直接塗りたくられたようなそれは、その場を離れても、時間を置いても、強烈に存在を伝えてくる。

 男が厳つい見た目に反してひどく繊細であるとかそんな馬鹿げた理由ではなくに出来ているのだ。


「ここへ来たのは、赤い別珍のスーツを着た女だったが」

「少なくともその時の潔生は、紺色のワンピース姿だったな」


 店主の平坦な呟きに返した男は、赤を振り払いながら縦開きになっている帳面を閉じた。

 黒い表紙のそれは軍からの支給品で、表紙のただ中に一振りの剣を持つ鷹が配された紋章が箔押しされている。

 これを使わなくてはいけない決まりなどはないけれども、自分が持つ物に執着を持たない男はいつだってこれを使っていた。


 濃紺の立詰襟の胸ポケットに帳面を押し込む。

 もう語ることはない。

 否、本来であれば関係者でない店主に被害者――だけ、とは限らないけれども――を明かす事すら褒められたことではないのだ。

 それでも、この行為は上から黙認されていたし、男はヨゴト画房を営む店主の元を訪れる事を止めなかった。


 何せ男の目の前に座るモノクルの男は、の亡骸達が何によって命を落としたのかを、知っているのだ。


「シューニャ、帯を下ろしておいで」

「はい、マスター」


 立ち上がり部屋を出て行く少女を見送って、男は店主へと視線を戻す。

 店主はそれを気にすることなく、少し冷めた珈琲を飲み干した。


「来てくれるか、亘乎せんや

「何を白々しく。呼びに来たんでしょう、ライコウ殿」


 懐かしいその呼び方に、ライコウと呼ばれた男の眉間の皺が少しだけ緩む。

 亘乎せんや――店主もまた、無表情を崩して肩を竦めたのだった。

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