赤の章

燃ゆる女

 ――人は醜い生き物だ。


「殺してやる……絶対に殺してやるわ。許さない……他人ひとの男を取っておいて、幸せになるなんて、私だけが惨めな思いをするなんて……ッ」


 血走った目に青黒い隈。

 女は頬にかかるくすんだ茶色に染めた髪を払うこともせず、なんてことはないカウンターの細かく詰まった木目を、そこに憎い相手の顔があるとでも言うかのように睨み付ける。

 指の先より幾らも伸ばされた爪に乗った艶のある赤いマニキュアは、何度も噛み締められるせいで先だけが剥がれてしまっていた。

 手入れを欠かさずにいた頃の名残というべきか、つるりとした滑らかさをわずかに残す肌も、狂わしい怒りのあまり今や青い血管が浮かんでいる。


 日中といえど路地裏の更に奥まった所にあるこの店は、塀に囲まれ半地下になっているせいで店内へは光がほとんど入らない。

 カウンター脇に置かれた背の高い燭台の上、ちろちろと揺れる大きな白い和ろうそくの火だけがその場にいる二人を浮かび上がらせた。


 甘い香がくゆっている。


 湿り気をわずかに帯びた室内の空気に漂う何か薬草のような少し苦いにおいと相まって、この店独特のにおいを作っている。

 女は酔っていた。

 そのにおいや、ましてアルコールにではない。

 女が抱える後ろ暗さを包み込む、より深い闇を感じさせる店と店主である男の雰囲気そのものに酔っていた。


 二人分の呼吸音だけが続いている。

 しばらく経って漸く、女は俯いたまま――カウンターの木目越しに女だけに見えているのだろう憎い相手を睨み付けたまま――激情に震えながら息を吸い込んだ。

 渦巻く感情の捌け口を求めてか、戦慄わななくように、毒々しい赤を乗せた唇を開く。


「ねえ、苦しんで苦しんで苦しんで、それから血反吐を吐きながら死んでしまうのを頂戴」


 怨嗟えんさに淀んだ声が途端、わずかに喜色をはらんだ。

 うらんだ相手が苦しむ様を想像したのだろうか。


 しかし、カウンターの中に立つ男がそれをおもんぱかることはなかった。

 笑っているのか泣いているのか俯き肩を震わせている女を、黙って見つめる。

 気持ちを慮ることはなく、けれどもその女の一挙手一投足を見逃すまいとするようにただじっと見つめている。


 男は常々しているよう変わらずゆっくりと瞬きをしてから、そこになって漸く口を開いた。

 表情はない。

 少しだけ伸ばされくくられた後ろ髪も、右目へかけたモノクルの華奢なチェーンも、精密な絵画であるかの如く微動だにしない。


「随分と、物騒なことをおっしゃる」

「茶化さないでッ、私は、あいつを絶対に殺すの、生まれて来たことを後悔するくらいに苦しめて、殺すのよッ」


 女は勢い良く顔を上げると、カウンターを思い切り叩いて声を荒らげた。

 カウンターの端に乱雑に積み上がる絵皿――絵が描かれた皿ではなく、絵を描く時パレット代わりにする白い陶器の皿だ――が、がちゃんと音を立てる。

 停滞していた空気が掻き乱されて、けれども和ろうそくの火は相変わらずちろちろと揺れている。


 手のひらに走っただろう痛みも感じない程に女は怒り狂っていた。

 ワインレッドの別珍べっちんで作られたスーツが作る陰影で、まるで女自身が燃え盛っているようにも見える。

 男はやはり、それらに大した反応を示すでもなく、ただゆったりと切れ長の三白眼を瞬いた。


 物腰柔らかな低い声とは違いその瞳は何の感情も映さず、この国にはありふれた黒――正確に言うならば深い焦げ茶色――で女を見据える。

 対する女の血走った目も、揺らぐことなく男を睨み付けその視線が外れることは決してない。


 一拍、二拍。


 男は頭の中でシューベルトの弦楽四重奏曲『死と乙女』を流し、そしてまた、ゆったりと目を瞬いた。


 ――人は醜い生き物だ。


 左手だけに填めた白い手袋を直しながら男は心の中で呟いた。

 ああ、何て醜い、醜い生き物なのだろう、と。

 けれども男は、それと同時に思うのだ。

 この醜い生き物は何と滑稽で――かなしいものなのかと。


「私がそれを貴女に渡せば、貴女はそれを、貴女から愛する男性ひとを奪った女性ひとに使う、と」

「当たり前じゃないッ」

「それによって、貴女が愛した男性ひとが、奪った女性ひとと同じように苦しむことになったとしても」

「使うわ」


 女は、わずかな臆面おくめんも見せずにうなずいた。

 嫉妬に狂っているのか。

 いや、傷付けられたプライドの前では、かつて愛した男の苦しみなど取るに足らないことだとでも言うのか。


 和ろうそくがちりちりと音を立てている。

 男は無表情なまま、またゆったりと目を瞬いた。


「それ相応の代償を」

「あの女を苦しめる為なら、私は何だってやってやる」


 男は目を伏せた。

 このカウンター越しに対する女は、もう決めてしまったのだ。

 どうしてもこれだけは成し遂げなければならないことであると。


 肩に羽織っただけの黒い留袖――しかし紋は、ないようだった――を押さえて、男は女に背を向けた。

 スタンドカラーの白いシャツと錆鼠さびねず色の袴という地味な書生のような男の姿。

 それの上へ羽織った女物の着物に描かれた真っ赤な曼珠沙華だけが、女の目にちかちかと残像を焼き付けた。


「シューニャ」

「はい、マスター」


 男の声に呼応したのは鈴を転がすような、けれども感情の色を見せない声だった。

 カウンターの奥には、男の膝ほどまでの高さに上がったところへ白い――和ろうそくの灯りひとつしかない為に薄暗いけれども恐らく、白い――襖がある。

 それが開いて、畳敷きであるらしい小さな部屋――特に何も置かれていないそこの奥にはまた襖が見える――に横を向いて座していたのは白い少女だ。

 十二、三歳だろうか。

 真っ白い髪をおかっぱにして、男よりも幾らか長く伸ばした後ろ髪を彼と同じように括っている。


「支度は出来ているな」

「はい、マスター」


 少女は真っ直ぐを向いたまま、同じ言葉を返した。

 ほんのわずかだけ桜色に染まっているらしい唇が動いて、またぴたりと閉じられる。


 男――シューニャと呼ばれる少女に倣うのならば、マスターだ――は女の方へと振り向いて、そして手を伸べた。

 少女のような白に包まれた左手。

 シミひとつないそれが、女を待っている。


 女は立ち上がった。

 緩慢かんまんな動きであったのに止められることなく後ろへ倒れた木の丸椅子を、その場に存在する誰も、気に留めることはなかった。

 ただただ女の視界の端で、和ろうそくの火が揺れている。


 カウンターを回り込んだ女は、男の手に自らの手を重ねた。

 白に包まれた男の手は女が思っていたより大きく、節くれ立っているらしかった。

 女物の着物を羽織っているせいなのか、それとも、こんな仄暗い店の主であることへの先入観であったのか。

 けれども、女にしてみれば最早どうでも良いことなのだ。


 あの女を、あの男を、苦しめることが出来る。


 自分の苦悶を、懊悩を、知らしめることが出来る。


 そう思えば他などどうでも良い。

ひたすらに血が沸き立ち、熱に浮かされるのだ。


 促されるままほんの二、三段しかない階段を上がり、赤いヒールを脱ぎ捨てるようにして畳敷きのそこへと足を踏み入れる。

 甘く苦い店のにおいに混じって、わずかにい草が香ったようだった。

 明かりはない。

 ああ、暗いな、と女が今更のように考えるとその途端に、じ、っと音がして、少しだけそこの輪郭を浮かび上がらせた。

 いつの間に用意したのか女には分からなかったが、少女の手には手燭てしょくが持たれていて、その揺らぐ炎が小さな部屋を染めたのだ。


「こちらへ」


 男と少女の手によって襖が開かれる。

 灯りは少女の手にある手燭の和ろうそくだけでその全貌を窺い知ることは出来なかったけれども、少し先でぽかりと開いた黒は、半地下である店よりも更に下へと続いているらしい事は知れた。 


 そこから溢れるひんやりとした空気に、甘いにおいが混じっている。

花や果実ではなく、死んだばかりの樹木が湛える、枯れた青さのようなにおいだ。

 三人分の衣擦れと、和ろうそくが燃える音。

 皮膚一枚の下で煮えたぎる女の激情を、静寂が喰らおうとしている。


 女は男に手を引かれるまま、急な階段を下りた。

先導するように一番前を歩く少女は、膝上丈の白い長袖のハイネック・ワンピースも、そこから覗く膝も、膝から下を隠すハイ・ソックスも、全てが白い。

 ただ、真後ろで大きく蝶々結びにされた赤い兵児帯だけが鮮やかに揺れて、妙に毒々しく女の目には映った。


 階段をぐるぐると下りて、板張りの廊下を歩く。

 やがて辿り着いたのはまたしても襖の前だった。

 とは言え、今まで見たものとは違って、黒い。

 黒に、赤い曼珠沙華が咲いている。男の着物の柄と同じだ。


 敷居を滑る音と同時にそれが開かれれば先はまた板張りで、寝殿造の貴人の居室のようになっている。ただ中に置き畳があるのだ。

 しかしそれとは違い御帳はなく、部屋の四隅に背の高い燭台がある。


 女の手から不意に、男の手が離れた。

 その代わりに少女の白い手が重なり、男の手には手燭が持たれている。

 直接触れ合う手のひらは華奢で、氷の枝に淡雪を纏わせたようだと女はふと考えた。

 そしてすぐ、そんな詩的な表現が自分にも出来たのかと自嘲することとなったのだけれども。


 女は手を引かれ、置き畳の上へと少女と共に移動した。

 ストッキング越しに感じる畳を滑るようにして踏み出せば、強く香るのはい草のにおい。

 揺らぐ和ろうそくの火で三つの影が落ちている。


 いつの間にか、男が置き畳の横へ立っていた。

 その手には白い絵皿と、画筆がひつ――彩色筆さいしきふでが持たれている。

 女はそこに至って漸く、この店が表向き画室兼画廊であると銘打っていることを思い出していた。

 そしてこの店主に依頼したものがどんなものであるのかを、知らされていないことも。


 最早後戻りは出来ないのだと女は漸く理解した。

 だからといって、そも、後戻りするつもりなどは毛頭なかった。

 ただ、中空にぽつりと置かれた足場が、思っていたよりももっと小さなものであったらしいと気付かされただけだ。


 少女と女は向かい合わせに畳へ座って、両手を繋いでいる。

 少女の銀色に囲まれた黒い瞳孔に、燃え盛るような赤い女の姿が映っていた。

 熱に浮かされ朦朧とした頭がすっと冷えるのを、女は感じた。


 三人分の呼吸音と、ちりちり燃える和ろうそく。


 じっと黙っていた男が、口を開く。


「始めよう」


 低く柔らかな声は、睦言むつごとを囁くかの如く甘さを孕んだ。

 銀色が瞬かれ、女の意識はまた、熱に浮かされ霞んでいく。



 弧を描く、男の薄い唇。


 少女の白。


 溶けていくような心地。



「魅せてくれ、貴方が生み出したその色を」

「嗚呼――」


 女の赤い唇から漏れたのは艶めかしい吐息、そして――暗転。

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