うけひ、えがきて
相良あざみ
序
「どうしても
そうぽつりと零した客に、そのバーのマスターは常から浮かべている微笑みをわざとらしく見えないように、わざと困惑したものに変えてみせた。
故にこれは他の従業員へ向けた、言わばポーズだ。
元々深刻そうな顔をしていたこともあり他の客が近付きにくいように誘導はしていたけれども、それを徹底するようにとの。
「お客さん、貴方飲み過ぎですよ。せめて水割りにしませんか」
「マスターに迷惑はかけない」
飲ませてくれ、と続いた声は弱々しく、残った指一本分を一気に
むしろ酒を呑んで忘れられるなら、その程度なら――幾らでも呑めば良い。
身なりを見ても全く金がない様子でもないし、暴れられても一瞬で落とせるような人間を雇っているから、その辺りの心配はしていなかった。
お代わりを頼まれて改めて提案した水割りは断られたけれども、お勧めだからとどうにかミスト――クラッシュドアイスに酒を注ぐのだ――にすることは出来た。
これならば少しはアルコールが薄まるし、ゆっくり呑んでくれることだろう。
まあ、今注いだ銘柄で本当にお勧めかといえば正直違うのだけれども、そこは仕方がない。
酒の味も香りも、今の状態ではどのみち目の前の客にとっては意味のないことなのだろうから。
砕いた氷を入れたロックグラスに、バーボンを注ぐ。
この客がもし本当に誰かを詛いたいのなら、もう店に来ることはないかも分からない。
旨い酒を味と香りをじっくりと味わいながら呑むことも、ないのかも分からない。
それはとても悲しいことだ。
未だ自分の半分も生きていないだろうこの客を、哀れに思う。
だからと言ってマスターに出来ることはといえば、ほとんどない。
少しでも話を聞いてやって、それで発散出来るのならば良し。
けれども無理にこちらから尋ねるわけにもいかず、客本人が話し始めるのを待つしかないのだ。
今夜の客はといえば――何も語ってはくれないようだ。
音も立てずにグラスを客の前に置く。
ありがとう、と掠れた声がして、見てはいないと理解しながらも微笑んで見せる。
客は砕けた氷の間から、湧水のように染み出すシングルバレルで唇を潤すと、溜め息を吐いた。
「どうしても、詛いたい人間がいるんだ」
もう一度、自分に言い聞かせるようにして告げられたそれに、マスターは目を伏せる。
嗚呼駄目か――と、諦めにも似た感情がマスターの心を
ならば、尋ねなければいけない。
「お客さん」
客が
かち合った目を見つめて、考えていたより若いらしいと思うのは、その
「爺の説教などもう聞き飽きたとは思いますが、敢えて言いましょう。貴方が人を詛って、その先にあるのは何です」
「その先……」
「ええ」
どこか濁ったように見える黒い目が瞬かれる。
幽かな光すらないそれが一度だけ揺れて、それでも諦めたように伏せられた。
眉を寄せて浮かべたのは苦い笑みだ。
「考えたことなんかなかったな、先なんて。死んで……死んで終わりじゃあないですか」
「そうですね。死んで終わりです。全てが終わる」
「じゃあ、どうして訊くんです」
血を吐くようなその声は、何かを求めているようだった。
握り締められたロックグラスの中で小さな氷がじわりじわりと溶けていく。
「終わるんですよ。この先訪れるかも分からない出会いも、この先得るかも分からない喜びも悲しみも、全てが無になるんです。あたしは死んだことなどありませんから輪廻転生なんて信じませんし、来世に期待しようなんて思えません。ですからね、お客さん。先は無で、遺された人間は貴方とその相手に、詛いと言う枕詞を付けざるを得なくなる。それは……それは、随分と悲しいことじゃあありませんか」
初めて、客の表情がくしゃりと歪んだ。
けれどもそれは、詛いを諦めるような顔ではない。
今にも泣いてしまいそうな、それでいてあまりにも清々しい笑みだ。
「マスターだけでも、もし悲しいと感じてくれるんなら、俺はもうそれだけで充分だと……そう思うんです」
――嗚呼。
声に出さないまま、バーのマスターは心の中でそう嘆いた。
悲しんでやることしか出来ないのだと、幾ら歳を重ねてもどうにもならない事実があるのだと改めて知らしめられる。
「お客さん、一度しか言いませんからね、覚えて下さいよ。ほら、そこの横丁があるでしょう。そこの脇へ入ったところに、あたしが知ってる詛い屋がいるんです」
目を丸くした客が身を乗り出してマスターの話へ耳を傾ける。
分かりにくい場所にあるその店を、もし見付けられたのならそれはそれで仕方がない。
やはりそんな定めであったのだろうし、もし見付けられなかったならそれも仕方がない事だ。
その時は、出来ることなら諦めてくれれば良いとは思うけれども。
「玄関先へ
「ありがとう、マスター……本当に……すみません」
俯いた客の
店内へ軽やかに流れるジャズが、むしろ切なさを誘った。
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