第三話

 孝重きょうえ宅の一階居間、そのソファでまだ二十歳そこそこの青年が眠りに落ちている。

 まだ数分しか経っていないから、目を覚ますのはもう少し後だろう。

 邏卒である事を表す葡萄えび色の制服に身を包んだ彼――矢途やずがこの場にいるのは、その上官に当たる男から詛兇班を率いる頼劾らいがいへ申し入れがあったからだ。


まれているかも知らんから、見てやって欲しい』


 そのただ一言であったけれども、頼劾らいがいは何か問うわけでもなく了承だけを返した。

 何せ本当に呑まれているというのなら、青年の命に関わるのだから。


 邏卒はその職務上、詛呪絡みと知らず現場に駆け付けることがほとんどだ。

 潜りの詛い屋や素人の詛いは、その筋で真っ当に――公に認められている訳ではないのだからこう表現するにはいささか語弊ごへいがあるのだけれども――仕事をしている者達のものと比べて不安定なものが多く、伝染し易い。

 だからこそ、世間一般には知られていないけれども、邏卒になる為には詛いへの耐性を一定以上保持していることを求められ、採用試験の際にも秘密裏に検査が行われているのだ。

 尤も、厳密に隠されているわけでもないから知ろうとすればすぐに知れることではある。


 その一定以上の耐性を持ったはずの矢途やずが、呑まれていた。

 上官の見立ては当たっていたことになる。


亘乎せんや


 鹿爪しかつめらしい声で沈黙を破ったのは頼劾らいがいだった。

 組んでいたたくましい腕はそのままに、そして相変わらず眉間に皺を寄せたままで亘乎せんやをじっと見る。

 見られた当の亘乎せんやは、詛いを払ってからずっと閉じたままだった目蓋をそこになって徐に持ち上げた。


 その黒に、座ったまま眠る矢途やずの姿が映る。

 型通り着込んだ制服と、七三に分けられた青みがかった黒い髪、今は閉じられている人好きのしそうな少し垂れた目とは対比的につり上がった短い眉。

 体つきはと言えば、頼劾らいがいよりは細身だけれども、若さのおかげで亘乎せんやとはまた違ったシャープさがある。

 背はこの三人の中で言うなら一番低いだろう。


 静かな呼吸で腹の辺りが微かに上下している。

 それを見て、ゆったりと目を瞬く。


「珍しいな」


 返事のない亘乎せんやへ焦れるわけでもなく、頼劾らいがいはまた口を開いた。

 本人としてはただ単純にそう感じたからこその言葉ではあるのだけれども、その心持ちとは対照的に表情は険しいのだから、知らない人間が見たなら叱責しっせきしているように見えなくもない。


 何がです、と亘乎せんやは呟いた。

 否、訊かなくとも何を言わんとしているのかなど重々承知してはいるのだけれども、だからと言って反応しないわけにもいかなかった。


「お前の詛いが、伝染するなんて」


 常と変わらない声だった。

 常と変わらず厳めしく、けれども責めるような響きはない。


 殊、詛呪への耐性が必要になる詛兇班の人間は、感情を制御するすべを最初に叩き込まれる。

 とはいえ頼劾らいがいはそれのせいでなく、そも責め立てる心積もりなどはなかったのだけれども。


 亘乎せんやの詛いは、滅多なことでは伝染しない。


 その事実は亘乎せんやが軍からとして存在を黙認される一因となっていた。

 潜りの詛い屋や素人に散弾銃のように詛いを巻き散らかされるくらいなら、決まった数だけ弾を入れた小銃を持たせた方が良い――そんな言い分だ。


 だからこそ、になるのは珍しい。

 偶然そういう現場に居合わせた一般人でもなく、一定の耐性を持った邏卒の一人であると言うのも特に。


いや


 白い手袋に包まれた指先が、モノクルのチェーンをなぞる。

 亘乎せんやが静かにその場へ落とした否定は、頼劾らいがいの右眉を微かに上げさせた。


「混じっている」


 ロダンの考える人のように、もしくは芥川のように。

 顎に手をやった亘乎せんやは、またゆったりと目を瞬く。

 そうしてから、ふむ、と呟いた。

 頼劾らいがいはそれを黙ってじっと眺めている。


 眠る青年とはテーブルを挟んで向かい合うソファから、亘乎せんやは立ち上がった。

 その動きに合わせて黒が、うすもののように軽やかにひるがえる。

 壁際で腕を組んで立つ頼劾へ視線を向けて、次の瞬間にはドアへと歩き出していた。


「彼が目を覚ます前に、現場を見せて貰うことにしましょう。それと、遺体も確認したい」

「ああ」


 二人は詛兇班の一人に矢途やずを任せると、その彼の昨日朝の足取りを追うようにして階段を上がっていった。

 いずこかへ飛び去ったのだろうか、鳥の声はもう聞こえて来ない。




 赤松の肌のような色の絨毯が敷かれた階段を上がった先に見えたドアは、矢途やずを始めとする邏卒が突入した時とは違い完全に開け放たれていた。

 ただ、詛兇班の手によっている為に、そこはぽっかりと黒が口を開けているように見えるだけで室内を窺い知ることは出来ない。

 そも、カーテンを引いたり外からも覗けないよう物理的にも閉じているから、それがなくとも室内は薄暗いはずだ。


 の場合、現場へ到着した詛兇班が最優先で行うのはその場を封じる事だ。

 どこの誰の手による詛いか、周囲の人間が影響を受けてしまうようなものか否か――そんな事を悠長に確かめていれば被害が拡大しかねない。

 だからこそ封じて詛いが漏れないように対策をして、それから被害者――だけとは限らないけれども――を運び出したり検証作業や後始末が始まるのだ。


 矢途やず等が突入してから一日と少し経った部屋の前には、今は誰もいない。


「封じて安置所に」

「ああ」


 遺体が今どこにあるのか。

 短く言葉を交わして、二人は開かれたままのドアを潜った。


 やはり薄暗い。


 よく見れば、カーテンを引いた上で更に目張りをしてある。

 南側は裏庭に面しているとは言えほぼ一面が窓になっていて、目張りとカーテンさえなければさぞや明るいことだろう。

 東側も半面は窓になっていて、そちらは路地に面している。

 ドアは北側の西よりだ。


 孝重きょうえは、東側の窓の前で倒れていた。

 潔生ゆきみは部屋のただ中で眠るように横たわり、身元が分かっていない少年がドアの前にくずおれていた。


孝重きょうえが被害者として、どの道、窓に辿り着いても逃げられはしなかっただろう」


 壁にある照明のスイッチを入れて頼劾らいがいは呟く。

 瞬きの後に部屋を照らした蛍光灯の輪は、それ本来の青白さをわずかにも主張することは出来ないようだった。


 ――赤い。燃えるような赤だ。


 毛足の短い絨毯じゅうたんも、壁際に置かれたオーディオセットも、東側の窓に向いた机も、その横の書棚も。

 何もかもが赤い。

 夏の盛りの太陽のように、地底深くから溢れ出す岩漿マグマのように、わずかでも触れたなら全身を余すことなく燃やし尽くしてしまうような鮮烈さでもって染め上げる。


「東側はめ殺しだ」


 眉間に寄った皺を深くして、頼劾らいがいは言った。


 亘乎せんやの詛いはいつだって対面した者へ強烈なイメージを刻みつける。

 伝染はしない。

 けれども、忘れさせもしない。

 詛いは身を滅ぼすものだと、声無き声で訴えるのだ。


 しかし、どうだろう。

 今回はどうにも、過ぎはしないだろうか。


「ライコウ殿、そろそろ矢途やずさんも目を覚ます頃でしょう」


 思惟しいに沈む頼劾らいがいを、すくい上げる声がした。

 低く甘く、そして静かに脳髄へ染み込む声は、亘乎せんやが人を誘導するときのそれだ。


 言外にこの場を離れるよう告げたのだ――そんな細やかな気遣いなど無用だというのに。

 頼劾らいがいは苦く笑うしかない。

 こめかみから頬骨まで走る古傷がそれに合わせて酷く引き攣れたような気がして、誤魔化すように左の頬を擦る。


「彼と話があるからここを離れるが、良いな。諸々説明が必要だ。暫くかかるだろう」

「承知していますよ。そちらの事情に首を突っ込むような無粋な真似、する心積もりなどありません」

「そうか」

「そうですとも」


 潔生ゆきみが眠るように死んでいたその場所で、亘乎せんやは微笑むかの如く目を細める。

 誰が聞いているわけでもないのに交わされた言葉遊びは、部屋を染め上げる赤とは全くもって不釣り合いに静やかだ。


 ふ、と短く息を吐いたのは、頼劾らいがいだった。


「ではな」


 亘乎せんやはその声へ、ゆったりとした瞬きと共に微かに頷いてみせる。

 ドアから封をすり抜けて廊下へ出て行く姿をしっかと見届けて、そっと目を閉じた。

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