第三話
まだ数分しか経っていないから、目を覚ますのはもう少し後だろう。
邏卒である事を表す
『呑まれているかも知らんから、見てやって欲しい』
そのただ一言であったけれども、
何せ本当に呑まれているというのなら、青年の命に関わるのだから。
邏卒はその職務上、詛呪絡みと知らず現場に駆け付けることがほとんどだ。
潜りの詛い屋や素人の詛いは、その筋で真っ当に――公に認められている訳ではないのだからこう表現するにはいささか
だからこそ、世間一般には知られていないけれども、邏卒になる為には詛いへの耐性を一定以上保持していることを求められ、採用試験の際にも秘密裏に検査が行われているのだ。
尤も、厳密に隠されているわけでもないから知ろうとすればすぐに知れることではある。
その一定以上の耐性を持ったはずの
上官の見立ては当たっていたことになる。
「
組んでいた
見られた当の
その黒に、座ったまま眠る
型通り着込んだ制服と、七三に分けられた青みがかった黒い髪、今は閉じられている人好きのしそうな少し垂れた目とは対比的につり上がった短い眉。
体つきはと言えば、
背はこの三人の中で言うなら一番低いだろう。
静かな呼吸で腹の辺りが微かに上下している。
それを見て、ゆったりと目を瞬く。
「珍しいな」
返事のない
本人としてはただ単純にそう感じたからこその言葉ではあるのだけれども、その心持ちとは対照的に表情は険しいのだから、知らない人間が見たなら
何がです、と
否、訊かなくとも何を言わんとしているのかなど重々承知してはいるのだけれども、だからと言って反応しないわけにもいかなかった。
「お前の詛いが、伝染するなんて」
常と変わらない声だった。
常と変わらず厳めしく、けれども責めるような響きはない。
殊、詛呪への耐性が必要になる詛兇班の人間は、感情を制御する
とはいえ
その事実は
潜りの詛い屋や素人に散弾銃のように詛いを巻き散らかされるくらいなら、決まった数だけ弾を入れた小銃を持たせた方が良い――そんな言い分だ。
だからこそ、こんなことになるのは珍しい。
偶然そういう現場に居合わせた一般人でもなく、一定の耐性を持った邏卒の一人であると言うのも特に。
「
白い手袋に包まれた指先が、モノクルのチェーンをなぞる。
「混じっている」
ロダンの考える人のように、もしくは芥川のように。
顎に手をやった
そうしてから、ふむ、と呟いた。
眠る青年とはテーブルを挟んで向かい合うソファから、
その動きに合わせて黒が、
壁際で腕を組んで立つ頼劾へ視線を向けて、次の瞬間にはドアへと歩き出していた。
「彼が目を覚ます前に、現場を見せて貰うことにしましょう。それと、遺体も確認したい」
「ああ」
二人は詛兇班の一人に
いずこかへ飛び去ったのだろうか、鳥の声はもう聞こえて来ない。
赤松の肌のような色の絨毯が敷かれた階段を上がった先に見えたドアは、
ただ、詛兇班の手によって封じられている為に、そこはぽっかりと黒が口を開けているように見えるだけで室内を窺い知ることは出来ない。
そも、カーテンを引いたり外からも覗けないよう物理的にも閉じているから、それがなくとも室内は薄暗いはずだ。
こういった事件の場合、現場へ到着した詛兇班が最優先で行うのはその場を封じる事だ。
どこの誰の手による詛いか、周囲の人間が影響を受けてしまうようなものか否か――そんな事を悠長に確かめていれば被害が拡大しかねない。
だからこそ封じて詛いが漏れないように対策をして、それから被害者――だけとは限らないけれども――を運び出したり検証作業や後始末が始まるのだ。
「封じて安置所に」
「ああ」
遺体が今どこにあるのか。
短く言葉を交わして、二人は開かれたままのドアを潜った。
やはり薄暗い。
よく見れば、カーテンを引いた上で更に目張りをしてある。
南側は裏庭に面しているとは言えほぼ一面が窓になっていて、目張りとカーテンさえなければさぞや明るいことだろう。
東側も半面は窓になっていて、そちらは路地に面している。
ドアは北側の西よりだ。
「
壁にある照明のスイッチを入れて
瞬きの後に部屋を照らした蛍光灯の輪は、それ本来の青白さをわずかにも主張することは出来ないようだった。
――赤い。燃えるような赤だ。
毛足の短い
何もかもが赤い。
夏の盛りの太陽のように、地底深くから溢れ出す
「東側は
眉間に寄った皺を深くして、
伝染はしない。
けれども、忘れさせもしない。
詛いは身を滅ぼすものだと、声無き声で訴えるのだ。
しかし、どうだろう。
今回はどうにも、暴力的過ぎはしないだろうか。
「ライコウ殿、そろそろ
低く甘く、そして静かに脳髄へ染み込む声は、
言外にこの場を離れるよう告げたのだ――そんな細やかな気遣いなど無用だというのに。
こめかみから頬骨まで走る古傷がそれに合わせて酷く引き攣れたような気がして、誤魔化すように左の頬を擦る。
「彼と話があるからここを離れるが、良いな。諸々説明が必要だ。暫くかかるだろう」
「承知していますよ。そちらの事情に首を突っ込むような無粋な真似、する心積もりなどありません」
「そうか」
「そうですとも」
誰が聞いているわけでもないのに交わされた言葉遊びは、部屋を染め上げる赤とは全くもって不釣り合いに静やかだ。
ふ、と短く息を吐いたのは、
「ではな」
ドアから封をすり抜けて廊下へ出て行く姿をしっかと見届けて、そっと目を閉じた。
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