第四話
目蓋の裏の混じり気のない黒を見つめながら、細く細く、息を吐く。
肺胞の一つ一つから空気を絞り取るように、細胞の一つ一つから私を追い出すように。
そうして今度は目を開けて混沌たる赤を見つめながら、深く深く、息を吸う。
ひしゃげた肺胞と細胞一つ一つに、赤い詛いが染み込むように。
依頼人が生み出し自らが練り上げた詛いが、
今回のことに関して更にいえば、
玄人の詛いに素人の詛いが混じっておいて、こんなにも上手く人を殺せるなんて、滅多にあることではなかった。
面白いと、そう思うのは、道徳的に見ていけないということを
詛い屋などという
それでもそんな稼業を離れられずにいるのは、
嫌いになぞ、なれない。
ああ、なんて、面白い。
そして、赤の声を聞く。
「どうして」
赤はそれを、強く訴えていた。
――どうして、どうして、どうして。
依頼人の女がやって来た時に
強烈に伝えてくる嫉妬の念は、裏切られた女の情念そのものだ。
この世の中、殊イタルヤという街に
そうであるが故に、
女が内に秘める懊悩を、恋に破れたというそれだけではない苦しみを、足元からじわりじわりと這い上がる悲しみを、どうしても捨て切れない静かな愛おしみを感じ取ったからだった。
「燃え盛る炎、そして、地に落ちた蛍火」
溜め息などではなく、まるで、睦言を囁くように。
――依頼人の女が語ったのは、愛した男の不貞だった。
結婚の約束をした男が、女を作った。
その女は依頼人の顔見知りで、依頼人は婚約者の命をも奪うことになったとしても、自らの命を落とすことになったとしても、その女を詛い殺す術を求めたのだ。
それ以上のことは訊いていない。
依頼人に必要なのは相手をしっかと思い浮かべてどうしても詛いたいと強く念ずることだけで、そこから詛いという形へ練り上げるのは詛い屋である
果たして詛いは成った。
けれども、
ゆったりと目を瞬く。
そうする度にじわりじわりと赤が染み込んで来る。
では
否、
「そして残る、未だに身元の分からない、少年」
依頼人は、女を殺したがっていた。
女は依頼人の知り合いであったと、男よりも長い付き合いであったと言っていたし、それら全てが勘違いで女だと思っていたのが実は少年であった、などということはさすがに有り得ないだろう。
それと同時に、実際顔を合わせたあの依頼人の女が実は少年であったというのも、無理がある。
どうしても、宙ぶらりんになる、少年と言う存在。
「さぁて」
肺胞へ細胞へ染み込んで、脳髄を這い上がる赤を己の中でじっと見つめる。
赤い。
混じり気がなく、鮮やかな赤だ。
依頼人の色は様々な思いが混じり合い、赤ではあれど暗く冴えた色が滲んでいた。
これはその依頼人の色をベースにしていながらもそれとは違い、あまりにも赤が強い。
そこにあるのは、ただただ真っ直ぐな――殺意だ。
『裏切りは、許さない』
あの日聞いた依頼人の声に、誰かの声が重なった。
誰の声なのか
恐らく、否、間違いなく、身元不明の少年であろう。
まだ声変わりも済ませていないようなそれは、依頼人の怨嗟より遥かに純粋に死を願っていた。
『許さない』
もう一度、声が囁く。
ただそればかりを繰り返す。
少年が詛ったのは果たして、誰なのだろうか。
「足りないな」
あまりにも強い
今度こそ本当に溜め息を吐いた
例えばこれならどうだろう、と、想像だけならば簡単に出来る。
宙ぶらりんの少年を、ただ偶然巻き込まれてしまった哀れな少年という枠から外す為の臆測程度であるならば。
例えばの話だ。
少年が依頼人の代わりに詛いをこの場へと持ち込んで、
混じった詛いが真実少年のものだったとして、考えられることはそれくらいだろうけれども。
――では何故、少年でなくてはならなかったのか。
依頼人が直前になって怖じ気付いた、そんな事も考えられなくはない。
けれどもあの、燃え盛る炎のような色をした女がそこで怖じ気付くとは
そも、怖じ気付いたというならば――自らの命を賭してでも成し遂げたいという心持ちを失ったと言うならば――詛いが成されることはないのだ。
遺体を検分してみなければ、恐らく真実は見えて来ないだろう。
とはいえ、検分したとしてもこの強すぎる
「急いだ方が良さそうだ」
その先は一階の居間、
ある程度時間も経ったことだし
何せ、ゆっくりと経過を看てやる余裕はない。
依頼人の女を早く見付けてやらなければならないなと、そう思う。
『許して』
少年が消えそうなほど小さな声でそう囁くのが、
一階居間には、漸く目を覚ましたのかソファに座ったままじっと自分の両の手のひらを見つめる
二人の間で交わされる言葉はひとつもなく、鳥も鳴かず、嫌に静かだ。
紫煙を外へ逃がす為か窓はわずかに開けられていて室内は些か肌寒いのだけれども、
二階から降りて来た
何も言わず相変わらず厳めしい顔を向けた
現場はまだ、片付いていない。
「おい、
フィルタのぎりぎりまで吸った煙草を、窓のレールに押し付けて火を消す。
そんな
呑まれかけていた詛いは封じたから、詛い自体でなく反動の問題だろう。
「
「……詛い屋」
肩に手を置いて声を掛けることで、漸く気が付いたらしい。
ほんのわずか――触れていたからやっと分かる程度に肩を跳ねさせた
顔色は悪くない。
強い感情の乱れもない。
眠っていたせいもあって多少の虚脱感はあるのだろうけれども、だからといって心身に不調を来すほどではないだろう。
ただ、一応の確認はしなければならない。
「体調はどうです。おかしなところは」
「いや……」
言葉尻を弱めて、
その視線の先にあるのは彼自身の手のひらだ。
黄色人種の色そのままの手のひらは、特筆するとしたらなら左手薬指の辺りにタコがあるくらいで、それだって彼自身の常と変わらない。
滑るように窓が閉まった音がした。
吸い殻は詛兇班の者が片付けることになるのだろうと、本来の仕事とは関係のない雑用に使われる彼等を頭の片隅で思う。
「何も、おかしなところ等はありません。ただこう……一体何と表現したら良いのか」
そこで言葉を切った
どうにも適切な言葉が見付からないらしかった。
苛立っているわけではないけれども、落ち着かない。
「どうにも不可解なのです。少し前までの俺とて俺に変わらないし、抱えているものは同じだというのに、そこへ向ける程の熱量を今はもう持ってはいないし、元々持ち合わせてもいなかったように思うのです。だのに、それはおかしいことではないかと
葡萄色の心臓の辺りを皺になる程に掴む。
指先に血が通わずに白くなって、それでも手を離すことはない。
不思議そうに、ソファの前に立つ
「それは副作用のようなものですから、少し経てば治りましょう。ですが」
言葉を切って、未だに窓際に立っている
何を言われるのかと表情を曇らせた
何せ、別に大したことではない。
「暫くは経過を看たい。良いかな、ライコウ殿」
そして気を抜いた時にも昔の癖が出て丁寧な言葉になってしまう。
時たま砕けた話し方をするのは、いつだったか
今は立場な立場だ。
こう言う提案をする権利が、
「構わん。次は安置所か」
「ああ」
――ああ、安置所とはつまり、またあの三人を見なくてはならないのか。
こう言った事案がそうそう転がっているわけではないのだけれども、ないとは言い切れない。
ならば今以上の耐性をつけさせるしかないのだ。
危なくなる度に呼び出されても駆けつけられるわけでもないし、そも、
――それに、何故
能面のような男の口元がわずかに上がった事に気付いたのは、正面から顔が見える
「
「ライコウ殿よ、今の
「なっ」
驚きに声を上げたのは槍玉に上げられている
「その顔で冗談は止めろ、それこそ洒落にならん」
「おや」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます