第四話

 目蓋の裏の混じり気のない黒を見つめながら、細く細く、息を吐く。


 肺胞の一つ一つから空気を絞り取るように、細胞の一つ一つからを追い出すように。


 そうして今度は目を開けて混沌たる赤を見つめながら、深く深く、息を吸う。


 ひしゃげた肺胞と細胞一つ一つに、赤い詛いが染み込むように。



 亘乎せんやはこの作業を殊更ことさら愛していた。

 依頼人が生み出し自らが練り上げた詛いが、如何いかに熟成し人を殺すまでに至ったのか、それを知ることが出来るこの作業を。


 今回のことに関して更にいえば、亘乎せんやのものだけでないにも関わらず詛い同士、随分と馴染んでいる。

 玄人の詛いに素人の詛いが混じっておいて、こんなにも人を殺せるなんて、滅多にあることではなかった。

 詛い屋ひとによっては混じることを嫌がる者は少なくないし、亘乎せんやにしてもあまり気持ちの良いものではなかったけれども、どうだろう、まるで連れ弾きでもしているかのように一つの詛いへと昇華している。


 面白いと、そう思うのは、道徳的に見ていけないということを亘乎せんやは重々承知していた。


 詛い屋などという阿漕あこぎな商売をしてはいても、そも詛いを肯定するつもりはない。

 それでもそんな稼業を離れられずにいるのは、詛いそれが金になるからでもあるし、嫌いになれずにいるからでもあるのだ。


 嫌いになぞ、なれない。

 ああ、なんて、面白い。


 亘乎せんやはゆったりと瞬きをして、わずかに湧いたそれらを深く沈めていった。

 そして、赤の声を聞く。




「どうして」


 赤はそれを、強く訴えていた。


 ――どうして、どうして、どうして。


 依頼人の女がやって来た時に亘乎せんやが感じたのは、嫉妬だった。

 強烈に伝えてくる嫉妬の念は、裏切られた女の情念そのものだ。


 この世の中、殊イタルヤという街にいて、そんな思いを抱える人間は少なくない。

 そうであるが故に、亘乎せんやはあの女の依頼を断ることだって出来た――けれども、そうはしなかった。

 女が内に秘める懊悩を、恋に破れたというそれだけではない苦しみを、足元からじわりじわりと這い上がる悲しみを、どうしても捨て切れない静かな愛おしみを感じ取ったからだった。


「燃え盛る炎、そして、地に落ちた蛍火」


 亘乎せんやの薄い唇が、吐息混じりにそう零す。

 溜め息などではなく、まるで、睦言を囁くように。


 ――依頼人の女が語ったのは、愛した男の不貞だった。


 結婚の約束をした男が、女を作った。

 その女は依頼人の顔見知りで、依頼人は婚約者の命をも奪うことになったとしても、自らの命を落とすことになったとしても、その女を詛い殺す術を求めたのだ。


 それ以上のことは訊いていない。

 依頼人に必要なのは相手をしっかと思い浮かべてどうしても詛いたいと強く念ずることだけで、そこから詛いという形へ練り上げるのは詛い屋である亘乎せんやの仕事であるし、何故そうしたいのかという理由は詛いに関係ないのだから。


 果たして詛いは成った。


 けれども、亘乎せんやの見たそれとは明らかな変貌を遂げて。



 ゆったりと目を瞬く。

 そうする度にじわりじわりと赤が染み込んで来る。


 孝重きょうえという男が、依頼人と愛し合い婚約までしておいて、結局依頼人を捨てた男なのだろう。

 では潔生ゆきみが依頼人か。

 否、潔生ゆきみ孝重きょうえと交際関係にあったというのだから、依頼人が殺したいと――苦しんで苦しんで苦しんで、それから血反吐を吐きながら死ぬようにと願った女なのだろうか。


「そして残る、未だに身元の分からない、少年」


 依頼人は、女を殺したがっていた。

 女は依頼人の知り合いであったと、男よりも長い付き合いであったと言っていたし、それら全てが勘違いで女だと思っていたのが実は少年であった、などということはさすがに有り得ないだろう。

 それと同時に、実際顔を合わせたあの依頼人の女が実は少年であったというのも、無理がある。


 どうしても、宙ぶらりんになる、少年と言う存在。


「さぁて」


 亘乎せんやは思考を中断した。

 肺胞へ細胞へ染み込んで、脳髄を這い上がる赤を己の中でじっと見つめる。


 赤い。


 混じり気がなく、鮮やかな赤だ。

 依頼人の色は様々な思いが混じり合い、赤ではあれど暗く冴えた色が滲んでいた。

 これはその依頼人の色をベースにしていながらもそれとは違い、あまりにも赤が強い。

 そこにあるのは、ただただ真っ直ぐな――殺意だ。


『裏切りは、許さない』


 あの日聞いた依頼人の声に、誰かの声が重なった。

 誰の声なのか亘乎せんやには聞き覚えがなかったけれども、それでも、推測程度なら出来る。

 恐らく、否、間違いなく、身元不明の少年であろう。

 まだ声変わりも済ませていないようなそれは、依頼人の怨嗟より遥かに純粋に死を願っていた。


『許さない』


 もう一度、声が囁く。

 ただそればかりを繰り返す。

 少年が詛ったのは果たして、誰なのだろうか。


「足りないな」


 あまりにも強いさついが邪魔をして、他の思いをろくに読み取ることが出来ない。

 今度こそ本当に溜め息を吐いた亘乎せんやは、誰に向けるでもなくゆるりと首を振った。


 例えばこれならどうだろう、と、想像だけならば簡単に出来る。

 宙ぶらりんの少年を、ただ偶然巻き込まれてしまった哀れな少年という枠から外す為の臆測程度であるならば。


 例えばの話だ。

 少年が依頼人の代わりに詛いをこの場へと持ち込んで、孝重きょうえ潔生ゆきみ、そして自らの命を散らしたとしたら。

 混じった詛いが真実少年のものだったとして、考えられることはそれくらいだろうけれども。


 ――では何故、少年でなくてはならなかったのか。


 依頼人が直前になって怖じ気付いた、そんな事も考えられなくはない。

 けれどもあの、燃え盛る炎のような色をした女がそこで怖じ気付くとは亘乎せんやには到底思えなかった。

 そも、怖じ気付いたというならば――自らの命を賭してでも成し遂げたいという心持ちを失ったと言うならば――詛いが成されることはないのだ。


 遺体を検分してみなければ、恐らく真実は見えて来ないだろう。

 とはいえ、検分したとしてもこの強すぎるのろいでは個々の思いを知ることが出来るのか五分五分ではあるのだけれども。


「急いだ方が良さそうだ」


 亘乎せんやはそう零すと、しっかとした足取りでその部屋を出て、階段を下った。

 その先は一階の居間、頼劾らいがいと共に早々に安置所へ向かわなくてはならない。


 ある程度時間も経ったことだし矢途やずも目を覚ましているだろうから、彼も連れて行こうと亘乎せんやはふと考えた。

 何せ、ゆっくりと経過を看てやる余裕はない。

 依頼人の女を早く見付けてやらなければならないなと、そう思う。


『許して』


 少年が消えそうなほど小さな声でそう囁くのが、亘乎せんやの耳にだけは届いていた。




 一階居間には、漸く目を覚ましたのかソファに座ったままじっと自分の両の手のひらを見つめる矢途やずと、窓際で短くなった太い煙草をくゆらせながらその様子を眺める頼劾らいがいの姿があった。

 頼劾らいがいが下がらせたのだろう、二階へと向かう際に矢途やずのことを頼んだ詛兇班の者の姿はない。

 二人の間で交わされる言葉はひとつもなく、鳥も鳴かず、嫌に静かだ。

 紫煙を外へ逃がす為か窓はわずかに開けられていて室内は些か肌寒いのだけれども、矢途やずはそれを気にする程の余裕もないらしく微動だにしない。

 二階から降りて来た亘乎せんやのことも、どうやら気付いていない様子だ。


 何も言わず相変わらず厳めしい顔を向けた頼劾らいがいに、亘乎せんやはゆるりと首を振った。

 現場はまだ、片付いていない。


「おい、矢途やず


 フィルタのぎりぎりまで吸った煙草を、窓のレールに押し付けて火を消す。

 そんな頼劾らいがいのがさつさに些か頭を痛めながら、亘乎せんやは一歩踏み出した。

 矢途やずは名前を呼ばれているのに、耳に入っていないらしいのだ。

 呑まれかけていた詛いは封じたから、詛い自体でなく反動の問題だろう。


矢途やずさん」

「……詛い屋」


 肩に手を置いて声を掛けることで、漸く気が付いたらしい。

 ほんのわずか――触れていたからやっと分かる程度に肩を跳ねさせた矢途やずは、やけに緩慢な動きでもって顔を持ち上げた。


 顔色は悪くない。

 頑健がんけんな成人男子としては良いともいえないけれども、普段和ろうそくの灯りしかないような薄暗い部屋で過ごしている亘乎せんやなどよりかは余程健康的だ。

 強い感情の乱れもない。

 眠っていたせいもあって多少の虚脱感はあるのだろうけれども、だからといって心身に不調を来すほどではないだろう。


 ただ、一応の確認はしなければならない。

 まるく開かれた焦げ茶を見下ろして、口を開く。


「体調はどうです。おかしなところは」

「いや……」


 言葉尻を弱めて、矢途やずが俯いた。

 その視線の先にあるのは彼自身の手のひらだ。

 黄色人種の色そのままの手のひらは、特筆するとしたらなら左手薬指の辺りにタコがあるくらいで、それだって彼自身の常と変わらない。


 滑るように窓が閉まった音がした。

 吸い殻は詛兇班の者が片付けることになるのだろうと、本来の仕事とは関係のない雑用に使われる彼等を頭の片隅で思う。

 矢途やずは短く息を吐いて再び口を開いた。


「何も、おかしなところ等はありません。ただこう……一体何と表現したら良いのか」


 そこで言葉を切った矢途やずは、雨粒を嫌がる犬のように一度だけ頭を振る。

 どうにも適切な言葉が見付からないらしかった。

 苛立っているわけではないけれども、落ち着かない。


「どうにも不可解なのです。少し前までの俺とて俺に変わらないし、抱えているものは同じだというのに、そこへ向ける程の熱量を今はもう持ってはいないし、元々持ち合わせてもいなかったように思うのです。だのに、それはおかしいことではないかとそそのかす自分もいるのです。台風一過の青空を見上げながら、よもや自分は台風であったはずではなかったかと、そう思うのです」


 葡萄色の心臓の辺りを皺になる程に掴む。

 指先に血が通わずに白くなって、それでも手を離すことはない。

 亘乎せんやは短い眉を寄せながら歯噛みする矢途やずを見下ろして、なるほど、と頷いてみせた。

 同意を得たそれだけだというのに、苦しげにしていた矢途やずの力がわずかだけ抜ける。

 不思議そうに、ソファの前に立つ亘乎せんやを見上げている――やはり犬に似ていると、いささか失礼な事を思った。


「それは副作用のようなものですから、少し経てば治りましょう。ですが」


 言葉を切って、未だに窓際に立っている頼劾らいがいへと視線を移す。

 何を言われるのかと表情を曇らせた矢途やずには気付かないふりをしておいた。

 何せ、別に大したことではない。

 亘乎せんやの中での決定事項をさも今思い付いたとばかりに頼劾らいがいへ提案するだけなのだ。


「暫くは経過を看たい。良いかな、ライコウ殿」


 頼劾らいがいの部下がいるところでは、亘乎せんやは彼に対して丁寧に話し掛ける。

 そして気を抜いた時にも昔の癖が出て丁寧な言葉になってしまう。

 時たま砕けた話し方をするのは、いつだったか頼劾らいがいが、既に自分達は対等な立場なのだから畏まる必要などはないと言ったからだった。


 今は立場な立場だ。

 こう言う提案をする権利が、亘乎せんやにはある――と言う、頼劾らいがいへのパフォーマンスだ。


「構わん。次は安置所か」

「ああ」


 ――ああ、安置所とはつまり、またあの三人を見なくてはならないのか。


 矢途やずの顔にそうありありと書いてあるのは視界の端に見えたけれども、亘乎せんやはやはり気付かないふりをした。

 こう言った事案がそうそう転がっているわけではないのだけれども、ないとは言い切れない。

 ならば今以上の耐性をつけさせるしかないのだ。

 危なくなる度に呼び出されても駆けつけられるわけでもないし、そも、逐一ちくいち出向いてやるほど暇を持て余しているわけではない。


 ――それに、何故矢途やずだけが呑まれたのかも知りたいところだ。


 能面のような男の口元がわずかに上がった事に気付いたのは、正面から顔が見える頼劾らいがいだけだった。

 頼劾らいがいにしても正確に亘乎せんやの心持ちを理解しているわけではなく、何やら良からぬ癖が出ているらしいと推測することしか出来ないけれども。


矢途やず、お前運転は」

「ライコウ殿よ、今の矢途やずさんに運転させるのは止して欲しいところだな。急に詛いが脳裏に蘇って、錯乱した挙げ句に大型車と正面衝突、なんて洒落にならないだろう」

「なっ」


 驚きに声を上げたのは槍玉に上げられている矢途やずだった。

 亘乎せんやと長い付き合いがある頼劾らいがいは素直に受け止めるはずもなく、溜め息を吐いて軽く首を振る。


「その顔で冗談は止めろ、それこそ洒落にならん」

「おや」


 亘乎せんやが緩く首を傾げて、それに合わせてモノクルのチェーンがわずかに揺れる。

 矢途やずに分かったのは、どうやら亘乎のろいやが冗談を言ったらしいことと、自らには選択権がないらしいということだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る