第五話
事件現場であった
安置所と言っても軍施設である建物の一角にあるのだから、正確にそこを表すとなると軍のトバリ支部である。
ここまでは結局、
あの感情の伝わりにくい、いつもの無表情で
けれども、他にも突入した邏卒がいたというのに
好青年と称するに不足のない人物であるように思える
本人としては隠していたつもりであっただろうけれども、
果たして詛いによってそうなったのか、詛いによって本質が表層へ現れ出たと言うのか。
色々な考察をしながら、しかしそれを悟られる事なく
安置所に繋がる廊下は酷く静かだ。
蛍光灯が微かに低い音を立てている。
通い慣れてしまっているから先導などがなくても目的地へは辿り着けるのだけれども、
安置所は渡り廊下を通って辿り着いた北棟の、更に北側にある階段をひとつふたつ降りたところにある。
そこは遺体が安置されているだけではなく、検死も行われていた。
足元から這い上がる冷気が肌を粟立たせる。
消臭剤の人工的な甘いにおいと、傷んだ肉のようなにおいが混じり合って気管をねっとりと下っていった。
ああ、死のにおいだと、そう思う。
「やぁやぁ、お出ましだねぇセンセイ方、ちょっと待っていてくれよ」
遺体が横たわる解剖台の前に立つその人物は、一度だけ
壁一面の遺体貯蔵庫が鈍く光って、彼の緑色を反射している。
センセイ、と言うのは
別に
ただいつの間にかそんなあだ名を付けられていた。
「お目当ては昨日の三名だったねぇ。えぇと、そう、隣で待機中だったかな。確認も出来ていないんだよ、何せここは異状死が多くて、大忙しなんだ。愚妹は今イチサンにいるし、手が足りなくてねぇ」
「心得ているさ。忙しいところに邪魔をしてすまないね、
寝癖も相まってあちらこちらに跳ねた髪は、軍というお堅い組織に所属しているのにも関わらず極限まで脱色した上で更に鮮やかな緑色に染められている。
彼の言う愚妹による兇行の結果ではあるけれども、彼自身は特に気にした素振りも見せず月に一度は妹の手により脱色され、染髪されているらしかった。
ただ、随分と髪が傷むからろくに
少しの間固まっていた
それがスイッチであるかのように、なんて愉快なことかと言わんばかりに
そんな表情がただただ無邪気なものに見えるのは、背が低く童顔で三十路間近だというのに未だ中学生に見間違えられることすらある
「アハハ、センセイがそんな殊勝な態度で謝るなんて、珍しいこともあったものだねぇ」
「おや、失礼な。私はいつだって
死のにおいが濃密に漂う青白い室内でどことなく和やかに――片方は全く無表情だけれども――会話を進める
早くここを出たいと思ってみても誰に訴えることも出来ず、深く呼吸しないように努めるだけで精一杯だ。
検死が終わった遺体達は、この後様々な手続きを行ってから遺族などに引き渡されることになる。
「さぁさぁ、ちょっと待っていてくれよ。ああ、やっぱり君、ちょっと手伝ってくれるかな、そこの葡萄色の、邏卒の君だよ、如何にも巻き込まれましたって顔をしている生真面目そうな君」
「は……自分ですか」
「そうとも、君、ああ、えぇと、名前は何ていうのかな。どうにも僕は、きっと君とは長い付き合いになりそうだと、そんな予感がしているんだ。アハハ、こんな言葉、前史の頃に流行った歌みたいだねぇ」
貯蔵庫の扉を閉めて振り返るなり掛けられた声に、
たったの一言に何倍もの言葉を返されどうして良いのか分からない。
特に今日に限っていえば無口な二人と行動を共にしていた為にその落差が
呼吸すら躊躇われる車内は地獄に思え、その空気を壊すような人物を求めてはいたけれども。
助けを求めるようにして自分をここへ連れて来た二人へ目を向けると、
無理やりに連れて来ておいてそんな反応かと
おもむろに組んでいた腕を解く
これが外つ国の奴等に恐れられた人の迫力か――
「
「ああ、はいはい、ライコウ殿も相変わらずだねぇ。そんな怖い顔をして見ることはないじゃあないか、ああ、怖い怖い。ねぇ君、そうは思わないかい、ライコウ殿は本当に、顔で損する男だよ。まぁ滅多なことじゃあ表情を変えないセンセイなんかも怖いといえばそうだけど、男臭くなくてお綺麗な女受けする顔だからねぇ、ライコウ殿とは違って、キャアステキ、なんて騒がれるんだよ、アハハ」
何とも言えず短い眉を寄せて苦笑してみせるしかない
君なんかは年上の女にモテそうだねぇ、真面目腐った雰囲気の癖にその人の良さそうな目がどことなく忠犬染みているよ君は、なぞと何やらひとりで納得しながら、三人が入って来たドアとは別のドアの向こうへと消えて行った。
――何ともはや、嵐のような人だ。
とは言えあれでいつも通りなのだろうと、
共にやって来た二人の男は、特に気にした様子などはない。
否、ただ、変わらず無表情な
溜め息の反動で奥深くにまで入り込んだ安置所の空気に、
思い切り吐き出すべきか、においにもう諦めて普通に呼吸をするべきか、ジレンマに陥ってしまう。
二人が平然としているのは、踏んできた場数の違いなのだろうか――また出そうになった溜め息を慌てて飲み込んだ。
「ほらほら、手伝ってくれってば、そこの熟女キラーの邏卒君」
「なっ」
「
開け放たれたドアの向こう側から白衣と手が覗く。
呆れたような溜め息を吐きながら釘を刺した
どうして自分がこんな目に、と、思い切り嘆いてやりたい気分だった。
滑るようにして閉じたドアの先は、その手前の部屋よりももっと室温が低いらしかった。
冷たさのせいなのか余計濃密に漂う死のにおいが、身震いをした
左手の壁一面に貯蔵庫が並んでいた。
手前の明かりをつけると奥へ向かうほどに薄暗く、どうしても感じてしまう気味の悪さと同時に湧き上がるこんなにも多くの貯蔵庫が必要なのだと言う事実が、何ともいえず
――邏卒と言う身分に身を置きながら、知っていたはずの事実を目の当たりにしただけで、これほどまでに胸が塞がる思いをするなんて。
そう心の内で自嘲する。
そんな
「さあさあ、センセイ達を待たせるわけには行かないからねぇ、早いところお目当ての三人を運び出そうじゃあないか。えぇと、君、ヤズ君だったね、僕について来て」
「はい」
促されるままに、
平静を装ってみても薄暗いところから何かが、誰かが手招きをしているような気がして、前でひらりと揺れる白衣に追い縋りたくなる。
貯蔵庫の扉の部分にはただ番号だけが書かれていて、人間は死んでからも番号で管理されるのかと
扉を開けば、部屋の中よりも特段濃厚な死が漂って来る。
けれども、ああこれは死んでいるのだ、と
三つの扉中から引き出された、三つの蓑虫。
ファスナー付きの袋は何やら書かれた札が何枚も貼られ、これが封なのかと納得させられた。
「ところでヤズ君」
先程までと違い、随分と静かな声が名前を呼ぶ。
少し離れて立つ
「君さぁ、どうやって取り入ったの」
――取り入る……取り入るだなんて。
「一体何の話を」
お互いの、蓑虫に向けられていた視線がかち合う。
表情を削ぎ落として憎たらしいものを見るような目と、不可解な問いにどう反応すべきなのかそれすら分からないと言った風の目。
「センセイがあれほど気にかけているなんて君が何かしたとしか考えられない。どうやったの。何をしたの。センセイに近付いてどうするつもりなの、ねぇ」
「なっ……待って下さい、取り入るも何も、俺は仕事をしているだけで何もしていないし、どうするつもりもありませんよ」
静かで穏やかに話しているのに、否、だからこそ
助けてくれそうな
むしろこうなる事は、向こうの二人も承知であるのではないか。
わざと止めずに自分を送り出したのではないか――そんな被害妄想にも似た感情が
じり、と一歩後退る。
けれども、冷ややかな死のにおいが足首に絡まっている。
「……なぁんてね」
「……は」
見開かれていた円い瞳がにんまりと弧を描き、小首を傾げる仕草に合わせて緑色が揺れた。
展開に着いていけない
「怖かったかな、ヤズ君、どうだい、今のは前史の頃に流行ったヤンデレとかいうやつらしいんだけれど、いやぁ、我が愛しの愚妹が、どうにも僕に似合いそうだなどと言うものだから今こうして、愚妹がイチサンで行われている勉強会へ呼ばれている間に練習でもしてみようと思ったのだよ」
どうだい上手だろう、と自慢げに口角が上がる。
固まったままの
「アハハ、それにしてもヤズ君、君は腹芸が出来ない男だねぇ。いやいや、ああいう場面でニッコリ微笑まれちゃあ如何にも隠しことをしてますと言わんばかりだけれど、それにしても素直だよ。君、自分で気付いているか分からないけれどね、僕に詰め寄られて瞬きは増えるし怯えて後退りはするし、分かりやすいねぇ。それが演技だっていうなら、見上げたものだけれど」
「……はあ」
「ほらほらぼんやりしていないで、彼らを運んであげておくれよヤズ君、一寸の光陰軽んずべからずと昔の人も言ったろう」
二つのストレッチャーを押し付けられても
どうして自分がこんな目に、と呟く
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