第五話

 事件現場であった孝重きょうえ宅から車で二十分足らず、トバリ中央区と東区の丁度境の辺りに、目的地である遺体安置所はあった。

 安置所と言っても軍施設である建物の一角にあるのだから、正確にそこを表すとなると軍のトバリ支部である。


 ここまでは結局、頼劾らいがいによる運転でやって来た。

 あの感情の伝わりにくい、いつもの無表情で亘乎せんやが語ってみせたことは、あくまでも冗談ではあった。

 けれども、他にも突入した邏卒がいたというのに矢途やずだけがあの詛いに強く反応を示したことをかんがみると、そうならざるを得なかった何らかの事情があるとしか思えないし、詛いの流れ弾を受けた傷が完治しているかどうかは分からない。

 亘乎せんやの言葉のようなことになってしまう可能性がある程度、例えば平時の交通事故確率よりも高いというなら、わざわざ冒険する必要もないだろう。


 矢途やずは憑き物が落ちたかの如く勤勉な若年らしい態度でもって二人に向き合っているのだけれども、それが余計に亘乎せんやの興味を駆り立てた。

 好青年と称するに不足のない人物であるように思える矢途やずが何故、ああも詛いに呑まれたのか。


 本人としては隠していたつもりであっただろうけれども、亘乎せんやには最初に顔を合わせた時の矢途やずの苛立ちが手に取るように感じられていた。

 果たして詛いによってなったのか、詛いによって本質が表層へ現れ出たと言うのか。


 色々な考察をしながら、しかしそれを悟られる事なく亘乎せんやはゆったりと歩を進めた。


 安置所に繋がる廊下は酷く静かだ。

 蛍光灯が微かに低い音を立てている。

 亘乎せんやの住居であり仕事場でもあるあの平屋より幾らも明るい廊下に響くのは、革の靴底と、ゴム底が鳴らす足音ばかりだ。

 亘乎せんやの前には先導するように頼劾らいがいが、その斜め後ろを二人から少し離れて手持ち無沙汰な様子で矢途やずが続いている。


 通い慣れてしまっているから先導などがなくても目的地へは辿り着けるのだけれども、亘乎せんやは一応、部外者だった。


 安置所は渡り廊下を通って辿り着いた北棟の、更に北側にある階段をひとつふたつ降りたところにある。

 そこは遺体が安置されているだけではなく、検死も行われていた。

 孝重きょうえ潔生ゆきみ、そして身元不明少年の遺体も現場から安置所に移送されたのだけれども、今はまだ封をして検死には入っていない。

 亘乎せんや側から昨晩の時点で検死を待つように申し入れをしたこともあるし、そも安置所の主とも言える医師の前にはその手を待つ遺体の行列がずらりと出来ているからでもあった。




 足元から這い上がる冷気が肌を粟立たせる。

 消臭剤の人工的な甘いにおいと、傷んだ肉のようなにおいが混じり合って気管をねっとりと下っていった。

 ああ、死のにおいだと、そう思う。


「やぁやぁ、お出ましだねぇセンセイ方、ちょっと待っていてくれよ」


 遺体が横たわる解剖台の前に立つその人物は、一度だけ亘乎せんや達へ視線を向けるとバインダーに挟んだ紙へ何か書き付けながらそう言った。

 壁一面の遺体貯蔵庫が鈍く光って、彼の緑色を反射している。


 センセイ、と言うのは亘乎せんやへのあだ名だった。

 別に亘乎せんやが彼へ何かを教えたわけではなく、かといって亘乎せんやへの敬意を表しているわけでもない。

 ただいつの間にかそんなあだ名を付けられていた。


「お目当ては昨日の三名だったねぇ。えぇと、そう、隣で待機中だったかな。確認も出来ていないんだよ、何せここは異状死が多くて、大忙しなんだ。愚妹は今イチサンにいるし、手が足りなくてねぇ」

「心得ているさ。忙しいところに邪魔をしてすまないね、左椋さりょう


 左椋さりょうと呼ばれた医師は、亘乎せんやの言葉に目を丸くしてバインダーから顔を上げた。

 寝癖も相まってあちらこちらに跳ねた髪は、軍というお堅い組織に所属しているのにも関わらず極限まで脱色した上で更に鮮やかな緑色に染められている。

 彼の言うによる兇行の結果ではあるけれども、彼自身は特に気にした素振りも見せず月に一度は妹の手により脱色され、染髪されているらしかった。

 ただ、随分と髪が傷むからろくにくしけずることも出来ないんだよねぇ、とぼやきはするのだけれども。


 少しの間固まっていた左椋さりょうは目を丸くしたまま、白衣の胸ポケットへと万年筆を収めた。

 それがスイッチであるかのように、なんて愉快なことかと言わんばかりに破顔はがんしてみせる。

 そんな表情がただただ無邪気なものに見えるのは、背が低く童顔で三十路間近だというのに未だ中学生に見間違えられることすらある左椋さりょうであればこそなのだろう。


「アハハ、センセイがそんな殊勝な態度で謝るなんて、珍しいこともあったものだねぇ」

「おや、失礼な。私はいつだって真摯しんしに振る舞っているつもりだというのに」


 死のにおいが濃密に漂う青白い室内でどことなく和やかに――片方は全く無表情だけれども――会話を進める亘乎せんや左椋さりょう、ドア付近に立つ頼劾らいがいは腕を組みむっつりと唇を引き結んで、その横に所在なさげに立つ矢途やずは言葉を交わす相手がいるわけでもなく、ただ大人しくしていることしか出来ない。

 早くここを出たいと思ってみても誰に訴えることも出来ず、深く呼吸しないように努めるだけで精一杯だ。


 左椋さりょうはバインダーを部屋の端にある机へ放ると、解剖台から貯蔵庫へと遺体を移動した。

 検死が終わった遺体達は、この後様々な手続きを行ってから遺族などに引き渡されることになる。


「さぁさぁ、ちょっと待っていてくれよ。ああ、やっぱり君、ちょっと手伝ってくれるかな、そこの葡萄色の、邏卒の君だよ、如何にも巻き込まれましたって顔をしている生真面目そうな君」

「は……自分ですか」

「そうとも、君、ああ、えぇと、名前は何ていうのかな。どうにも僕は、きっと君とは長い付き合いになりそうだと、そんな予感がしているんだ。アハハ、こんな言葉、前史の頃に流行った歌みたいだねぇ」


 貯蔵庫の扉を閉めて振り返るなり掛けられた声に、矢途やずは上手く反応出来ずにいた。

 たったの一言に何倍もの言葉を返されどうして良いのか分からない。

 特に今日に限っていえば無口な二人と行動を共にしていた為にその落差が矢途やずを戸惑わせるのだ。

 呼吸すら躊躇われる車内は地獄に思え、その空気を壊すような人物を求めてはいたけれども。


 助けを求めるようにして自分をここへ連れて来た二人へ目を向けると、亘乎せんやは肩を竦め、頼劾らいがいは溜め息を吐いた。

 無理やりに連れて来ておいてそんな反応かと矢途やずは思ったけれども、どうやらその溜め息は自分へ向けられたものではなかったらしい。

 おもむろに組んでいた腕を解く頼劾らいがいは、金剛力士像が動き出しでもしたかのような畏怖を感じさせる。

 これが外つ国の奴等に恐れられた人の迫力か――矢途やずがそんなことを考えているなど知りようもないはずなのに、亘乎せんやはどことなく楽しげに目を細めていた。


左椋さりょう

「ああ、はいはい、ライコウ殿も相変わらずだねぇ。そんな怖い顔をして見ることはないじゃあないか、ああ、怖い怖い。ねぇ君、そうは思わないかい、ライコウ殿は本当に、顔で損する男だよ。まぁ滅多なことじゃあ表情を変えないセンセイなんかも怖いといえばそうだけど、男臭くなくてお綺麗な女受けする顔だからねぇ、ライコウ殿とは違って、キャアステキ、なんて騒がれるんだよ、アハハ」


 何とも言えず短い眉を寄せて苦笑してみせるしかない矢途やずを、話題を振った左椋さりょうはといえば気にする様子はない。

 君なんかは年上の女にモテそうだねぇ、真面目腐った雰囲気の癖にその人の良さそうな目がどことなく忠犬染みているよ君は、なぞと何やらひとりで納得しながら、三人が入って来たドアとは別のドアの向こうへと消えて行った。


 ――何ともはや、嵐のような人だ。


 とは言えあれでいつも通りなのだろうと、矢途やずはひっそりと溜め息を吐いた。

 共にやって来た二人の男は、特に気にした様子などはない。

 否、ただ、変わらず無表情な亘乎せんやと、変わらず眉間に皺を寄せた頼劾らいがいの姿があるだけで、内心はどう思っているのかまでは、分かりようもなかったのだけれども。


 溜め息の反動で奥深くにまで入り込んだ安置所の空気に、矢途やずは思わず顔をしかめた。

 思い切り吐き出すべきか、においにもう諦めて普通に呼吸をするべきか、ジレンマに陥ってしまう。

 二人が平然としているのは、踏んできた場数の違いなのだろうか――また出そうになった溜め息を慌てて飲み込んだ。


「ほらほら、手伝ってくれってば、そこの熟女キラーの邏卒君」

「なっ」

左椋さりょう、こいつは矢途やずだ。言い掛かりで妙なあだ名をつけてやるなよ」


 開け放たれたドアの向こう側から白衣と手が覗く。

 呆れたような溜め息を吐きながら釘を刺した頼劾らいがいについつい深々と感謝の礼をしてから、矢途やずは隣接する部屋へと向かった。

 どうして自分がこんな目に、と、思い切り嘆いてやりたい気分だった。




 滑るようにして閉じたドアの先は、その手前の部屋よりももっと室温が低いらしかった。

 冷たさのせいなのか余計濃密に漂う死のにおいが、身震いをした矢途やずの足首へと絡み付く。


 左手の壁一面に貯蔵庫が並んでいた。

 手前の明かりをつけると奥へ向かうほどに薄暗く、どうしても感じてしまう気味の悪さと同時に湧き上がるこんなにも多くの貯蔵庫が必要なのだと言う事実が、何ともいえず怖気おぞけを震う。


 ――邏卒と言う身分に身を置きながら、知っていたはずの事実を目の当たりにしただけで、これほどまでに胸が塞がる思いをするなんて。


 そう心の内で自嘲する。

 そんな矢途やずを、頭一つ分低いところにある子供のような円い瞳がじっと見つめて、そうしてから消える寸前の月の如く細まった。

 矢途やずは自分の感情だけに手一杯で、それに気付いた様子はない。


「さあさあ、センセイ達を待たせるわけには行かないからねぇ、早いところお目当ての三人を運び出そうじゃあないか。えぇと、君、ヤズ君だったね、僕について来て」

「はい」


 促されるままに、矢途やず左椋さりょうの後ろを歩き出した。

 平静を装ってみても薄暗いところから何かが、誰かが手招きをしているような気がして、前でひらりと揺れる白衣に追い縋りたくなる。


 左椋さりょうは部屋の奥から見て幾らか手前のところで立ち止まった。

 貯蔵庫の扉の部分にはただ番号だけが書かれていて、人間は死んでからも番号で管理されるのかと矢途やずは特に感慨もなく、そうであるという事実にただ納得するだけだ。


 扉を開けば、部屋の中よりも特段濃厚な死が漂って来る。

 孝重きょうえ達三人が見付かったのは事件が起きたであろう時刻から半刻も経たない内だったこともあるし、詛兇班の手によって封じられていることもあって、遺体から腐臭がするわけではない。

 けれども、ああこれは死んでいるのだ、と矢途やずは改めて思う。


 三つの扉中から引き出された、三つの蓑虫。

 ファスナー付きの袋は何やら書かれた札が何枚も貼られ、これが封なのかと納得させられた。


「ところでヤズ君」


 先程までと違い、随分と静かな声が名前を呼ぶ。

 少し離れて立つ矢途やず左椋さりょうの成人男子にしては小さな背中に一瞥をくれて、はい、とだけ答えると次の言葉を待った。


「君さぁ、どうやって取り入ったの」


 ――取り入る……取り入るだなんて。


「一体何の話を」


 お互いの、蓑虫に向けられていた視線がかち合う。

 表情を削ぎ落として憎たらしいものを見るような目と、不可解な問いにどう反応すべきなのかそれすら分からないと言った風の目。

 左椋さりょう矢途やずの全てを見透かしてやろうとばかりに、射抜くようにじっと見つめている。


「センセイがあれほど気にかけているなんて君が何かしたとしか考えられない。どうやったの。何をしたの。センセイに近付いてどうするつもりなの、ねぇ」

「なっ……待って下さい、取り入るも何も、俺は仕事をしているだけで何もしていないし、どうするつもりもありませんよ」


 静かで穏やかに話しているのに、否、だからこそ気圧けおされた。

 助けてくれそうな頼劾らいがいも、くだんの詛い屋も離れた位置にあるドアのそのまた向こうにいて、助けは望めない。


 むしろこうなる事は、向こうの二人も承知であるのではないか。

 わざと止めずに自分を送り出したのではないか――そんな被害妄想にも似た感情が矢途やずの腹の中を駆け巡る。


 じり、と一歩後退る。

 けれども、冷ややかな死のにおいが足首に絡まっている。


「……なぁんてね」

「……は」


 見開かれていた円い瞳がにんまりと弧を描き、小首を傾げる仕草に合わせて緑色が揺れた。

 展開に着いていけない矢途やずを楽しげに眺めたかと思えば、両腕を広げておどけてみせる。


「怖かったかな、ヤズ君、どうだい、今のは前史の頃に流行ったヤンデレとかいうやつらしいんだけれど、いやぁ、我が愛しの愚妹が、どうにも僕に似合いそうだなどと言うものだから今こうして、愚妹がイチサンで行われている勉強会へ呼ばれている間に練習でもしてみようと思ったのだよ」


 どうだい上手だろう、と自慢げに口角が上がる。

 固まったままの矢途やずのことなど置いてけぼりで半回転してまた貯蔵庫に向き合えば、左椋さりょうはさっさと蓑虫をストレッチャーに移していた。


「アハハ、それにしてもヤズ君、君は腹芸が出来ない男だねぇ。いやいや、ああいう場面でニッコリ微笑まれちゃあ如何にも隠しことをしてますと言わんばかりだけれど、それにしても素直だよ。君、自分で気付いているか分からないけれどね、僕に詰め寄られて瞬きは増えるし怯えて後退りはするし、分かりやすいねぇ。それが演技だっていうなら、見上げたものだけれど」

「……はあ」

「ほらほらぼんやりしていないで、彼らを運んであげておくれよヤズ君、一寸の光陰軽んずべからずと昔の人も言ったろう」


 二つのストレッチャーを押し付けられても矢途やずは何も言えず、むしろ良く分からない状況から逃れられると肩から力を抜いた。

 どうして自分がこんな目に、と呟く矢途やずを、左椋さりょうは目を細めて眺めていた。

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