第六話
「せっかくセンセイがいるんだ、穏便に封を解いて貰おう」
そう言ったのは左椋で、そしてその場にいた誰も反対する事はなかった。解剖台の上には蓑虫になった身元不明の少年が、その脇にはストレッチャーに載せられたままの孝重と潔生がいる。
「少し離れてくれるか、特に矢途さん」
解剖台の前へと進み出る亘乎に声を掛けられた矢途は疑問を抱く事もなく、端からそうする心積もりだったとばかりにドア付近まで下がった。
勿論、奥へ通じるドアではない。
死のにおいから一番離れられる出入り口のドアだ。
頼劾は亘乎と矢途を結んだ線上の丁度中程に、左椋は解剖台とストレッチャーを挟んだ向こう側へ立った。
三白眼が、三人の遺体を見下ろす。
目にした者なら誰も彼も蓑虫と称したくなる程に幾枚も貼られている札には、内つ国だけでなく外つ国の東西南北様々な国で使われる――もしくは使われていた――言葉や紋が記されている。
それらは全て、詛いを袋の中へ閉じ込めておく為のものだ。
言葉はこんなにも力を秘めていると言うのに、外つ国の者共は何故それを使う術を捨ててしまったのか――亘乎はいつも思う。
否、この国とて前史の終わり頃などは彼奴らと同じくほとんどの者が力を持たなくなったのだと、歴史家は言った。
ならば何故、この国の者ばかりが力を使う事に目覚めたのだろうか。
――否、どうでも良い事だ。歴史の解明は自分の仕事ではない。
ゆったりと亘乎が目を閉じる姿を見たのは、正面に立つ左椋だけだった。
「では、始めようか」
空気が流れる隙間などはどこにもないのに、ほんの少しの冷たさが頬を撫でた。
亘乎が羽織る黒い着物がゆらりとはためけば、描かれただけであるはずの曼珠沙華が途端に呼吸を始めたような錯覚に陥る。
たったそれだけの事に、それだけの事なのに、矢途は畏怖していた。
葡萄色の制服に隠された背筋を何か冷たいものがゆっくりと下っていくような気がする。
平然と見守る頼劾と左椋の神経が少しも分からない、どうして、どうしてこんな、恐ろしい――背中にとんと、壁に当たる感触がした。
いつの間に取り出されたのか亘乎の手には筆がもたれていて、それを空中に一条、走らせる。
実際にそこへ何かが浮かび上がっている訳ではないけれども、一瞬だけ見えない線を隔てた向こう側が揺らいだような気がした。
瞬きの間に消えてしまうような、本当に微かな揺らぎだ。
そうして、また一条。
あ、と声を洩らしたのは、この作業を初めて見る矢途だけだった。
頼劾も左椋も、そんな矢途を気にする事なくただじっと亘乎を見つめている。
亘乎の世界には今、三人の蓑虫と自らしか存在しないのだ。
ない風に吹かれて、死のにおいの中を、冷たい床へと落ちていく。
それは
数々の札は、死者の為の
「さぁ」
冷たい部屋の中へ、亘乎の静かな声が情人へ語り掛けるかのように甘く響く。
瞬きすらせずにじっと見入る景色の中、札は全て解剖台とストレッチャーの下へと散らばった。
――はたり。
そんな音を恐らく、全員が聞いただろう。
水なんかよりももっと濃厚で、粘度のある液体が一滴、高いところから落とされたような低くて、どことなく濁った音を。
けれどもやはり、身動ぎをしたのは矢途だけだった。
湧き上がる不安感に忙しなく目玉だけを巡らせて、そうしてから漸く気付いたのだ――亘乎の筆から滴る赤に。
――血と言うには鮮やか過ぎる。
矢途だけでなく、頼劾も、左椋もそう思った。現場へ最初に突入した邏卒と、現場を引き継いだ詛兇班、その二人の脳裏には事件があった昨日からずっと変わらず赤がちらついている。
検死を担当する医師は、これが今回の詛いかと目を伏せた。
モノクルの下の右目が痛む。
手袋の下の左手と、腹が
赤が赤のまま、赤が音になり、赤が言葉になり、亘乎を求めて
依頼人の女の声がする。
声変わりも終わっていないような少年の声がする。
怨嗟と、愛と、謝罪の言葉を、
そうしている内に、男の声が混じった。
それは恐怖と懇願、そして執着――生への執着だ。
今度は女の声が混じる。
執着、執着、執着――肺胞ひとつひとつへ絡み付くような、粘着質な執着ばかりを叫んでいる。
「皮肉な事だ」
口角をわずかに上げて、空中へ一条の線を引く。
亘乎の目に映る赤が、逆再生をしているかの如く筆が走るところから消えていった。
筆を下ろせば、その先から赤く滴り落ちていく。
亘乎の声に言葉を挟む者はいない。
否、
「苦しんで苦しんで苦しんで、それから血反吐を吐きながら死んでしまえ……そう、詛ったはずなのに」
緩く頭を傾ければ、モノクルのチェーンと束ねられた後ろ髪が揺れた。
亘乎の周りだけ、時間が粘度を持って漂っている。
頭の中で『死と乙女』を流しては、ゆったりと目を瞬いた。
「そんな詛いも、あまりに深すぎる執着の前では、意味を成さないようだ」
確かに血反吐を吐く程に苦しみはしたようだが――そんな小さな呟きは誰に届く事もなく床に落ち、砂粒よりも細かく砕けた。
砂のように赤にざらざらと溶け残り、誰にも気付かれないままに沈んで行く。
死して尚、少年から赤が湧き上がった。
また、線を引く。
赤が消え、滴って、赤い水溜まりを作る。
「愛してる、愛してる、愛してる……文字にしたらばあまりに陳腐な言葉だが」
ふ、と短く溜め息を吐いて、そうしてからほんのわずかだけ目を細める。
亘乎の目だけに映っていた赤はもうそこにはなく、毒々しく足元に広がっているのが他の三人にも分かった。
「殺したい、殺したい、そして、いっそ殺されたい……斯くも人の心は不可思議なものか」
亘乎が
じっと見つめる眼差しなどは意識の外で、ゆったりと瞬きをする。
相変わらず着物ははためいて、曼珠沙華が揺れていた。
「些か予定とは違ったが、まあ、良い」
三人の入った袋から、一歩後ろに下がる。
筆から滴り落ちる時は濡れた音がしていたのに、亘乎が立てたのは衣擦れだけだ。
乾いているのかと思えばそうでもなく、触れたところから波紋が広がった。
マジシャンのように、手袋へ包まれた手の平へ不意に現れたのは何の変哲もない試薬瓶だった。
透明な硝子で作られたそれにラベルの類はなく、そして中身も入っていない。
蓋を外して解剖台へ置くときの、硬質な音が嫌に大きく室内へ響いた。
張りつめた空気に傷を付け、今にも割れてしまいそうな緊張感を新たに生み出す。
亘乎は上体を屈めて、赤の中心へと瓶を据えた。
そうしてまた一歩下がる。
赤い水溜まりから踏み出した足は、しかし、それを広げる事はなかった。
亘乎にとっては当たり前の事で、ゆったりと目を瞬いて薄い唇を開く。
「魅せてくれ」
肩の高さまで腕を持ち上げて、真っ直ぐと伸ばす。
瓶へ向けられた筆先は、あたかも研ぎ上げられた刀の切っ先だ。
まずひとつ、空中に点を打つ。
そうしてもうひとつ点を打ち、そこから流れるように筆を運ぶ。
薄い唇が微かに動いても、紡がれているはずの音は着物の袖が翻る衣擦れにかき消された。
それはあっという間の出来事だった。
微かに瓶の底が音を立て、途端に赤が引いていく。
引いて行けば行くほどに、瓶の底へ赤が湧き上がる。
筆に滲んでいたはずの赤もいつの間にか消え去って、数秒の後には最早、試薬瓶の中に赤が揺らぐだけだ。
蓋をした瓶は、筆と共にしまわれた。
今はもう力を失った数々の札と袋に入れられた三つの遺体だけがその場に残されて、詛いなどは欠片も見受けられない。
全身が
否、真実を言うなら、ドアに寄りかかっているからこそまだどうにか立っていられるような状況なのだと理解している。
「私の仕事はここまでだな。後は頼んだ、左椋」
「全く素晴らしいよ、センセイ、勿論だとも、すぐに始めよう。ああ、けれどもう大人二人は既に身元が分かっているのだったかな。死因などはとりあえず置いておくとしても、少年の身元を特定しなければいけないだろうねぇ」
「身分証になる物は持っていなかったからな」
ただ
そも、あくまでも邏卒のひとりである矢途が三人の中へ入ったとしても何か言うべき事がある訳でもなく、今はただじっと黙して、食らったダメージの回復に充てるよりないのだ。
亘乎が解剖台から離れると、ストレッチャーを横へ退けた左椋が代わりに近寄る。
現場へ初めに突入したのは自身なのだから一度ならず少年を見ているのにも関わらず、なんて嫌な配置だと矢途は思った。
初めから解剖台の向こう側に左椋が立っていたのだ、必然的に矢途の位置からは少年が包まれた袋が良く見えてしまう。
ファスナーの引き手を引いて被さる袋を退けると、横たえられる少年の姿が露わになった。
時計の針が再び回り始めた少年は、しかし、あの部屋でくずおれていた時と何ら変わらず青白い頬で目を瞑っている。
ひゅ、と矢途が息を飲んだのに気付いたのは誰だったのか。
自身は気付かないままで、分かった事と言えば自分はドアに背中をぴたりとくっ付けていて、もう後ろに下がる事が出来ないと言う事実だけだった。
「さてさて、若くして命を散らした少年よ、僕はこれから君について知りたいと思うのだけれど、事情があって君の腹を切って開く訳には行かないのだよ、残念ながらねぇ。だから君の身体を、まぁ、傷付けない程度にだけれど色々と探らせて貰うよ」
穏やかな語り口は、にんまりと弧を描いた目元で全てが台無しだ。
もしここが安置所でなく――つまりは少年が生きていて、左椋がこれから治療を施すと言う場面だったなら、泣いて逃げ出したくなる程度には不穏さを感じさせる。
生きている内に出会わなかっただけましだろうか、否、死ななければそも出会わなかったかも知れない。腹の底が痛痒いような、そんな心地を矢途は覚えていた。
「えぇと、うん、持ち物はないねぇ。器もないようだけれど」
「部屋からも見付かっていないな」
頼劾の返事にふむん、と鼻から息を吐く。
少年を見るのに傾けていた上体を持ち上げて、宙に視線を上げた左椋の緑色が、孝重宅の裏庭を思い出させた。
「この少年、詛いを飲んだのかねぇ」
あっけらかんと言い放つ。
そんな左椋が恐ろしい。
身を守るように俯いた矢途に気付いたのは、亘乎だけだった。
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