第七話

「この少年、ゼロ番だねぇ」


 左椋のその言葉に、やはりと納得したのは頼劾で、目を丸くしたのは矢途だった。

 亘乎はゆったりと瞬きをしただけで、何を言う訳ではなくじっと少年を見詰めている。


 この国に生まれた人間には皆、番号が割り振られる。

 外つ国からやって来た者でも、正当な理由があって内つ国の民となったならその番号を与えられる事になっていた。

 ゼロ番とは、その番号を持たない人の事だ。


「いやぁ今時ゼロ番の子供とは珍しいねぇ。番号がある恩恵の方が大きいから、私生子だろうが何だろうが届け出る人間の方が多いのに」


 死後硬直で動かしにくい少年の右手を温めてかして持ち上げた左椋は、手遊びでもするかのようにその手を握って軽く揺らす。

 荒れた親指の爪を指の腹で感じるように撫でてから、再び台へと置いた。


「他に何か、身元を特定出来るものは」


「うぅん、どこにも治療を受けたような痕はないし、かと言ってゼロ番なら無戸籍だし学校にも通っていないだろうから今すぐに知りたいって話になると、中々難しいねぇ」


「そうか」


 頼劾は低く、鹿爪らしく呟いた。

 口を挟む立場にない矢途とは違いその権利を有するはずの亘乎は、相変わらず少年を見つめたまま動かない。


 矢途には頼劾と左椋の言葉が至って空虚な、形骸のみのやり取りに聞こえていた。

 きっと亘乎が動き出す事を待っているのだ――そう思えてならない。


 ゆったりとした瞬き。

 そして静かに吐き出された息。

 亘乎は十二分に間を取ってから、漸くその薄い唇を開いた。


「潔生の家は調べたのか」


「まだだ」


 わずかだけ俯けられていた顔が上向く。

 相変わらず離れた場所に立っている矢途を一瞥して、亘乎は頼劾へと顔を向けた。

 揺れるモノクルのチェーンが、蛍光灯を反射してちかちかとした残像を生み出している。


「依頼人は女と……十中八九潔生の事だが、顔見知りだと言っていた。潔生の家へ行けば恐らく、この少年の事も分かるはずだ」


 嫌と言うほどにな、と、呟いた言葉は全員の耳に届いただろう。

 けれど誰も、それについて触れなかった。

 触れられなかったのかも分からないし、もしかすると、触れたくなかったのかも分からない。

 少なくとも矢途は本能的に忌避きひしたのか、触れたくないと思った。


「センセイがそう言うのだから間違いはないだろうし、一応こちらでも身元が分かったら連絡を入れるつもりだけれど、とにかく腹をさばいてそれからどうこう言う話だからねぇ。恐らくはこちらの方が遅くなるだろうから、まぁ、何か分かったら教えておくれよ。僕も少年ばかりにかまけている訳には行かないからねぇ」


「ああ」


 不穏な表現に何を言う訳でもなく頷いた頼劾に、左椋もまた頷きで返す。

 どことなく重苦しい空気が緩んでそっと息を吐いた矢途は、あんなにも恐ろしく感じていた死のにおいがあまり気にならなくなっている事に漸く気が付いた。

 鼻が麻痺してしまったのだろうか――そんな事を考えながら、壁から背を離す。


 ――安置所での用事はこれで仕舞いだ。


 頼劾が左椋や解剖台に背を向けて矢途の方へ、正確に言うならその近くのドアへと歩いて来る。

 ただでさえ背が高く肩幅もあり、胸板はぶ厚いと言う厳めしさの塊のような頼劾が、背中から蛍光灯の光を受けるとそれが余計に際立つ。

 思わず後込しりごみをして脇に退けた矢途は、彼の奥、左椋の耳元へ何か囁きかける亘乎を見た。


 一瞬だけ矢途へ向けられる、亘乎の視線。

 読唇術なんてものは身に付けていない矢途には、何を話しているのかとんと見当がつかない。

 ただ、意味ありげな一瞥が不安を煽った。

 左椋は亘乎の方へと向けていた目をついと眇めて、そうして肩を竦めてみせる。


「おい、行くぞ」


「っ、はい」


 矢途が頼劾の声に肩を跳ねさせている間に、話は終わったらしかった。

 そう急かすなと何事もなく、かつんかつんと小気味良い音を響かせて亘乎が歩いて来る。


 一体何について話していたのか、許されるのなら訊き出したいとは思ったけれども、それは叶わなかった。

 訊けない特別な事情があると言う訳ではなく、ただ単純に亘乎と言う男自身にか、はたまた詛い屋と言う存在に対してなのか、矢途が恐ろしく思っていたからだ。


 ひょっとすると、この世の何より一番恐ろしいものはこの詛い屋かも分からない――そう思ってしまうほどには逃げ腰になっていた。

 例えば今のように、他人を寄せ付けないような雰囲気を出しておきながら思ったよりも近い距離で顔を覗き込まれるなど想像もしていなかったから、どうにも何も言えなくなる。


「おや、顔色が良くないありませんね、矢途さん」


「……蛍光灯のせいでしょう」


「そうですか」


 冷たい空気がざわりと揺らめいた気がした。

 亘乎が特別何か言っている訳でもなければ、他の二人から何か言われた訳でもない。

 そんな素振りだってない。

 それなのに、咎められているような心持ちだった。


 目を細める亘乎から逃れるように矢途は頼劾の背中を追う。

 背後では亘乎と左椋が、それではと、短い挨拶を交わしている声がしていた。




 相変わらず運転は頼劾で、三人の中で一番年若い矢途は気まずい思いをする事になった。

 運転と言う役割でも与えて貰えるなら、それに集中してしまえばこうも悩ましく思う事はないと言うのに。


 安置所を離れてまた二十分ほど行ったところにある潔生の住処は、さほど新しくはないものの小綺麗なマンションの一室だった。

 事前に連絡してあった為に共同玄関で待ち構えていた管理人から鍵を借り受け、三人でエレベーターを上がる。

 廊下は人が丁度すれ違える程度で、先陣切って進む頼劾越しにも先の様子が問題なく窺えた。


 四〇五――それが潔生の部屋だ。

 表札の類はなく部屋番号があるだけで、新聞などが溜まっている様子もない。

 手紙類は共同玄関のポストに届けられる為にそう言うものが入れられているようでもなかった。


 鍵を開け、中へと入る。

 下駄箱の上にはレース編みが敷いてあって、その上には陶器の深皿に入ったドライフラワーが載せられていた。

 中心の黄色を赤紫の円形が囲み、ピンクの花弁が彩るそれは、如何にも女性の部屋らしさを表現している。


 短い廊下を抜けドアを開けた先、そこはキッチンとリビングダイニングらしかった。

 テーブルには可愛らしい籠に収められた調味料か何かの瓶達が、背の低い棚の上には小物が飾られている。

 室内はそれなりに整理されているのだけれども、細々とした物が溢れていて雑然とした印象を受けた。漂う甘い香りは芳香剤だろうか。


 亘乎はぐるりを見回して、ゆったりと目を瞬く。

 矢途には詛い屋が一体何を見て何を探しているのかは分からなかったが、口を出さない方が賢明だろうと、そう判断した。


 亘乎はリビング部分へと進み、頼劾はダイニングで何か――恐らく今回の事の手懸かりになるようなものを――探している。

 経過を看ると言う名目でただ連れて来られただけの、何も権限を持たない矢途は、廊下からすぐのキッチンを遠慮がちに見回した。

 どこかで、チョッ、チョッ、と鳥が鳴いている。


「騒がしい部屋だ」


 そう呟いたのは頼劾だった。

 その一言で彼本人の部屋などは想像がつくと言うものだ。

 恐らく必要最低限、寝る場所があれば良いのだろう。

 そうしてきっと、煙草の煙が染み付いているに違いない。


「女性なのだから、こう言うものだろう」


 そう返した亘乎の部屋は、一向に想像が付かなかった。

 普段は絵師だと言うのだから、絵の道具が並んでいるのだろうか。

 もしくは、詛いに使う何かが置かれているのだろうか。

 想像出来るとすれば、着物を下げておく為に衣紋掛けはあるだろうと、その程度だった。


を拾ってから、女心も解するようになったか」


 あれと言うのが何を意味するのか――恐らくは女の事であろうと思う――分からなかったけれども、頼劾には似合わない皮肉じみた言葉だと、矢途は感じていた。

 それは亘乎も同じだったのか、ダイニングの頼劾を振り返って片方だけ、口角を上げる。


 矢途はただそれを離れたところから覗き見るだけで、じっと黙しているより他にはなかった。

 今後また詛い関連の事件があれば、その引き継ぎに顔を合わせる事はあるだろう。

 だからと言って、今回のように連れ回される事はもうないはずだし、むしろあっては困る。

 この見えない境界よりあちらへ、踏み込む必要などないのだ。


 何を言う訳でもなく片方の口角を上げるだけで流した亘乎は、リビング側にあったドアノブへ手を掛けた。寝室があるのだろう。

 女性の寝室に無断で入るなどと矢途は思ったけれども、次の瞬間には、女性の寝室と言うよりも詛い殺された人物の寝室であり更に言えば部屋自体全て、重要な手懸かりであるかも知れないのだと思い至った。


 頼劾も後を追う。

 待っていようとした矢途に向けて御丁寧に、お前も来いと言う言葉を添えてだ。

 直属の上司から指示に従うよう言い含められているのだから、さすがにそれを無視する訳にも行かない。

 背中が隣室へ消えたのを確認してからひっそりと溜め息を洩らして、矢途は二人の後を追った。



 リビングとは打って変わって、寝室はカーテンが引かれている。

 潔生は夢見がちな人物だったのか、シャンデリアや猫が描かれている黒いカーテンの下からピンク色のひらひらしたレースカーテンが覗いていた。

 リビングから射し込む光である程度は窺えるものの、室内を見るには光量が足りない。

 メルヘンチックなカーテンを開ければ、ベッドはフリルの付いたカバーが掛けられているのが分かった。

 チェストの上には様々な小物が載り、伏せられた写真立てがある。


「いた」


 亘乎のその声は、静かな部屋に嫌に響いた。

 矢途などは――ばれていないと思っているようだからわざと指摘してやる事はないけれども――肩を跳ねさせている。


「何がだ」


 頼劾は優しさで指摘してやらない訳ではなく、ただ逐一指摘する手間を惜しんで亘乎へと近付いた。

 亘乎は首だけで軽く振り向いて、手に持っていたものを頼劾へと手渡す――写真立てだ。

 作り物の薔薇で飾られたそれは随分と可愛らしく、彼の手には到底似合わない。


「これは、あの少年か」


「ああ。それと潔生に……依頼人の女だ」


 頼劾がむっつりと唇を引き結ぶ。

 咄嗟とっさに覗き込んだ矢途は、あの部屋の真ん中で眠るように死んでいだ潔生とドア付近でくずおれていた少年の微笑みをそこに見た。

 右から潔生、あの少年と並び、左には見知らぬ女が微笑んでいる。

 彼等の失われた息吹がそこに存在している事に、後込みしそうになる。


 亘乎はぐるりを見回して、クローゼットに視線を止めた。

 頼劾と矢途はそちらへ歩を進める亘乎に気付いて写真立てから顔を上げる。

 髪と着物の黒が揺らめいて、この部屋にあってあまりに異質な曼珠沙華が全てを侵食して行くような幻覚を見た。


 クローゼットに手が掛かる。

 亘乎の後ろ姿からは感情を察する事は出来ず、頼劾は眉間に寄った皺を深くしてそれをじっと見つめている。

 矢途はと言えば、恐怖か焦燥か、何か良く分からない感情が腹のそこでぐるぐると回って息を飲んだ。


 かちゃり、と音がして、両側へ折れて戸が開く。


「っ」


「これは……」


 矢途は息を詰め、頼劾は表情を更に厳めしくして、亘乎はそっと溜め息を吐いた。


 本来あるべきの衣服は、そこにはない。

 小さな飾り棚が置かれ、他人から見れば塵くずのようなものが、大切に大切にしまわれている。

 そして壁にはたくさんの写真が所狭しと貼り付けられている。


 時に笑い、時に怒り、澄ましたものもあればぼんやりとしているものもある。

 近くのカメラに向けられた表情もあれば、遠くから、物陰から、気付かれていないものもあった。


「あの、少年を……愛していたとでも」


 矢途の掠れた声に、返事はなかった。

 潔生の部屋のクローゼットは、あの少年で溢れていた。

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