第八話
愛とは何だ――そんなお寒い台詞を言うつもりなどは毛頭ない。
語りたいとは思わないし、語ったとしても意味があるとは思わない。
「愛していたと言うには随分と
生真面目な性格故か固まってしまった矢途へ頼劾がそう告げるのを聞きながら、亘乎はじっと写真の少年を見る。
こだわりなのかそれとも思うままにそうしたのかは分からないのだけれども、表情も時系列も、隠し撮りかそうでないかも、ばらばらに貼り付けられているようだった。
気を付けているらしい事と言えば、風景同士は重なっても絶対に少年には被らないようになっている事くらいだろうか。
先程安置所で見た少年の姿に近いものを探せば、笑っているものが多いように思う。
そうして、幼くなればなるほどに表情は硬くなっていく。
写真を撮り初めた頃などは潔生に心を開いていなかったのかと亘乎は最初思ったけれども、隠し撮りであろうものも表情は大して変わらない事にすぐ気が付いた。
どうやら特定の誰かにではなく、世の中の全てのものから心を閉じているのだと、そう言う様子に見える。
飾り棚には、保管していてもおかしくはない、あの少年から贈られたであろう手紙などもあるけれども、やはり殆どの物は本当に塵くずと、捨てるべきものとしか思えなかった。
クローゼットの中の有り様を見て、感情的になってそう言うのではない。
丸められた紙屑や、使った後の割り箸だとか壊れた玩具などもあるし、一瞬何か分からず覗き込んだ硝子の瓶には切った後の爪が、その隣にある瓶には髪の毛が収められていたのだ。
「潔生はあの少年に付きまといをしていた……と言う、事ですか」
「そうなるのかも分かりませんね」
亘乎の手袋に包まれた手が、爪の入った瓶を持ち上げる。
沢山の小さな三日月形は、しゃらしゃらと音を立てて硝子の中を流れた。
込められているだろう潔生の思いとはあまりにかけ離れた、軽やかな音だ。
これだけの爪や髪などがあるならば、力がそれ程なくとも古来から伝わる――良く言えば様式美を重んじる伝統的な、悪く言えば旧時代的で非効率的な――方法で幾らでも詛い、
けれども、恐らく潔生はそんな事を露も考えなかったのだろう。
このクローゼットの中にあるのはただただ純粋な愛情だけなのだ――あくまでも潔生にとっては。
頼劾が喉の奥で低く唸る。
ただでさえこの男は人の機微には弱い。
否、頭を占めるのは仕事ばかりで惚れた腫れたに興味がない男なのだ。
それでも勿論、人並みの感傷はある。
「しかし、潔生は孝重と交際関係にあったんだろう」
「そうです、少年のストーカーだったと言うなら、一体何故」
理解出来ないとばかりの呟きに、矢途が続く。
問われた亘乎はと言えば、今度は髪が詰められた瓶を手に取って緩く首を傾げるようにして振り返った。
「恐らくは」
そこで言葉を切る。
軽く目を伏せた先には密閉された瓶があって、中の黒を揺らせば洗髪剤がにおって来たような気がした。
それほどまでの、生々しさがそこにはある。
ゆったりと目を瞬き、その刹那に思いを馳せる。
潔生が何を思っていたのか、声を聞いた亘乎にとっては、考えるべくもなかった。
「孝重と交際する事で、少年の気を引けると思ったのですよ」
やはりそれがしっくり来る――あくまでも、現時点では、の話なのだけれども。
心の中で亘乎は自分に頷いてみせる。
三白眼が見据えても、頼劾と矢途はどう言う事かと渋い顔をするより他にはなかった。
クローゼットは開け放たれたまま、亘乎は窓際のライティングデスクへと歩き出した。
結局、前の言葉がその事実ではなくつまり何を意味しているのかと言う説明はなく、二人はその姿をただ目で追う事しか出来ない。
デスクの上には植物文様が入った硝子で出来たシェードのライトと、何冊かの本が並べられている。
それらの本もデスク横にある書棚に並べられた本も、タイトルだけをざっと眺めた限りの印象では二十七にしては幼く、まるで少女の部屋にいるような心地にさせた。
夢見がちで過分な少女趣味、そんな思いすら過ぎる。
デスクの上から、前面へ。
移動する視線と共に、天板を指でなぞる。
幸いと言って良いのか、デスクの引き出しに鍵穴はあれど鍵自体は掛かっていなかった。
亘乎は上から順に、遠慮なく全ての引き出しを開けていく。
何の変哲もないレターセットや筆記具と言ったものはひとまず退けて、隅々まで丹念に覗いていった。
そうして最後に開けた一番下の引き出し、その一番奥から出て来たのは、花の絵が表紙にデザインされた日記帳らしい一冊の手帳だった。
鍵は付いていないタイプのものだ。
この警戒心の無さを見るに、交際関係にあった孝重ですらもしかするとこの部屋には入れなかったのかも分からないと思う。
「見るのですか」
矢途の声に亘乎は一瞬だけ視線を遣って、ええ、と少しも気後れする様子などなく頷いた。
許されるのかと頼劾へ視線を向けても、短い溜め息だけで止める様子はない。
これが二人の普通なのだと思うと、自分では生真面目とは思っていない矢途も居たたまれなく思った。
詛い屋なんてものと連んでいるくらいなのだ、やはりまともではないのだろう。
そして、どうして自分がこんな目に合わなければいけないのかと、今日三度目になる言葉を心の内だけで呟いた。
亘乎は勝手に椅子に座って日記帳を捲り始める。
頼劾は眉間に寄った皺もそのままに、クローゼットの中を検しているようだった。
矢途はと言えばクローゼットに近付くのは空恐ろしかったし、かと言って亘乎の側に寄るのは
暇潰し、では言葉が悪いけれども、事実この潔生の部屋の中では仕事を見付けられなかった矢途は、ただ突っ立っているよりかは幾分かましだろうと、チェストの上を眺める事を選んだ。
頼劾の手で戻された写真立ては伏せられる事なく、硝子で出来た動物達が反射する外からの光で潔生の顔が白く塗り潰されている。
――少年を愛していて、気を引きたかった。
字面だけ見たならさしておかしな物ではないと言うのに。
潔生がもし少女だったなら、もしくは、少年がもし大人だったなら、何か変わっていたのだろうか。
そんなどうしようもない事を考えて、そして打ち消した。
ページを捲る音と、飾り棚を検する音がして、外では鳥が鳴いている。
「ここから探すのは、骨だな」
数分も経たない内に呟いたのは亘乎だ。
能面のような無表情は相変わらずだけれども、日記帳をデスクに置いて左の目元を押さえる様を見れば内容を想像する事すら気が重い。
そんな風に考えているのがばれたのか、亘乎はチェストの前に立つ矢途へ日記帳を差し出した。
――受け取りたくない。けれども、詛い屋の目は読めと言っている。
背後では相変わらず物音がしていて、頼劾の助けも望めないらしかった。
そも、彼の注意がこちらへ向いていたとして、助け船を出してくれるものなのかは分からないけれども。
矢途は溜め息を吐きたいのを我慢して、自身からしてみれば潔く、亘乎から見れば往生際悪く迷ってから、日記帳を受け取った。
見た目はハードカバーだ。
しかしそれ以上の重さを感じてしまうのは、潔生が故人で、その失われた人生の一端がここへ詰まっているからなのだろうか。
落とさないように左手で抱え、そして右手で、勿体ぶった手付きで花柄の表紙を捲った。
――愛とは何だ。矢途は自らに問い掛ける。
矢途は今更ながらに、潔生は自らとは違う生き物なのだと思った。
彼女が実は人間ではないとかそんな馬鹿げた事を言いたいのではなくて、人と人とは本質的なところで理解し合えない生き物なのだと思ったのだ。
「確かに、これは……骨ですね」
「そうでしょう」
苦いものを吐き出すように呟けばすぐに返ってきた言葉に、安堵した己に矢途は気付く。
潔生の世界の中から漸く這い出せた気分だ。
あえて言うなら、煮えたぎった飴、だろうか。
そんな事を考えながら、日記帳を閉じてデスクへと戻す。
熱烈な愛の言葉はただそればかりを声高に叫び、潔生は陶酔の中で生きていた。
一瞬の正気にそこから離れても包み込み絡みついた歪んだ愛情は潔生の呼吸すらも奪い、結局そこへ戻るしかそれを溶かす術はない。
そしてその甘さに溺れても、本当なら触れられないほどの熱に焼かれ続けるしかないのだ。
――繰り返し書かれている、ねあ、や、希安、と言うのが少年の名前であろう事は知れた。けれども、それだけだ。
『希安、希安、ねあ、ねあ、ねあ、ねあ、希安、ねあ、希安、希安』
そうやって見開きが埋まっているところがある。
『少し、髪質が変わったのかしら。ふわふわでくるんってしていた髪が固くなった気がするの。最近は頭を撫でさせてくれないから、眠っている間にばれないように少し髪の毛を貰って、保管してある髪と触り比べてみたのだけど、やっぱり少し固くなったわ。初めて合った時は態度が固くて髪の毛がふわふわだったけれど、最近は態度が柔らかくて髪の毛が固いから、今にヤマアラシみたいになっちゃうかも知れないわ。そうしたら、血塗れになっても、私が抱き締めてあげなくちゃ』
そうやって片方のページが埋まって、もう片方はやけにキャラクターじみた、ヤマアラシのような生き物が所狭しと描かれているところがある。
とてもまともな顔では読んでいられない、砂糖菓子のような詩が書かれているところもあれば、生々しくも甘ったるい妄想が連ねられたところもあった。
「少年は……希安は、どこにいるのでしょう」
矢途がそうぽつりと零す。
その言葉を聞いて亘乎は、ああそうかと思った。
空虚なのだ、全てが。
潔生の中に、現し世に生きる少年の姿が少しも見えない。
「潔生の中の希安は、理想化した何かであって、現し世で呼吸している生身の希安は、本当は必要ではなかったのかも分かりませんね」
そっと目蓋を伏せて、亘乎は呟いた。
矢途は鉛の塊を飲み込んだような重苦しい気分になって、血が滲むほどに唇を噛み締める。
どこかで鳴く鳥の声を聞きながら、人間なんてややこしい生き物に生まれてしまった事実を心の中で嘆いてみても矢途は、どうしようもなく自分は人間であるのだと思い知らされていた。
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