第二十二話

 不意に首の後ろへ手を回した限恵きりえは、何か金具のようなものを外しているらしかった。

 ブラウスの中からするりと抜かれたのは、カメオ・アビレという手法のペンダントだ。

 浮き彫りカメオに、宝石が嵌められている。

 言わずもがな意匠は龍であり、眼の部分に嵌っているのは黄色い宝石だ。

 夫人である証として、渡されたものであるという。


 ――何度、これを投げ捨て逃げてしまおうと思ったことか。


 自嘲じみた呟きとは裏腹に、慎重な手つきでペンダントは机の上に置かれた。

 けれども外したが最後、視界に入れたくもないとばかりに端へと追いやる。

 亘乎せんやはただそれを眺めていた――元より口数は多くない。

 ただなにより、かけるべき言葉を見つけられずにいたのだ。


 深く呼吸をする音が、室内へ嫌に響く。

 自らを落ち着けようとしているのだろうに、最後、ふっと短く吐き出された息に、女の消えかけたと思えた激情が燃え上がる様を見た。


は言いました。家を継がせる為に男はあっても良いが、自分は関わらないと」


 震える声で紡がれる言葉に表れているのは怒りであったけれども、女の中へ渦巻いているそれが、一体どこへ向けられているものであるのかは判断がつかない。

 前当主である精圭しげかどに対しては、勿論そうではあろう。

 そして、限恵きりえ自身への怒りもあるように見えた。


「どのような事情があったのかは分かりません。けれどもあの人は、人嫌いが激しく……特に男が嫌いであったのだと思います。私を娶ったことも、家持ちの義務があったからで、勿論、私とてそうでしたけれど……その義務感が、今となっては良かったのかどうか」


 その人嫌いと比例して、異常なまでに蝶に執心していたのだと、限恵きりえは言う。


 蝶を捕まえては標本にし、それを眺めては酒を飲む。

 その程度であるならば、単なる愛好家の範疇に入るのだろう。

 採集も標本作りも精圭しげかどがひとりきりで行い、例えば話を聞かされることすらもない。

 愛を求めたのではなく単なる義務故のいち作業として嫁いだだけで、特に文句も不満もなかった。

 役目を果たせるかにしか目は向いておらず、精圭しげかどという人間に興味がなかったのだ。

 それは、お互いそうであったろう。


 精圭しげかどは、限恵きりえはらに子が宿ったことが分かると、自らの役目は終わったとばかりに離れへ移った。

 立ち入りを禁じられたわけではなかったけれども、出産前後の暫く使用人をひとり付けられただけで、あとは自分がひとりでなんとかしなくてはならなかったから、自らのことだけで精一杯だった。


玄鳥げんちょうを紹介されたのが、まだ子供がお腹へいた頃ですので……恐らく、私が出くわさなかったひとりめは、そのすぐあとであったのだと思います。あの人も私に連れて来た女の世話をさせることはありませんでしたし、私はシェルターの存在を知らず、邸からも見えませんので、確信があるわけではありませんが」


 ふたりめもまた、子が腹にいた頃のことだ。

 湖畔を散歩していたときに女を連れて帰った精圭しげかどと出くわして、恐らくは紹介せざるを得なくなったのだろう。


「離れに置くと、言われました。それならそれで良いと思いましたが、子を……作られては、困ると思って……はしたないとは思いつつ、何度か様子を見に行ったのです。何度目かの、夜……女は連れ出されて……その後どうなったのかは、昨日、お話をした通りです」


 自らの胎へ宿る命に、半分はあの男の血が流れている。

 そう考えると、膨らみ始めた自らの腹が、おぞましいものに思えてならなかった。

 いっそ湖の冷たい水へ身を晒せばとも考えたけれども、呆気なく奪われた命を目の当たりにした後ではそれすら恐ろしい。


 胎の中で子は育って、シェルターの中へは標本と、次のため、からの標本箱が増えていく。


 順調にいけばあと三月みつきほどで子が生まれようという頃になって、四人目の女の妊娠が分かった。

 限恵きりえは産ませれば良いと言って、精圭しげかどは何の懸念もなく頷く。

 夫のを知ってからむしろ、それを望んでいたことなど、気付いていなかっただろう。


 ――この女の子供を跡取りにして、自らの胎にいる子を外へ出せはしないだろうか。こんなおぞましい家とは、全く関わりのないところへ。


 限恵きりえは心の中で、自らを鬼畜と罵った。

 それでも、そんな可能性へ、希望を見出してしまっていたのだ。

 腹が膨らめば膨らむほど、おぞましい血も母性に霞んでゆく。


「守らなくてはと、思いました。とにかく、守らなくてはと」


 それから暫くして、限恵きりえは男の赤子を産んだ。

 成圭ひらあきと名付けられたその子をどうにか、跡継ぎ足り得ないと思わせられないだろうかと日々考えながら、それでも時は過ぎていく。

 幸運にと言って良いのか、精圭しげかどは宣言した通り名付けのとき以来顔を見せず、暫くは標本作りの手伝いを申し付けることもなかったから、自分さえ上手くやればどうにでもなりそうだと思えた――そうやって、自分の心を慰めていた。


 半年と少しがたち、我が子と半分だけ血が繋がったが生まれて、限恵きりえは泣いた。

 嬰児の母親がそのときまさに、黄泉路を行かんとしていることを知りながら、何もしないことだけでなく、身代わりに――否、生け贄にし、全てを背負わせようとすることに。


「けれど、その子は死にました。成圭ひらあきを、死んだことにするわけには、ゆかなくなりました」

精圭しげかど氏はしかし、新しく妊婦を連れて来たのですね」

「ええ……私は、成圭ひらあきを、理由をつけて、知り合いへと預けました。それで……使用人のふりをして、女の世話を焼きました。なるたけ心安いように……丈夫な子を、産んでもらわなくては……なりませんでしたから」

「それで生まれたのが、彼女であると」

「あの人がまた蛹圭ようかと名付けて、今後、女は邪魔になるからと、ついでのように、になると分かっていて、標本に、して……私は、私が、蛹圭ようかを育てると申し出ました。途中で、死なれては、困ると……思って」


 ――時間のかかる試みだ。なるたけ人は減らさねばな。


 わずかに残っていた使用人のほとんどは、どこかへやられた。

 彼らの行き先を限恵きりえは知らないけれども、どうやら、家持ちの紳士達が集まった秘密の社交倶楽部であった催しに、連れて行かれた後の行方が分からない。




「……

「あの……なにか」

いや、続けて」




 邸には身寄りも逃げ場もない、数人の使用人しかいなくなり、精圭しげかどは余計、標本作りへと傾倒していった。

 月に一度ほどの頻度でふらりと現れる玄鳥げんちょうが、眠っているところを見計らって蛹圭ようかに詛いを施し、ほんのわずかずつ作り変えられていく。

 だから限恵きりえは、ついぞ蛹圭ようかが立ち上がるところを見たことがない。

 生まれたばかりの青虫は、長い長い時間をかけて蛹へと成ったのだから。


 成圭ひらあきは、知り合いへ預けたままにしてあった。

 精圭しげかどは最早標本にしか興味がなく、訊ねることすらない。

 知り合いは成圭ひらあきを我が子のように大切に育てていると言って、それならばと、限恵きりえは我が子を死んだことにし関わりを断った。

 考え得る内の、最善であるように思えたからだった。


「嫡子の死という事柄にあたって、捜査などは行われなかったのですか」

「はい」

「それは何故」

「分かりません。けれど、死んだとあの人へ訴えると、こちらで処理しておくとだけ」

「その後は」

「特に、何も。ただ、死んだのだと、周知の事実となったようではありました」


 そういうことが出来るとしたらば、と、亘乎せんやはゆったりと目を瞬いた。

 一時いちどきに吐き出した限恵きりえは、その向かい側で乾いた咳をする。

 静かなそれは、微かにだけ室内の空気を揺すった。


「そも、初めの蛹圭ようかも……あの人と私の子として届けましたので、新しい蛹圭ようかを代わりとして、育てておりました。あの子……あの子、笑うんです。私に。本当の親を、奪ってしまった、のに」


 初めて話した言葉はだった。

 苦しくて、哀しくて、愛おしくて。

 涙を流す限恵きりえの頬を、小さな手がぺちんと叩いた。


「私が泣いて良いことではないのだと、気付いたのです。成圭ひらあきの手を離した分……あの子が得られるはずであったもの以上に、蛹圭ようかを守らなくてはならないと思いました」


 だからこそ懸命に育てた。

 玄鳥げんちょうがやって来ても、それまでは使用人達と身を潜めていたけれども、なるたけ爺へ張り付いて蛹圭ようかへ近づけまいとしたのだ。

 数年は、上手くいっていた。

 成長と共に自意識も育った蛹圭ようかが駄々をこね、それを理由に接触されるという失態を、結果、起こしてしまったけれども。


「あの人にしてみれば、たまには羽目を外したくなったのでしょうけれど、こもりきりでは良くないと、理由をつけられて、蛹圭ようかとカズラの中心街へ行ったことがありました。そこで……蛹圭ようかが……ごみを漁る、少年を、拾ったのです」

「もしや」

「私が成圭ひらあきの養育費として渡した金は、とっくに使い切られていたのです。知り合いは、いずこかへ消えていました。成圭ひらあきは……自らの出自も番号も知らず、知ったとしても証明するすべもなく……ご、ごみを、漁って、どうにか、命をつな、繋い、で」


 蛹圭ようかは酷く衝撃を受けた。

 寝台から出られない自分が世界で一等不幸だとその頃の少女は信じていて、食べることにも困る者がいることなど知る由もなかったから。

 だから、助けてやらなくてはと思ったのだろう。

 絶対に連れて帰ると聞かない蛹圭ようかを、限恵きりえは拒むことが、出来なかった。


「文字は分からずとも、ひらあき、という響きの名であることは、理解していたようで……けれど蛹圭ようかは、新しい名を付けようと言いました。名前で気付かれてはいけないと思いましたので、私もそれに賛成して……成圭ひらあきも好きにすれば良いと」

「それで、セイと蛹圭ようか嬢が名付けたのですか」


 頷く限恵きりえは、落ち窪んだ目元を押さえて、ふと息を吐いた。

 否、唇が微かな弧を描き、口角がほんのわずかだけ持ち上がっている。

 笑っているのだと気が付いた亘乎せんやは、その様子をじっと眺めて言葉を待った。


「ひらあきという響きから、漢字は思い浮かばないだろうに、私は心臓が縮み上がったような気がしました。けれど冷静になると、精圭しげかどの精の字を取ったのだろうと思ったのです」


 目元から下ろされた手が、机にのる。

 爪の間に滲んだ赤は、くすんだ色に変わっていた。


 指先がとんと机を叩き、そうしてから表面をなでていく。

 亘乎せんやはすぐに、その動きが文字であることに気が付いた。


「どうしてセイなのかと訊ねると、蛹圭ようかは言いました。生きると書くと。生命と書くと。これから生まれ変わったつもりで、新しい生命を、生きていけるようにと」


 ――自分勝手な大人達がもたらした理不尽の中で、あの子達だけがのように、輝いて見えました。


 力なく笑う限恵きりえは、疲れ果てた母親の顔をしていた。

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