第二十二話
不意に首の後ろへ手を回した
ブラウスの中からするりと抜かれたのは、カメオ・アビレという手法のペンダントだ。
言わずもがな意匠は龍であり、眼の部分に嵌っているのは黄色い宝石だ。
夫人である証として、渡されたものであるという。
――何度、これを投げ捨て逃げてしまおうと思ったことか。
自嘲じみた呟きとは裏腹に、慎重な手つきでペンダントは机の上に置かれた。
けれども外したが最後、視界に入れたくもないとばかりに端へと追いやる。
ただなにより、かけるべき言葉を見つけられずにいたのだ。
深く呼吸をする音が、室内へ嫌に響く。
自らを落ち着けようとしているのだろうに、最後、ふっと短く吐き出された息に、女の消えかけたと思えた激情が燃え上がる様を見た。
「あの人は言いました。家を継がせる為に男はあっても良いが、自分は関わらないと」
震える声で紡がれる言葉に表れているのは怒りであったけれども、女の中へ渦巻いているそれが、一体どこへ向けられているものであるのかは判断がつかない。
前当主である
そして、
「どのような事情があったのかは分かりません。けれどもあの人は、人嫌いが激しく……特に男が嫌いであったのだと思います。私を娶ったことも、家持ちの義務があったからで、勿論、私とてそうでしたけれど……その義務感が、今となっては良かったのかどうか」
その人嫌いと比例して、異常なまでに蝶に執心していたのだと、
蝶を捕まえては標本にし、それを眺めては酒を飲む。
その程度であるならば、単なる愛好家の範疇に入るのだろう。
採集も標本作りも
愛を求めたのではなく単なる義務故のいち作業として嫁いだだけで、特に文句も不満もなかった。
役目を果たせるかにしか目は向いておらず、
それは、お互いそうであったろう。
立ち入りを禁じられたわけではなかったけれども、出産前後の暫く使用人をひとり付けられただけで、あとは自分がひとりでなんとかしなくてはならなかったから、自らのことだけで精一杯だった。
「
ふたりめもまた、子が腹にいた頃のことだ。
湖畔を散歩していたときに女を連れて帰った
「離れに置くと、言われました。それならそれで良いと思いましたが、子を……作られては、困ると思って……はしたないとは思いつつ、何度か様子を見に行ったのです。何度目かの、夜……女は連れ出されて……その後どうなったのかは、昨日、お話をした通りです」
自らの胎へ宿る命に、半分はあの男の血が流れている。
そう考えると、膨らみ始めた自らの腹が、おぞましいものに思えてならなかった。
いっそ湖の冷たい水へ身を晒せばとも考えたけれども、呆気なく奪われた命を目の当たりにした後ではそれすら恐ろしい。
胎の中で子は育って、シェルターの中へは標本と、次のため、からの標本箱が増えていく。
順調にいけばあと
夫の趣味を知ってからむしろ、それを望んでいたことなど、気付いていなかっただろう。
――この女の子供を跡取りにして、自らの胎にいる子を外へ出せはしないだろうか。こんなおぞましい家とは、全く関わりのないところへ。
それでも、そんな可能性へ、希望を見出してしまっていたのだ。
腹が膨らめば膨らむほど、おぞましい血も母性に霞んでゆく。
「守らなくてはと、思いました。とにかく、守らなくてはと」
それから暫くして、
幸運にと言って良いのか、
半年と少しがたち、我が子と半分だけ血が繋がった初めの蛹圭が生まれて、
嬰児の母親がそのときまさに、黄泉路を行かんとしていることを知りながら、何もしないことだけでなく、身代わりに――否、生け贄にし、全てを背負わせようとすることに。
「けれど、その子は死にました。
「
「ええ……私は、
「それで生まれたのが、彼女であると」
「あの人がまた
――時間のかかる試みだ。なるたけ人は減らさねばな。
わずかに残っていた使用人のほとんどは、どこかへやられた。
彼らの行き先を
「……お面遊び」
「あの……なにか」
「
邸には身寄りも逃げ場もない、数人の使用人しかいなくなり、
月に一度ほどの頻度でふらりと現れる
だから
生まれたばかりの青虫は、長い長い時間をかけて蛹へと成ったのだから。
知り合いは
考え得る内の、最善であるように思えたからだった。
「嫡子の死という事柄にあたって、捜査などは行われなかったのですか」
「はい」
「それは何故」
「分かりません。けれど、死んだとあの人へ訴えると、こちらで処理しておくとだけ」
「その後は」
「特に、何も。ただ、死んだのだと、周知の事実となったようではありました」
そういうことが出来るとしたらば、と、
静かなそれは、微かにだけ室内の空気を揺すった。
「そも、初めの
初めて話した言葉はまぁまだった。
苦しくて、哀しくて、愛おしくて。
涙を流す
「私が泣いて良いことではないのだと、気付いたのです。
だからこそ懸命に育てた。
数年は、上手くいっていた。
成長と共に自意識も育った
「あの人にしてみれば、たまには羽目を外したくなったのでしょうけれど、こもりきりでは良くないと、理由をつけられて、
「もしや」
「私が
寝台から出られない自分が世界で一等不幸だとその頃の少女は信じていて、食べることにも困る者がいることなど知る由もなかったから。
だから、助けてやらなくてはと思ったのだろう。
絶対に連れて帰ると聞かない
「文字は分からずとも、ひらあき、という響きの名であることは、理解していたようで……けれど
「それで、セイと
頷く
否、唇が微かな弧を描き、口角がほんのわずかだけ持ち上がっている。
笑っているのだと気が付いた
「ひらあきという響きから、漢字は思い浮かばないだろうに、私は心臓が縮み上がったような気がしました。けれど冷静になると、
目元から下ろされた手が、机にのる。
爪の間に滲んだ赤は、くすんだ色に変わっていた。
指先がとんと机を叩き、そうしてから表面をなでていく。
「どうしてセイなのかと訊ねると、
――自分勝手な大人達がもたらした理不尽の中で、あの子達だけが星のように、輝いて見えました。
力なく笑う
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