第二十一話

 限恵きりえはかなりの間、机に突っ伏していた。

 亘乎せんやは慰めるでもなく――何せ亘乎せんやの言葉は今、女にとっては凶器でしかない――ただじっと黙して、気持ちが収まるのを待つ。


 再び顔を上げたときには、十ほども老け込んだように見えた。

 泣いてはいないようだ――否、最早、泣けなかったのかも分からない。


「昨日、お話ししたことは……その、連れて来られた女性は……私があの、おぞましい場面に出くわしたことは、初めてで御座いました。けれど、彼女でどうやら、ふたりめ、であったようでした。もう既にひとり、箱へ……収められていたのです」

「骨だけが、ですか」

「はい……旦那様は、私へ、それを見本にするようにと……標本作りの手伝いを、お申し付けになりました」




 溶けてしまった女の残骸から、玄鳥げんちょうが面を取り上げた。

 赤と、肉色と、脂のようなものに塗れた女の面――増女ぞうおんなという、女神や仙女などの神聖な女を演ずるときにかける面であると、わざわざ爺は説明してみせる。


 懐から布を取り出して、増女を拭っていく。

 枯れているのに頑健さを喪わない手が柔らかに汚れを拭うたび、顕になっていく憂いを帯びた表情は、骨とへどろになってしまった女の嘆きを映しているように限恵きりえには思えた。


 ただ茫然と、眼にその表情を映す。

 強い酒を飲みながら、グロテスクな映画を見させられているような、目眩と浮遊感。

 脳味噌が現実を拒絶しているのだと、後になって考えればそう思えた。


 主である精圭しげかどが、革の手袋をはめながら限恵きりえを呼び寄せる。

 その声に意識が現し世に戻されて、心臓を一息に握り潰されたかと思うほど急激に痛んだ。

 体が震える。

 なんとおぞましいのかと、全身から血の気が引いていくのに気付く。


 逆らってはいけないと、そう理性が叱咤するのに、本能が恐怖しているせいで足は竦んでしまっていた。

 見られている。

 声が出ない。

 目を背けたいのに身じろぎひとつ出来ず、見開いた眼から涙が溢れているのを、限恵きりえ本人はそのとき気付いていなかった。


 むせ返るほどの、鉄錆のようなにおい。

 鈍色の台から細い糸を作るように赤いものが滴っている。

 臓腑もその中にあったものごとどろどろと溶け合って、形容しがたいにおいが鼻を突いた。

 強烈な吐き気に襲われ、けれども、限恵きりえという女の何もかもが怯え、凍りついて、戻すことすらなかった。




「早うせんかと、げ、玄鳥げんちょうが、言って、汚れた手で私の腕を、掴みました。布越しであったのに、それからずっと、ずっと、赤い指の跡が、残って、落ちないのです……ッ」


 そう言って左の袖を荒くたくしあげた限恵きりえは、玄鳥げんちょうにそのとき掴まれたであろうところを掻きむしる。

 何度そうしてきたのだろう、腕には未だ治っていない傷と、治りきらずにつるりとして引き攣れた痕がいくつもあった。

 けれども勿論、指の跡などはない。


 黒留袖を翻して立ち上がった亘乎せんやは、後ろから抱きすくめるようにして女の腕を掴んだ。

 もしか、その腕へ消えない指の跡を増やすことになろうかと思いながら、それでもその自傷行為を止めたのだった。


 腕の中から、例えば猿が威嚇するかのような、かん高い呻き声が上がる。

 あまりにか細い正気と狂気の境界線上を、この女は粛々と歩んできたのだ。

 けれども、狂気へは落ちなかった。

 否、その境界線が限恵きりえの足裏の幅すらないのなら、常に正気と狂気の両方に立っていると言えるのかも分からない。


 果たしてどれほどの時間がたったのか。

 掻きむしろうと蠢く指の動きが不意に止まり、限恵きりえは脱力した。

 申し訳御座いませんという声が亘乎せんやの耳へと届き、静かに頷いてから女を解放して向かいの椅子へと戻る。


「私は……旦那様の言葉に従って、骨を、拾って、奇麗に洗って、箱の中へ、並べていきました。……そんなことがあって、少し。旦那様はまた、女を連れて、戻られました。その女も、暫くした後にあのシェルターへ連れて行かれ……同じ、ように」

「そのときは、貴女も」

「は、い……それ以降、旦那様の、お手伝いを」


 掻きむしった腕を握り締め、強く、呼吸している。

 焦点の合わない、机の上に向けられた眼は、そのときの光景を映しているのだろうか。


「なかなか上手くいかないと不満げな旦那様に、玄鳥げんちょうが、だからこその実験だと……笑って、旦那様も、確かにそうだと、笑っていて……私は、何も考えないようにしながら、処理を」


 ゆったりと目を瞬く。

 そんな経験をしてきたのなら、詛い屋というものを嫌悪して当たり前だろう。


蛹圭ようか嬢について、教えて頂けますか」


 は、と短く吐いた息が、亘乎へと届いた。

 諦めが女を渦巻いている。


「……赤子の骨が、ありましたでしょう」

「ええ」

「あれが……あの子が、初めの、蛹圭ようかで御座いました」


 亘乎せんやはただ、静かに瞑目した。

 耳のそばで、赤子の泣き声が響いている――そんな気がしていた。




 主が連れて帰った、四人目の女のことだ。


 そも、精圭しげかどは蝶に変じさせた後とはいえ、女を飾ろうとしていたのだから、皆、気に入った女ではあっただろう。

 けれどもその女は特別、気に入られていた。

 夜毎その女の部屋に、子が出来たのも、数えてみれば邸へ来てからすぐのことだ。


 女は産みたいと泣いた。

 まさか蝶にする為に連れて来られたことなど知らないのだから、夫人にはなれなくとも恩恵を預かることが出来るとも、恐らく考えてはいただろう。

 ただ、その女は間違いなく母の顔になっていて、未だ見ぬ我が子を愛おしんでであることは、間違いなかった。


 精圭しげかどは産むことを許した――ただ、男はいらんと切り捨てた。

 その理由を女は知りたがったけれども、ともかくいらんと言うのだから、嫌だと言ったところで意味はない。


 やがて産まれた赤子は、女だった。

 母親は泣いて喜んで、そして精圭しげかどは、すぐに付けたのだ――蛹圭ようかという名を。


『当家が代々継いでいる圭の字と、この子が将来、という祈りを込めて、蛹という字を』


 そのときの限恵きりえの恐怖たるや。

 精圭しげかどは、男はいらないと前々から言っていて、知り得なかったその理由を、まざまざと突き付けられたのだから。

 素敵な名だと喜ぶ母親を、限恵きりえはとてもではないけれども、見ていられなかった。


「女はその夜、骨となりました……なったのでしょう。私は、子の世話を言い付かって邸へと残りましたから、見てはおりません。乳を求めて泣く嬰児みどりごを抱き締めながら……何度、詫びたことか」


 嘆くように頭を振り、引っ詰めから一筋、白が混じった髪が落ちる。

 溜め息と共にそれを耳にかけた限恵きりえは、後悔に落ち窪んだ眼を亘乎せんやへと向けた。


「あの子……まだ首も座っておりませんでした……名だけでは足りぬのだろうと、蝶でなく……蛹に変ずる詛いを……旦那様は」

「それは……失敗したのですか」

「はい……それで……骨に……あんなに、小さかったのに……ああ……なんて可哀想な子……」


 限恵きりえはそう呟いて、顔を両手で覆った。

 右の爪の間には赤が滲んでいる。

 痛々しいその姿で、女は詛いに殺された小さな子を悼んで涙を流す。

 そうして、震える声で言葉を続けた。


「失敗であったと……孵化したばかりでさせるのは早かったと……次は時間をかけてやらねばならんと、旦那様は、おっしゃいました。それで、今度は、既に子を宿した女を連れて来て、産ませ……また、蛹圭ようかと……その新しい子が、お嬢様、なのです」


 なんと罪深いことだろうか。

 嗚呼、なんという。

 この陰惨たる流れの中、唯一の救いは精圭しげかどが最早この世の人でないことだけではないかと、証言を聞いていた皆が思う。


「あまりに」


 震えた声で、限恵きりえが呟く。

 その次の瞬間に、勢い良く両手で机を叩いた。


「あまりに哀れではありませんかッ。あの子の母は身寄りのない女であったようでしたけれど、旦那様に目を付けられさえしなければ、幸せに生きられたかも分からないのにッ。それなのに……ッ。あの子、産まれたときは、健康な子でした……蛹圭ようかという名と蛹化ようかの詛いさえなければ……ああして、寝台で一生を過ごすことも、なかった……ッ」


 掠れた慟哭は、骨となった女達、全ての嘆きのようだった。




 怒り、悲しみ、後悔、憎しみ――様々な感情が限恵きりえの中で蠢いている。

 掻きむしった傷痕から、血とともに溢れ出して来るような、そんな幻さえ見えるようだった。


 不意に、壁にある電話が鳴った。

 打ち震える女を視界に収めたまま受話器を取れば、頼劾らいがいの声が鼓膜を震わせる。

 伝えられたのは、双子からの報告だ。

 急がせたDNA検査の結果が出たという。


 伝えられた内容に亘乎せんやはゆったりと目を瞬くと、細く息を吐き出した。

 どう切り出そうか――そう思考を巡らせる。

 受話器を戻し、向かいへと再び腰掛けても、女は打ち震えて自らの感情を制御出来ずにいるようだった。


 モノクルのチェーンをなぞり、口を開く。


「私は、初めて邸へ招かれたとき、貴女をミンチン女史のようであると思いました。前史の頃の児童文学です。バーネット夫人著の小公女、お読みになったことは」

「……あり、ません」

「簡単に説明すると、セーラ・クルーという金持ちのお嬢さんが、父親と離れてミンチン女史の寄宿学校に入るのです。途中、少女の父親の訃報が届くと、ミンチン女史も多くの同窓生達も手の平を返して辛く当たりました。けれども持ち前の清らかさで強く生きたセーラは、彼女を探していた後見人に助けられて幸せになる、という話です」

「私がその、ミンチン女史のようだと」


 限恵きりえのそのどこか自嘲じみた呟きに、亘乎せんやは然りと頷いた。

 けれども本質はそこではないと、もう一度口を開く。


「貴女が蛹圭ようか嬢をいじめているように見えたわけではない。ただ私には、貴女が管理する側の人間に……邸の主に見えていた」


 女が、呼吸を止めた。

 室内から人の気配が掻き消えて、ただ密やかに蛍光灯が鳴いている。


「私の勘は、合っていたようですね。貴女は、前当主精圭しげかどの、夫人だ」


 机にのったままの限恵きりえの手が、きつく握り締められる。

 赤の滲む爪が、手の平へと食い込むほどに。

 震えているのは、どの感情からであるのだろう。

 じっと観察したままで、静かに告げた。


「そして、セイ……否、成圭ひらあき青年は、精圭しげかどと貴女の、息子ですね」


 限恵きりえは答えなかった。

 ただ、抑えきれない感情に震えている。

 恐怖などではなく、例えば怒りであるとか――もっと凶暴な感情だ。


「貴女があの邸から逃したかったのは、哀れな蛹圭ようかという実験動物だったのか。それとも、蝶の標本に並々ならぬ執着を持ち始めた、自らの息子なのか」

なじれば良いではないですかッ、どちらにせよ救えやしなかった、愚かな母親だとッ、お前のような者は母親ですら、ないと……ッ」


 真正面からぶつけられる恨みの念を、亘乎せんやはただ静かに受け止めていた。

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