第二十話

 害意というものは紛れもなく悪である。

 そして、無知は罪であると前史よりずっと昔の哲学者は言った。

 もし、害意と無知とが混じり合ったならば。

 何をしても許すことの出来ない悪へと姿を変え、大罪を犯すこととなるのではないか。


 ――嗚呼、そうだ、大罪だ。がなにに使われるものであるのか、知らなかったが故に。


 褒められた生き方をしてきたとは――しているとは、思わない。

 けれどもこうして自らが詛い屋というものをやっている咎を、亘乎は重々理解して、確かに背負っていた。


 無知であるが故に犯した罪は、重い。

 勿論のこと今更、背負いきれぬと弱音を吐くつもりなどはない。

 いつか真っ向から対峙しなければならないときが来ることを前から知っていて、それでも尚、こうも重いものであると、実感しているのだった。


 その重さ――亘乎の中に渦巻くものを、一言で表すことは出来ない。

 感覚的に捉えて表現するならば、心臓に太い鎖が何重にも巻き付けられたようだというのが一等的確であるだろうか。

 とはいえそれも、全く正確であるかと問われれば、なんとも言い難い。

 もっと細かく、もっと鈍く、ひいやりとしているようで、溶け落ちそうなほどに熱い。


 黙り込む亘乎を、緑色を湛えた双子はじっと見つめていた。

 少しの沈黙――その後。

 特に揃えようとしたわけでもないにも関わらず丁度同じ瞬間に、ぱんとそれぞれが両手の平を合わせた。


「過去がどうであったのか、それは今は置いておくとしよう、センセイ。何せ僕らが取り組まなくてはならないのは、厳密に言えばそれではないのだからねぇ」

「そうなのですよぉ、センセぇ。実は実は実は実は実はぁ、もうひとつ、ゆなちゃん気付いちゃったことがありますですよぉ」


 気を遣わせたのだろうか、この、傍若無人とも呼べてしまう双子に。

 そう気が付けば能面のような亘乎の口元へ、微かに苦いものが浮かぶ。

 けれども事実、過去に思いを馳せている場合でもないことは確かだった。


 ゆったりと目を瞬く。

 持ち上げた右手は、間違いなくモノクルのチェーンをなぞった。

 すべらかなそれに、指先から感覚が戻っていくようだ。


「それで」


 静かな呼吸のあとにそう問いかければ、右楠はにんまりと口角を上げる。

 悪戯を思い付いた子供にしか見えない表情ではあるけれども、その内心はといえば存外素直なものであると、亘乎は知っていた。


 例えば、クレヨンで描いた似顔絵を親へ見せに来る幼子であるとか。

 或いは、沢山のおもちゃをきちんと片付けたと胸を張る幼子であるとか。

 簡潔に言ってしまえば、子供が手柄を誇り、褒めて貰おうとすることと、似たようなもの。


 話の口火を切ったのは、そんな右楠ではなく、左椋だった。


「まず言うとだよ、センセイ。火でもなく、土でもなく、薬品でもなく、彼女らの血肉を剥いだのは、かの姿形を変え得る詛いだろうと、僕らはそう決したのだよ。で、あるならば。骨格や歯の具合だとか、怪我の痕跡などでは身元を特定するに心許ない。けれども、で、あるが故に。身元を確認するに足るDNAを採取出来るかも分からない」


 この詛いがどの程度、ひとの体へ変質を齎したのかの検証はなされていない。

 ただ今回に関して言えば、骨への影響があったことは確かだ。

 それならば見た目からは判断出来ない。

 では、遺伝子はどうだろうか。

 火葬や化学的な処置がなされていれば困難だけれども、肉が溶け落ちただけならば採取出来るかも分からない。

 詛いの影響が出ているかは、結果次第。

 ただ、過去の事件を振り返ると、DNA検査は非常に有効なものであるのは確かだった。


「一体誰がどうやってあの硝子張りの棺、もとへ、標本箱へ彼女らを飾ったのか。それは僕らのぶんから幾分か外れたところにあるわけで、判断は出来ないけれどもだよ。身代わりの首無しお嬢さんは今現在拘束されている婦人のDNAが混じっている可能性があるし、巨大蝶々は恐らく大部分が気が狂れっちまった青年のDNAに汚染されていることだろう。そこでだ、ついでとばかりに僕らは、お嬢さん方以外に、使用人二人からもDNAを採取したわけだ」

「鑑定結果は今待っているところなのです。でもでもでもでもでもぉ、そっこっでぇー、ゆなちゃん、気付いちゃいましたっ。使用人ずからも、もわもわもわぁっと、詛いのにおいがしますですよぉ」


 冷たい死の漂う室内へ跳ね回る、間延びした声。

 告げられた言葉にゆったりと目を瞬いて、使用人二人の姿形を思い浮かべた。


 取調室での言葉を信じるなら、限恵は変じきれずに溶け落ちた彼女らの後始末をしたはずだ。

 そしてセイに関して言えば、最期まで蛹圭と共にいたのだから、詛いを感じてもおかしくはない。


 けれども、双子がわざわざ分かりきったことを知らせるはずはなかった。

 そんなことは承知の上で尚、勿体ぶっていうほどであるということが問題なのだ。


「あの濃厚でまったりとしつつ舌の上にのった瞬間に水ようにさらっと溶けていく感じっそして口の中に残る貴腐ワインにも似た独特な香りの余韻とそれを台無しにしちゃう殺人的な甘さっもうどのくらい甘いのかって言ったら氷砂糖と角砂糖をシロップで作ったゼリーで固めて粉砂糖をかけてはちみつを添えて仕上げに人工甘味料にブチ込んだみたいなみたいなっ。間違いなくあれは、カズラの中心街に店を構えている詛い屋ちゃんのものだと思いますですよぉ」

「どうだい、センセイ。いつもの間の抜けた話し方すら忘れて、ノン・ブレスで言い切ってしまう豊かなのだか貧相なのだか分からない語彙と、何よりも僕では決して持ち得ない、詛いに対する野生動物すら凌がんばかりの嗅覚は。本当に、ああ本当に、我が愛しの愚妹は素晴らしいよ、そうは思わないかい、センセイ」

「きゃーっ愛しのにぃにぃ様ぁ。もうもうもうもうっ、褒められすぎて、ゆなちゃん照れちゃいますですよぉ」


 褒めているようには聞こえない左椋の褒め言葉らしきものに、右楠は両手で頬を包み込んでくねくねと身悶えている。

 どうにも年々お互いへの傾慕の度合いが悪化しているようだと亘乎は思ったけれども、それについて何かを言う心積もりなどはなかった。

 二人共もう子供ではないのだし、口出しすることではないだろう。

 そも、指摘したところで変わるはずがないと、とうの昔に諦めたのだけれども。


「私でも爺でもなく。そのカズラに店を構えている者の詛いというのは、どんなものだ」


 亘乎の問いに、身悶えるのをやめた右楠が首を傾げた。

 唇に人差し指を置いたかと思えば、視線を斜め上へやる。


 遺体貯蔵庫から、機械音が低く、微かに響いている。

 これが作り出す冷気はさぞや骨身に沁みることだろうと、先程穴の中へ押し戻された彼女達を少しの間、思い浮かべた。

 そんなことがあって漸く、右楠は亘乎へと視線を戻す。


「詳しくは分からないから、シューにゃんかセンセぇ自身で見て貰うのが良いと思いますですけどぉ、婦人が青年を詛ってて、それで、青年は誰かを詛ったことがあるんだと、ゆなちゃんは思いますですよぉ」




 いつもより早い時間に起きたせいですっかり眠ってしまったシューニャを双子に任せて、亘乎は取調室へとやって来ていた。

 亘乎と入れ替わりで部屋を出ていった頼劾は、隣の小部屋にいるだろう。

 頼劾にすら――見た目のいかめしさよりも、氏素性による立場の優劣があってすら、という意味で――口を噤んだらしく、今日もやはり二人きりだ。

 本来なら許されないことであるけれども、見て見ぬふりをされている。


 限恵は昨日と比べて、落ち着きを取り戻したようだった。

 ただ、化粧をしていないせいで、色濃く浮かび上がる疲労はどうしても隠しきれない。


 じっと観察する亘乎にどことなく億劫そうに一度視線を外し、吐き出された息。

 深呼吸であるのか、それとも溜め息であるのか、判断はつかないけれども、限恵は背筋を伸ばしてまた正面を向いた。

 無心であれと自らへ課しながら、亘乎を見返す。


「貴女は昨夜、あの地下シェルターで見付かった骨達が、主から処理を任されたとものであると言いましたね」

「……ええ」

「では、昆虫標本のように箱の中へ磔にしたのは、貴女の趣味で」

「まさかッ」


 引き攣れた声で叫んだ限恵を、感情を映さない三白眼がじっと見据えた。

 上げかけた腰は怯んだ様子で椅子へと戻り、一瞬の間が出来る。


「しょ、処理は、確かに、任されました。あ……頭の、骨から順に洗って……あの箱へ、並べるようにと……旦那様が」

「翅はどうしました」

「旦那様と、玄鳥翁が、どこかへ」


 不審な様子はない。

 これは真実であるようだと考えながら亘乎は、顎に手を当てて思考を巡らせる。


「あの骨達は全てそうした」

「はい……そうです」

「他に、邸へ連れて来られた人間は」

「ありません」

「彼らの実験は身を結ばなかったということですか」

「……ええ」


 限恵は、無意識であるだろう。

 けれども、眉間と目頭の辺りに力が入ったことに、亘乎は気が付いた。

 立ち上るのは怒りと悲しみ――何故限恵は亘乎へならば話すと言うのかと、今更ながらに思う。


「ならば何故、今回。蛹圭嬢は蝶へなり得たのだと、貴女は思います」

「そッ、んなこと……私には」


 一瞬ひっくり返った声を上げた限恵に、ゆったりと目を瞬く。

 未知への驚きではなく、女から見て取れるのは動揺だ。


「蛹圭と……さなぎと名付けたのは、その旦那様でしょうね」

「ッ、あ」

「蛹圭嬢が寝台の上でしか生きられなかったのは、元々が病弱で、病が歳を重ねる内に進行しているからなのでしょうか」

「そ、そうです、ええ、そうなのです、お嬢様は年々ああして」

「違うでしょう」


 言葉を遮られた限恵は、ひ、と声を漏らした。

 その表情に浮かび上がるのは、怯え――亘乎へなのか、それとも、暴かれることへなのか。


「蛹圭嬢は、元からずっとこうだったと、言っていましたよ」

「う、ぁ」

「貴女は蛹圭嬢が、蛹が、蝶へ変じてしまえることを、分かっていたのではありませんか。彼女は……前当主精圭と玄鳥の、なのでしょう」


 ああっと声を上げて机に突っ伏す限恵を、亘乎はただじっと、見据えていた。

 心は折れてくれて構わないと、あまりに冷酷なことを思う。

 けれども話が出来なくなっても困るとも考えていた。

 聞かなくてはならないことが、未だ、山ほどあるのだ。

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