第十八話

 背後で扉が閉まった。

 思っていたより遥かに、静かで滑らかに、ぬらりと閉まった。


 扉を入ってすぐ、目の前には箱が積み上がっていて、その向こうには人の気配がする。

 精圭と、女だろう。


 終わりだ。

 もう、終わりなのだと、殺されるくらいならいっそ――嗚呼、いっそのこと。

 滅茶苦茶に暴れて、この爺諸共、とそう思う。

 思いはしたのだけれども、悲しいかな、限恵はただの女だった。

 その頃はまだを過ぎたばかりで、手放してしまうにはあまりに惜しいと感じるものがたくさんあったし、絶望してしまうには未だ若すぎて、一縷の望みを捨てることが出来なかった。


 何か、どうにか、方法が、嗚呼、どうか、神様。


 自らの身体の中で、感情が跳ね回っていた。

 喉は貼りついて、出口を塞がれた感情達が皮膚を突き破って飛び出して来るのではないかと、限恵は本気で考える。

 けれどもそれは、成されはしなかった。


 捩じ切られてしまうのではないかと思うほど、強く手首を引かれるままに覗いた、箱の向こう側。

 鈍色の、冷たい光を反射する台の上には、あの女。

 纏わいた着物をはだ、上半身をあらわにした女が。

 そのまた向こうに精圭が、血の気が失せた限恵を一瞥してにたりと、唇を歪めた。

 面をかける、女が――びくんと跳ねる。


『ああぁァぁぁああああアぁあ嗚呼ああああッ』


 絹を裂くようなという言葉があるけれども、それは、そんなものではなかった。

 悲鳴だった。

 怒号だった。

 咆哮であったし、金切り声であった。

 そして、どこか艶かしい、喘ぎだった。


 限恵は、自分の手首から爺の手がいつの間にか離れたことに気付いていなかった。

 もし気付いていたとしても、その場からは最早、動けなかっただろう。


 背が、盛り上がる。

 皮膚が破れ、その下に赤いものが見える。

 肉ではない。

 何か筋張った、よく分からないもの。

 精圭のホワイト・シャツに、赤い線が飛び散った。

 女が叫んでいるのに、鈍色の台へ、赤が、はたりと落ちる音が、耳へこびり付く。


 赤いものは、赤くなかった。

 白いのに、赤いのがぬらぬらと纏わりついている。

 青みを帯びた照明がそれを土気色に見せて、そして、腐った肉のようにも見せた。


 広がっていく。

 四つに分かれて、広がっていく――そして、落ち、る。


 びちゃり。


『ぬぅ、失敗か。もうちっとであったがのぉ』


 もう、女の叫びは聞こえなかった。

 聞こえないというより正確には、女は、声を出せるような状態でなくなっていたというのが正しいだろう。

 背から出た四つの何かが全て根元から落ちて、そしてまたびちゃりと、何かが落ちた。

 溶けていく。

 時折響く硬質な音は、骨が台へ当たる音なのだとしばらくしてから漸く気が付いた。


はねしか残らなかったか。何が足りなかったのだ、翁』

『さてのぉ、何じゃろうか』

『これではすぐに他で試すのは無理か。……おい、お前、を片付けろ』




 片手でハンカチーフを握り締めたまま、限恵は反対の手で口元を覆った。

 その光景を思い出して、堪えきれなくなったのだろう。

 手洗い場に行くかと尋ねる亘乎には、しかし、弱々しくはあるけれども首を振ってみせた。


 ゆったりと目を瞬く。

 チェーンをなぞることなく空振った手を顎にあて、そうして静かに息を吐いた。


「なるほどそれが、蝶であったと」


 限恵は頷いて、そのまま俯く。

 未だ口元は押さえられていて、声を出せる状態ではないらしいと亘乎は思った。

 むしろ――が事実であるならば――ここまで話しおおせたのだから、よくもった方だと言って良いだろう。

 小部屋のある側の、壁一面へ張られた鏡へとちらと視線をやれば、その向こうから、こつ、と音がする。


「今日はここまでに。くつろげるような場所ではありませんが、取調室ここよりはましでしょう」


 限恵が頷いて、少ししてから取調室の扉が開いた。

 その向こうから顔を出したのは紫苫だ。

 濃紺の立詰襟へ身を包む彼女は、平静を装いながらもどこか険しい表情をしている。

 表情を見遣る余裕はないのだろう、俯いたまま紫苫に支えられて取調室から出て行く限恵を見送った。


 沈黙。


 室内へ落ちる静けさ。


 がん、と机が悲鳴を上げる。


「おい、気持ちは分かるが備品は壊すなよ」


 いつの間に取調室に来たのだろうか。

 頼劾の声が耳に届いて亘乎は、机を蹴り上げた右脚に走る痺れに気がついた。

 それでも相変わらず、肚の底では赤黒い炎が燃え盛り、そして内側から自らを焼いていく――その様を脳味噌の端が冷静に観察し、嘲笑う。

 手袋をしたままの左手を強く強く握り締め、暫くしてから漸く息を吐き出した。


「……どう思う」


 亘乎のいつもより低い声に、頼劾が鼻で笑う。

 小馬鹿にされたように感じる反応でも、むしろそのいつもと変わらない調子のおかげで頭が徐々に冷えていくように思えた。


「二・八」

「そこまで信用に値しないか」

「まあ、爺が絡んでやがるところは事実だろうよ」


 ああ、と亘乎が呟いた。

 忌々しいことに、玄鳥は確実に絡んでいる。

 過去に限恵が見たらしい蝶になり損ねた女も――恐らく、今回も。

 それは、限恵の話を聞いていない時点から既に真実でしかなかった。


 扉の近くへいた頼劾が、机の向こう側へと回り込む。

 限恵が先程まで座っていた椅子をいささか荒く引いて、腰掛けた。

 座面へ温もりが残っていたのだろう、一瞬だけ嫌な顔をしたけれども、それを誤魔化すかのように頬の古傷を擦る。


 少しの沈黙がその場へと落ちた。

 短く息を吐き出したのは頼劾で、そして、口を開いたのも頼劾だ。


「俺としては、お前にも訊きたいことがあるんだがな」


 ゆったりと目を瞬く。

 嗚呼、やっと来たか――頼劾の言葉を聞いて亘乎が思ったのは、それだった。

 何故なにゆえ今まで放って置かれたのか、本心を言えば、よく分からない。

 確信があったから訊ねることをしなかったのか、それとも、確信がなかったから訊ねられずにいたのか。

 ひたすら好意的に考えるのなら、知りたくなかったから訊ねられなかったのかも分からない。


 正面から、じっと頼劾を見つめ返す。

 一瞬だけその厳つい表情が、痛ましげに歪んだ。

 頼劾の中で自らは未だ――なのか。

 洩らしそうになった苦笑を胸の内へ押し留めて、亘乎はその三白眼をついと細めた。


「ライコウ殿がその問いを口に出すことを躊躇うのなら、私から先に、こう答えておきましょう――恐らく、ライコウ殿の考えていることは、半分正解で、半分は不正解だ」


 頼劾が左の眼を眇める。

 普通なら恐ろしいだろうその表情も、亘乎からしてみればとうに見慣れたものでしかない。

 頼劾と亘乎の付き合いはもう三十年近く――その頃頼劾は未だ軍に入ったばかりの若造であったし、亘乎は十にも満たない子供だった。


 まさか、これほどまで長い付き合いになるとは思わなかった。

 そんなことを考えながら、短く息を吐き、瞑目する。


「あの頃、家持ちの娯楽の為に多くの人を面達は――玄鳥とおれ、二人で作り上げたものだ」


 頼劾が低く唸る声を、亘乎は視界を閉ざしたままで聞いていた。




 微かに、目で捉えられるかどうか分からない程度に、蛍光灯が明滅を繰り返している。

 きぃんと耳の奥を突き刺すような、張り詰めた沈黙が取調室の中には漂っていて、亘乎も頼劾もただひたすらにじっと黙り込んでいた。


 時間という概念が、へどろのように不愉快極まりない粘度を持ったようで、身体に纏わりついて離れない。

 けれどももしか、自らを捉えるのは過去のおのれであろうかとも、亘乎は思う。


 頭の中までも、息を潜めなければならないような、そんな強迫観念に囚われる。

 もしこの取調室へずっと二人だけでいたらば、どちらが先に窒息死するだろうかとくだらないことを考えた。

 ただその次の瞬間には、扉を叩く小さな音で、考えもそれまで停滞していた空気も押し流されていたのだけれども。


「失礼します」


 扉を開いたのは、取り調べに立ち会った詛兇班員でも、紫苫でも、ましてや矢途でもなく、髪の短い若い女だった。

 制服などではなくただの、色気のないグレースーツを着ている。

 亘乎は、見覚えのないはずのその女の目鼻立ちに既視感を覚えていた。

 はてこれはと思いながらじっと見上げて、そうしてから不意に脳味噌へ湧き上がった色に目を瞬く。


「お久し振り、詛い屋さん。って言っても、きっと覚えてないわね」


 女から香り立つ、冴えた赤。


「……貴女は……ふむ、識安嬢か」


 猫のようなくるりとした目を、女は瞬かせた。

 として生きていたらしい頃とは随分と雰囲気が違う。

 髪も短くなったし、華やかな化粧は落ち着いた薄いものに、噛み痕もなく整えられた爪は赤ではなく淡い桜色で、どこにも赤はない。


「びっくりした……三度ほどしか会っていないのに、分かったの」

「おや、私は毎日お会いしていましたよ。『燃ゆる女』を描いている間」

「ああ……そうね、そうだった。私、詛い屋さんの絵のモデルになっていたのだっけ」


 女――赤の事件のとき、加害者になろうとして結局、被害者であり遺族となってしまった識安は、どことなく気恥ずかしげな苦笑を浮かべた。

 眼に過ぎった寂しげな色に、詛いが相変わらず識安を苛み続けているのだと分かる。


「おい、本題を言え」


 頼劾の唸り声に、識安ははっとした様子で姿勢を正した。

 識安は詛いに深く関わったが故に、徒人としては最早、生きられない。

 詛兇班に入ったわけではないのだけれども、一時そこへと預かられとしての生を学んだのだ。

 新兵などと同じような反応をしてしまうのも仕方がないだろう。


 すう、と息を吸う。

 軽く振り仰ぐ三白眼をじっと見下ろした識安は、その眼の主である亘乎に向けて口を開いた。


「ヨゴト房、あるじ亘乎殿。私を、雇っては頂けませんか」


 こちら詛兇班班長からの紹介状です、と、その班長本人を目の前にしながら書状を差し出す識安に、亘乎は器用に片方の眉だけを引き上げたのだった。

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