第十七話
限恵はやはり、紫苫には何も言わないらしかった。
四十前の女のどことなく拗ねた顔など大して可愛くはないけれども、色香を無理に軍服へ押し込めた紫苫のそれは、誘蛾灯のように思えてならない。
蜘蛛のような慎ましやかさで待ち受けるのではなく、気付かぬ内にふらりふらりと引き寄せられてしまうのだ。
ただ紫苫にしてみれば、少しも揺らいではくれない唯一の他は、邪魔な有象無象でしかないだろうけれども。
またも紫苫と入れ替わりで取調室へと足を踏み入れた亘乎は、先程と同じように限恵の向かいへと腰かけた。
相変わらず俯いたままの限恵をじいっと眺めて、どう切り出そうかと少しの間だけ逡巡する。
何せ、聞きたいことと、聞かなければならないことが、山のようにあるのだ。
本来ならばじっくりと時間をかけて追及していくものであるけれども、軍卒でない亘乎には亘乎の生き方というものがある。
それに、左椋と右楠、あの喧しい双子に預けたままの詞葉も、
じ、と蛍光灯が鳴いている。
二人分の呼吸音が、密やかに床へと落ちていく。
「これからは、私が質問していきます」
「はい」
「
「……分かりました」
「ではいこう」
一先ずは被害者側として、話を聞いていこうではないか――限恵の全体像が視界に収まるよう、亘乎は背もたれへと上体を預けた。
「通報したのはいつ、何時頃です」
「昨日……午前九時過ぎであったかと」
「どういう手段で、どこへ、何と伝えました」
「お邸には電話が御座いますので、電話でカズラの駐在へ。お嬢様が消え、代わりに骨があると」
「駐在は何と」
「発見した状態のまま、部屋へは立ち入らないようにと……詳しい話を聞かれ、家持ちへの権限がなく駐在では対処しきれないので、そちらに向かうけれども、軍に要請することになると」
「貴女は何と答えました」
「分かりました、お待ちしますと答えました」
「駐在が到着するまで、貴女は何をしていましたか」
「ずっと、玄関ホールにおりました」
「そのとき、邸に他の人間は」
「私のみでした」
「通いの運転手がいると聞きましたが」
「お客様をお呼び立てする以外に、運転手が必要な車を使うことはありませんので。元よりお邸には人がおりません」
なるほどと亘乎が頷けば、限恵の肩から今までずっと入っていた力が、わずかだけ抜けた。
蛹圭とセイについて、直接の話ではないためにゆとりが出来たのだろうか。
とはいえ、それがいつまでも続くものではないと、限恵とて分かっているのだろう。
ゆったりと瞬きをする亘乎の様子を、顔を伏せたまま窺っているのが分かる。
「骨があると通報した。貴女は先程、二人が出て行ったのは一週間ほど前だったと言いましたね」
「はい」
「身一つで、知られないよう声を潜め、夜中に出て行った」
「……そうです」
「蛹圭嬢はそのとき生きていた。それに間違いはありませんね」
「……はい……御座いません」
もう一度、亘乎は頷いてみせた。
限恵の肩にはまた力が入って、身構えている。
呼吸が浅い。
「その一週間ほど前の、二人が出て行ったあと。部屋には、何が残されていましたか」
「何が……お嬢様と、そのとき、お嬢様の身に着けていた着物以外……でしょうか……」
「骨は」
そう問いかけた途端にびくり、と限恵の肩が震える。
先程、あのシェルターの中で、限恵はこの問いに答えなかった。
亘乎にはもはや確信しかないけれども、これはあくまで取り調べなのだ。
答えられていないことを、是とするわけにはいかない。
「骨は、ありましたか」
「っ……」
「二人が出て行った時点で。貴女が通報したときにあった骨は」
「う……あ」
か細い吐息のような声が洩れるのが、亘乎の耳へと届いた。
唇が戦慄いて、伝わるのは逡巡――我が身を思うのか、それとも主を思うのか。
「ありません……でした」
「あの骨は、貴女が」
「…………はい……私が、置きました」
たっぷりとした間の後に発せられたその言葉は掠れ、静かに机の上を這った。
震える肩は、一体何を恐れているのか。
限恵が守っているものは、何なのか。
蛹圭は死んだ。
詛いには打ち克ったのだろうに、セイに首を落とされた。
セイは
首を落としたから狂れたのか、狂れたから首を落としたのか。
限恵が守らなくてはならないもの――守らなくてはならないと、思っているもの。
隠したかったもの。
隠せなかったもの。
死の偽装。
否。
遺骸の偽装。
何の為に――何の目を誤魔化す為に――骨――偽装――蛹――殻――本来ならば、残るはずであったもの。
「貴女、これ以前に――骨を残して蝶になった人間を、見たことがあるのですか」
限恵の震えが止まり、凍り付いたかのように動かなくなる。
嗚呼――これはどうやら、私も覚悟を決めねばならないようだ――亘乎は肚で、そう呟いた。
双子曰くのお面遊びが流行った二十と数年前、蛹圭が生まれたのは、丁度その辺りの頃だ。
そしてゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家には既に、限恵の姿があった。
主は当然、蛹圭ではない。
随分前に亡くなった蛹圭の父だ――名を
精圭は、人嫌いの激しい男だった。
使用人も、邸と精圭と蛹圭の世話を出来る必要最低限、否、それよりも遥かに少なく、
溢れ返るほどの大金があったわけではないけれども、使用人を一人二人増やす分には何ら問題のないほどの資産を抱えていた。
それでも、人嫌いであるという事実が遥かに勝る。
自らの邸の中へ
どこでどう知り合ったのかは、限恵の知るところではない。
けれどもある日精圭は、ひとりの爺を連れて外から戻ってきた。
玄鳥と名乗ったその小汚い爺がよもや、
一目見たそのときから、これから何度顔を合わせようと、この爺のことは、なにをしても好きにはなれないだろうと限恵は思った。
そして、精圭も本来ならば嫌いそうな類の爺であるのに、何故こうしていつだって歓待するのだろうかと思った。
思った、ただそれだけだ。
限恵には意見することが許されていなかったのだから。
玄鳥が訪ねてくることはそれほど多くはなかったけれども、そうなった日は、精圭は玄鳥と連れ立っていずこかへと向かい、一日中戻っては来ず――何日か空けることすらもあった。
二人が何をしているのか、限恵が知る術はない。
ただその間、邸を守るよう言い付かったのは限恵で、他の誰でもなかった。
そんな折、精圭と玄鳥はひとりの女を連れて戻ったことがある。
ふあふあとした茶色がかった髪をして、細く、どことなく浮世離れをして見える女だった。
精圭は、暫くの間、その女を邸へと留めると言った。
どういう経緯で連れて来られた女であるのか、限恵には知らされなかったし、あまり知りたいとも思えなかったのだけれども、女の世話を出来るような人間は限恵の他にはおらず、関わりは一等深かったように思う。
女は世間話には応じても、自らの事情を語りはしなかった。
知られたくなかったというより、いつも何かを恐れ、語るゆとりがないように限恵には見えていた。
ともかくもそうして邸に滞在していた女、それをある日精圭は、いずこかへと連れ出したのだ。
それは、月が青くてらてらと、湖に落ちた夜のこと――精圭は夜中の内に、女を抱きかかえ、声を潜めて、いずこかへ。
限恵はそれに気が付いた。
どうにも精圭が妙な様子であるからとずっと気にしていて、それでその姿を見つけることが出来たのだった。
邸の裏から、湖を渡って、離れへと向かう。
限恵は深い影の中、その姿を追いかけた。
離れに用事があるのかと初めは思ったのだけれども、精圭は建物を回り込む。
そこで初めて限恵は、それの存在を――金属製の蓋があるのを知った。
抱えていた女を脇へと下ろして、そうしてから重そうに蓋を開ける。
先に女を入らせ、精圭も蓋を閉めつつ降りてしまうと、あとには木々のささめきばかりがその場に響いて、限恵は恐ろしくなった。
もう戻ろうか――そう思う。
だというのにどうしてもそこが、気になって仕方がない。
閉められてしまった蓋の取っ手を引くと、蝶番の軋む音がわずかだけ響いた。
その波紋が下草を揺らしたような気がして、肩を竦ませる。
深呼吸すれば、水のにおいと背徳感が、這い寄ってくるようだった。
耳の奥、浅いところに心臓があるのではないか。
そう思わせるほどに、血が激しく巡っている。
仄明るいそこには金属製の梯子があって、限恵は慎重に足をかけた。
踏み締めるごと、靴底のあたる音が穴の中へ響くのが空恐ろしい。
跡をつけてきたと知れたら、何を言われるだろう。
何もかもを恐ろしいと思うのに、止められないのは何故なのか。
梯子を降りきった先。
そこにあった、もうひとつの扉。
目を離せないまま、胸の前で両手を握り締める。
限恵はそこで本当に、怖気づいた。
――気付かなかったふりをして、邸へ戻ろう。寝台へ潜り込み、いつもと同じ時間に目を覚まして、もしそこで女が戻っていなかったときは、知らないふりをして尋ねれば良いではないか。
けれども、遅かった。
扉は、内側から開いたのだ。
後退る。
不用意に下げた足は、思っていたより大きな音を立てる。
しまったと、そう思う暇すらなかった。
喉から洩れたのは引き攣れた息。
眼前で爺が笑っている。
手首を掴まれた。
熱い。
頭も身体も全てが凍りつくようなのに、手首だけが。
足が縺れる。
手首を強く引かれている。
――殺されるかもしれない。
限恵は直感でそう思った。
例えば他の、貞操が破られることなどは思わなかった。
自らの手首を掴まえて引きずるのが、老いているからと安心しているのではない。
もっと、何か、悔いることすら許されないと、そう感じたのだ。
声が出ない。
手を振り解けない。
逃げたい。
進みたくない。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――
『カカカ。飛んで火に入るとは、これだのぉ』
――ああ、にげられない。
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