第十六話

「一週間ほど、前のことでしょうか……お嬢様とセイが、邸から出て行ったのは」


 泣き崩れてしばらく後。

 椅子に腰かけてうなだれた限恵は、唐突にそう話し始めた。

 亘乎から手渡されたハンカチーフを指が白くなるほど握り締め、その肩はひとまわりもふたまわりも小さくなったように見える。


「お嬢様をセイが抱きかかえ、夜中の内に、出て行きました。車椅子も、いつもお嬢様がお召になっていた着物も置いて……二人ともほとんど身一つで……私に見付からないようにと、声を潜めて」

「しかし貴女はそれに気付いていた」


 微かな溜め息のあとに、頷きだけが返された。

 けれどもその背が震えたのが見えて、亘乎はただ黙し限恵が何か言うのを待つ。


 じ、と照明が低い音を立てている。

 耳の奥へとこびり付くそれを、細く長く吐き出された限恵の吐息がさらっていった。


「私……は……二人が計画していたことも、全て、存じておりました」




 一年半ほど前だろうか。

 限恵が二人が話し込む声を聞いたのは、本当に偶然のことだ。

 二人の間で――というより、セイにとってであろう――自身が、例えば、灰かぶりシンデレラを虐げる継母であるとか、白雪姫を妬む王妃であるとか、そういう存在に捉えられていることは、とっくのとうに知っていた。

 だからこそ、その深更しんこうも当然であったのだろうと思っている。


 初めから聞いていたわけではなかったから、話の発端は分からない。

 ただ、二人がどこか遠く、誰も知らない場所への逃避行を夢見ていることは、言葉の端々からもよく分かった。

 それはきっと二十歳を過ぎて描くには、あまりに幼い夢だっただろう。

 現実味はなく、実現性もない。


「女より男の方が、余程、ロマンティストでしょう。それは、お嬢様とセイにも……当てはまって御座いました」


 セイはなにがなんでも蛹圭を外へ連れ出してやろうと思っていたし、蛹圭はなにをどうやっても、二人きり、どこぞへ逃げきる術がないことを悟っていた。

 けれどもそんな徒夢あだゆめが計画に変わっていったのは、セイが蛹圭を想うように、蛹圭もまたセイを想っていたからだ。

 もしかすると蛹圭の方が遥かに、気持ちが大きかったのかも分からない。

 寝台からすらまともに出られない蛹圭は、セイよりずっとずっと、狭い世界で生きてきた。

 蛹圭という存在を確立する上でセイは、本人が思うより遥かに大きく重要な歯車だったのだ。


 無私とは呼べても、無偏ではない。

 セイの夢を、蛹圭は叶えてやりたかった。

 それが、自らのことを彼が思い、自らのために彼が成そうとすることであっても、蛹圭にとってはセイの夢に他ならなかったから。

 例えばそれが、自らの望みとは交わらないところへ突き進むものであったとしても。


 主であるが故なのか、それとも、悟った女の最後のはなむけであったのか。

 それは、限恵の知るところではなかったけれども、そこに確固たる愛情があったことには間違いがない。


「当初の計画では、私をお嬢様の身代わりにしようと……セイは、考えていたようでした」


 けれども、セイは限恵に事情を打ち明ける気などさらさらなく、万一打ち明けたところで協力するはずもないと――それ故に生きているままでは絶対に無理だし、死んでいたとしても無理があると思い至った。

 恐らくセイは、限恵がもし蛹圭と同年代であったなら、さして逡巡することもなく殺して身代わりにしただろう。

 それほどセイは蛹圭に盲目的だった。

 そして、限恵を憎むべき存在として見ていた――否、そも、亡きものにする機会を窺っていたのだ、故に絶好の機会であったのだと言われたとしても、限恵にしてみれば何の不思議もない。


 蛹圭はそれを知っていて、身代わりを立てることを強硬に反対した。

 身代わりを立てるくらいならば、この計画は聞かなかったことにするとも言っていた。

 詳細は分からない。

 けれどもとにかく、ただ雲隠れするしか方法はないと、そういう結論に達したらしかった。


おもての話を持ち出したのは、お嬢様であったのだと思います。セイはそも、詛いのかかった面の存在を、知らなかったはずですので」


 上手くいけば、詛いで死んだことに出来るかも分からない。

 そんな言葉に、セイは大いに渋っていた。

 当たり前だ。

 上手くいけばなどという前置きがある時点で、その逆も大いにあると言っているのと変わらないのだから。

 では下手をしたらどうなるのかと考え始めてしまえば最早、不安しかない。


 ――大丈夫よ、腕の良い詛い屋さんをあたくし、知ってるもの。


 そうして呼ばれたのが、ヨゴト画房なる店の主だった。

 手紙を書くからそれを届けて欲しいと、お前に託すからと、蛹圭はセイに向けて痩けた頬を緩めていた。




「私の存在を」


 溜め息と共に言葉を切った限恵を見ながら、亘乎が不意にこぼした。

 俯いたままの女は、亘乎からの言葉を待っているのか何も発しない。


「貴女は、知っていましたか」

「……いいえ」

「彼女らから何と説明されました」

「ずっとフアンであった先生に、作品の依頼をした……と」


 なるほどと亘乎が呟いて、限恵はただ黙り込む。

 その閉ざされた空間を満たしていた空気は、途端に濃度を増したようだった。

 ぬらりと気管を下っていき、肺胞に澱む。


「蛹圭嬢の宝物コレクションが、面であったことは」

「勿論、存じております」

「それが、どのような物であるかは」

「理解しておりました……が……お嬢様は、私は知らないと……思っていらしたのではないかと」

「何故そう思います」

「面は恐ろしくて嫌だと……そんな気味の悪い、如何にも詛われそうな物を集めるのは、どうかお止めになって下さいと……度々、申し上げて参りました。お嬢様が本当のお祖父様のように慕う玄鳥翁のことも……私は、毛嫌いして参りましたので」

「玄鳥、ね」


 ほんのわずか忌々しげに歪められた口元に、俯いたままの限恵が気付くことはなかった。




 ひとの身体を残さないような詛いを、依頼すれば良い。

 使ったふりをして、身体が残らなかったふりをして、消えてしまえば良い。

 であるセイがそれを目の当たりにし、世を儚んだとして。

 主である蛹圭と共にと何も語らず消えたとして。

 少なくとも家持ち達が口を出すことはないだろう。

 家持ちが問題にしないのならば、どうにでもなる。


 そうして、蛹圭はセイを丸め込んだ。

 それが出来ると何度も説明して、ついには信じさせた。

 セイは面にも詛いにも明るくなかったし、持ち物であった彼には蛹圭の言葉以上に響くものはないのだから。

 主である蛹圭が出来ると言い切ったことを、疑いも、しなかった。


 ――あの日。お嬢様の部屋には、貴方へ依頼した面も、確かに残されておりました。それなのに、何故。




 限恵が低く、重苦しく呟く声と同時に、取調室の扉が叩かれる。

 そのすぐ後に扉を開いたのは頼劾で、何事かと視線を向けた亘乎へ、部屋から出ろとばかりに顎をしゃくってみせた。


「失礼」


 立ち上がりそう声をかけはしたけれども、限恵は特に反応を見せず俯いたままだ。

 自分が差し出したものではあるけれども、ハンカチーフは取り上げた方が良いだろうか。

 亘乎はそんなことを一瞬頭に過ぎらせながら、結局は何もせずに廊下へと顔を出す。


 廊下には、頼劾と紫苫が立っていた。

 亘乎と入れ替わる形で、紫苫が取調室へと足を踏み入れる。

 限恵をひとりきりにして万一何かあっては困るのだから、見張るためなのだろう。


 艷やかな黒髪が奥へ消えるのを見送り、扉が閉まったのを確認してから、男達は額を突き合わせる。

 何があったのかと目で問う亘乎に頼劾は、眉間に深々とした皺を寄せたまま、がしがしと頭を掻き乱した。

 手を下ろしても相変わらず眉間の皺は深く、いつにも増して厳しさが際立つ。


「双子から連絡があった」


 低く告げられた言葉に亘乎は、ついと三白眼を眇めた。

 限恵の取り調べを始めたのは遅い時間になってからではあるものの、だからといって何時間もたったわけではないく、について調べたにしても何らかの結論が出るには随分と早い。

 亘乎がいつもの如く無表情で、しかしながらも訝しんでいることに気付いた頼劾は、短く息を吐いた。


「蛹圭は、蛹圭じゃあなかったらしい」

「なんです、それは。急に禅問答でもしたくなりましたか」


 口からするりと落ちた茶化すような言葉は、ひと睨みで切り捨てられる。

 唐突に意味の分からないことを言われたのだから、それくらいは許して欲しいものだと亘乎は思ったけれども、それを言ったところでまた睨まれるだけだ。

 亘乎が間違いなく口を噤んだ姿を確認して、それからまた口を開く。


「何でもも何もねえ。あの首は、ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家当主、蛹圭のものじゃあ、なかった」


 一瞬、音が消えた。

 蛍光灯が微かながら明滅するのを脳味噌が捉えたようだと、そんなどうでも良いことをふと思う。


「詳しいことは未だらしいが。蛹圭としてしてあるモンとは、血液型が違ったらしい」

「……しかし、あれは確かに」

「そも、お前に依頼をした女自体が。本物の蛹圭じゃあない、別人だったっつうことだろうよ。それか、蛹圭じゃねぇ赤ん坊を、わざわざ登録したのか」

「それはまた」


 口を噤んだ亘乎の、血色の悪い唇がやんわりと弧を描く。

 おい、と低い唸り声と共に頼劾の拳が肩を殴れば、無意識に浮かべた笑みに気付いて静かに口元を覆った。

 唇を親指でなぞり、意識的に押し下げてやる。


「どうやらこれは限恵女史に、しっかりと話を聞かなければならないようだ」

「おいおい……程々にしておけよ。お前に尋問されたんじゃあ、あの女の心臓が止まりかねん」


 皮肉たっぷりに呟く亘乎に頼劾は、自分のことなどは躊躇いなく棚に上げて、そう釘を刺したのだった。

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