第十五話
両手首を拘束されながらもしゃんと背を伸ばして車から降りた限恵は、虚勢を張っているというよりむしろ、完全に開き直っているように見えた。
もう隠すことはないと考えているのか、それとも、もう何も話す気などないという思いなのだろうか。
どちらにせよ、やはり、限恵が亘乎の話を信じる心積もりがさらさらないことは確かだった。
振り返ってみれば頼劾は、それについて何か言及したわけではない。
限恵からしてみると、信じるに値するかは別としても、その言葉を無視することが出来ない存在である頼劾からの最後通牒は、されていないのだ。
ただ、頼劾は単に黙しているだけであって、逆に捉えれば否定もしていないということに他ならない。
けれども、それをわざわざ指摘したところで限恵が受け入れるはずはないし、そも、そんなことは百も承知だろう。
勿論何らかの意図があって蛹圭の死を偽装した――なにせあの小屋での様子からして恐らくは、通報があった時点で蛹圭は確かに生きていたはずなのだ――のだから、受け入れるわけにはいかない理由があるのかも分からない。
ここ内つ国で何かしらの事件が起きたとき、被疑者を拘束するのは軍の仕事ではない。
けれども軍に組み込まれている詛兇班は、その権利もそのための場所も与えられていた。
歴史と事情というただそこにある事実だけを述べるとすれば、内つ国へ邏卒が置かれたのはここ数十年のことであり、それまでは軍が邏卒の役割を担っていたという歴史が。
一応の別組織として邏卒を立ち上げる場面になって、詛兇班も一旦はそちらへ移行される予定であったけれども、その性質上、内つ国においてはより権力を持つ軍に留め置かれることとなり、邏卒としての権利も別に与えられるようになったという事情がある。
限恵はどうやら、そうして詛兇班へ与えられた権利によって、留置場へと入れられることとなりそうだった。
本人も、それについて抵抗する心積もりなどはないらしい。
例えば亘乎の言が偽りであったとしても、幾人もの骨があのシェルターへ飾られていたのは紛れもない事実であり、それらをどうにか隠そうとしたのもまた事実。
それがあってすぐに放免となるはずもないことくらいは、限恵とて簡単に想像がついていた。
けれどもまずは、取り調べが行われる。
無罪の推定――簡潔にいうなら、有罪判決が出るまでは被疑者も無罪の人間として扱わなければならないという原則だ――という言葉があるように、被疑者の持つ権利を奪うことは出来ないからだ。
とはいえそれは、前史の頃から既に様々な要因によって形骸化し、もはや理想論でしかない。
今の限恵に待っているのは、真実と直視する機会、それのみだった。
「毎度思いますが」
取調室の横、暗い小部屋でマジックミラー越しに限恵を眺めた亘乎は、唐突にそう口を開いた。
隣で仁王立ちする頼劾はそちらに視線をやることもなく、なんだ、とだけ返す。
「私にはもう、軍籍はないはずですね」
「ああ、そうだな」
「それなのに何故、私はここにいるのか……一般人は立ち入りが出来ないことになっていると、そう記憶していましたが、私の思い違いですか」
それは至極真っ当な疑問ではあったけれども、問いかけられた本人である頼劾はむしろ、何を馬鹿なことをと言わんばかりに、はン、と鼻で笑った。
「『軍による横暴はいまに始まったことではない』なんて言ってたのは、どこのどいつだ」
頼劾のあまりに堂々とした物言いに、亘乎は静かに溜め息をもらす。
つまり、横暴であることは承知の上であるらしかった。
何時間か前に亘乎が矢途へ発した言葉を引用したということは、それに続く発言も加味されているのだろう――諦めなさい、そう言ったのだったと、亘乎は思い返していた。
この場での最高権力者である頼劾が言うのだから、良いことにしておこう。
亘乎はそう諦めた。
マジックミラー越しの部屋には、中心に机が、その両側へ椅子が一脚ずつ、扉のある廊下に面した壁側にも事務机と椅子が置いてある。
扉から一番離れた奥の椅子へ、限恵が背筋を伸ばして腰掛け、机を挟んだ椅子には詛兇班副長である
『それで、限恵サン。本当に確認しますか』
濃紺の立詰襟へ苦しげに押し込められた胸の下で、紫苫が腕を組む。
強めのアイラインが引かれた勝ち気な眼は一見しただけでは気付かないけれども、繊細な気遣いが揺蕩っているようだった。
紫苫とて、どの道そうせざるを得ないことは分かっているのだ。
けれども蛹圭の遺体の状態はどうにも――刺激が強すぎる。
本当に良いのかと、心の準備は出来ているのかと言外に気遣う紫苫へ限恵は、にこりともせず、はい、とだけ答えた。
紫苫が、腰まで伸ばされた黒髪をくしゃりと握るその姿は、頼劾にどこか似ていると亘乎はいつも思う。
永年見つめ続けると似てくるのだろうか――そんなことを考えて、そうして、要らぬ世話だと思考をすぐに放棄した。
余計なことを言ってしまえば面倒事へ巻き込まれるに違いないし、今は頼劾と紫苫の関係性などを気にしている場合でもない。
身じろぎする気配もない限恵に、紫苫は溜め息と共に手元の封筒から写真を取り出した。
蛹圭の首と、気が
直接目にするより、においがないだけ良いだろうかなどと考えてみる。
けれどもやはり、ほんなものは少しの慰めにもならないはずだと亘乎は思った。
さすがにすぐ見る勇気はなかったのか、痩せた目蓋を閉じ深呼吸をしてから、限恵が机に視線を落とす。
目を見開く。
そうして、一瞬の間。
『うっ』
限恵が漏らしたのは、その短いうめき声だけだった。
次の瞬間には唇をきつくきつく噛み締めて、呼吸ごと声を飲み込む。
マジックミラー越しに観察していた亘乎と頼劾は、精神力の強い女だと改めて思った。
身体が小刻みに震えている。
混乱と怒り、恐怖と悲しみ――何よりも、強い諦め。
様々な感情が泉のように湧き上がるのを、亘乎は見た。
止めどなく湧き上がり、溢れ、濁流となって限恵自身を飲み込んでいく。
その
けれども限恵の産んだ濁流は、一瞬にして凪いだ海原のように静けさを取り戻す。
否、凪いだと表現するのは正確ではない。
全てを凍りつかせたのだ。
――嗚呼、貴女はそうして生きてきたのか。
亘乎は肚で呟いた。
感情を凍らせることで、自らの形を作っていたのかと。
視線の先で限恵はもう一度、目蓋を閉じて深呼吸する。
きつく目を閉じたまま、微かな戦慄きと共に唇を開いた。
『……ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家当主蛹圭、それと、その使用人セイで、間違い御座いません』
『分かりました。……セイという使用人、本名ですか。他の名らしきものを聞いたことは』
写真をまとめながら、紫苫が問いかける。
いちど口を開きかけた限恵は、答えることなく口を閉じた。
俯いて、そうしてからまたもう一度、今度はより一層深く呼吸する。
その様子を注視する紫苫の眼が一瞬強い光を灯したけれども、彼女が何か言うより早く、再び限恵が口を開いた。
『……あの詛い屋を、呼んで頂けますか』
封筒の中へ写真が落ちる。
横からの視線を感じた亘乎が静かに頷きだけを返せば、頼劾は何も言わないまま、マジックミラーをノックして合図を送った。
限恵の求めで取調室を出る班員と、廊下ですれ違う。
その奥、腕を組み扉を押さえるように寄りかかって佇む紫苫は、亘乎の姿にその厚い唇を持ち上げた。
正確な数字は知らないけれども、彼女が自らより幾つも年嵩であることを亘乎は知っている。
女性は化粧で随分化けるものと言えど相変わらず瑞々しい紫苫は、年を重ねても増すのは艷やかさばかりであるようだった。
細くくびれた腰と豊満な身体つきは、ドレスをまとっているほうが遥かによく似合うだろう。
「宜しくね、亘乎クン」
「私は軍人ではないのですがね」
特に答えることもなく、楽しげに目を細めた紫苫は、亘乎の肩をぽんと封筒で叩いた。
そうしてから、場所を入れ替わるようにしてその場から離れていく。
恐らくは頼劾の横で、限恵との逢瀬を観察するのだろう――限恵に知れたらば間違いなく
先程まで紫苫が使っていた椅子へと腰かける。
限恵は俯いていて、やって来た亘乎へわずかにも視線を向ける様子はない。
さてこれはどうしたものか――無意識に上げた手はチェーンをなぞることなく空振り、早急にモノクルを直す必要があると亘乎は改めて考えた。
それからどれほどの時間が過ぎたのか。
恐らくはたっぷりと三十秒は開いたことだろう。
「……一体」
俯いたまま声を発した限恵は、そこで口を噤む。
躊躇いに唇を戦慄かせ、微かな震えと共に溜め息をついた。
亘乎は急かすことなく、また目の前の女が話し始めるのを待つ。
「一体いつから、あの骨が……蛹圭お嬢様のものではないと、気付いてらしたのでしょう」
「気付いては、おりませんでしたよ。小屋の存在を知ったのも偶然だった」
嗚呼、と、限恵からは嘆きにも似た溜め息がもれた。
何に対する感情であるのか、亘乎にはまだ分からない。
「お嬢様は、何故……いつ……命、を……落とされたので、しょうか」
「さて……私は専門家ではありませんので、正確なことは検死を待たねばなりませんが……恐らくは二日もたっていないのではないかと」
「ああっ」
悲痛な声と共に、限恵が、初めて
机に突っ伏し、どうして、どうしてと、繰り返し声を上げる。
「そのまま、逃げてくれれば良かったものを……ッ」
「逃げる、とは……どういうことです」
亘乎の鋭い問いかけも、限恵の耳には届いていないらしい。
蛹圭の死を嘆くその姿は、何故だろうか、子を失った母親にしか見えなかった。
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