第十四話
「よし、分かった。それで」
「それで、とは」
モノクルのない亘乎は、余計に鋭利な印象を与えるようだった。
あんな小さな物でも受けるものは随分変わるのだと関係のないことを考えながら腕を組むと、頼劾は低く唸る。
「この女……なんだ、ああ、キリエとかいったか。それが、本当に別人の骨を当主のものだと偽っていたとして、だ。骨の方の頭はどこに行って、そもそも誰の骨だ。偽ることになんの意味がある。この女は一体、何がしたかったんだ」
ゆったりと目を瞬いた亘乎は、さあ、とだけ呟いた。
本人に訊ねる方が良いでしょう、とも。
そうしてから、標本箱の間へ落ちたモノクルの残骸へと手を伸ばす。
歪むことなく丸いままであったフレームと、力なく伸びるチェーン、そして外れ砕け散ったレンズ――ほんの一瞬だけ動きを止めた亘乎は、何事もなかったかのようにフレームに指をかけて持ち上げた。
背後の離れた位置からは、苛々とした唸り声が届く。
手負いの熊でもいるのかと茶化すような言葉が一瞬頭を過ぎったけれども、そんなことを今本当に口に出せば怒りを買うのは間違いない。
「それなら、亘乎。お前、どうしてあの骨は間違いなく当主のものだと答えた。それだけじゃあ、ねえ……いや、これは今は良い。とにかくだ。これは、お前が描いていた通りの流れなのか」
薄く血色の悪い唇を開くことなく、砕けたレンズの欠片を払う。
フレームとそこから繋がるチェーンとをシャツの胸ポケットに落として、亘乎は漸く振り返った。
頼劾の射抜くような――否、射抜くと表現するにはあまりに強く太く、圧迫感のある視線にぴったりと口を噤む。
けれどもそうしたところで時間稼ぎにもならないと悟って、静かな息と共に言葉を吐き出した。
「
無意識のまま上げた手が、いつものようにモノクルのチェーンをなぞることはない。
胸ポケットへ収めたばかりのわずかな重みを思い返して亘乎は、己がそんな癖を持っていたのだと今更ながらに気が付いた。
手持ち無沙汰に腕から力を抜き、改めて頼劾へと視線を投げる。
相変わらず向けられる視線を真っ向から受け止めて、そうしてからようやっと削ぐようにして目を瞬いた。
「蛹が蝶へと羽化するとき、殻が――古い、外骨格であったものが残るでしょう。蛹圭嬢にとっての殻があれなのだと、私は思ったのですよ」
「骨を脱ぎ去って、羽化したんだろうってか」
ふん、と頼劾が鼻で笑う。
大層お怒りのようだ、と口の中だけで呟いた亘乎は、横にあった空の標本箱を何とはなしに見下ろした。
あの骨がここへ収められている姿を脳味噌へ描いて、けれども目を瞬けばやはり、そこにはただの標本箱があるだけだ。
棺と呼ぶにはあまりに理知的なそれは、誰の手によって形作られたのか。
この場で答えを持っているのは、恐らく限恵だけなのだろう。
亘乎の三白眼が、台へ横たえられた限恵へと向けられる。
それにつられるようにして、頼劾も視線を向けた。
意識のない女は勿論、家持ちの使用人として――だけであるのかは甚だ疑問であったけれども、それについて今は語る必要はないだろう――全く恥ずかしくない程度に身なりを整えてはいるものの、生気の失せているのを化粧でどうにか誤魔化しているらしいその顔を見れば、どこにでもいる婦人としか見えなかった。
何も悪し様に言いたいわけではなく、単なる事実として、この限恵という名の婦人を今ここでなかったことにしてしまおうと考えるのならば、手を伸ばして
けれども例えば、目の前の台に眠るのが蛹圭であったなら。
縊り殺すことは簡単であるけれども、その後の処理に困る――殺したのだとばれてしまうし、見なかったことにして貰うというわけにもいかないだろう。
けれどももしかすると、殺す方が亘乎でなく頼劾だったなら。罪を問われることはないかも分からない。
亘乎に何か、身分に対しての
この内つ国に於いては、そうではない者も勿論あるだろうけれども、大抵がそうだ。
何せ、身分に差があったところで特に困らない。
万一生活に困るようなことがあったとしても、数字さえ持っていれば支えて貰えるし、下手な家持ちであれば見栄を張るにもむしろ苦労する。
変に声を上げてもどうせ家持ちにはなれはしないのだし、数字を取り上げられるようなことになるよりも、ただただその仕組みの中で生きていた方が、圧倒的に楽だ。
限恵が、軽く落としただけでややしばらく目を覚まさなかったのは、か弱い女であるという以上に、心労が溜まってのことだろう。
哀れには思っても、だからといって何か出来ることがあるわけでもない。
意識のない女を眺めるのは全く無作法ではあるけれども、そうは言っていられなかった。
万一、目を覚ましたときにまた暴れ出せば、取り押さえなければならないし、話を聞く必要があるのに手荒に扱ってまた気を失られては困る。
男二人の視線が注がれている限恵の目蓋がそのとき、ふるりと震えた。
錆び付いているかのように、あまりにゆっくりとした速さで目蓋が持ち上がる。
真上にある照明は眩しいだろうけれども、限恵は特に反応を見せることもなくただ焦点の合わない眼をそれへと向けていた。
声を掛けるべきか、掛けざるべきか。
わずかな
「嘘偽りでは、ないのですか」
それだけを呟いたかと思えば、身体を起こす。
どんな事態にも反応出来るよう組んでいた腕を解いた頼劾に、限恵はどうやら気付いていないようだった。
否、気付いたとしても、どうでも良いと思っているのかも分からない。
暴れる心積もりなどがそもそもないのならば、何の脅威でもないのだから。
羽交い締めにされたとき乱れた髪を撫で付けて、限恵の眼がようやっと頼劾へ向けられた。
そうしてから、亘乎へと。
気を失う前の狂乱ぶりは完全に鳴りを潜めている――ように見える。
「会わせて下さい。そうでないと、私は、信じられません」
「誰と会わせろと言うんだ」
「勿論……あの子達と」
やんわりと口角を上げた限恵に、頼劾が低く唸る。
臆する様子もなく口元に笑みを湛えたまま頼劾へと戻す姿を眺めた亘乎は、尋ねなければならない事柄が増えたことを感じながら、頼劾へと視線を向けた。
どうするのか問う眼差しというよりは、許可するべきだと進言する心積もりで。
またもう一度唸った頼劾は、難しい顔をしたままで頬の古傷を擦った。
言葉を継いだのは亘乎だ。
「首と、狂人です。貴女が知る彼女らの姿は、もうありません。それでも、会いますか」
限恵の表情は変わらない。
口角だけをほんの少し上げて作り上げられた笑みは、セイと名乗っていたときのあの使用人だった青年を思い出させた。
それこそ、元の造形によって微笑んで見えるあの無表情は、もうない。
治療を受ければ正気を取り戻す可能性もあるのだろうけれども、どうなるのかは芸術以外には明るくない亘乎では分からないことだ。
「私は」
そこまで発して、限恵は言葉を切った。
何かの機械が絶え間なく働く、極小さく低い音がいやに大きく聞こえる。
「私は、詛い屋という人種を信じません。……詛い屋なんて」
は、と嘲笑うように息を吐き出す。
そんな限恵の死角でまた、頼劾がいつでも取り押さえられるように構えたけれども、亘乎は先程のようなことにはならないだろうと予測していた。
先程の行動は、そう、カッとなったから、動物的な反射で出たものだろう。
今の限恵には理性がある。
限恵の理性が、亘乎に襲いかかることの不利を訴えているのだ。
「人間を実験動物程度にしか見ていないのでしょう、どうせ」
もし――もし、限恵の中で、詛い屋というものの基準があの忌々しい玄鳥であるというのなら、これは仕方がない反応だろうと、亘乎も頼劾もそう考えるより他なかった。
丁度この近辺にいる詛兇班員の中に、手隙の者なぞいるはずもないのだけれども――何せ今彼らはあの血染めの小屋を片付けている最中だ――半分ほどに分けて、シェルター内の物への対処に当たらせる。
如何せんここカズラは軍施設のあるトバリから遠く、待機している者達を呼び寄せるには時間が掛かりすぎるのだ。
勿論現場によってはこの何倍も遠いこともあるけれども、そこまでになれば航空機を出す。
ただ、人口の密集具合も相まって、詛呪による事件は圧倒的にトバリで起こることが多かった。
他の車で返してやろうと詛兇班に預けられた矢途は結局、亘乎と頼劾と共に、トバリへ戻ることとなった。
矢途の為だけに車を出してやるなど、勿論有り得ない。
具合の悪い人間を連れて歩くのは不便だったが故の仏心に見せかけた
その様子を見ながら亘乎は、生真面目で大真面目な彼はこれから余計に、詛兇班へ良いように使われるのだろうと肚で思う。
面白いから指摘してやる心積もりはないけれども。
運転席へは頼劾が、助手席へは矢途が。
後ろに亘乎と、両手首を拘束した限恵が乗り込む。
限恵は被疑者扱いとなっている。
もう一人の被疑者であるセイ改めヒラアキは、全身を拘束した上で送致し緊急措置入院ということになった。
限恵とはまだ会わせていない。
「私を信じないことは一向に構わないし、寧ろ貴女の判断は正しいと言えましょう。ただ、貴女には真実を語って頂きたい」
「白々しいことを」
小さな声で呟いた限恵の様子に、一人事情を全く知らない矢途が肩を竦ませていた。
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