第十二話
限恵の手から頼劾へ鍵束が手渡されるその光景は、前史の頃に外つ国で作られた童話を思い出させた。
この邸のどこかに女の遺骸が並んだ小部屋でもあろうかと思いながら、下世話な妄想でしかないと心の内で吐き捨てる。
魔法がかけられた小さな鍵などあるはずもない――似たような詛いをかけることならば、出来そうではあるけれども。
「
「アンタの部屋も見せて貰うぞ」
手のひらに載せた鍵を数えながら言う頼劾に、限恵はじっと黙ったままで頭を下げた。
相変わらず化粧の下の血色は悪いようだし表情は固いけれども、その眼にあった鋭さは鳴りを潜めている。
逆に、怯えは強くなっているように見えた。
わずかに混じるのは諦めだろうか。
玄関扉を閉めて二人へと歩み寄れば、一瞬だけ限恵の視線が向けられたことに気付く。
そこへ込められた先程のような刺刺しさは一体どれから来る感情かと、亘乎は考えた。
主を失ったこと自体へか、それとも、連鎖的に起こり得るであろう事柄によって自らが失うものを惜しんでか。
もしかすると、それだけではないのかも分からない。
何にせよ、今現在の亘乎には
恨みたいのなら好きなだけ恨めば良い。
そうしてその感情を、存分に向けて来れば良いのだ。
――嗚呼、ひとの思いというものは、なんと面白いものなのだろうか。
「さて、では、順に行こうか」
「ああ」
薄く血色の悪い唇の端が、やんわりと持ち上がる。
頼劾から向けられる呆れと限恵から向けられる恨みの念に、亘乎はゆったりと目を瞬いて、一番近い扉を指し示した。
死の幻臭を斬って進む。
寝たきりであった当主蛹圭と、使用人である限恵にセイ。
屋内の仕事は使用人二人でこなし運転手は必用なときだけの通いで庭師などもなく、代替わりしてからは長らく三人きりであったというこの邸は、彼らにとっては広すぎる箱だったのだろう。
手入れが行き届きませんでと目を伏せる限恵の言の通り、しばらく放って置いたに違いないと思われる部屋は幾つもあった。
例えば、亘乎がシューニャと共に初めてこの邸へ呼ばれたとき、宛てがわれる予定であった部屋以外の客室だとか、談話室や主のための書斎も、そうだった。
聞けば、蛹圭は一日のほとんどを――否、一生のほとんどを、寝台の上で過ごしたのだという。
身体の丈夫な者だとて出会えるか分からない薄羽黄揚羽だけでなく、そこらへよく舞っている紋白蝶ですら間近に見ることはなかったのだろう。
そんなことを考えると妙にモノクルの奥の右目が痛んで、亘乎はゆったりと目を瞬いた。
限恵の部屋は、二人が想像していたよりもっと物がなかった。
寝台に戸棚、本棚と机、そしてクロゼット。
服は同じようなものが最低限しかなく、隙間の目立つ本棚の中身は必要があって揃えただろうものばかりだ。
これはあまりに、と亘乎は口の中で呟く。
人の機微には疎い頼劾ですら感じるものがあったらしく、亘乎と一瞬だけ目を合わせるとその視線で頷きあった。
セイの部屋は限恵とは逆に、想像していたよりもっと物で溢れている。
性格か仕事柄か、奇麗に整理されているようではあるのだけれども、如何せん物が多い。
とはいえその中に
クロゼットを開く。
見覚えのあるスリーピースが幾つもかかっていて、私服はほとんどない。
下へ積み上げられている大きな箱には、乾燥剤と幾つもの小さな箱が詰め込まれていた。
頼劾がひとつ手に取って、亘乎もまたその下にあった箱を持ち上げる。
上部は板硝子がはめ込まれているため箱へ入れたままでも中身は見られるのだけれども、亘乎は顔を近付けてじっくりとそれを観察した。
――昆虫標本だ。それも、蝶ばかり。
磔にされた蝶達は、均整の取れた形で美しく翅を広げている。
翅も触覚も、どこにも傷みはなく、作り手の技量の高さを思わせた。
下を覗いてもそこにあるのはやはり標本箱で、本棚をよく見れば何冊か昆虫などについての本が並んでいると気付く。
「この標本は、彼が作ったのですか」
「……そのようで」
限恵の固い声に、亘乎はあの小屋で聞いた青年の呟きを思い返した。
標本にしなくてはと言っていたと納得しながら、また手元へ視線を落とす。
あれは明らかに、昆虫標本の作り方ではなかった。
青年は、理解していたからこそ事実に耐えられなくなったのだろう――手のひらへ蘇る蛹圭の冷たさを思い返しては、彼女の魂を思う。
三階建の邸の中を近いところから回って、到頭三階の奥まで辿り着いていた。
蛹圭の部屋にも他にもめぼしい物はなく、強い詛いも感じられず、けれども死の幻臭だけは濃厚に床を、壁を、天井を這う。
はらの中のようだと、亘乎は思った。
それは例えば妄執にとらわれた女の
何とも哀れなことだと、亘乎は口の中だけで呟いた。
「おい、お前、これで全てか」
ぞんざいな態度で呼び掛けた頼劾は、どうにも限恵という名前をすっかりと忘れているらしい。
それでこそなどと思うのは良くないとは思うのだけれども、常と変わらない頼劾の姿に呆れにも似た感情が沸いてふと息を吐く。
声を掛けられた限恵は、目蓋を震わせるように何度か瞬きをして、そうしてから、じっと頼劾の目を見つめた。
どうやらこの女、今から嘘をつこうとしているぞと、亘乎は思う。
あくまでただの直感であって、大した根拠はない。
けれども、間違ってはいないだろうとの直感もあった。
「はい、これで」
言葉が途切れる。
限恵の眼は頼劾へ向けられたまま、微かな揺らぎのあとに固定された。
亘乎へ向けられない辺り、随分と嫌われたものだと思う。
とはいえそれも当たり前の話だ。
「これで、全て。もう他にお見せするようなものは何も御座いません。ですから――」
「では、離れを」
遮った亘乎のその声に、限恵は意図的でなく明らかに言葉を詰まらせた。
本丸はそちらであったのかと頭に過ぎらせながらじいっと眺めれば、恨みの念を向けられる。
だからといって亘乎が引き下がるわけもなく、離れがあるのかと歩き出した頼劾に女は、奥歯を噛み締めてその背を追うことしか出来ないのだった。
湖のぐるりをなぞる。
身体の自由が利くこの三人であれば小舟へ乗った方が幾らか速く向こう岸へ辿り着けるようだけれども、この三人だからこそ肩を寄せ合って乗り込むのはいささか気色が悪い。
誰ともなく徒歩を選んでいた。
平屋建てのその離れは、亘乎とシューニャが宿にしていた数ヶ月前と変わりがないようだった。
部屋もあのときのまま調度に布をかけただけで、手が足らなかったのだとよく分かる。
他の部屋も、大して変わりがない。
あえて何か言うとしたらば、積もった埃の様子から本邸よりもっと手が入っていないのだろうと思わせるくらいだ。
全ての部屋を回ってから、はてこれはと、亘乎はモノクルのチェーンを指先でなぞる。
必ず何かあるはずだとそう思ってやってきたというのに、あてが外れたか。
「もう、よろしいでしょうか」
そう言った限恵の表情は、一見した限りでは先程と変わらない。
けれども
何かを見落としているはずだと、思わずにはいられない。
限恵を見つめる。
窓の前に立つ女は、亘乎の視線に気付くとじっと
そこで動いたのが頼劾であったことが、限恵の不幸だ。
限恵は本来なら亘乎ではなくて頼劾を警戒しなくてはならなかった――何せ頼劾は、幾ら人の機微に疎くがさつで気が利かないと揶揄されようと、軍の詛兇班というものを任されているほどの男だ。
軍にあっても性質上詛兇班だけは、家持ちという肩書きが何ら意味を持たない、ある意味で独立した組織なのだ。
尤も、家持ちといえど分家の二桁、更に言えばその一使用人という立場の人間が、軍の事情など知るはずもないのだけれども。
「何故そこに立つ」
「邪魔にならないようにと」
「ならドアの脇にいれば良い」
「そうで御座いましたね」
「それでお前、何を隠しているんだ」
「……隠してなど」
「ならそこを退け」
「何故、です」
「お前が動かないからだ」
鼻で笑う頼劾に、限恵は唇を噛み締めた。
どれだけ抵抗しようと、そも一介の使用人に逆らう術などはない。
それでもじっとそこから動こうとしないのだから、大したものだと男達は妙に感心する。
感心したところで、すべきことには関わりがない。
業を煮やした頼劾に肩を掴まれれば、簡単によろけてしまう程度の力しか、ただの女である限恵にはなかった。
限恵がいた場所に立ち、頼劾が視線を巡らせる。
隠したい何かがあるというならその背後に目を向けるべきだと、そう考える男の目に、何かが映った。
「あれか」
「何です」
男達の視線の先、下草の間からわずかに顔を出す人工的な直線。
目をこらせばそれが、金属で出来た取っ手のようなものであるらしいことが分かる。
頼劾は、その頬の古傷を擦りながら微かに唸った。
「ありゃあきっと、シェルターだな」
「シェルター、ですか」
「ああ。家持ちなら、どこでもある。何があろうと血を残す、それが家持ちの役目だ」
なるほどと頷いた亘乎は、視界の端に怯えるように身を竦ませる限恵の姿を映す。
漸く見付けた。
やはり直感は間違っていなかったらしいと考えながら、亘乎は頼劾を促した。
限恵には最早諦めるしか道はなく、力なく俯いた。
下草を踏み締めて、離れの脇へと回り込む。
本邸からはいささか離れているけれども、何かあった場合家持ちならばいち早く情報が齎されるのだし、問題はないのだろう。
地面に金属製の丸い蓋がある。
分厚く重いそれは、爆撃などに備えたものであるらしい。
果たしてどれほどの効果があるかは分からないけれども、少なくとも汚染された外気からは守られる。
最初に亘乎が下りることとなった。
最初に限恵を下ろすのも、最後に残すのも躊躇われたからだ。
慎重にはしごを下り、下りきったあとに限恵が、最後に頼劾が。
そこにあるのはわずかな空間で、更に分厚い扉があってその奥がシェルター本体であるらしかった。
後退る限恵の手首を亘乎が掴まえ、頼劾が扉を開く。
この光景はどうにも、端から見たらば恐らく自分達は悪人にしか見えないことだろう――そう胸裏に過ぎらせながら亘乎は、その先へ目を凝らす。
「これは」
「とんだ
頼劾の呆れたような声に頷いて、手のひらへ感じる女の震えには、酷なことをしたようだと口の中だけで呟く。
けれども、仕方のないことだ。
知っていたなら、尚更。
「これを作ったのはあいつか」
「さぁ」
ゆったりと目を瞬く。
まさか本当にこんなものがあるとはと、亘乎が頭を振った。
――セイという青年が青髭とは、思えないけれども。
男達の目の前には、透明な箱に飾られた幾つかの――幾人かの、白い骨が並んでいた。
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