第十一話
その村は、平時であれば静かすぎるほどに静かな――勿論、褒め言葉などではない――ところだ。
けれども今日という日に限っては、不穏なざわめきがそこかしこに生まれていた。
無理もない。
濃紺の立詰襟に身を包んだ軍人達など、顔見知りしかいないような村ではそう見る機会はないのだ。
まさかまたこんなことが起こるなんて――ある程度
へたばってしまい何の役にも立たない矢途を車に押し込めて、亘乎は現場である小屋を眺めていた。
どの道邏卒の出る幕ではないけれども、帰路では頼劾のお説教が待っていることだろうとそう考えながら、同時に、医者との――勿論あの緑の双子ではなくてまともな者との――面談を勧めるべきだとも考える。
腹を切り開かれた巨大な蝶と女の生首は、確かに見る機会なぞなく、気味の悪いものではあった。
けれども矢途は恐らく、食卓を伝って床へ流れ落ちた血が、その噎せ返るほどのにおいが駄目だったのだろうと、そう亘乎は考えていた。
何より間違いなく、幼い頃の記憶が未だに矢途を縛り付けているのだと。
「ヒラアキというのは、あの家の使用人だったのか」
濃紺の立詰襟――詛兇班の指揮を副班長に任せた頼劾が、隣へと並ぶ。
亘乎は小屋を眺めたまま一瞥もくれることなく、ひとつ頷いてみせた。
脳裏に浮かんだのは、スリーピース・スーツを纏った身奇麗な青年の姿だ。
元々の造作の関係かやんわりと微笑んで見える口元以外には、何の特徴もない使用人の青年。
「セイと名乗っていましたがね。蛹圭嬢は彼をいたく信頼しているように見受けられましたが」
そこまで声にしてから視線を木々へと放ると、ふ、と短く息を吐く。
その先に続く言葉を今ここで発するべきか否か、少しの
「本当は、彼女は誰一人として、信じていなかったのかも分からない」
ゆったりと目を瞬く。
傍らに寄り添う者がありながら、決してその心を覗かせることはしない。
それは本当の意味で、孤独と呼ぶのではなかろうかと、亘乎には思えてならなかった。
「ああ、そういえば、対応したのは五十過ぎの女でしたか」
亘乎の唐突な問い掛けを訝しみながら、頼劾は頷いた。
彼自らが出向いたわけではないけれども、確かにそのくらいの年嵩の女であったというのが部下からの報告だ。
その女しか屋敷にはなかったとも確か、聞いた。
分家も二桁になればその程度かとそのとき妙に納得したことを思い返しながら頼劾は、亘乎よりも先に、続くであろう言葉を口にする。
「行くか」
ふ、と幽かな笑声が隣から、頼劾の耳へと届いた。
何年の付き合いがあると思っているのか。
この程度分からないはずがない。
そう考えて運転席へ回ろうとする頼劾を止めたのもやはり、亘乎だった。
「その前に、矢途さんを別の車で帰してやりましょう」
車の中には、相変わらずへたばっている葡萄色の青年がいる。
頼劾は、根性を叩き直してやらなければならないと思いながら、小競り合いも今はなく自らとは担う職務がそも違う彼へ、多少の目溢しも必要であろうとも、その頭へ過らせた。
恐らくはあれを見て動じない方が、人間としてはおかしいのだ。
それは、頼劾も、そして亘乎も、理解はしている。
理解することと自らがそうであることは、別物だけれども。
溜め息混じりにがしがしと頭を掻いた頼劾が部下へ矢途を任せる姿を横目に、亘乎は思い返していた。
恐怖映画の舞台にでもなりそうな彼の洋館を。
そこの主であった女性の、甘やかな声を。
白樺の葉にわずかだけ、黄色が混じっているらしかった。
モノクル越しに風に揺らされる様をじっと眺めては、そこへ翅を休める蝶を見る。
間違いなく、成されたと思っていた。
けれども彼女は、真実、本懐を遂げられたのだろうか。
濁った眼には当然あの無邪気さは欠片も残されてはいなかった。
それだけは少し――ほんの少しだけ、惜しいように思う。
久方振りに訪れた彼の洋館は相変わらずだけれども、どことなく影を深めたようにも見える。
秋という季節がそうさせるのか、それとも主を失った悲しみに暮れているのか。
否、むしろ、どちらもが理由であるのか。
何よりも鉄柵門を境界にして、あの小屋と似たにおいが漂っているように思う。
血液の鉄臭さではなく、死臭だとか、そういうものだ。
端的に言ってしまうのならば、邸とあの小屋へ死が寄り添うから――そしてそのふたつの死は奇しくも、蛹圭というひとつの存在が
それ故に感じた、幻であるのかも分からない。
ともかくも、陰鬱でうらぶれた雰囲気のその邸の扉を、亘乎は叩いたのだ。
「私からお話出来ることは、何ひとつとして、御座いません。どうぞ御容赦下さい」
数ヶ月ぶりに顔を合わせた
御容赦下さいという言葉とは裏腹に、その眼はまっすぐと――いっそ鋭さすら感じるほどに――亘乎と頼劾を見据えている。
何かあると、亘乎は思った。
むしろ何かがあると考えたからこそ、この洋館へやってきたと言ってもいい。
ここから二、三十分の村で起きた事件に関する報告だけならば、何も詛い屋本人と詛兇班班長が出向くことではないのだ。
頼劾は隣で黙っている。
亘乎が何を言わんとしているかなど承知ではないだろうけれども、ともかくも、この場は任せてくれるらしかった。
全くこの荒事ばかりを得意とする男が
けれどもそれ故に自らがやり易いのだと思えば、亘乎にしてもさしたる文句はない。
「少し、邸内を見させて頂きたい」
呆れを振り払った亘乎は、そう言って限恵をじっと眺めた。
後れ毛の一本もなくきっちりと結わえた髪は、気のせいか以前よりも白いものが増えたように見える。
とはいえ、限恵という女のことを亘乎は、ミンチン女史のようであると思ったきりでそれより他に強い印象はなく、全くの気のせいであると言われたらば納得してしまう程度だ。
そんな印象を抱かれているとも知らず、限恵は固い表情を浮かべている。
女の唇が、微かに戦慄く。
「……私には、お客様をお通しする権限が御座いません」
どうかお引き取りをと、限恵がそこへ至って初めて頭を下げた。
それは、何としても自らを下げることはしないだろうという直感があったが故であって、だからこそ、やはりどうしても、邸へ人を入れたくない理由があるのだと考えさせるに充分な態度でもあった。
妙に感心している風な亘乎の――これは長い付き合いがある人間だからこその印象で、限恵などには変わらず能面のように見えたことだろう――前に、頼劾が歩み出る。
否、亘乎の前というよりも、邸の中へと言った方が正しい。
そも、頼劾には許可を求める心積もりなぞは、始めからなかったのだ。
そこへあるのは信頼と、傲慢とも取れる強硬さ――亘乎は足を踏み入れず、濃紺の立詰襟へ立ちはだかろうとする女を眺める。
「お待ち下さい、幾ら軍の方でも当家は中央のっ」
けれども限恵は、そこで言葉を切った。
切ってしまった。
自らなど腕のひと振りで簡単に放り投げてしまうだろう
たとえそれが頼劾本人にとって基本の表情であったとしても、限恵はそれを知らないし、知っていたところで受ける印象は同じだ。
「この邸はゼロロクが預かる」
「な」
「好きなだけ
そう言って頼劾が胸ポケットから手帳を取り出す。
開いて見せたのは、中へ挟んであった薄い金属板だ。
左側に龍の透かしが入っていて、目の位置には小さな黄色の宝石が填められている。
右側へはどこの家の人間であるかと文字が刻まれているものだ。
――ゼロイチ管区中央一〇〇二第ゼロロク分家、頼劾、と。
目に見えて色を失う限恵は、一歩下がって頭を下げた。
申し訳御座いませんと、どうにか発したその声はどことなく震えている。
悔恨、羞恥、矜持――立ち昇る感情は複雑に混じり合いながら、根底に潜む恐怖を押し込める。
一体この限恵という女が何を恐れているのか、亘乎は判断を付けかねていた。
ただ、だからといってその恐れに心を寄せて和らげてやろうなどとお優しい心なぞ持ち合わせていない。
この黄色いイトを解いて、見届ける。
そうしなければ詛いというそれは、本当の意味での完成を見ることはなく――終わってはくれないのだから。
「締めてあるんだろう。鍵をここに。持って来なけりゃ蹴破って回るが」
金属板を再び胸ポケットにしまいつつ、頼劾が脅しをかけた。
否、本人は本気でそう考えているのだから、脅しというよりも単なる宣言でしかない。
開かないなら開ける、至って簡潔な思考回路だ。
拒絶出来る理由を、限恵は失っていた。
家という制度、特に分家についてを一言で説明するなら、数字が若ければ若いほど持つ権力が強い。
もうひとつ言うと、本来の分家は十までであり、桁が増えるとその更に分家のような扱いになるのだ。
これは家持ちの限られた世界のみの暗黙の了解で、家制度から外された多くの者達は知らない――知る必要のない――ことなのだけれども。
「い、ま……お持ち、いたします」
頭を下げ黒いロングスカートを翻すその後ろ姿を眺めて亘乎は、逃げるだろうかと、ふと考えた。
自らが限恵の立場で、何か不都合がありながら抗する手段がなく、かといって迂闊に動いて不興をかうわけにもいかない、そんな状況に置かれたらば逃げるのもアリだと。
ただ、逃げたところで事態が好転するわけでもない。
邸ごと燃やしてしまうのもあるかと物騒なことを考えながら、亘乎は一歩足を踏み出した。
開け放った玄関扉に背を預けて、前庭を何の気なしに眺める。
庭師の手が入らないそこは自然に任せたより遥かに乱雑で、荒れていた。
ライコウ殿と呟くように呼び掛けて、皮肉るように唇を歪める。
「許可は取ったのですか」
「はン。どうせ慣習通りに預かることになるんだ。早いか遅いかだけの違いだろう」
「つまり無許可だと」
わざとらしく深々とした溜め息をつく亘乎に頼劾は、煩え、とひとこと返しただけだった。
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