第十話
全速力で戻ったとはいえ、人間の足と車では掛かる時間は半分以下だ。
固まる矢途の頭を軽く
矢途の実家も村の外れに位置していたのだけれども、ここもまた中心からは離れているのだから外れと言えるだろう。
むしろ、矢途の実家よりも更に離れているかも分からない。
あまり手が入っていないのかうらぶれて見えるそこは、木造の小屋だった。
何故こんな場所へ矢途はやって来たというのか――そう頭へ一瞬過ぎらせた亘乎も、それこそ旧知己でもあったのだろうと片付けた。
言ってしまえば矢途の理由などはどうでも良く、
ただ、どうにも不運な男だとは思う。
「それで、ここは何だ」
頼劾の言葉に、矢途は撲られた頭を摩る手を慌てて下ろす。
「は。ヒラアキという名の男が住んでいる、らしいのですが。村の人間が、自分の制服に気付くなり様子を見てきて貰えないかと言うもので……それで」
「ナルホド。理由は訊きましたか」
エンジンの音にも、ドアを閉める音にも、小屋の中からは何も反応がなかった。
物音ひとつしないそこの様子を眺め、そうしてからわずかだけ声を落として言葉を交わす。
亘乎の問い掛けに、矢途はその生真面目そうな顔つきを情けなく歪めた。
「いえ、ただ、心配より幾らも、気味悪がるのが上回っているようには見えました」
村人から声を掛けられた矢途は、初め、この辺りを担う邏卒ではないのだと答えた。
けれどもとにかく様子を見るだけで良いからと押し切られ、ひとりその小屋へと向かったのだ。
何より自らがあの家の子であると気付かれなかったらしいことに安堵しながら、幼い頃の記憶を辿って道を行く。
どんな人物がいただろうと思い返してみるけれども、どうにも覚束なかった。
仕方がないかと――それどころではなかったのだと
村人の言に従って辿り着いた建物は、正直なことを言えば
今にも崩れそうとまではさすがに言わないけれども、そも、建てた当初は住居にする予定ではなかったと思われる造形をしているのだ。
恐らくは納屋か何かだろう。
これは越権行為なのではなかろうかと、矢途は今更ながらに思った。
自らが押しに弱いことは重々承知で、それを押し切られてしまったのだから落ち度以外の何物でもない。
かといって縋るように見るあの眼を無視出来たかといえば、それも否。
結局は、精精が村人の思い過ごしであるように祈ることくらいしか矢途には出来なかった。
「もし。誰かいないか」
蹴りでも入れたらばすぐに穴が開きそうな、飾り気のない木製の扉を叩く。
木木に囀る鳥の声はすれどそれよりも大きな音はなく、じっと耳をそばだててみればそれで漸く、中で何かが軋むのが聞こえた気がした。
とはいえ、気のせいだともし誰かに言われたらば納得してしまう程度のものだ。
少し待ってからもう一度扉を叩いたけれども、何の反応もなかった。
本当に留守にしているのかも分からないし、居留守かも分からない。
さてこれはどうしたものかと口の中で呟いた矢途は、ともかくも一度ぐるりを見てみようと手を下ろした。
下生えは未だ青い。
踏み付けても靴底を押し返す感触をどことなく擽ったく思いながら、回り込んだ小屋の右手は、少しも整えられている様子がなかった。
本当にこの建物に人があろうか――そう疑問に思うけれども、雨風をしのぐことが出来るのだから家無しよりはまだまだ良い生活をしていると言えるのだろう。
ぴたりと閉じられた窓が見え、矢途は小屋の外壁を這うようにして慎重に足を進めていく。
そこからでも窺える小屋の奥には作業机があり、その右に戸がついた棚が並んでいるのが分かる。
机の上にあるのは標本箱だろうか、それならば脇の棚には標本箱が収められているのだろうと矢途は当たりをつけた。
窓という額の中で、わずかずつずれていく室内という絵。
机の左にあるのが戸だと理解した矢途はそこで、息を潜めると同時に足を止めた。
――今、何か。
耳のすぐ裏を血潮が強く叩いている。
何か、何かが――名状しがたい何かが、視界に入りはしなかったか。
そう脳味噌の四方八方からささめきが聞こえるようだと、矢途は思った。
処理しきれない言葉と絵が湧き上がり、混じり合い、ただ混沌を成す。
虫だ。
黄色く透き通った羽の、虫。
あれは、蝶ではなかろうか。
そうか、蝶だ。
蝶だった。
巨大な。
人間の、女の顔をした。
蝶。
「死んだわけじゃなかったのか」
頼劾の言葉にぎょっとしたのは勿論矢途だけで、亘乎はといえば指先でモノクルのチェーンをなぞってから、否、と呟いた。
相変わらずの無表情で、そして相変わらずどことなく苛々としているようだと矢途は思う。
「あれは人を殺すものではない。結果、耐えきれずに死ぬ者が殆どであるというだけで。分かっているでしょう」
「ああ」
何の話をしているのか理解出来ない矢途は、出来ればこのまま理解出来ずに、いっそ先程見たものを含めなかったことにならないかと切に願っていた。
けれども、頼劾と亘乎がそれを許してくれるはずもない。
詛い関係ならば直に接することにはならないだろうけれども、結局使い走りか何かにされるのだ。
なるたけ後ろに下がって、なるたけ気配を殺すしか出来ることはない。
「鍵は」
「蹴破りゃ良い」
「れ、令状がありません」
元来の生真面目さ故に堪らず割り込んだ矢途を、頼劾が振り返らないままに鼻で笑った。
馬鹿にしているのは、青年自身をではなく体制そのものを、だけれども、本人に伝わっていないだろうことは頼劾とて承知の上で、教えてやる気もさらさらない。
はぁ、と溜め息を吐いたのは誰だったか。
苛立ちよりも正義感から来る困惑に眉根を寄せる矢途へ声を掛けたのは、頼劾ではなく亘乎だった。
「軍による横暴は今に始まったことではない。諦めなさい、矢途さん」
「で、ですが」
「ライコウ殿が踏み込むのです。貴方は事情を知らず命令に従った。良いですね」
モノクル越しの三白眼に、じっと見据えられる。
人を悪人のように言いやがってと白髪の混じる髪をぐしゃりと乱した頼劾だったけれども、それ以外は何も言わなかった。
つまり亘乎の言葉を肯定しているのだ。
そうなると最早、矢途には拒否する術なぞはない。
「行くぞ」
その声に対する返事は先の言葉通り、戸を蹴破る音に掻き消されたのだった。
誰も、声を発しなかった。
亘乎も、頼劾も、矢途も――木の椅子に座り膝を抱える男も、食卓の上に
ゆらゆらと、男が身体を前後に揺らすのに合わせて、椅子から軋む音がする。
弾けるようにして小屋を飛び出した矢途は、どうやら堪えきれずに戻したようだった。
頼劾のみならず、亘乎も口と鼻を押さえて顔を顰めるけれども、大した意味を成さない。
それは
食卓を台にして、黄色く透けた、黒い線と赤い斑点がある翅を広げた蝶。
けれどもそれは虫にしてはあまりに大きく、女を平均した背丈と並ぶほどの体長があった。
そして、虫の頭の代わりに女の生首が据えてある――ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家当主、蛹圭の首が。
ぎっ、ぎっ、と椅子が軋んでいる。
食卓へ置かれた首の濁った眼をじっと見つめたまま、男は絶えず身体を前後に揺らす。
一体いつからそうしていたのか、その手も白かっただろうシャツも赤茶けて乾き、ひび割れているらしかった。
床は未だ濡れ、けれども酸化しているせいで生の名残は見られない。
それは血だった。
腹を掻っ捌かれた蝶から、滴り落ちる血。
閉め切られた小屋の中には、それのにおいが濃厚に充満している。
亘乎は、頼劾を置いて足を踏み出した。
ぬち、と粘り気のある音が足の裏から届いて、今度は靴を新調しなければならないかも分からないと関係のないことを考える。
椅子の上で揺れる男は相変わらず首を見つめていて、頼劾は亘乎の様子をとりあえずと見守る心積もりであるらしかった。
椅子の横に立ち、男を見下ろす。
得心がいったとばかりに頷いた亘乎は、上体を屈めて男の耳元へ、その血色が悪く薄い唇を寄せる。
「ヒラアキというのは誰かと思いましたが……やはり貴方でしたか」
椅子が、軋むのをやめた。
音の消えた小屋の中に届くのは外で矢途がえずく声のみで、それが余計に吐き気を催させる。
「貴方は確か、セイ、と呼ばれていましたね……蛹圭嬢に」
「よう、か…おじょ、う、さま」
赤茶けた親指の爪を、周囲の皮膚ごと噛み締める。
皮を引き千切るように離した男の手に新鮮な赤が滲んで、ああこれは蛹圭嬢の血だけではなかったのかと、亘乎は思った。
「おじょう様、お嬢さま、見えますか、これ、これが、おれが話した、うすばきあげは、です。はや、はやく、ひょう本に、しなきゃ、でも、あかい、の、あふれて、ちょうちょ、あか、なんで、これ、くびが、あの、おんな、きいろ、い、お嬢様の首、ちょうちょに、いやだ、き、きった、ちが、う、きった、きったおれがきったおれがお、おれ、おれがお嬢様のく、く首」
あああ、と唸りながら男が――ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家の使用人セイであった男が、また身体を揺らし始める。
ぎっ、ぎっ、と軋む椅子の音を聞きながら、亘乎は身体を起こした。
「ライコウ殿」
「……なんだ」
「彼は、もう、駄目でしょう」
深々と溜め息をついた頼劾が、小屋を出て行く。
いつまで吐いてるつもりだと矢途を叱り飛ばす声を聞き流しながら亘乎は、切り落とされた首の目蓋を閉じてやった。
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