第九話

「これが、その」


 早く受け取ってくれとばかりに自らへ額を差し出す矢途を心の内で面白く思いながら、亘乎はその手から額を受け取った。

 余程嫌であるらしい――否、恐ろしいのか。

 伏せられたそれを感慨なく眺めては、表へ返す。


 中に納められた豆色紙に描かれているのは、引き眉の女だ。

 然程の濃淡はなく、けれども幾らか色を入れられた女。


 落款らっかんなどを見ずとも亘乎は、その筆致にうんざりするほど覚えがあった。

 筆の入り方や抜け方、墨の濃さと掠れ具合。

 何をとっても癖が出ている。


 ――予想はしていたが。


 イタルヤよりも遥かに緑が香る空気を静かに吸い込んで、亘乎は意識を切り替えた。

 そも、玄鳥作品はこの内つ国に、少なくない数が出回っているのだ。

 それら全てを気にしていてはキリがない。

 一体その内に幾つ、を込めて描かれたものがあるか――そして、矢途の母親の宝物がどうであるのか。

 今はそれだけが問題なのだから。


 件の御母堂は源氏物語を好んでいたらしい。

 改めて見下ろした豆色紙の女は確かに、前史、更にいえば平安期を思わせる。

 さて、とじっとそれを観察する亘乎の手元を、頼劾が覗き込んだ。


「誰だ、それは」

「さあ」


 色紙へ視線を落としたままで、気のない返事をする。

 そうでありながら、やはり亘乎には何を題材にしているのか心当たりがあった。

 絵を見て確信したというよりも、状況を鑑みての予感であるのだけれども。


 再び額を裏返す。

 そうしてから、手持ち無沙汰に立ち尽くす矢途を見遣った。


「矢途さん、取り出しても」

「お好きに。何なら差し上げますから。あの、自分は少し」


 この場を離れたいと分かり易く顔に書いてある矢途に、頼劾がひらりと手を振る。

 短い眉を安堵に緩めて、葡萄色の青年は村の中心部へと速歩はやあしで遠ざかった。

 そう経たない内に、視界の端にも葡萄色が見えなくなる。

 旧知己きゅうちきでもあるのかと亘乎は考えてみたけれども、事件があってこの村から他へ移ったというのだから、何よりもとにかくこの場を離れたかったのだろうと思い直した。


 金具トンボをずらし、裏板を外す。

保護と厚みを調整する為に入れられていただろう紙を取って裏板と共に頼劾へ押し付けると、ぴたりと嵌められた台紙から豆色紙だけを取り出した。

 そうしてから色紙以外もまた、頼劾へと押し付ける。

 頼劾は煩わしさを隠すことなく車のシートへと雑に放った。

 硝子板が悲鳴を上げたけれども、割れたような音ではない。

 そうであるが故に、二人が気にすることはなかった。


「ところでライコウ殿。物語の中で、源氏の君と枕を交わしたのは幾人かご存知で」

「知らんが、多くとだろう」

「ええ、詳細が描かれずとも、そうであろうと思われる描き方をしてあるところは多い。では、有名どころといえば、誰を思い浮かべます」

「そりゃあお前……知らん」


 表へ返し、また裏へ返し、豆色紙を詳しく検していた亘乎は、顔を上げるなりその無表情でやれやれと溜め息をつく。

 頼劾は余計に眉間の皺を深めたけれども、かといって開き直って文句を言うほど狭量でもなかった。

 その反応はどうかと思っても、自らがそういったものに疎いのは確かだからだ。

 やはりその反応は、どうかと思うけれども。


「源氏の君は多くと契りました。しかし、その根底にはひとりの女性があった。それが義理の母である藤壺の宮です。源氏の君、そして源氏物語におけるともいえる彼女を、源氏の君は生涯思慕し続けた」


 そこで言葉を切った亘乎は、これか、と呟くなり色紙の横側に爪を滑らせて金色の縁へ切れ目を入れた。

 そうしてから、表と裏の二枚にやおら剥がしていく。


「二番目の正妻であった女三宮おんなさんのみやは、藤壺の宮の姪であったからこそめとられたといって相違ない。そして何より、藤壺の宮の姪であり彼女に瓜二つであった紫の上を、源氏の君は最愛として理想の女性へと育て上げたのです」


 表と裏、その間。

 芯として入れられた厚めの、なんてことはない紙がそこにはあるだった。


「表へ描かれているのは、女性が喜んで飾っていたというのなら、藤壺の宮か紫の上といったところか。を物語に関連付けるのならば紫の上でしょうが……しかし彼女らは玄鳥にとって、さして重要ではない」


 ぐう、と頼劾が低く唸る。

 内側にあったのは、鬼女の絵だった。

 角の生えた、白い肌の鬼女が詛はうけわしげに眼前を――表に描かれた女を見据えている。


「これは、般若か」

「面として捉えて正確に言うならば、白般若と呼ばれるものですよ。能、葵上では六条御息所ろくじょうのみやすんどころを表します。一説には、葵の上を祟った六条御息所の生霊を、僧が般若経で退けたところからその名が来ているとか」


 慎重に剥がしはしたけれども、全面を糊付けされていたわけではない。

 そも、しっかりと接着する心積もりがないらしかった。

 何某が気付いて剥がしてみるなどとは思わなかったか、もしくはそれと反対に、こうして暴かれることまでを想定しいるのかも分からない。


「それで」

「六条御息所は源氏の君の妾だった。美しさも地位も教養も何もかもを兼ね備えた気位の高い女性で、けれどもそれ故に源氏の君は彼女を持て余し、彼女自身もまた苦しみました。その苦しみのあまり正妻である葵の上を生霊となって祟り、葵の上は最終的に、黄泉路を行くこととなったのです。自らが葵の上を祟ったのだと気付いた御息所は、苦悩の末に源氏の君から離れたけれども、死した後には紫の上と女三宮を祟りました」

「つまり、何なんだ」

「六条御息所が様様なものの題材にされてきたのは、彼女を皆が愛しんだからなのですよ。鬼女となっても損なわれぬ品位と、何より、執念じみておどろおどろしくとも哀しくいじらしい、その嫉妬を」


 いつもならば口角のひとつでも上がっていそうな場面で、しかし、亘乎は無表情のままで口を噤んだ。

 それはやはり手の中にあるのが、玄鳥の作品であるからに違いなかった。


 ――ただの作品であるならば、まだ良かったものを。


 亘乎は何も言わないまま、つと視線を宙へと持ち上げた。

 その先で、ぽかりとひとつだけ浮いた雲が、上空の風に煽られて形を変える。

 そうして数秒黙り込んでから、漸く口を開いた。


「玄鳥は、矢途青年の御母堂が人として当たり前に持ち得た嫉妬心を、人を殺し得るまでに育て上げた。この絵を……右楠の言葉を借りるなら、緩効性の肥料を、使って」


 嫌に無感情な呟きを漏らす亘乎のその黒い眼が、頼劾にはただの虚に見える。

 そんな眼は久し振りだと、そう考えていた。




「す、すぐに、来て貰えませんか」


 几帳面に分けた髪を乱しながら葡萄色の青年が二人の元へ戻ったのは、数十分も経たない内のことだった。

 亘乎の手の中にあった玄鳥作品は、何事もなかったかのようにまた額へと収められている。

 とはいえ、矢途にはそれがどうなったのか気にする余裕はないようだし、更にいうなら頭の中から完全に抜けているのかも知れなかった。


 何があったのかと頼劾が問うても、とにかくと急かすばかりで話にならない。

 仕方なしに、慌てふためく矢途を助手席へ押し込んだ頼劾は、後部座席へ亘乎が座ったのを確認してから車を走らせた。

 自らが運転を買って出たのは他でもない、この状態で運転させて事故でも起こされたらば目も当てられないという、それのみだ。


 大凡の場所を聞き出しそこへ向かいながら、一瞬だけ視線を向ける。

 亘乎も、後部座席から青年の後頭部を眺めた。

 全速力で戻ったという理由からか、それとも心理的なものも作用してか、未だ肩が上下している。


「おい矢途、何だ、何があった」

「お、おん、な、の」


 矢途は、そこまで告げたかと思えばぷつりと言葉を切った。

 否、切ったというよりも、切れてしまったという方が正しいのだろう。

 徐に平静を取り返していく呼吸の中に、あ、だの、う、だのと声が混じる。

 いつまで経っても続かない矢途を、亘乎の三白眼がじっと見据えた。


「落ち着きなさい、矢途さん。恐れに喰われては、身動きが取れなくなる」

「詛い、屋」

「それに、仮令たとい貴方が見たものがであろうと、私達は否定しない」


 ルームミラー越しに、亘乎は矢途と目を合わせる。

 その眼を矢途は最初に出くわしたとき、闇のように思っていた。

 モノクル越しの少しだけ色が薄いそれをしても変わらず全てを飲み込む闇であり、虚であるのだと。

 けれどもそれは違う、あれは様様な色を集めて押し固めたものなのだと、最近になって思うようになった。


 俯いて、最後にひとつ深呼吸をする。

 そうしてから、顔を上げた。


「女の、顔をした……何か、化物の、ようなもの、を、見ました」

「なんだと」


 頼劾が低く唸る。

 冷静になってみればよりもっと遥かに、運転席へ座る人物の方が恐ろしいのではないだろうかと、矢途はふと思う。

 なにせ少なくとも現時点ではに何かされたわけではないのだから。

 けれども、こんなことを考えているなど絶対に知られてはいけないとも、同時に思った。


「矢途さん」

「はい」

「もしや……その化物のようなものというのは、蝶ではありませんか」

「え」


 下らないことを考えていた矢途は、亘乎の声にはっとして視線を上げる。

 ルームミラー越しの黒に射抜かれ、はくはくと音もなく喘ぐ。


「やはり、そうか」


 ああまた何かに巻き込まれているのだと、矢途は今更ながらに実感していたのだった。

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