第八話
何故自分はこんなことに駆り出されているのだろうかと、邏卒である青年矢途は努めて平静を装いながらも考えていた。
今握っているのは、警棒でも犯人の手首に繋がった紐でもなく、車のハンドルである。
その車は普段、自らが見回りのときに使う
そうであれば何の問題もなかったけれども――残念ながらと言ってよいのか、詛兇班に宛てがわれている四輪駆動だ。
出勤するなり上司に呼び出されたかと思えば、詛兇班に顔を出せという。
あの赤の事件があってから、嫌にこういうことが増えた。
お陰で同僚に矢途は、邏卒と詛兇班と、半半で籍を置いていると思われている。
矢途本人とすればなるたけ詛兇班と――何よりも詛いと――関わり合いになりたくないと思っているにも関わらず、悲しいかな、ただの一兵卒でしかなく、上司からの指示とあれば従うほかなかった。
今日は何の用事かときりきりと痛む胃を押さえつつ、
辿り着いた先にいたのは、最近になって漸く慣れてきた詛兇班副班長ではなく、班長である頼劾と、詛い屋である亘乎の姿であった。
あの白い少女でもいればまだましではないだろうかと思ったけれども、それもさして彼女と顔を合わせた経験がないが故に出て来た考えであることを、矢途は知らない。
「矢途、お前カズラの生まれらしいな」
「は、い」
挨拶をする間も与えられず向けられた頼劾の
唐突に一体何の話か、と首をひねる。
「玄鳥という名の爺に、矢途さん貴方、会ったことはありませんか」
その様子を眺めながら言葉を継いだのは、亘乎だった。
相変わらず刀のような男だと思ったけれども、しかし、何かが違うと本能が悟ったことにも気付いた。
どことなく、苛ついているように見える。
この勘は、矢途本人にとっては普通のことだ。
けれども他の人間からしたらば、野生並みと言われてもおかしくないほどの勘だった。
「はぁ、げんちょう……ですか。げんちょう……」
問い掛けの内容を咀嚼して、精悍な眼を飼い主の機嫌を窺う犬のように丸くする。
そんなことをしてみたところで、やはり理由が見えない。
けれども漸く、その名に覚えがあることに気付いた。
「もしや、玄鳥。玄鳥翁、ですか、あの
「ええ、まぁ」
無表情ながらに言葉を濁す亘乎にまた首をひねりつつ、矢途は思い返す。
まずカズラ生まれかと訊ねられたのだから、間違いなく、自らの
とはいえ、自らがカズラにいたのは両親を喪うまでの話であって、正直、記憶は定かでない。
日本画の大家、玄鳥。
この旧日本国が旧でなかった頃のそのまた昔に作られた古い物語などを、その頃の様式に従って復元、再現している画家の名だ。
芸術の世界に興味がなくともその名を知らぬ者はないと言われるほどで、勿論、矢途も聞いたことがある。
良からぬ噂もあるらしいけれども、噂があるらしいという事実のみが耳に入っているのみで、そこに関しての知識は有していなかった。
そんな有名な人物と、面識があるかなどと――
「あ」
「おや、ありましたか」
「いや……」
じっと向けられる二対の眼にどことなく極りが悪いような心地になりながら、矢途はついと視線を外した。
脳裡に思い出されたのは、玄鳥本人の話でない。
であるがために、これが今必要な話なのかいまいち判断が付かなかった。
とはいえそんな様子に気付いた頼劾が、何でも良いから思い出したことがあるなら吐け、と低く唸る声で脅すように言うものだから、萎縮気味にその短い眉を下げつつ口を開くことになったのだけれども。
「自分は、会った覚えはない……ように思います。ただ、父が……否、母だったか分かりませんが。あれは、何だったか……とにかく何かの見返りにだったと思うのですが、小さな絵を貰って、それを居間かどこかに、飾っていた覚えがあります。母のそのあまりの喜びようが印象に残って……母は源氏物語が好きだったと聞いたことがありますので、恐らくそういう類のものではないかと。ただ、それが玄鳥翁のものかは」
分かりませんと首を振る矢途を、二対の眼がじっと見つめた。
すぐにその視線は外れたけれども、それからやや暫く沈黙が続く。
――一体、何だと言うんだ。
腹の中でぼやく矢途に、誰が助け舟を出してくれるわけでもない。
もう帰ってよいだろうかと考え始めた頃になって、ようやく亘乎が動いた。
「その絵は今どこに」
どことなく固い声だ――そう、矢途には感じられた。
これは巻き込まれるぞ、と嫌な予感しかしない。
嫌な予感がしているというのに、それを回避する術など持ち合わせていないのだから、この世は非情だとつくづく考える。
ますます胃が痛むのを感じながら矢途は、微かな記憶を頼りに口を動かした。
「恐らく実家に置き去りのままかと」
「見られますか」
間髪入れず返された問い掛けに、思わず喉の奥で唸る。
両親の事件の後、あの家は矢途が成人するまではと父方の叔母夫婦が管理をしてくれていた。
兄を喪った家であるし、そも詛呪事件の現場なんてものとはあまり関わり合いになりたくなかったようで、渋渋と、という冠が必要であるけれども。
それ故にか、矢途が邏卒になった途端に最早不必要であろうと夫婦はその役を辞した。
今までの謝礼代わりに仕送りという形で毎月幾らか送っていることは、今は関係のないことだろう。
「はぁ、構いませんが」
「よし、決まりだ。今から行くぞ」
「は」
「一日借りると言ってある。気にするな」
そういう問題ではないと声を上げられるのなら、誰も苦労などはしない。
矢途は、返事を聞くつもりさえないとばかりに歩き出す二人の男の背中を慌てて追い掛けることしか出来なかった。
そうして、気付いたときには運転席に座って車を走らせることになっていたのだ。
こういう言い方は良くないと思いながらも、矢途は車内がこの世の地獄のように感じられていた。
誰でも良いから話し始めてくれないだろうかと思っても、次の瞬間には、雄弁に語り始める頼劾や亘乎など、それはそれで恐ろしいものではないかと気付く。
このままではいつか胃に穴が開いてしまう。
戻ったらば胃薬を飲もうと、矢途は心の内で考えた。
時間にして
矢途にとっての禍々しい記憶の古巣は、
探してきますと急いで車を降りる姿を見送った頼劾と亘乎は、もう少し感情を制御する術を身に着けるべきだ、と声にしていないにも関わらず二人共が同じようなことを考える。
いささか勝手な話ではあるけれども。
車から降りて、凝り固まった筋を伸ばしながらざっと辺りを窺う。
矢途の実家はカズラ――トバリの南へ隣接する地区にあるとは聞いたけれども、ここだとは思っていなかった。
「どう思う」
頼劾の問い掛けに、亘乎は左手にはめた手袋を直しながら、さて、と呟いた。
道の先を眺める――その先には、大きな湖があるのだという。
湖を挟んだ向こう側へ暫く行った先にはもうひとつ小さな湖があって、けれどもその周辺は立ち入ることが出来ない。
何故ならそこは私有地だからだ。
ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家――その当主、蛹圭のものであるから、何か特別なことでもない限りは地元の人間はむしろ近付きもしないらしかった。
「あれが暫くこの辺りにいたというなら、可能性もなくはない」
「つまり、そりゃあ」
「他にばら撒かれていることも考えるべきだろうな」
糞が、と頼劾が低く唸る。
態度にも言葉にもしない亘乎も、肚では同じようなことを考えていた。
矢途の実家の内部は、少し埃をかぶっている程度で荒れた様子はない。
この建物がもしトバリに建っていたらば、存分に荒らされていたことだろう。
けれどもここはカズラで、しかも中心部より大分離れた村だ。
何が起きた場所か近隣の人間は知っているし、余所者は目立つから入り込みづらい。
父親は月の殆どを、トバリで過ごしていた。
月に一度か二度ほど、土産を持ってこの家に帰ってくる。
夫婦仲は悪くなかったはずだ。
大人が思うほど子供は鈍くなく、むしろ不仲などは敏感に悟ってみせる。
「お父さまのような人になるのよ……か」
母親の言葉が不意に蘇って、苦く笑った。
むしろ、仲が良すぎたせいでああなったのか――諦めにも似た気持ちで頭を振ると、置き去りにされた棚の上に視線を向ける。そこに、小さな額が落ちていた。
拾い上げたその中に納められているのは、豆色紙だ。
女性の手のひらに載る程度の大きさで、そんな小さな色紙の中へ、女が描かれている。
十二単というやつだ。
伏せて落ちていたせいか、多少
そう矢途は独りごちた。
そうしてから、じっと見つめる――嗚呼、これが母の宝物であった、と。
不意に、墨で浮かび上がる女の姿が、妙に恐ろしいものに見えた。
じわりじわりと網膜に染み込んで、そして視神経を通って脳髄を犯していく、そんな錯覚に襲われる。
「ひっ」
耐えきれなくなった矢途は、思い切り視線を外して駆け出した。
それでもその額を手放さなかったのは、意地だ。
埃が舞って喉や目やと色色刺激される。
けれども、そんなことはどうでも良かった。
それどころではない。
ひとことで表すのならば、間違いなくそれだろう。
疑えば目に鬼を見る。
暫く来ていなかったとはいえ、幼い頃に住み慣れたはずの家だ。
それなのに、何もかもが見知らぬ景色に思えてくる。
一瞬の影が
「何だ矢途、随分景気よく飛びだして来たな」
厳しい顔をしながら、どこか茶化すように言う頼劾と、動じているのかいないのか、モノクルを押さえる亘乎。
その二人が視界に入るなり思わずへたり込んだ矢途は、どちらが地獄であったのかと意味のないことを考えていた。
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