第七話

「着物の確認はして貰ったのだったね。確かに中央分家の深窓の女主人ミストレスのものだと使用人が言ったとか」

「名前で言え、その方が早い」

「アハハ、いやだなライコウ殿、センセイと同じようなことを言わないでおくれよ」


 むっつりと口を噤んだ頼劾に左椋はまた、アハハと笑って視線を外した。

 茶化しはしても、左椋の興味は頼劾にない。

 解剖台の上に並んだ骨以上に、彼を惹き付けるものなどあるはずがないのだ。


「やはりね、頭蓋骨がないとなかなかに難しいものはあるのだけれど、かといってこの僕をして何も分からないなんてことは有り得ない。ここは手ずから色色と解説をして差し上げたいところなのだけれど……まぁ、ライコウ殿の眉間の皺が余計深くなり愚妹はセンセイに涎を垂らして喰い付かんばかり、そうなったら止めなかった僕がセンセイとシューニャに嫌われてしまうからね、簡潔にいこうじゃあないか」


 その前置きが既に簡潔ではないのだけれども、それを指摘するものはやはり、残念ながらこの場にはない。

 行くよと順番に視線を滑らせた左椋は、薄いゴム手袋に包まれた指で上腕骨をつとなぞってから口を開いた。


「性別は女性、年齢は恥骨や骨頭こっとうの結合具合から見て二十代だね。骨端線こつたんせん……ああまぁとにかく、それがまだ残っているし二十二、三かな。死の前後共に目立った損傷はなし、過去に骨折したような痕跡もないみたいだね。この状態だけで個人と死因の特定はさすがの僕にも不可能だよ。身長は百六十センチメートル前後。ただ彼女は骨粗鬆症で、背骨が幾つか潰れているから、見た目はそこまでなかったかも分からないね。この若さでこれとなると、何らかの病気を患っていた可能性が極めて高い。例のひとつを挙げるなら、そうだな、長期のステロイド治療が必要になるようなものだったりね」


 橈骨とうこつ――前腕の親指側にある骨だ――を人差し指でノックする。

 があまり詰まっていない、どことなく軽い音が微かに全員の耳へと届いた。


「ゆなちゃん的に言うとですねぇ、濃くて濃くて濃い濃い濃ぉい詛いのにおいがするから、直接的な死因はやっぱり詛いじゃないかなぁって思いますですよぉ。あとでお面を確認して貰いますですけど、特にゆなちゃん好みの美味しそうなにおいがするから、センセぇの作品で間違いないかなぁ。あ、でもでもでもぉ、なぁんか、いやぁなにおいもするんですよねぇ」


 喧しかった双子の声が途切れ、シューニャ以外の眼が、亘乎へと向けられる。

 モノクル越しの三白眼をゆったりと瞬いて、そうしてからわずかに伏せた。

 いやなにおい――思い返してみても、亘乎には心当たりがない。

 けれどもひとつ、可能性があるとするならば。

 何でもない顔をしながら、亘乎は奥歯を噛み締めた。


 これが例えばあの邸で蛹圭と話をしている場面なら、彼女は亘乎の表情の変化に少しも気付くことはなかっただろう。

 けれどもここは双子の城であり、取り囲むのは気心の知れた者達なのだ。

 無表情に慣れきった彼らであれば、ほんのわずかな差異ですら見逃すはずもない。


「センセぇ、もしかしてもしかしてもしかしてもしかしなくても、このにおいの正体、心当たりがあるんですかねぇ」


 右楠の無邪気な声が、亘乎にとっては今は嫌に耳に逆らうようだった。

 細く細く息をつき、静かに瞑目する亘乎を、三対の眼が見つめている。

 隣へ立っていたシューニャが不意に、温もりを求める猫のように寄り添った。

 手袋をしていない右手でその頭を撫でてやれば、シューニャはそれで一先ず満足したようだったけれども、それでも側を離れることはない。


「勘で言いたくはないが」


 はっきりとした溜め息と共に、血色の悪い、薄い唇が動く。

 開かれた鋭利な三白眼は、一度だけ面が封じられている箱を見つめて、そうしてから正面に立つ双子を見た。

 さしもの双子もじっと口を噤む。


「玄鳥が、関わっているかも分からない」

「は」

「なんだと」


 短く声を漏らした男二人は、その頭の中で玄鳥という名を巡らせた。

 幾らそうしてみたところで浮かぶのは、世間で言われる評価よりもとしての記憶だ。

 頼劾の眉間の皺は深くなり、左椋ですら眉を寄せる。

 それだけのものが、玄鳥という人間にはあった。


 そんな中で、口を開いたのは右楠だ。

 曰くのを感じた時点で、当たりをつけていたのかも分からない。


「えぇっとぉ、玄鳥といえばやっぱり、あの玄鳥なのですよねぇ。そうなのですよねぇ。あの日本画やまとえ大家たいかと名高い玄鳥翁。そしてそしてそしてそしてそしてぇ、センセぇの」


 緑を揺らして首を傾げ、お喋りな右楠がそこで言葉を切った。

 この部屋にいる誰もが、その先へ続くのが何であるのかを承知している。

 そしてそれと同時に、口に出した瞬間、亘乎の怒りを買うことも。

 ひとり理解をしていないはずのシューニャですら、身じろぎすることをやめた。


 じい、と蛍光灯が鳴いている。

 それ以外に微かに届くのは、遺体貯蔵庫の温度を保つ為に絶えず働き続ける機械音だ。


「……それで、どうしてあのジジイが出て来る」


 頬の古傷を擦りながら、頼劾が低く吐き出した。

 朝から向けられていた棘がわずかだけ丸くなったのは、苛立ちの矛先が亘乎とシューニャから逸らされたからだ。

 頼劾のはらを一言で表すとするならば、玄鳥が関わっていて厄介なことにならないはずがない、それに尽きる。


「蛹圭嬢の、父御ちちごの知り合いだったそうだ。幼い頃から遊んで貰っていたと……十七年ほど前に初めて会ったのだと聞いた」

「十七年前か」

「ああ、外つ国と小競り合いをしていた頃かと訊ねたが、お付きの女が確かそう言っていたと答えた。それが幼い頃の記憶なのか、最近になって聞いたのかは分からないが」


 重苦しく息を吐き出したのは、頼劾だった。

 その頃となると、シューニャは未だ生まれていないし、双子の記憶はなく、そも出会ってもいない。

 故に頼劾の溜め息の理由を理解しているのは、それを漏らした本人と亘乎だけだ。


「あの爺、行方をくらませて、何をしていやがった」

「は。そんなこと、おれが聞きたい」


 いつもの無表情と紳士然とした言葉を崩した亘乎に、それでもシューニャは寄り添った。

 尤もそれは、残念ながらというべきか、亘乎の心を軽くすることはなかったのだけれども。




 元よりあまり喋らないシューニャだけでなく、やかましい双子ですら口を開かない。

 けれども、不意にぱちんと、間の抜けた音が室内に響いた。

 頼劾と亘乎、二人の男を思惟しゆいから引き上げたそれは、右楠が合わせた手のひらから発せられたものだ。

 片割れである左椋が目を瞬いて、曰くの愛しの愚妹へ目を向ける。

 普段であれば反応しそうなそれに右楠は目をくれるでもなく、じっと二人の男を睨んだ。


「とにかく、なのですよぉ。今は彼の玄鳥翁がいかに世間一般が持っている印象からかけ離れているかとか、センセぇとライコウはんちょぉとその頃何があって、それで何を思っているのとか、そんなことは、なんにもなんにもなんにもなんにもなぁんにも、関係ありません。の女性を前にお二人様、失礼だと思いますですよぉ、ねぇシューにゃんもそう思うでしょ」

「にゃん……」

「ほらほらほらほらぁ、シューにゃんもこう言ってますですよぉ。いい歳した大人がそれでよいのですかぁ、いや、よいはずがないのであるっ、ですよぉ」


 呼び名に引っ掛かっているシューニャを無理矢理仲間へ引き入れて、右楠はむっと頬を膨らませる。

 二十代も半ばを過ぎた女のやることではないけれども、中身も外見もそれよりずっと幼い右楠がすると違和感はない。

 右楠もそれを承知でやっているのだから、いささか質が悪いと、そう思われても仕方がない話だ。


「ゆなちゃんの見立てだと、確かにいやぁーなにおいはしますですけどぉ、それが今回の直接の死因かって訊かれたら、ちょぉっと違うと思いますですよぉ。あくまでお面の詛いが兇器であって、そのいやなにおいは、うーん、うーんとぉ、遅効性……とは多分多分違うからぁ、そうじゃなくてぇ、あ、そうそう、緩効性かんこうせいの肥料って感じというかぁ」

「つまり、劇的なものじゃなく、長く緩やかに作用し続けていたいうことか」

「そうでありますっ、はんちょぉ」


 兵隊ごっこをして遊ぶ子供のように敬礼をした右楠の、傷んだ緑が揺れる。

 亘乎はただそれを眺めていた。

 脇では頼劾と双子がなんだかんだと言葉を交わして、それに何故だかシューニャも巻き込まれたりしている。

 けれども亘乎は、それに耳を傾けることもなく、目を向けることもない。


 ――それはつまり、否、しかし。


 脳味噌の中で思考が交錯して、肚の中ではそれらを拒絶しようと何かが呻いている。

 形作られるひとつの可能性に、吐き気を催した。

 考えれば考えるほどに、としか思えなくなってくる――そう歯噛みする。


 いつの間にか、声は止んでいた。

 少しの時間差があってそのことに漸く気付いた亘乎は、モノクルから下がったチェーンを指でなぞって、そうしてからまた口を開く。


「恐らくと、保険をかける心積もりもない。面は、私が作ったものだろう。そしてその骨は、蛹圭嬢で間違いない。何せそういう依頼を、蛹圭嬢本人から受けたのだからな」


 じっと三対の視線が集まって、シューニャの眼だけは骨に向いている。

 目を伏せ殊更ゆっくりと息を吸った亘乎は、そうしてからまた殊更ゆっくりと息を吐いた。


「ただ」


 吐息の終わりと共に、そう呟く。

 言葉を切った亘乎へ無言の催促が注がれたけれども、どうにも口重い。


 ころり、とシューニャの木履が鳴った。

 シューニャ本人にその心積もりがあるかは別として、こうして黙っているわけにもいかないのだと、促しているように思えてくる。

 また息を吐き出した亘乎の三白眼が、頭蓋骨があるはずの場所をじっと射抜いた。


「玄鳥が関わっているのなら、私の詛いだけでが済むとは思えない」


 やはりそうなるか、と頼劾が低く唸った。

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