第五話

 白、薄紫、赤紫――リラの芳しい小さな花はとうに枯れ落ち、枝に残された葉が早朝のまだ低い陽射しを受けている。

 早晩は随分と肌寒さが際立つようになった。


 夏の間洗濯屋に預けていた濃紺の立詰襟に身を包んだ頼劾らいがいは、ヨゴト画房の階段を慣れた調子で下っていく。

 ただ、その足取りはいつにも増して酷く荒いものだった。

 そしていつにも増して、眉間に刻まれた皺が強く存在を主張している。


 半年程も顔を見せていなかったけれども、ヨゴト画房には相も変わらず湿度を帯びた甘く苦い空気が漂っていた。

 やはり、好きにはなれない――そうしてむっつりと唇を引き結ぶ。

 元より良くない機嫌が、更に降下したらしかった。

 そうして踏み出した馴れた木製の階段は、いつもより大袈裟に軋むのだ。


 亘乎の姿は、まだ兵児帯が玄関先へ下がっていない刻限にも関わらず、カウンターの中にあった。

 書生のようななりをし、そして、紋のない黒留袖を羽織っている。

 意匠は未だ鳳凰だ。

 注文した曼珠沙華は先先週には届いたのだけれども、事情があって仕事着にするには早い。

 今暫くはこれでよいと亘乎は考えている。


 その亘乎は、階段を濃紺が降りてくる姿を眼に映すなり、おや、とだけ呟いた。

 文字として見たらば驚いたように感じられるだろうそれも、声色と表情で全くそう思っていないことがよく知れる。

 精精が、珍しく随分と早い時間にだとか、その程度であろう。


 灯し始めたばかりの和ろうそくが、高いところで揺らめいている。

 それに照らされたふたりの男は、あまりに対照的だった。

 糸遊いとゆうの如き怪しさで無表情なまま佇む亘乎は、常と変わりない。

 対する頼劾は、菅丞相かんしょうじょうが祟り落とす雷が如く半長靴を踏み鳴らす。

 そのいかめしさには拍車が掛かり、女子供であれば酷く怯えともすれば泣き出してしまいそうなほどだ。


 とはいえ、今この場にはそんな繊細な心根の持ち主はいないのだから、特になにか問題があるわけでもない。

 あえて挙げるとしたらば、亘乎が多少、これから言われるであろうことを億劫に思っているくらいであった。


 階段を降りきった頼劾が、カウンターへと向かう――一直線に、迷いなく。

 その合間にも持ち上げられた逞しく節くれ立った拳は、ついた勢いのまま垂直に木製のカウンターをがんと殴り付けた。

 その弾みで、絵皿が悲鳴を上げる。

 けれども頼劾も、亘乎すらも、気にする様子はなかった。

 和ろうそくの火だけが、そこで、ただただ大きく揺らいでいる。


 今更挨拶もなく、唇を開いたのは頼劾だった。

 拳はカウンターにそのまま、何か抑え付けるかのように力を込める。

 そうしてからようやっと切り出した。

 唸るような、低い声だ。


「……白骨遺体が見付かった」

「そうか」

「中央の、分家に当たる家の邸からだ」

「それはそれは」


 無表情を崩さないままのらくらと応える亘乎を、頼劾の眼が射貫く。

 モノクルの奥でゆったりと瞬いた三白眼をじっと見据え、そうしてから噛み締めた歯の隙間から息を吐き出した。

 腹の底に燻る火がそれに乗ってちろちろと顔を覗かせる、そんな様が見えるようだ。


「黄色い蝶の着物を羽織った姿だ。汚れた様子も傷んだ様子もないが」

「遺体の持ち物だろうな」

「頭があるはずの場所には、代わりにおもてがあった。俺は能を解さないが、とにかく、若い女の面だ」

「ほう」

「裏は奇麗に磨いてあって、そこにびっしりと、黄色い蝶の絵が描かれていた。胡粉を混ぜた顔料で描かれた、泥絵とかいうやつだ。普通の能面なら、まずしない」


 そうだろうな、と亘乎は応えた。

 面裏へは演者の汗などから面を保護する為に、漆を塗り付けるものなのだ。

 これに例外はない。

 それに大抵、裏には面打ち師がそれぞれ独自の彫り跡を残す。

 それらをせずに泥絵を施すとなれば、出来上がったものは最早能面風の別の何かであり、余程の好き者の仕業と言えるだろう。


 ゆったりと目を瞬く。

 視界の端で、モノクルから下がるチェーンに和ろうそくが反射した。


「俺はまどろっこしい問答は嫌いだ。だから、率直に訊く」


 そう言うなり頼劾が、短く強く、息を吐き出す。

 ああ来たな、と亘乎は思った。


「亘乎、お前……か」


 ――嗚呼。


 ゆったりと目を瞬いて、そうしてから、緩く首を振った。




 ヨゴト画房の地階に位置する密談場所で、男達は向かい合っていた。

 上座に頼劾が胡座をかき、下座では亘乎が片膝を立ててそれに腕を載せている。

 座卓には手びねりのカップ――中身は例に漏れず珈琲だ。

 それを淹れた白い少女、シューニャは、今日に限っては部屋の隅でなく亘乎の隣へ座らされていた。


「言い訳を、聞くだけ聞いてやる」


 まぁそうだろうなと、亘乎は思った。




 時は、二十と数年ほどを遡る。

 世界が新しく歩み始めてから何度も起こった侵略戦争が、それに関連した小競り合いが、少しの間止んでいた、その頃の話だ。


 内つ国に住まう多くの者達は、出生時の届け出により管理番号がつけられる。

 稀に届け出が為されず管理番号を持たない者、通称ゼロ番と呼ばれる者達――例えばの事件で死亡した彼の少年、希安ねあなどだ――も存在するけれども、それはそう多くない。

 何せまともな医者にはかかれず、教育も受けられず、何の保証もない上に基本的に人として扱われないのだ。

 同時に全てに於いての義務も発生せず、その分の自由があるとはいえ、益がそう多いわけでもない。


 ともかく。

 ゼロ番はとりあえず置いておくとしても、多くの者達は番号によって管理されており、その番号が個を示す記号となる。

 とはいえ逐一番号で呼び合うわけにもいかないのだから、各自おのおのが通称を名乗る。

 例えば亘乎、頼劾、詞葉――それらのことだ。

 苗字はない。

 この旧日本国へ住まう者皆ひとつの家族であるという、アリガタイお言葉の元、家という制度が不要とされたからだった。


 さて、これらは多くの者、と述べた。

 つまりは、それに当て嵌まらない者達も存在するということの裏返しでもある。


 彼らは変わらず、家制度の中にいた。

 内つ国の中であればどれと混じろうが構わないと思われている多くとは違い、血を守ることを第一とした者達。

 先細りしていくと皆が理解しながら、それでも連綿と続くことを義務付けられた彼ら。

 多くを管理する立場にありながら、大事に護られ、そして管理される――所謂、特権階級と呼ばれる者達だ。

 東西南北、それと中央。

 彼らは記号としても、看板としても実に簡潔で揺るぎのない名を冠していた。


 そんな彼らの間で、二十年ほど前に流行ったものがある。

 否、彼らの間だからこそ、と言ってもいい。

 何せ下下の者達では到底手が届かない。


 それにはその物を集めるための力が必要だった。

 それにはその物を使うための力人脈必要だった。

 それにはその物を独占するための力権威が必要だった。


 ――それが、とあるだ。


 一見して能面のようなそれは、しかし、裏に色鮮やかな装飾がなされている。

 能を演ずるために造られたわけでは決して、なかった。


 その面を打った者の名を、誰も知らない。

 誰もが知りたがったけれども、気付かない内に不意に世に出る面の出どころを、誰も突き止めることは出来なかったからだ。


 とある人は、それを冒涜であると言った。

 そして、芸術であるとも言った。

 色々なものを喪ってしまった世で、それでも受け継がれた伝統を踏襲しながら、決して能面としての存在意義を求められてはいない

 銘はなくとも、そんな面もどきを造るような人間はそういるはずがないという声に、皆が確かにそうであろうと頷いた。


 その面もどきは、もどきではあるけれども、決して面でないということでもない。

 能を演ずるためではなかったけれども、確かに、面として使うために造られたものである。


 面の種類によって、それを被せられる者は様様あった。

 翁であればじじが選ばれたし、うばであればばばが選ばれた。

 童子では少年を、今若であれば青年を。

 けれども彼らに最もであったのは、若い女を使うことだ。


 かどわかされた者もあったし、仕事があるとたばかられた者もあったという。

 ともかくも、そうして連れて来られた者達はわけも分からない内に飾り立てられ、そして皆の前へと引き出された。


 多くの目が向けられている気がするのに、周囲は真っ暗で何も見えない。

 目の前にはぽつねんと衝重ついがさねが置かれていて、その上にひとつ、面が鎮座している。


 ――笑っているようにも、泣いているようにも見え、どうにも恐ろしい。

 それと同時に、何故だか分からないのに、強く惹かれる。


 その面を掛けるようにとの声に、引き出された多くの者が躊躇った。

 ただ純粋にその物自体が恐ろしいこともあるし、美しさのあまり酷く恐ろしいとも思う。


 けれども彼らに与えられるのは、面を掛けるまでのほんのわずかな時間のみであり、掛けるか否かの選択肢ではない。


 震える手で面を持ち上げて、頭上から降り注ぐ光の中、彼らは見た――面裏に施された色鮮やかな泥絵を。

 ただ息を呑む。

 震える手と、急かす声。

 顔へ宛てがい、紐を後頭部で結ぶ。


 ――そうして面を掛けると、自分でも知らない己の内の何かが、沸き立つような心地がした。


 そのときにはもう、彼らは彼らではない。

 面へ――面へかけられた詛いへ呑み込まれている。


 皮膚が鱗様にひび割れる。

 骨が形を変え背中を突き破る。

 手足が腐り落ちる者もあるし、形は変えないままに石のように固くなる者もあった。


 それを。


 それを、その様を。


 家持ちの彼らは、娯楽として眺めていた。




 頼劾はそんなが流行ったことを知っている。

 遊びを行った者達と同じく、面もどきを打った者の名を知りはしなかったけれども、亘乎がその内のひとつを所有していることを知っている。

 そして何より、亘乎には面もどきを打つがあることを知っている。


 だからこそ、この朝も早い時間からヨゴト画房を訪れたのだ。

 見立ては間違いであるはずだと、ずっと付き合いのある亘乎が、まさか道を外すまいと思いながら。




「ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家当主蛹圭……彼女から、依頼があった」

「どんなものだ」


 相変わらず唸るような声で返す頼劾を、シューニャの一点の黒が見つめている。

 外つ国風の室内灯に照らされる中、その何も含まない眼を向けられることを常の頼劾ではあまり好まないけれども、このときに限っては欠片も気にならない様子だった。


 亘乎が、ゆったりと目を瞬く。


「なりたいものがあるのだと」


 深く刻まれた眉間の皺を不可解そうに余計深めながら、頼劾はまた、低く唸った。

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