第四話

 月桂が伸ばした小枝のような細い灯りが、わずかに開いた窓掛けカーテンの隙間から這入って来る。

 丸丸借り切った離れの一室へ、亘乎とシューニャ養父娘おやこは詰めていた。

 これから暫くは、この離れがふたりにとっての仮の宿となる。


 を終えて寝台を囲んだまま軽く昼食を摂ったあと、また雑談へ戻ろうとする蛹圭を窘めたのは、使用人然として壁際にただじっと佇んでいた限恵だった。

 曰く、お客様の滞在される御部屋について云云と、作業をするには客間だけでは足りなかろうと口にはしていたのだけれども、果たして真実それのみであったのか。

 限恵という女のはらはどうであれ、客間では作業がし難いことは事実であろうと蛹圭はそれを受け入れ頷いたのだ。


 ――内鍵が掛かり、誰も立ち入らず、静かで物がない部屋を。


 そう亘乎が告げた希望に、それならばと宛てがわれたのがこの離れだ。

 母屋から見ると湖を挟んだ向こう側にあり、船で渡ることも出来るけれども、乗り込む手間などを鑑みるならぐるりを巡っても然程変わらない。


 蛹圭が当主となるまで自身で使っていたらしいその建物は、母屋とは違い平屋建てで部屋数もその分少ないらしかった。

 下下の者達からしたらば一家総出で住み着いても余りある建物なのだけれども、中央に連なる家の所有物として見ると、子供のために親が作ってやったちょっとした遊び部屋程度のものだろう。


 今でも掃除は欠かしていないという離れの一室へ急ごしらえの仕事場を作り上げて、頃合いだと招かれた夕食のあと。

 そこまで不調法な積もりはないと、夜の寝所へ立ち入る許可へ首を横に振る亘乎に蛹圭は、使用人の青年であるセイを連れてならば良いだろうと今度は仕事場へ立ち入る許可を求めた。

 どうにも折れる様子の見えない彼女にそっと瞑目してから亘乎が指定したのはそれから一時間ほど後の二十一時、あと数分でその時間になる。




 部屋の四隅へ据えた、和ろうそくの火が揺れている。

 仕事場のひとつであるヨゴト画房地階へ存在するの部屋とは違い、ただ中にあるのは畳ではなく革張りのソファだ。

 持って来ようと思えば畳がないわけではなかったけれども、蛹圭の身体の調子を考えれば無理強いは出来ない。

 それに、これから行われるのはあれ等とは少し、違う。

 畳にこだわる理由がそもそもない。


 亘乎はソファの背に後ろからもたれると、そっと瞑目して視界を黒く閉ざした。

 シューニャはといえば、ソファへ糸の切れた操り人形が如く伏している。


 窓際だけに落ちた月光が、和ろうそくに侵食されていく。

 その様をただじっと眺めている白い少女は、ゆったりとした瞬きと微かに上下する胸以外に生を感じさせるものがない。

 けれども、これでまだな方であるのだから、何とも皮肉なものだと亘乎は思った。


 細く細く、息を吐く。

 水分を特別多く含んだ風に撫でられ、木木がささめいている。

 その静やかな夜の音に紛れ、微かな気配と共に話し声が聞こえたようだ。


 湖の周りは舗装されているわけではないから、車椅子を押してくるのは手間だろう。

 かといって船では乗り降りが手間だ。

 まぁ、どちらでも構わない――そうつらつらと考える内に、白い少女が身体を起こした。

 振り返るけれども、視線の先にいる当の亘乎はといえば、瞑目してソファに寄りかかったままでいる。

 衣擦れと、軋むソファ。

 立ち上がった少女は、朱塗りの木履ぽっくりをころりと鳴らして扉へと歩み寄った。


「マスター」

「ああ」


 交わされたやり取りは、極極短なものだ。

 それはこの義父娘にとっては常であり、それ以上の何かを必要としていない。

 少女は、毒毒しいほど鮮やかな兵児帯を揺らして部屋を出て行った。


 感覚をひとつずつ閉ざしていく度に、他の感覚が研ぎ澄まされる。

 黒く閉ざされた視界と、水分を多く含んだ空気へ溶け込む肌の感覚。

 空から落ちる星の欠片の如くすうと呼吸を止めれば、音だけが亘乎の世界を象った。


 ぴたりと閉じられた扉の向こう、足音が遠ざかる。

 そののちに届くのは重苦しい蝶番の軋み――玄関扉だ。

 そうして、少しの間。

 再び蝶番が軋み、静かな声と共に幾つかの気配が戻ってくるのが分かった。

 シューニャと、蛹圭に、セイ――ゴムが擦れるような音は、蛹圭の車椅子であろう。


 目蓋を酷く緩慢な動きで持ち上げて亘乎は、黒留袖の鳳凰を羽搏はばたかせた。

 月桂が伸ばす枝がわずかに陰ったのを、モノクル越しの鋭利な三白眼が一瞥する。

 嗚呼、叢雲むらくもか――亘乎の唇がやんわりと弧を描く様を見た者は、その部屋にはいなかった。


 かつんと革底が床を叩く。

 それとほぼ時を同じくして、部屋にある唯一の扉が開かれた。

 初めに視界に入ったのは、見慣れた白ではない。

 亘乎が軽く頷くことで漸く室内へと足を踏み入れた彼らは――否、彼女は、その痩けた頰を楽しげに緩めた。

 車椅子を押す青年はといえば、生来そうであるらしい微かに笑んで見える口元以外には表情らしきものはない。

 ここをにあたって彼の手も借りたのだから、当然といえば当然であろう。


「まぁ、これが先生の仕事部屋なの。道具が沢山置いてあるのだと思っていたけれど、違うのね。それにしてもこれは、元元があたくしの部屋だったなんて言っても、きっとどなたも信じて下さらないわ。ねぇセイ、貴方もそう思わなくって」

「真で御座いますね」


 蛹圭が羽織る、蝶の舞う着物の袖同士が触れ合う。

 その下であの枯れた手を、夢想する少女が如く合わせたのだ。

 眼を落ち窪ませながらそれでも明るい光を宿すその様を、どこか歪に感じるのは、恐らく、烏摩妃パールヴァティーが他の面を持っていることを理解しているからなのだろう。


 ちりちりと燃える和ろうそくの火が、無邪気な蛹圭を朧気に、それでいて酷く際立たせる。

 モノクルの奥でゆったりと瞬きをした亘乎は、またかつんと革底を鳴らして、蛹圭の前へと片膝をついた。


 鳳凰が羽振るかのように、着物が板敷きへと広がる。

 差し出したのは白い手袋に包まれた左の手のひらだ。


「蛹圭嬢」


 平坦に発せられるその名前に、はい、と返された声は少しだけ掠れていた。

 日中話をしていた亘乎とはどこか違うと、彼女は感じているらしい。

 確かにそうだ。

 亘乎の血色の良くない唇は、やんわりと弧を描いている。

 ともすれば気後れしてしまうような鋭い光を灯した三白眼は、どこか愉悦を滲ませている風にも見えた。


「貴女が真何を望むのか、それをお聞かせ願いたい」

「ええ」

「そのままではお辛いでしょうから、ソファへ。抱き上げても宜しいか」


 亘乎の手に蛹圭は、着物に包まれたままの枯れた手を躊躇うことなく、載せた。

 布越しでは体温を感じられず、やはりこれは木彫ではなかったかと脳味噌の端へ過ぎった――けれども、それもほんの一瞬だけ。

 何故ならば、それを遮る存在があったからだ。


「蛹圭様……ッ」


 上がった声はまるで、不貞を咎め立てするかのような響きをしていた。

 使用人の青年セイのどこか引きれたそれはしかし、わずかにも聞き入れられることはない。

 当の蛹圭が、ゆるりと首を横へ振ったのだ。

 余計、表情を崩した青年に、果たして彼女は気付いているのだろうか。


「セイ、貴方、外して頂戴。外聞など、貴方が口を噤めば良いことなのよ」

「し、かし」

「先生が、私などにご無体を働かれるはずもないのだし。そうでしょう、先生」

「信頼を裏切る真似は致しませんよ」


 慌てて繕われた表情も、さして意味はない。

 微かに寄った眉にも真一文字を描く唇にも、この人間は信用ならない――そんな感情が、ありありと浮かんでいた。


 亘乎はそんな青年へただ、面白いものを見るようについと目を細め、シューニャはわずかに首を傾けている。

 視界に亘乎の姿しか映らない蛹圭は、セイの言葉を待っているらしかった。


 ちりちりと、和ろうそくが燃えている。

 炎を大きく揺らがせたのは、誰であったのか。


「……差し出がましいことを、申しました」

わたくしの使用人が失礼を」


 歯噛みしながら、それでも声は平生を装うよう平坦にセイは告げ、低頭した。

 それは、姿が見えずとも衣擦れで知れたのだろう。

 蛹圭からも改めて詫びられれば、元より気にしていない亘乎もゆったりと目を瞬いてから静かに頷く。

 モノクルの豪奢なチェーンが、ちか、と和ろうそくを反射した。


 重ねた手を首の後ろへ、身体を斜めに預けさせると、左腕を彼女の背中に添え右腕を脚の下に回して横抱きにしてやる。

 身体をすっかり預けさせてみても、あまりに軽い。

 身長でいえば恐らく成人女性の平均と変わりはないだろうに、体重はまだ成長途中のシューニャと同じくらいか、むしろそれよりないかも分からない。


 甘やかな香りが、亘乎の纏う空気をやんわりと喰らっていく。

 熱よりもむしろ木肌のように体温へ馴染む冷ややかさが、蛹圭の生を削ぎ落としていくようだ。


 翻る鳳凰。

 革底が床板を叩き、呼応するかのようにそっと目を伏せたセイという名の青年を見ていたのは、シューニャの一点の黒だけだ。


 蛹圭をソファに下ろした頃には、最早青年の姿は室内から消えていた。

 そのことに気付いた蛹圭の眼に過ぎる複雑怪奇な色、それを亘乎はじっと眺める。

 安堵と愁い、そして鬼胎きたい――嗚呼、もしくは、期待か。

 ゆったりとした瞬きの奥へ興味を沈めて、亘乎は蛹圭と向かい合うかたちで置いた、一人掛けのソファへと腰を下ろした。


 ころり。


 白い少女が木履を鳴らして部屋を出て行く。

 蛹圭はそれを見届けて、亘乎を正面から見据えた。




「ねぇ、九樒先生。先生は、薄羽黄揚羽ウスバキアゲハという蝶をご存じかしら」

「いえ」

の土地に連峰があるでしょう。それの、高いところにだけいる蝶なのですって。前史の頃にはもう大分、数が少なくなっていたらしいのだけれど、今は全く見なくなったのだそうよ」


 痩けた頬へ穏やかに笑みを乗せる蛹圭は、着物の袖を亘乎へと向けた。

 瓶覗かめのぞき――白に近い藍色だ――の着物に、蝶が染め付けられている。

 黄色の地に黒い翅脈しみゃくが走り、後翅こうしには紅い斑点がある蝶。

 それと、淡紅色の花の意匠だ。


「それが」

「ええ、薄羽黄揚羽なの」


 蛹圭はそうっと、痩せた目蓋を閉じた。

 細くゆっくりと吐き出された息が、室内の空気を微かに揺らす。

 亘乎はただじっと、蛹圭の表情を見つめていた。

 木彫の如きそれの、揺らぐことのない感傷を見つめていた。


 和ろうそくの火が揺れている。

 目を開けた蛹圭は、亘乎のモノクルに下がったチェーンへ反射する火を眺めては、眩んだようにわずかだけ視線を外した。


「ねぇ、九樒先生」


 はい、と答えた亘乎を蛹圭の眼がまた、じっと正面から見据える。

 和ろうそくの火をぬらりと照り返す目玉だけが、その風体に似つかわしくない力強さで――迦利カーリーの如き強靭さでもって亘乎を突き刺した。


あたくし、蝶に――薄羽黄揚羽に、なりたい」

「それが貴女の望む、詛いなら」


 亘乎の唇は、やんわりと弧を描いていた。

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