第三話

「ねぇ先生。先生は、ご自分の作品にどのくらい愛惜あいじゃくをお持ちなのかしら。そうね、例えば、手元から離れた作品たちの在り処はご存知なの」


 そう感情豊かな声だけで問い掛けてくる蛹圭に、亘乎は否と首を振った。

 興味津津であることを隠しもせず、そして亘乎がそんな子供じみた関心に感情を害することがないと知っているかのような、いささかの無遠慮さ。

 否、を持つ者故の――内つ国の者達へ数字が割り当てられるようになって、ほとんどの者達はそのから外されたのだ――傲慢さと呼ぶべきだろうか。

 どちらにせよ、亘乎が何かを思うことはなかった。

 勿論、シューニャにしてもそうだ。

 こう問われたところで、この養父娘の心へわずかな波風も立つことはない。


「そう、そうよね。あたくしも勧められて幾つか美術品を集めてみたけれど、美術商だとか、競売オークションから手に入れたもの。それじゃあ、私の宝物コレクションの真中でただじっと微笑むひとがなのか、ご存知ないのよね」

「そうなります」


 今度はひとつ、頷いてみせる。

 尤も、厚い天蓋の向こうへ座したままの蛹圭のまなこに、その姿が映っているのかは分からない。


 きしり、とわずかに寝台が鳴った。

 身じろぎをしたのだろうとは思っても、やはりそこには静物画があるだけだ。


「ねぇ、じゃあ、ことも、出来なくって」


 何かの花の香りが、瞬間絡んで、流れた。

 恐らくは、わずかに開かれたままの扉から逃げていったのだろう。


 モノクルから下がる鎖を、指先でなぞる。

 そうしてたっぷりと間を持たせてから、亘乎は首を傾げてみせた。

 何か考えていたわけではない。

 そも、蛹圭へそれを明かす必要性なぞはないのだから。


「さて」

「まぁ、そうやってはぐらかすの。いやだわ、意地悪ね」


 ぴしゃりと撥ね付ける拗ねた声は、一方的な気安さを孕んでいるようだった。

 この分家当主から随分とされている――その感覚は恐らく間違いではないのだろう。

 そんな確信はあれど、それらが一体何からもたらされるのかについて亘乎は、説明する言葉を持たなかった。

 否、正直なことを言えば、当たって欲しくない見当ならば、ひとつ付いている。

 例えば万一、真実であったとして――亘乎は胸裡きょうりへと湧いた不快感を自分自身へ誤魔化すよう、その薄い唇を開いた。


「私が何を言わずとも、貴女の中ではどうやら確信がお有りのようだ」


 ゆったりと目を瞬く。

 一秒にも満たない間黒く閉ざされた視界、目蓋の裏を見つめた亘乎の耳へ届いたのは、微かな笑声だ。


「まぁ、流石だわ先生、お見破りなのね。そう、私、先生ならお分かりになるって思っているの。ああでも、思っているだなんて、狡い言い方かしら。だって私、そう教えて頂いたのだもの」


 ――そんな言葉が、ただの見当を確かなものへと変える。


「先生のお師匠さまの、玄鳥げんちょう翁に、そう」


 玄鳥翁――その名前が発せられた途端、常からの無表情を更に殺しながら、亘乎は忌々しげに奥歯を噛み締めた。

 その様子に気付いたのは彼の養い子であるシューニャだけだったけれども、シューニャにはその心情を解するほどの情緒は、やはりまだ、育ってはいなかった。

 眠たげな瞳が瞬いて、色素を持たない睫毛がただただ揺れる。


 養父娘の様子を知ってか知らずか、否、恐らくは何も知らないまま蛹圭が、うふふ、と楽しげな笑声を洩らした。

 極極細く息を吐き出した亘乎は、何も答えないままに瞑目する。


 再び目蓋を持ち上げれば、そこにあるのは、平生へいぜいと変わらない静かで鋭利な三白眼だ。

 熱はなく、冷ややかでもなく、途端に空気へ溶け込んでしまうような、平坦な視線を向けている。


「玄鳥翁が仰っていたのよ、自分より才があるのだって。それと、自分より執着があって、作品との絆を求めているのだって」

、ですか。それはそれは」


 やんわりと上がった口角は、何某かを皮肉るかのよう微かに歪んだ。

 衣擦れと共に、真白な手袋に包まれた左の人差し指が、血色の良くない唇をなぞる。

 歪な微笑みはすぐに消えた。

 無意識に浮かべたそれを、意識的に無へと戻したのだ。


「ところで」

「なぁに」

「貴女は何故なにゆえ、玄鳥をご存知で」


 一方的に話を投げかけていると、蛹圭も気付いていたのかも分からない。

 亘乎が落とした前置きに打たれたのは、喜色を孕んだ相槌だった。

 けれども、続いた問いが玄鳥という存在についてであったことにはおかしげに吐息を洩らす。

 やっぱりお師匠さまのことは先生もお気になさるのねと、見当違いな呟きが届いたけれども、そう思うなら思えば良いと亘乎は唇を結んだ。


「ええと、確か、父のお知り合いだと思うのだけれど。初めてお目にかかったのは、私がうんと小さい頃だった覚えがあるわ。玄鳥翁がいらっしゃると、いつも私、皆に放っておかれてしまって。子供って、自分を抑えることなんて、出来ないでしょう。だから癇癪を起こしてしまって、そうしたら、玄鳥翁がわざわざ私を訪ねて来て下すったの。それから、よく遊んで頂いたわ。そうね、確か十と……七年ほど前かしら」

「外つ国と小競り合いをしていた頃ですか」

「そう、そうね、きっとそうだわ。限恵がそんなことを何か言っていたもの。ああでも、先生のことを伺ったのはここ数年のことよ。たまたま玄鳥翁がお持ちになった先生の作品を、見せて頂いたの。それで私、すっかりフアンになってしまって」

「それは有り難いことで」


 亘乎は、蛹圭の言葉をやんわりと遮るようにしてそう答えた。

 ぴたりと声が途絶えた室内では、瞬きで睫毛が触れ合う音すら確かな存在感でもって伝わっていくのが分かる。

 そんな張り詰めた空気の中、蛹圭の漏らす自戒めいた吐息に、気付かないはずもなかった。


「それから少しして、先生ののことを教えて頂いたの。これだと、思ったわ」


 ――嗚呼、なんと忌々しい。


 幸いなことに、そんな心情は音としてその場へ齎されずに、また静寂は訪れたのだった。




「ねぇ先生、私分かっていてよ。先生は、私が随分としていると思っておいででしょう。だけど私、違うの。ずうっとなのよ」


 然して実のない会話――あくまで、亘乎とシューニャにとっては、ではあるけれども――のあとに蛹圭が告げたそれは、声色と内容とがあまりに乖離しているように亘乎には思えた。

 骨と筋とが浮いた黄みがかった手は相変わらず布団の上に組まれたままで、微動だにすることはない。

 良く出来た人形であると言われたらば、もしか信じてしまうかも分からないと、冗談混じりにでも思うほどには生気を感じさせなかった。

 ただ、亘乎の隣へじっと黙して座すシューニャを磁器製のそれと喩えるならば、蛹圭はわずかにのみ跡が残る木彫のそれだ。


 ゆったりと目を瞬く。

 そうしてから亘乎は、確かに頷いてみせた。


「それは失礼を」

「うふふ、お気になさらないで。私と初めて顔を合わせる人は、みんなそうだもの。『ああ、なんてお労しい、さぞやお辛いことでしょう。どうでしょう第イチロク分家が当主様、私めは腕の良い医師とちょっとした伝手があるのです。当主様の御為でしたらご紹介することもやぶさかではございませんよ』なんておっしゃるの」


 そこでようやく、痩けた手が動く。

 随分とつまらなそうに、まっさらなままで血を透けさせる人差し指の爪を、親指の腹で撫でている。

 三人分の呼吸音だけがするその部屋に、乾いた音が密やかに落ちたような気がした。


 わずかだけ開かれた窓から、青さを帯びた空気が這入る。

 低く漂うのは、湖に持たされた湿度のせいだろう。


「ところで、先生――いいえ、九樒先生」


 はい、と亘乎が応えたそれは、虫が這うほどの速度でもって乾いた音をゆっくりと飲み込んでいった。

 蛹圭の手はいつの間にか止まっていて、祈りを捧げるかのように――多くは外つ国に見る形で――今にも折れてしまいそうな枯れた指を組んでいる。


「依頼は、請けて下さるのかしら。あたくしは……わたくしは、九樒先生のお眼鏡にかなって」


 ゆったりと目を瞬く。


「ええ」

「嗚呼……」


 濡れた吐息と共に洩らされたそれは、この女と今まさに枕を交わす錯覚を齎すようだった。

 万一これがこの女の常だと言うのなら、彼の限恵という女が席を外すのを躊躇った理由が分からないでもない。


あたくしなんて幸せなのかしら。ねぇ、九樒先生、くお願いするわ。私、私、もう……」


 衣擦れがして、背の高い寝台が微かに軋む。

 蛹圭が青虫のようににじり寄って来るのが分かる。

 重苦しげに押し退けられた天蓋のその先にあったのは、蝶が舞う着物を肩に掛けた女の、酷く血色の悪い痩けた顔だった。


「ねぇ、お分かりでしょう」


 女の、その見た目にそぐわない肉感的で甘やかな声。

 そっと瞑目した亘乎は、はい、とだけ呟いた。

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