第二話
ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家、その当主である蛹圭から亘乎の元へ再び連絡があったのは、使用人の青年がヨゴト画房を訪れてからわずか三日も経たない内のことだった。
随分と急いている――そう考えたけれども、当然のことだとも思える。
あんな手紙を寄越すくらいなのだから、急いていても仕方がない。
明日にでも招きたいと当主は言ったらしかった。
けれども、幾ら客が多くないとはいえ亘乎側にも都合というものがある。
一先ずは最初に青年が訪れた日から数えて丁度一週間後、シューニャを伴って
屋敷までの足は、先方が用意する手筈になっている。
亘乎が用意しなければならないのは――仕事をするとは決まってはいないけれども、そうなることになったときの為に――道具達とその当時へ立ち返った心持ちだけだ。
「お迎えに上がりました」
そう言って目礼した使用人の青年は、相変わらずの身奇麗さでもってその場へ佇んでいる。
幾つも同じ色、同じ形のスリーピース・スーツを持たされているのか、一週間前とわずかな差異を見付けることすら難しいようだった。
宝石の眼を持つ龍のカフリンクスは、ひやりとした空気の中でやはり、鈍い光で密やかに存在を伝えてくる。
亘乎の黒い着物には未だ、鳳凰が羽搏いていた。
尤も、そうと解るのは限られた者達だけであって、その一部への軽い挨拶でしかない。
黒の隣へ並ぶ白い少女――シューニャの胸元には羽根の彫りが入った
使用人の青年は、二羽の鳳凰に気付くと改めて腰を折った。
「宜しく頼みますよ」
亘乎の声に、青年は礼で返す。
鷹揚に頷いてみせれば、彼は二人を先導するかの如く歩き始めた。
この辺りの道は勿論、亘乎やシューニャの方が詳しいけれども、足が今どこにあるかなどは知るはずもなく、案内を任せるより他にはない。
身奇麗なスリーピースがそこを行く姿はやはりイタルヤという街には随分と不釣り合いで、自分達三人のこの姿は、イタルヤに生きる者達の多くには珍奇なものに映っていることだろうと亘乎は思った。
その先に停まっていたファントムも――古い型の、今やアンティークとも呼べるほどのものではあるけれども、新車の如く埃ひとつ許さないとばかりに黒く磨き上げられている――やはりそうだ。
多くの者の目を集めるそれが遠目に映るなり亘乎は、良くもまあ無事でいられたものだと、ただただ率直に思う。
もう少しイタルヤの奥へ入っていたなら、足としての役割を果たせなくなっていたかも分からない。
ともかくも、ファントムも運転手も傷一つなくそこにあって、亘乎達はそれへ乗り込むこととなった。
招待されている蛹圭嬢邸へは、イタルヤから優に二時間はかかる。
前史の頃などは
この時間を如何に潰すかという悩ましい問題は、その空間に変わらず鎮座していた。
全くの他人である使用人の青年と運転手の前では、シューニャも寝転ぶはずはなく、たたじっと黙す。
二時間の間、各々の耳に届くのはエンジン音ばかりだった。
初夏を前にした木々は皆青々と葉を茂らせ、曖昧だった対比を日に日に強めている。
名も知らない小さな、けれども水底まで手が届こうかと思わせるほど澄んだ湖の
数
とはいえ、そちらには使用人はともかく、彼の当主が足を運ぶことはないのだという。
長年風雨に晒されてきたのだろう、建築当初はもっと明度の高い赤であったらしい煉瓦は栗の渋皮のように深みのある色へ変わり、目地はところどころ
建物と湖のすぐ間近まで生い茂る木々によって作られた影は濃く、それが
車窓越しに見上げる邸を端的に言い表すとするならば、前史の頃に外つ国で作られた恐怖映画の舞台にでもなりそうな洋館だろう。
館の主人が殺人鬼であるとかそういった
視界を掠めた蝶がそう思わせるのか――ともかくも、例えばこの一帯へ仄暗く霧でもかかっていたらば、成る程その通りと誰しもが思ってしまうような佇まいだった。
促されるままファントムから降りる。
そのドアを開くのも、邸の玄関扉を開くのも、使用人の青年の仕事であるらしかった。
踏み締めた石畳は手入れが行き届いているとは言い難く、様子を見るに使用人が少ないのかも分からない。
中央といえど、分家となればその程度だ。
尤も、多くの者達に比べるならそれでも遥かに良い生活をしているのだけれども。
遠ざかるエンジン音。
それを背に玄関扉が開かれれば、途端、湿度を含んだ花の香りが首へと絡んだ。
建物内へは意外にもというべきか、自然光が射し込んでいる。
とはいえその仄明るいだけの様子は、邸を外から眺めたとき感じた印象と然程変わらない。
玄関ホールで待ち構えていたのは、白が混じる黒髪を低い位置で結わえている女だった。
見た限りでは五十過ぎであろう。
その女は――状況を抜きにしてあくまで亘乎が抱いた印象ではあるけれども――蛹圭ではない。
かといって、白いブラウスに黒いロングスカートという簡素でありながらも清潔で――いっそ潔癖なほど――労働には適さない出で立ちは、使用人にも見えないようだとも思った。
「ようこそお出で下さいました。こちらへどうぞ」
名乗るでもなく、女が頭を下げる。
やはり蛹圭ではないようだ――そう考えると同時、先導していた青年の気配が一瞬だけ揺らいだ。
微かなそれはどうやら、警戒であるらしい。
けれども亘乎には、それが何から来るものなのか推測出来るほどの材料もなく、そして、さしたる興味もなかった。
それ故に、振り返った青年が脇へ退け道を譲られるまでを、何の感傷もなく眺めた。
ゆったりと目を瞬く。
どうやら、この女について行けばよいらしかった。
軽く頭を下げて歩き出す女の背に続き、歩き出す。
漸くあの手紙を寄越した主との対面が果たされるのだ――亘乎には、幾つか尋ねたいことがあった。
「遠いところを、ようお出で下さいました。
「シューニャ、です」
「そう、シューニャさん」
どこか媚びるような、鼻にかかった甘やかな声。
上体は起こしているようだけれども、厚い生地で作られている天蓋のせいで、横へ立って窺っただけでは掛け布団へ載ったほっそりとした手しか視界には映らない。
「このようなはしたない姿で……どうかご容赦下さいませ」
「私共のことは気になさらず。お楽に」
ありがとう、と吐息混じりに言う声は、微かな笑みを含んでいるようだった。
亘乎とシューニャは、この部屋へ案内をした彼の五十過ぎであろう女に勧められるまま、寝台近くへ寄せられていた椅子へと腰掛ける。そこからでもやはり、伺えるのは手だけだ。
痩せこけて黄みがかった肌に、青く筋が浮いている。
声の質感で言えば使用人の青年と同年代か、それより多少年嵩であるくらいだろう。
けれども、どうにも若者らしくはない。
老成した諦観のような雰囲気を、亘乎は感じていた。
寝台から起き上がることが出来ないらしいのも含めて、あまり良くないのだろう。
「ねぇ
当主の言葉によって、この部屋まで案内をした女が限恵という名であるのを、そこへ至って漸く知ることとなった。
短期記憶を司る脳味噌の領域にその名を放り込んでから、亘乎はゆったりと目を瞬く。
シューニャはといえば相変わらず、良く出来た人形のようにただじっと黙して亘乎の隣へと座っている。
当主に声を掛けられた当人である限恵という名の女は、さすがに躊躇っているらしくむっつりと口角を下げた。
弟子という扱いのシューニャがいるとはいえ、寝所で男と話しをするなどあまり褒められたことではない。
けれども、否これは、と亘乎は思う――彼女は例えば、前史の頃書かれた児童文学のひとつに登場した、ミンチン女史のようであると。
「限恵」
「……畏まりました」
再度の呼びかけに漸く、ミンチン女史ならぬ限恵は礼をした。
寝台から洩れ聞こえた幽かな溜め息に、日頃からの様子が伺い知れる。
ただそう思ってみたところで、亘乎にもシューニャにも関わりのないことだ。
何を言うわけでもなく、観察の意図もなく限恵が去るのを視界の端で見届けると、改めて当主へと意識を向けた。
背後で蝶番が軋む音がする。
気配は部屋を辞すと、少しだけ離れた位置で止まったらしかった。
余程大声で話さなければ、内容までは届かないだろう。
先に口を開いたのは、当主の方だ。
「ねぇ先生、
「ええ、勿論」
甘やかな声を子供のように跳ねさせるその女にゆったりと目を瞬かせると、亘乎は静かに話を促したのだった。
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