黄の章
這う女
第一話
胡粉を使うには、膠液――膠を湯で煮溶かしたものだ――と丹念に練り上げ、そうしてからまた水で溶いてやらなければいけない。
練り上げた胡粉を絵皿へ指で溶きながら、沈殿するにおいを肺胞に染み込まる。
そうしてからまたゆっくりと吐き出せば、ただただ密やかに室内の空気が波打った。
やはり女人の肌は胡粉の白に限る――そんな声が耳の奥でこだまする。
その不快さにじっと瞑目し、脳味噌から全てを追い出した。
リラ冷え、という言葉がある。
ゼロイチ管区でしか使われないそれは、リラ――広く知られている名称で呼ぶならライラックだ――の花が咲く頃にやってくる一時的な冷え込みのことをいう。
ヨゴト画房にその人物が訪れたのは、丁度リラ冷えの時期だった。
「亘乎先生のアトリエは、こちらで間違い御座いませんでしょうか」
玄関先へ兵児帯を下げる白い少女――シューニャにそう事務的な声で問い掛けた青年は、イタルヤという場所にはどうにも似付かわしくない形式張った身奇麗さでもって、その場へと佇んでいた。
内つ国の者達の見本品のような顔付きをしている。
特徴はないけれども、あえて挙げるとしたらば微かに笑みを浮かべている風に見えなくもない、その唇だろうか。
皺ひとつないスリーピースのスーツに糊の効いたシャツ、几帳面に締められたタイに磨き上げられた革靴と、袖口からはカフリンクスが鈍い光を反射する。
こちらへ、と玄関を開ける白に青年は目礼を返して、静かな足取りで仄暗い階段を続いた。
「ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家当主
カウンターの向こうに立つ亘乎へ向けて青年はそう言うと、右手を持ち上げて胸へと当てた。
これは別に、礼をしているわけではない。
自らの身分証明としてカフリンクスを亘乎へ見せたのだ。
チェーン式のそれには、黄色い宝石が眼の位置に填められた龍の意匠が入っている。
宝石の眼を持つ龍は、中央と名乗ることが出来る身分の人間だけが自らの持ち物に入れることを許されていた。
「どうぞお座り下さい。その程度の粗末な椅子しかありませんが」
軽く頷きそう手の平で丸椅子を指した亘乎に、セイと名乗った青年は感謝を述べながら、結局は座ることを辞した。
代わりに懐から何やら取り出しカウンターに載せると、亘乎へと押しやる。
封筒だ。
洋形の、少し長めのもの。
「亘乎先生宛てに主人からお手紙を預かっております。不躾とは存じますが、この場にて御返事を頂けますでしょうか」
それは随分と機械的な動きに言葉だった。
自らは分家当主の持ち物であり、それ以上でも以下でもないと彼自身が良く表しているかのような。
見た限りでいうならば、彼は恐らくあの邏卒の青年矢途よりも幾らか若いくらいだろう。
けれどもその
手紙を持ち上げ、万年筆で記されたらしい亘乎という名を指でなぞる。
裏返したそこには、蛹圭という繊細さを感じさせる筆致の署名と、封蝋の龍が見て取れた。
その手紙は確かに、亘乎へ宛てたものだった。
ゆったりと目を瞬く。
使用人の青年は微動だにせず、揺らぐ和ろうそくの火に照らされている。
「それならば尚更お座り下さい。返事をするにしても、墨はすぐには乾きませんのでね。それに何より、私が落ち着かない」
「……申し訳御座いません」
一瞬の間を持って返されたその言葉に一見して、例えば渋々従ったというような感情は見受けられなかった。
けれども亘乎は、それに類するものを感じ取る。
だからといってそれを逐一指摘するはずもなかった――ただ彼が、職務に忠実な人物であると判断するだけだ。
彼は主人の持ち物であるのだから、そこに自らの感情を差し挟む必要はない。
ものに感情の揺らぎを説明したところで、何の意味も成さないのだ。
ペーパーナイフを差し入れて封蝋を剥ぎ、砕けた
封筒から取り出した便箋からは途端、仄かな香りが広がって、店独特の甘く苦い香りと密やかに混じり合った。
どうやら香を焚きしめてあるらしい。
分家の当主としては――それが当代のみか伝統的にそうなのかは置いておくとして――外つ国風のものを取り入れているらしいけれども、本人は古風な人柄なのかも分からない。
そんな風にどうでも良い推測をしながら、亘乎は折り畳まれた生成色のそれを開いた。
――拝啓 突然お手紙を差し上げます失礼を、どうかお許し下さいませ。
手紙は、そんな言葉から始まっていた。
何の変哲もない書き出しだ。
――私は、ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家が当主、蛹圭と申します。この度こうして先生へお手紙を差し上げましたのは、私が常から心に秘めておりました悲願を、どうか叶えて頂けないかと思ってのことで御座います。突然こう申し上げますと随分と物騒に聞こえ、先生におかれましても何とも厭な気持ちになられるかも分かりません。けれどもどうか、私の悲願を
けれども先ずは何より、こんなくどくどしい言い訳から入りましたことと、恐らく先生へお手紙をお渡ししたときも酷く愛想のなかったろう私の使用人の無礼を、お詫びさせて下さいませ。あれも、勿論私にも、悪気などは欠片もないのです。中央家に連なる者として、こうすることが精一杯であるのだと、先生ならばよくよく理解して頂けるものと思っております。
一枚目はそこで、文章が途切れていた。
それを捲って下に重ね、続けて二枚目に目を通し始める。
不意に漂う香ばしさは、シューニャの手によって運ばれてきた珈琲だ。
甘さを帯びたその芳香が、カウンター越しの亘乎の元まで届く。
どうぞと勧めてもやはり、使用人の青年はそれを辞すばかりだった。
――先生。
亘乎は一度、そこで字面を追う目を止めた。
否、正確に表すとするならば、止めざるを得なかった。
九樒。
確かに九樒と書かれている。
それは、亘乎の使う号のひとつだった。
そんな問いが腹の底の辺りからぬらりと顔を出す。
――私は、幸運な女で御座います。例えば中央家に連なる者として生まれ出でたことは、日々の暮らしにも困るような者達からしたらば大層な幸運でありましょう。けれども私は、出自の誉れを申し上げたいのでは御座いません。私は、私の幸運は、九樒先生のお手による一連の作品群、二度と生み出されぬだろうそれの内のひとつを、所有していることに他なりません。
そうか、と亘乎は思った。
それ故に九樒と呼ぶのかと。
恐らく彼女は、亘乎が最早九樒という号を使っていないことを理解していて、この手紙を寄越している。
そうして恐らくは、最早九樒という号を使う心積もりがないことも理解しているのだと。
揺れる和ろうそくの火を視界の端に映しながら、ゆったりと目を瞬く。
――私は、九樒先生、初めて
微かに震えるその文字に、彼女の激情を垣間見た。
やんわりと上がった亘乎の血色の良くない唇に――幸いというべきか――使用人の青年は気付かなかった。
ゆったりと目を瞬く。
そして、紙を捲る。
三枚目は、あまりにも力強い。
――九樒先生。嗚呼、九樒先生。貴方様のその名を、号を紡ぐとき、私は、無垢な生娘のような恥じらいと、
洩れた吐息は亘乎本人のものか、それとも分家当主のものなのか。
亘乎はそれを判ずることはしなかったし、使用人の青年がそれに心を寄せることもなかった。
珈琲は手を付けられないまま、徐徐に温もりを失っていく。
――嗚呼、どうか、九樒先生。私に、私を、どうか、私をお使い下さいませ。私を九樒先生の作品に、最後の作品に、どうか。
締めの言葉の上を視線がただただ撫でる。
最後に記された今日の日付と署名で止まると、亘乎はそこでゆったりと目を瞬いた。
和ろうそくが揺れている。
青年は相も変わらず、じっと黙して椅子に座している。
静止画か、それとも精巧な絡繰りであるかの如くぶれのない身奇麗さでそこに存在していて、そして、カウンターの上の珈琲は少しも減っていなかった。
生成色の紙を閉じて封筒の上に置く。
染みひとつない手袋を填めた手をその上に重ね、そうしてまた、その三白眼で青年を窺った。
じっと座す彼からは微かにも感情の乱れを感じない。
「貴方、使用人でしたね。内容は」
「存じ上げません」
ふむ、と亘乎は呟いた。
もう片方の親指で顎をついと撫でると、その手は筆に伸ばすことなく下ろされる。
長々とした答えは必要ないと、そも彼女自身も望んでいないだろうと、そう判断したからだった。
じっと手本のように身動ぎもせず座っている青年を見つめる。
ゆったりと目を瞬けば、つられたように彼も目を瞬いた。
「蛹圭嬢に、お話しを伺う、と」
「主人に代わり、御礼申し上げます」
「日程についてはこちらが合わせましょう。そうお伝え下さい」
「そのように」
立ち上がった使用人の青年は、胸に手を当てて今度こそ亘乎へ向かって礼をする。
そうしてその使用人というものであるという顔付きのまま、温んだ珈琲を飲み干した。
「申し訳御座いません。
大変美味しゅう御座いました、と、軽く頭を下げてから画房を去るその姿に、亘乎は良く出来た人間味を感じたのだった。
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