後
「運が悪かった。そう言ってしまえばそれまでですが」
そう嫌にあっさりと告げた亘乎は、珈琲を一口飲み下した。
淹れられてから時間が経ったそれは温んでいたけれども、それはそれで良いと亘乎は思っている。
因みに言うなら、頼劾などは温度も味も香りもさして気にしていないし、詞葉に至ってはそも珈琲が飲めない。
矢途はと言えば相変わらず珈琲に手を付ける様子はなく、恐らく無駄になるだろうと思われた。
喫茶ではないのだし、そうなっても亘乎は気にしない。
ただ、詞葉が無表情なままに残念がるだろうとは考えていた。
矢途の両手がカウンターに載る。
右手を握り締め、左手でそれを覆う。
力を込めることで手の甲に短く揃えた爪が突き刺さったのが、亘乎の目に映った。
誰も彼も、自らを傷付けることに余念がない。
「そんなに……そんなに簡単に、力を譲り渡すなんてことは出来るのですか」
亘乎の眉が跳ねた様は、俯いた矢途の目には映らなかった。
つい、と眇められた三白眼と
「簡単に、ではありませんよ、矢途さん。力を貴方へ譲り渡す為に、希安は識安の元で死ぬ為のわずかな時間すら使い切ったのですから」
ぐう、と俯いたままの矢途の喉が鳴った。
自らが知らず押し付けられ背負わされたものが、急に重みを増していく。
はっと視線を下ろした先で、既に足首までが赤に飲み込まれているような、そんな心地がした。
――背中からのし掛かられ、足元から飲み込まれ、自分はまさかこのまま、赤の一部になってしまうのではないだろうか。
「矢途さん」
どこか遠くで、
羽搏き。
鳥の声。
赤、赤、赤。
厭うよう強く強く目を閉じて、生まれた暗闇に不意に浮かぶのは何なのか。
じっと注視して、漸く気付く――濃密な赤が一筋流れ落ち、そこへ広がっていくことに。
チョッ、チョッ、と鳥の声がして、耳のすぐ脇を羽搏きが通り過ぎていった。
姿は見えない。
けれどもそれは伍円玉の穴のように確かに存在していて、矢途は自らでも気付かない内に注視していた。
赤に飛び込んだそれは、中をかき混ぜ、食らって、また飛び去ろうとする。
喰って、喰われて、鳴き声と、泣き声と、苦悶と、煩悶と、笑い声。
不意に生まれた二つの切れ目が酷く緩慢な動きでもって開いていく――これは、目玉か。
『えび色の、制服。知ってるよ、ぼく、本でよんだんだ。助けてくれる人でしょう。だから、お兄さんにこれ、あげる』
「は」
眼前に浮かんだ目玉が瞬きをして、赤い流れの根源が消えかける月のように弧を描いた。
身動きも取れないまま――矢途の間抜けに開いた口へどこからか羽搏きが飛び込んでくる。
腥い。
ちくちくと毛羽立ったものが、無理矢理食道を下っていく。
嗚咽を洩らすことすら出来ずに立ち尽くし、腹の中では何かが――小鳥が、暴れ回るのを感じた。
しかしそれも自失している内、次第に大人しくなる。
否、違うと、すぐに気が付いた。
これは、溶けているのだ。
目玉が満足げに瞬きをして、そうして、消えて――
「矢途さん」
「っ」
飛び退くようにして立ち上がったせいで、木の丸椅子が床へ叩きつけられた。
その大きな音に反応を示したのは和ろうそくの火だけで、店の中はあまりにしんと静まり返っている。
息が出来ない。
息の仕方が分からない。
今の矢途には亘乎を窺う余裕もなく、自らの葡萄色の腹辺りを強く強く握り締めた。
「思い出したようですね」
のろのろと顔を上げた先、和ろうそくの火に照らされた三白眼がじっと矢途を見据えている。
途端に酸素が下っていき、ひしゃげた肺胞が膨らむのが分かる。
「は、い」
正確に言えば少し違うと、そう思いながらも矢途は頷いた。
孝重宅へ突入したのは矢途自らを含めて三人だった。
それは間違いない。
しかし、玄関で二手に分かれたのは何故だったか。
自分は二階をと告げたことは覚えているけれども、何故そうしようと思ったのかは覚えていない。
有り体な事を言えば、そうなる定めであったのかも分からなかった。
階段を上がり、その先にあった扉――そこから染み出していたのは、赤だ。
矢途はそれを血だと思った。
あまりに鮮やかであったけれども、やはり、それ以外は思い付かなかったからだ。
そして、封じてしまいたい記憶の中の似た光景が存在を主張したからでもあった。
男の悲鳴が聞こえたと通報があってからかなり経っていたし、もし何かしらの事件が起きていたとしても、犯人が残っているとは考え難い――否、そんなむつかしいことは、考えていない。
矢途はただただ正義感に突き動かされるままに、部屋へ飛び込んだのだ。
それが自分の両親の時のように血液だったらば、急がなくてはいけないと思ったから。
「その時は、鳥の声も、羽搏きも、聞こえていませんでした」
身動きが取れなくなった。
それは鳥の存在を感じたからではなく、光景がすっかり重なって見えたからだ。
「固まる私に少年が、希安が、笑って言ったのです。葡萄色の制服は助けてくれる人だと本で読んだから、これをあげる、と」
「それで」
「何かが、茫然と開けた口から無理矢理入ってくるのが分かりました。そして、立っていられなくなって……気付いた時には、希安は、し、死んで、いました。それで……俺、は……他の二人を、呼びに」
矢途は、そう言うなり床へしゃがみ込んだ。
表情は、亘乎からは窺えない。
ただ、不快感を示す犬のように低く唸っているのは分かった。
「希安との間に何があったのか、もうその時点で貴方は覚えていなかったのでしょう」
モノクルの奥でゆったりと目を瞬く。
返事のない青年から溢れるのは、小鳥を無理に飲み込まされたことへの不快感でなく、身動きが取れなくなった結果希安を止められずに死なせたことへの後悔だ。
理性的で正義感に溢れる人間としては、もしか、理想的かも分からない。
分からないけれども、正しくはないと亘乎は思う。
「覚えていたとして、その時に動けていたとして……命を賭した詛いの前で、貴方に選べる選択肢などない」
「ッ、ですが、何か」
――嗚呼、何と生真面目な男だ。真面目過ぎるほどに真面目であることを、自らへ課している。
やはり正しくないと亘乎は思った。
それは固執だ。
そして執着だ。
清廉潔白であろうとする為に生まれた、ただの妄執だ。
人間でなく、正しい行動しかしない邏卒と言う機械にでもなろうと言うのか――嗚呼、それはなんて、つまらない。
「やめなさい」
カツン、と亘乎の革の靴底が床を叩いた音に、矢途は過剰なほどに肩を跳ねさせた。
尻餅をつき、怯えたように、カウンターを回り込んで近付いて来る亘乎を見上げる。
――この青年の目に映っているのは、一体誰なのか。
想像ならば幾らでも出来る。
両親かも分からないし、祖父母や親類縁者かも分からない。
ただ確実に言えるとすれば、矢途と言う人間の根底には清廉潔白であれとあまりに深く刻まれていて、それは恐らく、子供の時分に既に形成されたものであろうと言うことだった。
「矢途さん、全ては貴方の預かり知らぬところで起きた事だ。貴方には何も出来なかった」
慰めよりも、言い聞かせるように。
温度がなくならないようと心掛けながら、静かな声で諭すように告げる。
けれども矢途は俯いて、首を振った。
駄々をこねる子供のようだ。
「そんな、こと、何か、何か、俺が、出来ていれば、言っていれば、もしか」
その背から、
「いい加減になさい」
「あ、ぐ」
矢途の綺麗に撫でつけられた髪を鷲掴みにして、上向かせる。
強く引いた訳ではないのだ、さして痛みはないだろう。
けれども矢途は、その垂れた目を苦痛に歪め、多大な怯えと共に言葉と動きを止めた。
その目に映っているのは今度こそ、紛れもなく、亘乎だ。
「思い上がるな。全てを、命を賭した思いの前で、お前の正義感なぞ何の価値もない」
――それは何て救いのない。
矢途は、徐々に冷えていく脳味噌でそう考えた。
自らを見下ろす三白眼はあまりに冷え冷えとしている。
詛い屋なんて、やはり、そんなものか。
人の命を奪う為のものを商いにしているのだから、人の命は、その程度なのだ。
簡単に諦めてしまえるものなのだ。
何だ、そうか、期待をして、損を――
「そろそろ、赦してやりなさい」
「は」
「赦しなさい。子供の頃の自分を」
間抜けな顔で固まった矢途の髪を離す。
やはり随分と穿った見方をされているらしいと亘乎は思ったけれども、だからと言って気に留めることはなかった。
元も子もない言い方をするならば、そんな目には慣れているし、大して間違ってもいないと思う。
カウンターの中へ戻り、取り出した紙へ脳味噌に用意していた文章を記していく。
宛名は詛兇班班長頼劾殿。
これは申入書だ――矢途を詛兇班で預かるようにとの。
亘乎は軍の人間ではないのだし、わざわざ希安少年の死に目に立ち会ったとは書かないけれども、詛いを受け取ってしまったのなら放っておく訳にはいかない。
筆を走らせて暫く。
墨を乾かしながらすっかり冷えてしまった珈琲を飲み干せば、そこへ至って漸く矢途は正気を取り戻したらしかった。
立てた膝に腕を載せどことなく荒い手付きで髪を乱したかと思えば、溜め息を吐いてそれをまた撫でつける。
「詛い屋、貴方は、よく分からない」
顔を伏せたまま呟いたその声は、弱り切っているようにも、笑っているようにも聞こえた。
亘乎はと言えばいつもの如くゆったりと目を瞬いて、顎に手を添える。
「一言で言い表せられるのならば、それは最早命ではありませんよ」
「そう言うものですか」
「そうですとも」
深々と溜め息を吐いて、そうしてから立ち上がる。
雑に尻を払うその姿は生真面目な邏卒の青年ではなく、街中にありふれたただの若者と変わらなかった。
「ライコウ殿に手紙を届けて頂きたい。墨が乾くまで、珈琲でも飲んでいて下さい。淹れ直させましょう」
「いえ、それを頂きます」
倒れたままだった丸椅子を直してそれへ座った矢途は、冷えた少し甘い珈琲を飲む。
緊張していて少し砂糖を入れすぎたと今更ながらに気が付いて、肩から力が抜けた。
詛い屋は化け物ではなかったのだと当たり前のことを考える。
「左椋の予感した通り、矢途さん、貴方とは長い付き合いになりそうだ」
和ろうそくの火に照らされながら静かにそう告げた亘乎に、矢途は、ああそうなのかとただ納得して頷いたのだった。
――――――――灰と男、了。
アカハ、イチマイノ、エヲエガク。
――――――――――赤の章、了。
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